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2016年10月29日土曜日

好文亭に上る


常陸太田を歩いた後は水戸に戻り、偕楽園に行った。
好文亭に上る。
いい眺めだねえ。入場料200円払えば、斉昭公と同じ眺めを見ることができるんだから、いい世の中になったものだ。
できれば座敷を開放してもらって、飲み食いしながらこの眺めを堪能できると、言うことなし、なんだけどね。

好文亭の楼上に掲げられている額。

好文亭全景。

偕楽園内にある正岡子規の句碑。
「崖急に梅ことごとく斜めなり」

なるほど、本当に皆、見事に斜めですな。

偕楽園に始めて行ったのは、小学校に入る前だった。確か親戚とうちの家族とで行ったのではなかったか。行楽日和で結構な人出だった。
そこに白い服を着た傷痍軍人が物乞いに出ていた。
私の顔に怯えが走ったのを見て取ったのか、父は「あいつら補償金を貰っているんだ」と言った。
その実、彼らは旧植民地出身者で、日本が戦争に敗れ植民地支配を放棄したのに伴って、日本国籍を失っていた。国は日本人として従軍した彼らに対し、彼らが現在日本国民でないことを理由に補償金を与えなかった。そのことを私が知ったのは、それからずっと後のことであった。

2016年10月24日月曜日

「グリルあらの」のカツカレーセット


国道51号線沿い、鉾田市の「グリルあらの」、カツカレーセット。1134円(だったかな)。
大福さんが旨いというので、出張に行くついでに寄ってみる。
カツは大き目。食べごたえあり。
カレーは甘口の印象だが、食べ進めていくと、けっこうスパイシーだ。
うん、コクがあって旨し。
長年の間、地元で愛されてきた洋食屋さんだな。
大福さん、いい店教えてくれてありがとう。ちょくちょく利用してみます。

アップがこちら。ケータイのカメラで撮りました。


2016年10月21日金曜日

常陸太田市鯨ヶ丘を歩く③

私が鯨ヶ丘を歩いたのは、秋晴れの土曜日で、散策をしている人がけっこういた。
古い町並みを歩くのが、静かなブームを呼んでいるのか。
古い街に人が来て、買い物したり飲み食いしたりしてくれれば、古い街の街としての寿命が延びるわけで、それは私としても嬉しい。

では常陸太田鯨ヶ丘シリーズ第3弾であります。

ヨネビシ醤油。
寛政12年(1800年)創業の老舗とのこと。
幕末のパリ万博にも出品したらしい。すげえ。

ヨネビシ醤油工場の裏手の小道。
風情があるねえ。

梅津会館。
梅津さんという実業家が昭和11年(1936年)に建てた。
昭和53年(1978年)まで市役所庁舎として使われたという。

梅津会館隣の米屋さん。
お茶を買いに入ったら、御主人が色々な話をしてくれた。
詳しいことは後日。



東日本大震災の傷跡が見える。



塩町館。
手打ちそば、手打ちうどんが味わえる。

塩町館のとこを入った路地。

元は本屋さんらしい。


薬屋さん。
2階に掲げられているのは、薬の看板。右から2番目は「浅田飴」だ。


立川醤油店。



なべや菓子店。
明治8年(1875年)創業の和菓子屋さん。

常陸太田って「ちまき」が名物だったんだ。

2時間歩いて、まだ飽きない。何度も訪れてみたい街でした。

2016年10月20日木曜日

常陸太田市鯨ヶ丘を歩く②

常陸太田の中心部は、鯨ヶ丘という馬の背のような台地の上にある。
『常陸国風土記』の「久慈郡」の項に、こんな記述がある。
「古老の曰へらく、郡より以南、近く小さき丘有り。体(かたち)鯨に似たり。」
講談社学術文庫版では、この丘は「(旧)金砂郷村中野にある丘陵」という注が付いているが、そのままそれが、この「鯨ヶ丘」のことだと言われても、すんなり信じてしまいそうだ。
いずれにせよ、鯨ヶ丘も、その形からの命名であることは間違いない。

丘の上だから、どの方向に向かうにも坂道がある。
その代表的なものが「太田七坂」である。

いくつか坂道を撮ってみた。
名もない坂も、なかなか風情があっていい。

板谷(ばんや)坂。

十王坂。

杉本坂。


これは名前が付いてそうにない坂道だけど。

鯨ヶ丘には佐竹氏の居城があった。
太田小学校の校門付近に「舞鶴城址」の石碑が立っているだけで、遺構とみられるものはない。
太田小学校と近くにある若宮八幡神社が城の縄張りに入っているらしい。

では若宮八幡神社です。


境内からの眺め。
佐竹の殿様もこんな眺めを見たのだろうか。

鳥居の近くにあった彫り物。

佐竹氏を秋田へ追いやった後、常陸国には徳川が入って来た。本拠は水戸だが、二代藩主光圀は太田郊外に西山荘を建て、隠居所とした。佐竹の残党に目を光らせるのが目的だった。
前回紹介した飯島耕一は「品川 大井の旅」という詩でこう綴った。
「水戸の徳川は わたしの先祖を抑圧/した力 だった/常陸太田には まだ 徳川に うらみを/抱いている人 がいる という/タクシーの運転手が そう話した・・・・・・」
そんなことを思いながら歩いて行くと、太田の街は、少し悲しい。




2016年10月19日水曜日

常陸太田市鯨ヶ丘を歩く①

先日、常陸太田市の鯨ヶ丘地区を歩いてきた。
徳川以前、常陸国を治めていた佐竹氏の本拠地である。
佐竹氏は関ヶ原の戦いで、西軍に味方していた上杉氏と通じていたことが発覚し、羽州秋田に追われた。(その際、美女をごっそり連れて行ったのが秋田美人の祖となったという。)

県北を代表する商業の中心地として栄えた。たばこや麦、木材など様々な物資は太田の街に集められた。JR水郡線は水戸と郡山を結ぶ路線だが、その支線となっている水戸~常陸太田間の方が、実は歴史が古いのだ。
現在、当時のような賑わいはない。しかし、街並みには古い商家や洋館などが残り、往時を偲ばせる。

詩人飯島耕一の先祖は佐竹氏に仕え、国替えの時には殿様に従って秋田に移り住んだという。
飯島は1970年代に常陸太田を旅し、地元の詩人たちと痛飲した。その翌朝の情景を、彼はこんな風に詩にしている。
「常陸太田の朝の商店街を歩いて駅に向かった/何百年も前の先祖はこんなところにいたのか/貧しくさびしい商店街がどこまでもつめたい腸のようにつづいていた」(「上野をさまよって奥羽を透視する」より)

私は駅から丘の上に上り、2時間ばかり街をぶらついた。
道は坂を上ると大きく二手に分かれる。まずは右側から行く。

坂道を登って行く。

折しも県北芸術祭期間中。
「鯨ヶ丘のピンクの窓」が至る所に展示してある。



さり気なく煉瓦造りの倉庫があったりする。






この土蔵造りはスポーツ用品店。


こちらの白壁蔵は本屋さんだ。





飯島耕一が泊まったのはこの辺りかねえ。





商家造り、土蔵造り、洋館、看板建築・・・、ほんと何でもあるな。まさに宝の山だ。
常陸太田シリーズはこの後も続きます。