晩年、出口一雄は八代目桂文楽について、京須偕充にこんなふうに語っている。(引用は『みんな芸の虫』中「鬼の眼に涙」から)
「放送で手がかかったのは黒門町と三遊亭だな。黒門町は用心深すぎるし、三遊亭は註文が多い」
「(黒門町は)ラジオ東京の専属になったばかりの時分が一番よかった。あとは咽喉を痛めたりして、当人も臆病になったしなア」
文楽が小心で臆病なことは、彼を知る万人が認めるところである。文楽の弟子、七代目橘家圓蔵は、「師匠は『河豚は喰いたし、命は惜しい』といった人でした」と言っている。
その部分を、出口も十分に承知していたことが、前述の台詞で分かる。
文楽が「咽喉を痛めた」のはいつか。河出書房刊『文藝別冊・八代目桂文楽』の年譜によると、1954年(昭和29年)に「喉のポリープ除去手術を受ける」とある。文楽62歳のことだ。
私が見た「文楽年譜」の中で、喉のポリープ除去手術に触れたものは、これだけ。(ちなみに、1961年、昭和36年には「この歳、入れ歯を入れることになる」との記述もある。こういうところが、この本の値打ちだと思う。)
1954年といえば、文楽がラジオ東京の専属になった翌年。出口は、文楽が臆病になった転機を、ここに見ていたか。
実際、咽喉の手術は、文楽の芸に少なからぬ影響を及ぼした。
川戸貞吉編『落語芸談2』には、このような件がある。
川戸「昭和30年代の文楽師匠は、実にいい声でした。晩年の頃とは雲泥の差でしたね。」
円楽「そう。咽喉を手術したのが昭和32年頃だと思いますが、手術して、しばらくは元に戻らなかった。」
川戸「ええ。」
円楽「声がちょっと高くなっちゃってね。キンキン声ンなっちゃった。全盛期の錆びた声がうわついちゃってね。」
川戸「そう。」
円楽「それを気にして、とてもイライラしてた、一時はね。」
川戸「ああ。」
円楽「だから、あんな練れた人が八方に当たってましたよ、その時分は。楽屋でも自分の家でもね。」
川戸「まあイライラしてたんでしょうね。思うがままに声が出ないということで。」
また、圓楽は自署『圓楽 芸談 しゃれ噺』の中でこんなことを書いている。
これははっきり覚えているんですが、昭和32年、文楽師匠がのどの手術をしたあとでイライラしてたんでしょう。幹部会の席で金原亭が何気なく上座に座ったら「清っ(馬生の本名)、お前はそんなとこに座れる芸人じゃないんだっ」って黒門町が怒った。
金原亭も若かったですから、むかっとしたんでしょう。そのことを家に帰って愚痴った。
そうしたら古今亭が怒ってねえ。
そのときはまあ、林家が間に入って丸くおさめたんですが、人前で自分の子供が恥をかかせたら許さないっていうところがありましたね。旗本の血も騒いだのかもしれません。
圓楽は、文楽の咽喉の手術を昭和32年(1957年)と記憶している。
咽喉の手術が、昭和29年なのか、32年なのか、それとも2回にわたっての手術だったのか、正確な所は分からない。
ただ、この手術が、文楽の芸にとって大きな転機となったのは、間違いなさそうである。
そして、昭和36年には文楽は入れ歯を入れる。そのことによって、滑舌が悪くなった。
色川武大は、「入れ歯以後の口跡によるものは、いたしかたないとはいえ、真正の文楽とは認めがたい」と言っているし、春風亭小朝が声の分析を依頼した日本音響研究所の主任研究員は、文楽を「本当に素晴らしい声の持ち主です」としながらも、欠点として「各音韻の区切りが曖昧ではっきり聞き取るのが難しいところがある」と入れ歯の影響を指摘している。
五代目小さんは、芸についてこんなことをよく口にした。
「芸ってのは、上がるだけ上がると、そっから先は落ちていくもんなんだ。」
