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2015年6月30日火曜日

高浜の寺社

この間、高浜を散歩した時の写真。
高浜は古い歴史を持つだけに、狭い市街にけっこう寺社がある。
では、その主なものを載せていきます。

まずは高浜神社。

街のちょうど真ん中ぐらい。白菊酒造の真向かいにある。
鎮守の森というほどでもないが、木立に囲まれ、県道のすぐそばにありながら、境内は静かだ。
祇園時期には、この境内に屋台が立ち並び、街には幌獅子や山車が繰り出す。
拝殿も本殿も、今時珍しい茅葺屋根。
それがまた、神寂びた雰囲気を醸し出す。

拝殿

本殿

本殿の見事な彫り物。

お次は、東へちょっと歩いた所にある、爪書阿弥陀堂。
もとは親鸞聖人所縁のお寺だったが、廃寺となり、今は阿弥陀堂を残すのみとなった。

昔は瓦屋根だったが、今は銅葺きになっている。

これが以前、屋根のてっぺんにあったのだろう。


最後に、市街の東の端にある、観音様。

この路地の奥にある石段を登った所にある。

正式名称は清涼山高渕寺。
地元では観音様と呼ばれているとのこと。

こんもりとした森の中にあって、物思いにふけるのにはいい。
高台にあるので眺めもいいよ。




2015年6月28日日曜日

出口一雄 デグチ・プロ編②

三代目三遊亭圓歌は、最近刊行された著書『三遊亭圓歌ひとり語り』の中で、こんなエピソードを紹介している。
圓歌は前名の歌奴時代から売れっ子だった。当時、彼は師匠二代目円歌の息子が経営する、暁プロダクションに所属していた。師匠円歌の死後、ちょっとした諍いがあって歌奴は暁プロを辞める。しかし、事務所を辞めたからといってそれを公表したわけではない。1年先まで仕事は入っている。結局、その仕事のギャラは全て暁プロに入り、歌奴は1年以上もただ働きをさせられることになった。
そんな時、出口が歌奴に声を掛ける。
「おまえ、正月よ、5日間だけ名古屋の大須演芸場、入ってくんねえか」
出口は、あの三遊亭圓生と同じギャラで、歌奴を大須へ売り込んでくれたのだ。
この興行は昼夜3回やって超満員という大盛況。しかも、ちょうど名古屋のキャバレーに出ていた柳家三亀松に誘われて、そこでさらに稼いだ。
名古屋からの帰りがけ、出口がくれたギャラが思いのほか多く、「悪いから、半分で」と歌奴が言うと、出口は「いいんだよ、俺もそれぐらい儲けてるから」と答えたという。
この、デグチプロの仕事をやったおかげで、「歌奴は本当にフリーになった」ということが、ようやく世間で認められ、これ以後暁プロにギャラが流れることはなくなった。
「出口さんって人は、私にすりゃ、すごい恩人」と言う圓歌の言葉に嘘はあるまい。 

こんな話もある。これは大西信行の『落語無頼語録』から。
三代目三遊亭金馬が亡くなった後、大西と『話の特集』編集部の竹西悦子が夫人を訪ねた。
その時、夫人は自分の指に光る指輪を見せてこんな話をしたという。
大西の文章を引用する。
「おとうさんの稼いだお金だからおとうさんが使って行ってくれたらそれでいいと、おかみさんは考えていた。もう見栄を張ることもないんだし…と。ところが病院に見舞いに来てくれたデグチ・プロの出口さんが、おかみさんの指に指輪のないのに気づいて、お金のことを心配してくれた。ありがたいと思った。そして同時に、人さまに心配かけたり同情されたりしないように生きていかなければならないのだと悟った。 『だから、いい年をしてこんな、指輪をはめたりしてるんですよ…』  と、指輪をはめた細い指を、もうひとつの掌できまり悪げにさすって、おかみさんはぼくに言った。」
この出口の細やかな気配りを見よ。人生の修羅場をくぐらないとこういう所に目は届かないだろう。

前述の京須の著作からのエピソード。 七代目橘家圓太郎にCMの仕事が入った。色川武大が「昭和20年代から30年代は落語の黄金時代と言われて、顔ぶれもまことに充実していたが、その下にかくれてぱっとしないオールドタイマーも多かった」と言って列挙した中の一人、といえばその人となりが想像できるだろうか。
圓太郎についたギャラが10万円。相場としてはかなり安い。しかし、圓太郎は大喜びで引き受けた。
出口は言う。「おれの会社の仕事だから1割の1万円はとらなくちゃアいけないんだがな、やめた。そんな圓太郎から札1枚取れるかい。10万、耳を揃えて渡してやった。こっちは素通しだ。」
しかも製作会社からは1ヶ月後銀行振り込みで支払われるという。圓太郎にその理屈は通じない。出口は、その場でポケットマネーで立て替えてやった。 

