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2016年10月20日木曜日

常陸太田市鯨ヶ丘を歩く②

常陸太田の中心部は、鯨ヶ丘という馬の背のような台地の上にある。
『常陸国風土記』の「久慈郡」の項に、こんな記述がある。
「古老の曰へらく、郡より以南、近く小さき丘有り。体(かたち)鯨に似たり。」
講談社学術文庫版では、この丘は「(旧)金砂郷村中野にある丘陵」という注が付いているが、そのままそれが、この「鯨ヶ丘」のことだと言われても、すんなり信じてしまいそうだ。
いずれにせよ、鯨ヶ丘も、その形からの命名であることは間違いない。

丘の上だから、どの方向に向かうにも坂道がある。
その代表的なものが「太田七坂」である。

いくつか坂道を撮ってみた。
名もない坂も、なかなか風情があっていい。

板谷(ばんや)坂。

十王坂。

杉本坂。


これは名前が付いてそうにない坂道だけど。

鯨ヶ丘には佐竹氏の居城があった。
太田小学校の校門付近に「舞鶴城址」の石碑が立っているだけで、遺構とみられるものはない。
太田小学校と近くにある若宮八幡神社が城の縄張りに入っているらしい。

では若宮八幡神社です。


境内からの眺め。
佐竹の殿様もこんな眺めを見たのだろうか。

鳥居の近くにあった彫り物。

佐竹氏を秋田へ追いやった後、常陸国には徳川が入って来た。本拠は水戸だが、二代藩主光圀は太田郊外に西山荘を建て、隠居所とした。佐竹の残党に目を光らせるのが目的だった。
前回紹介した飯島耕一は「品川 大井の旅」という詩でこう綴った。
「水戸の徳川は わたしの先祖を抑圧/した力 だった/常陸太田には まだ 徳川に うらみを/抱いている人 がいる という/タクシーの運転手が そう話した・・・・・・」
そんなことを思いながら歩いて行くと、太田の街は、少し悲しい。




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