文楽は、歌人吉井勇からもらった「長生きするも芸のうち」という言葉を終生大事にした。出口も「芸も大事にしたが、身体にも気をつかった。神経質だったな」と言っている。
確かに健康に気を付けることで、文楽は80年近い齢を保つことができた。戦後すぐに落語協会の会長になった四代目柳家小さんは1947年(昭和22年)に60歳で、睦の四天王で売れた三代目春風亭柳好は1956年(昭和31年)に69歳で、共に三代目三遊亭圓馬の薫陶を受けた三代目三遊亭金馬は1964年(昭和39年)に70歳で、それぞれ世を去った。1971年(昭和46年)まで高座に上がっていた文楽の現役生活は、同世代の落語家のそれよりも長いものだったといっていいだろう。― 五代目古今亭志ん生ですら、1968年(昭和43年)以降は高座に上がっていないのだ。
しかし、一方で文楽は、臆病さゆえに噺の数を限定し、いわゆる十八番しか高座に掛けなくなった。また、無器用さゆえに噺のスタイルを変えることもできなくなっていた。体力気力が充実した頃に確立した演出で、彼は70歳を越えても演じようとした。当然、完成されたスタイルと衰える身体とのギャップは、年を経るにしたがって次第に大きくなっていく。
京須は、著書『落語名人会夢の勢揃い』の中でこう記す。
「歌人吉井勇に、文楽さん、長生きするのも芸の内だよ、と言われたのはいつのことだったのだろう。命短し 恋せよ乙女、と詠ったひとに長生きを説かれて、文楽はことのほか健康に気をつかったという。しかし、乙女の朱き唇は褪せ、文楽の至芸は老境に入り次第に凋落の影を濃くしていった。」
京須は「自分は誰かのファンになったことがない」と公言して憚らない人である。芸が落ちてくれば容赦なく離れる。そこにべたべたした情はない。クールでドライな一面は、時として非情に映らないこともない。
出口が言うように、文楽の芸がラジオ東京専属契約時にピークにあったとすれば、出口は文楽の死まで、その下り坂を伴走して行ったことにならないだろうか。
特に、出口がTBSを退社し、デグチプロを立ち上げ、文楽の私生活のかなり立ち入ったところまで面倒を見始まったのは、文楽が70歳半ばを迎えた頃だった。その日々は、やがて訪れる文楽の芸の終焉へと至る道筋と重なる。
文楽の芸に惚れ、その人となりに心酔していた出口にとって、それは、さぞ切ない日々であっただろう。
そうして二人は運命の日、1971年(昭和46年)8月31日を迎えるのである。
2 件のコメント:
余り大きい声では言えませんが、非公開の1952年の愛宕山の音源をとある筋から聴かせて貰ったことがあります。
昔の文楽さんは確かに渋さに加えて力強い声を持っていて聴き心地は最高でした。
今残ってる文楽さんの音源も素晴らしいですが、昔と比べたら確かに文楽さんが喉の調子に苛立ってしまうのも無理はなかったでしょうね。
でも、親友の間柄でもある、志ん生さんが文楽さんと衝突しそうになるなんて、
余り表には出てませんが、馬生さんや家族のことを大事に思っている志ん生さんの数少ない良さが伺えますね。
私が持っている音源でいちばん古いのが昭和28年(1953年)、CBSソニーから出たLPレコードの「桂文楽全集」のものです。ネタは同じ「愛宕山」。文楽は1892年11月3日生まれなので、1952年というと、彼が50代の公算が高いですね。文楽がTBSの専属になったのが昭和28年(1953年)ですから、それ以前の音源は本当に貴重だと思います。聴いてみたいなあ。誠に羨ましい。
志ん生はイメージと違って、年を取ってからは割と家族を大事にしているんですよね。結婚も1回、文楽は5回していますね。
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