ちょっと調べただけで、こんな話がざくざく出て来る。
京須は「デグチ・プロを蔭で鬼プロというひとがいた。結構流布していた渾名だから、出口さん自身も承知していたかも知れない」と書いている。そして、その由来を出口の無愛想・強面にあるのではないかと推測している。
しかし、多分それは芸人を買う側の印象なのだと思う。三遊亭圓歌によると、芸人の間で当時の芸能プロは、「鬼の暁、仏の出口、不渡り出すのが新芸能」と評されていたという。外見に惑わされない、出口の人間性がよく出た言葉である。
出口一雄を本当に分かっていたのは、一緒に仕事をした芸人たちだった。出口は誰よりも芸人たちに寄り添い、芸人たちのためにという視点で仕事をした。
芸能プロというのは、全てにおいて金が絡む業種だけに、仕事にはその人の人間性が出る。出口一雄という人は、つまり、こういう人だったのだ。

デグチ・プロ編の稿終わり。

2015年6月27日土曜日

出口一雄 デグチ・プロ編①

出口一雄のTBS退社は、昭和43年(1968年)頃と言われている。定年退職によるものだった。
 その頃には、出口が先駆けとなった落語家の専属契約は有名無実のものとなっていた。ただ一人、八代目桂文楽だけがTBS以外の局には、頑として出演しなかったという。
出口の定年の際に会社は、重役の椅子を用意して引き止めにかかったらしい。しかし、権力嫌いの出口はそれを蹴って退社した。

ただ、芸人たちが黙っていなかった。 京須偕充の『みんな芸の虫』中、「出口一雄-鬼の眼に涙」という文章の中で、三遊亭圓生はこう言っている。
「えゝ、芸はよく分かる人ですよ。そればかりでなく芸人の心組みというものをよく理解してくれている。ですから、あの人の口利きなら安心、あの人に委せておけば大丈夫という…。もちろん芸人を喰いものにするなんてェことはありません。ですからTBSを辞めるのは、定年ですから仕方がないが、そののちも芸界で働いてもらいたいと思いましてね、みんなで担いで事務所を作らせたようなものです。ことに亡くなった文楽さんは頼りにしていました。」 

このような経緯でデグチ・プロは設立された。
事務所は新富町の千枝子夫人の実家。一軒の家を二つに仕切った片方が事務所で、もう片方は夫人の兄が経営する印刷所だった。

 デグチ・プロの仕事について、Suziさんはこう言っている。
「兎に角、伯父の所にみんな集まった最大の現実的理由はギャラの取り分にもよります。デグチ・プロは何処からであれ、もらうギャラの10%をデグチ・プロに、90%はその芸人さんへ、だけのことしかしませんでした。
ある大手プロの話を例にお話しますと(伯父からの又聞き話ですが)、此処は給料制です。月50万なり100万なりと決めたら、その本人がいくら人気が出ても、それこそ頂点の頂点に達しない限り上がりません。
だからみんな独立して行ったんです。だってそうでしょう。1回のステージで100万取れるのに月50万か、100万かしかくれず寮住まいですよ(ステージは月に何回もある)。それが何年も続くんですよ。そりゃ不満ですよね。
そこで独立する。独立すると必ずといってよいほどチョッとの間TVで見られなくなるんです。何故だか解りますか?
当時**テレビは芸人(と言うより芸能人、デグチ・プロは芸人さんだけを扱う所です)ことに歌番組では有名局でした。ところがそれが出来ないんですよ。独立したそのタレントのマネージャーがTV局に頼み単独の彼(又は彼女)の番組放映を依頼し、TV局が受けたとします。するとこのプロからの回答はこうなるのです。『そうですか、そうですか・・・最近ウチから離れて独立した○○さんの単独番組をやられるんですか。それじゃ今**曜日のウチの若手**ちゃんや***ちゃんの出ている人気番組は今回の放映を以って終了とし、下ろさせて頂きます』ってね、これではTV局は困っちゃう。 仕方ないんで独立したその芸人さん(歌手)に言う『ま、ま、本当に申し訳ありません。ウチにも何かと事情がありまして、言いにくく心苦しいのですが・・・チョッと、チョッとの間で良いんです。ま、ほとぼりが覚めるまでチョッと待って・・・お願いしますよ・・・すみません』って言われてしまうんです。
如何に人気のある歌手でもこれですよ。商品販売だったら独禁法違反でナントカできるのですが、こう言う世界はそういうカラクリがあるんです。
仕方なく彼らは金稼ぎのためにドサ回りか、都内の有名ナイトクラブ出演です。だから独立するとしばらくテレビに出ないなあ?ッて大衆は思う。そして忘れられたら?人気商売は其れこそオシマイ。其れが怖くて皆独立が出来ないんです。しかし住む所や宣伝その他全てを大手はやってくれます。独立したら全て自分でやるんですから、馬鹿じゃ独立できないんですよ。それなりに事業意欲も知識もいわゆる<利巧さ>が必要なんです。
ま、ギャラ自体はナイトクラブのほうが良いくらいなんですが、名が売れないんですよ、地方の隅々までね。TVはその点何処までも入っていく。TVやラジオの強さってそこです。
日本を離れて40年近くなり、今の時代の事はなーーーンにも知りません。
過去における知識から言うとNHKに出演するのってギャラは低いけど、当時のNHK番組は日本全国津々浦々何処にでもつながっていました。だからみんな出演したんですよ。
伯父にこう説明されたことを覚えています。
『考えてみろ。俺の取り分は10%だろ、人気が出てギャラが上がりゃその10%。下がっても10%なんだ。みんな喜んでくれたよ。芸人の芸を大事にしてやらにゃ絶対にいかん。でもな、あそこはな、生活面から宣伝から全てやってやる、って会社制なんだよ。俺は、私生活は勝手にやってくれだ。副社長はこういう商売屋の娘だからそういう仕事のやり方を良く知ってるやつでね、あの会社の実質的基盤つくりは彼女が作ったんだ。社長はお人好しの面を一杯持ってるやつだったよ。あいつ一人じゃあの会社はあそこまでどころか、上手く伸びたりはしなかっただろうなあ』
しかし、伯父は芸人さんを扱う会社をやっているのに口は本当に下手っクソでしたね。芸人さんの結婚式には呼ばれるんですが出るのも嫌。裏方の出る所じゃない。自分の仕事をわきまえろ、の一点張り。ましてやスピーチなんてとんでもない!それどころか人前で話すことの出来るタイプじゃないんですよ。 父が言ってました。『あいつは何でなんだろう、人前で話すってのはホントに出来ねェヤツなんだよなあ』でした。
ぶっきら棒な口しかきけない人でした。父は結構論理的にモノを話す研究者的性格でしたが。伯父は全く反対。心と心、腹と腹、芸を芸として価値を認め、それに沿った生き方でした。飲み会での座談しか出来ない人でした。 『芸人の芸を認めることをしなきゃいかん。もう河原乞食の時代じゃねェ。でもな、芸人が毛皮着て高級車乗っちゃまずいよなあ。河原乞食の根性と芸に精出すこと忘れちゃったんじゃその時点から芸は落っこちて行くんだ』あの伯父の言葉は忘れません。私が今やっている写真屋もまた職人。自分の腕に厳しくなくちゃいけない、という原点の戒めになっています」

お詫びと訂正。
以前掲載した写真の注釈に誤りがありました。以下のように改めて掲載するとともに、お詫び申し上げます。


撮影場所は出口家の親戚である善照寺の客間。
前列右端が出口一雄、左端が妻千枝子。
前列中央は親戚の寺の住職安藤厚。
後列安藤専(厚弟,一雄の紹介でポリドールに勤務)。
後列向かって右が弟出口利雄(Suziさんの父)。

写真はSuziさん提供。

2015年6月24日水曜日

グルメ小説、グルメ落語

今まで読んだ中で、いちばんのグルメ小説といえば、志賀直哉の『小僧の神様』だろう。
あそこに出て来る鮨は、マジ旨そうだ。
でも、だからといって、味や素材に対する微細な描写は、ほとんどないといっていい。
あくまで丁寧に周辺の情景が描かれるんだな。

秤屋の小僧が、番頭たちの世間話を聞いて、鮨に憧れを抱く。ある日お遣いの帰りに、思い切って鮨の屋台に入り恥をかく。たまたまそれを見ていた男が小僧に同情する。その男が子どもに秤を買ってやろうとし、偶然小僧の店を訪れる。男は小僧に秤を持たせ外に連れ出す。秤は別便で送らせ、小僧を鮨屋に連れて行き、心ゆくまで食べさせるよう手筈を整える。男は小僧を鮨屋に残し、名も告げずに帰ってしまう。小僧は、腹いっぱい鮨を喰い、男に感謝するが、男はどこか後ろめたい気持ちに苛まれる。小僧は、男を超自然的な存在なものとし、その後辛いことがあってもそれを支えに勤めに励んだ。(志賀は、「男が出鱈目に帳簿に書いた住所を頼りに、小僧が男のもとを訪ねて行ったところ、そこにはお稲荷さんの祠があるだけだった」という結末を構想してやめた、と小説の最後に書いている。)

あまりにも有名な小説だから、筋を追うまでもないだろうけど、念のため。
結局、その鮨の味は、銀座のどこが旨いとか、まぐろは赤身より中トロだとか、といったことで語られるものではない。あくまでその小僧の、かけがえのない体験からの旨さとして立ち上ってくる。

このような小説を読むと、テレビの食レポの、口に含むや否や、「うわっ!!」と絶叫し、のけぞった後、おもむろに微に入り細に渡り味を描写しようとする、定型化された表現が貧しく思えてきますな。

一方グルメ落語といえば、こちらは視覚聴覚に訴えるだけに数ありますが、私としては『青菜』にとどめをさす。
これも周辺の丁寧な描写が胆だ。
夏の昼下がり、廊下に腰を掛けながらの、植木屋と隠居との会話。庭木の青葉を通る風。鉢に氷を入れてその上に載せられた鯉の洗い。酒は柳蔭(焼酎を味醂で割ったもの)。
これは旨そうだよね。てか、絶対旨い。
五代目柳家小さん系統の噺もいいが、私は六代目、七代目の春風亭柳橋のが好き。六代目の駘蕩とした長者の風、七代目の品の良さ(あまり一般的に知られていなかったのが惜しまれる)、いいのよこれが。
これもやはり銘柄や産地といったものに左右されない旨さだよね。

旨いものは、どこそこのもんじゃなきゃだめとかいう閉じたものではない。各人にとって、かけがえのない体験をもってもたらされるものだし、たとえ実体験が伴わなくても、優れた芸はそれを伝えてくれる。
そういう幸せを、ずっとずっと感じていきたいもんじゃないですか、ねえ。

2015年6月21日日曜日

高浜散歩


昨日、久し振りに高浜の街を歩く。
石岡市高浜。その昔霞ヶ浦の舟運で栄えた街だ。
ただし、今、その面影を残すのは、所々に見られる、古い土蔵ぐらいのものだろう。
街中を通る道は狭く、歩道もないので、散歩するにも歩きにくい。
営業している店も何軒もない。
多分、思い入れのない人にとっては何でもない街並みだろうけど、それでもやはり、私は心惹かれるんだな。
では、1時間ほどほっつき歩いては撮った写真を載せてみます。

白菊酒造。
ここの純米吟醸「紅梅一輪」は旨いよ。

 
 
 
こういう商家造りはたまんないねえ。

クリーニング屋さんに味のある建物は多い。

こういう何気ない路地もいいんだよねえ。





床屋さん。
床屋さんにも味のある建物は多い。

恋瀬川の河口。
「恋瀬川」、いい名前でしょ。八代亜紀の歌にもなったのよ。

船溜まり。

いい天気。暑かった。コンビニで買ったスポドリを飲みながら歩きました。

2015年6月18日木曜日

ふっつ・とみうら



結婚したばかりの頃、春になると房総へ行った。
妻は、ポピーや菜の花が咲き乱れる風景が好きで、私は、つげ義春や安西水丸のマンガの雰囲気に触れるのが好きで、毎年のように車を走らせるのだった。

その年、富津に寄ったのは、もちろん、川崎長太郎の『ふっつ・とみうら』という小説が頭にあったからだ。
川崎長太郎という人は、小田原の魚屋の息子として生まれ、文学を志し上京したが、やがて帰郷して、実家のトタン張りの物置に寝起きし、朝は公衆便所の水道で顔を洗い、近くの食堂でちらし寿司を食べ、女郎屋を徘徊し、ミカン箱で小説を書くという、いかにもな私小説家。
60を過ぎて30歳年下の妻を得た。その妻と内房を旅行した話が『ふっつ・とみうら』である。これがまた、しみじみとしていい話なのだな。

というわけで、富津へ行ってみた。
富津はイオンなんかがある、よくある田舎町だった。
川崎夫妻が寄った国民宿舎を見て、漁港近くをぶらぶらする。

そこで見つけたのが、この劇場跡。多分、営業はしていないだろう。
感動して、けっこう写真を撮っちゃったよ。

以下に載せてみる。





ね、シブいでしょ。

 最後に漁港の写真です。



2015年6月15日月曜日

梅雨の晴れ間


昨日は、ちと二日酔いの気味。
午前中、妻は子どもたちを連れ床屋に行ったが、私は留守番。
ごろごろしながら、三代目金馬『やかん』、三代目柳好『野ざらし』、八代目文楽『酢豆腐』、五代目志ん生『黄金餅』を聴く。
昼食は冷やしとろろそば。さっぱりして旨い。
午後は運動のために小川の街を散歩。
夕食は、親父が鰹の刺身、しめ鯖なんてとこを買って来ので、ビール、酒を飲む。

今日は平日の休み。起こされるまでぐっすり眠る。身体が睡眠を欲してたみたい。
子どもたちを学校に送り出して、妻とデート。つくばに行く。
イーアスつくばで義母にお中元を送る。
昼は梅蘭のやきそば。かりかりに焼いた麺の中に餡が仕込んである。今日の餡はエビチリ。旨し。
西武に回って、親父の父の日兼誕生日プレゼントに芋焼酎を買う。私には武勇純米を買ってもらう。
リブロで『江口寿史の正直日記』を買う。HPで掲載されていた文章を書籍化されたものが、今回文庫になった。1999年から2002年までの記事が中心。もう15年ぐらい前のものなんだねえ。もはやマンガ界では巨匠といっていい、江口寿史の等身大のしょうもなさがいい。
夕食は、冷しゃぶ、冷奴、新じゃがのふかしたの、そら豆でビール、酒。季節のものは旨いねえ。
梅雨の晴れ間。暑い1日でした。

2015年6月12日金曜日

借宿神社


鉾田市借宿にある借宿神社。「村社」とある。
祇園時期には、山車だか幌獅子だかが出るお祭りがある。
いかにも集落の神様といった感じ。





地域の人たちに大事にされてきたのが伝わってきます。

2015年6月9日火曜日

『文藝別冊・八代目桂文楽』


『文藝別冊・八代目桂文楽』(河出書房)。
ついに出ましたな。
『文藝別冊』の落語家シリーズは、まずは2006年に古今亭志ん生、少し空いて、2013年に立川談志、2014年に古今亭志ん朝と続いた。
とすれば、お次は我らが黒門町、八代目桂文楽をおいて他にないでしょう。
手ぐすね引いて待っていたら、さすが河出書房、ありがとう。
さすがに記事は読んだことがあるものが多かったけど、でもまるまる1冊黒門町だ、読みごたえはある。
対談も、矢野誠一×柳家小満ん、橘家円蔵×玉置宏なんか充実してるし、三代目金馬夫人とのものは金馬の人柄や二人の友情がしのばれて楽しかった。
文楽のような楷書の芸は、昨今軽視されがちだが、彼の工芸品のように磨き上げた噺は、それは見事なものなんだよ。分かって欲しいなあ。
河出文庫からは『文楽の落語藝談』という本も出るとのこと。本屋に行く楽しみが増えました。


これまでの『文藝別冊』落語家シリーズ。
「企画の通りやすい順に出た」という見方も出来なくはない。



2015年6月4日木曜日

小川の街には『トロイ・メライ』がよく似合う


20代の頃、大林宣彦の『転校生』という映画を観て、バックに流れるクラシック音楽に強く心を惹かれた。
そこで、鉾田にあった貸レコード屋へ行って、初心者向けのクラシック小品集を借りてみた。すると、この中に『転校生』に使われた、シューマンの『トロイ・メライ』とか、チャイコフスキーの『アンダンテ・カンタービラ』とか、バッハの『G線上のアリア』とかが入っていたんだな。少なからず興奮して、早速、カセットテープにダビングしましたよ。(昭和だねえ。)
映画では、またこれらの曲が尾道の街によく合っていたのだ。
私もそのテープを車でかけながら、色んな古い町並みを走ってみた。(といっても県内だけどね。)
色々試してみたけど、どういうわけか小川の街にドンピシャだったんだなあ。
日曜の夕暮、小川の大町商店街を通りながら聴く『トロイ・メライ』は、よかった。

そんなことを思い出しながら、この間歩いた小川の写真を載せてみる。







園部川の川っぺりもいいよお。