この前の記事で香盤(芸人の序列)というのが出てきた。
昭和23年(1948年)の芸術協会と落語協会の名簿があるので見てみよう。この順番がいわゆる香盤順であろう。
まずは芸術協会から、真打のみを記す。
*五代目柳亭左楽 六代目春風亭柳橋 初代桂小文治 三代目春風亭柳好 五代目古今亭今輔 橘ノ圓(三代目桂三木助) 八代目三笑亭可楽 四代目三遊亭圓馬 二代目桂枝太郎 四代目三遊亭圓遊 二代目三遊亭遊三 五代目柳亭燕路 柳亭痴楽 立川ぜん馬 桂文一(九代目土橋亭里う馬)
*印を付けた、左楽は別格となっている。芸術協会創設からの会長である柳橋が、やはりその筆頭となるべきであろう。この中でいちばん新しい真打ちは柳亭痴楽。あの「綴り方教室」の痴楽である。ぜん馬、文一(この年に九代目土橋亭里う馬を襲名した)は寄席にもあまり出ていなかったためか、真打の末席に連なっている。
では落語協会。これも真打のみ。
*八代目桂文治 八代目桂文楽 五代目古今亭志ん生 二代目三遊亭円歌、六代目三遊亭圓生 蝶花楼馬楽(八代目林家正蔵) 八代目春風亭柳枝 桂右女助(六代目三升家小勝) 九代目鈴々舎馬風 翁家さん馬(九代目桂文治) 三代目三遊亭小圓朝 九代目金原亭馬生 三代目柳亭燕枝 四代目柳家つばめ 四代目立川談志 五代目三遊亭圓左 月の家圓鏡(七代目橘家圓蔵) 古今亭志ん馬(二代目古今亭甚語楼) 柳亭市馬 柳家小三治(五代目柳家小さん) 華形家八百八(六代目蝶花楼馬楽) 三遊亭歌笑 古今亭志ん橋(十代目金原亭馬生)
文治も別格になっているが、彼は当時の落語協会会長である。本来は名実ともに筆頭であるはずなのだが、晩年、文治は寄席で売れず、出番も軽んじられており、実質のトップは文楽だった。
ここで特筆すべきは、香盤上位、文楽から馬楽までの所だ。
香盤順では①文楽、②志ん生、③円歌、④圓生、⑤馬楽(正蔵)だが、真打昇進順となると、①文楽、②圓生、③馬楽(正蔵)、④志ん生、⑤円歌、となるのである。
現在では香盤順は真打昇進順であり、それはずっと変わらないとされているが、昔は落語家の協会間の移動も多く、その度に序列も変動した。また名前の格や席亭、観客の評価なども影響したのだろう。志ん生は、昭和10年代後半の時点で文楽と並称されていたし、円歌は明るい芸風と『呼び出し電話』等の新作落語で売れに売れていた。この二人が、昭和初期に低迷が続いていた圓生と馬楽(正蔵)を抜いたのは、仲間内にとって自然なことだったのかもしれない。
しかし、三遊本流の本格派を自負していた圓生は、円歌が上にいるのが我慢ならなかったという。(円歌は地方の天狗連出身、新潟訛と吃音に苦労した人である。)
この後、落語協会の会長は、文治から文楽、そして志ん生へと移っていく。志ん生が病に倒れた後、文楽が再登板するが、その次の会長は志ん生の意向もあって、円歌を飛ばして圓生に行く。文楽、志ん生、圓生という流れ、しかも円歌を飛ばしたということは、「落語協会の会長は古典の本格派であらねばならぬ」という強烈なメッセージにもなったに違いない。
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2018年6月28日木曜日
六代目三遊亭圓生と八代目林家正蔵④
大正11年2月、四代目橘家圓蔵死去。59歳であった。
圓生は、義父圓窓が師匠の名跡を継いで五代目橘家圓蔵となったのに伴い、その名を継いで三遊亭圓窓と改名した。
正蔵は、師匠三代目三遊亭圓遊が落語家を廃業し幇間に転向したことから三遊派を離れ、三遊亭圓楽のまま三代目柳家小さんの預かり弟子となる。一時大阪へ出て二代目桂三木助の世話になるが、やがて東京へ戻り四代目蝶花楼馬楽の内輪になった。
大正14年1月、圓生は、義父の五代目三遊亭圓生襲名とともに六代目橘家圓蔵を襲名する。名前の上では順調に大きな名前を継いではいるが、それは義父のおかげ。依然圓生の低迷期は続いていた。
正蔵の方は同年8月、柳家小三山(後の五代目古今亭今輔)らと落語協会を脱退し、落語革新派を結成するが、翌年の1月に解散。あだ名となった、「トンガリ」ぶりを発揮している。
昭和3年4月、馬楽が四代目柳家小さんを襲名。その後を継いで、正蔵は五代目蝶花楼馬楽を襲名した。昭和15年1月には五代目圓生が57歳で死去。翌年の1月、いよいよ六代目三遊亭圓生が誕生する。
その頃の話として、正蔵は前回引用した「円生師匠への公開状」という文章の中で、こんなことを書いている。
「貴方はお忘れになったかもしれないが、私は自分自身のことであるからよく覚えているが、中国との事変が少し大きくなって来た時分ですが、当時の落語協会の会長は一竜斎貞山師でしたが、この先生が、『今度協会で幹部を拵えよう。第一号としてお前がなれ』と言って、蝶花楼馬楽時代の私に白羽の矢が立った。(中略)その時に貴方が私の家においでになった。『私も親父の名前を継いで円生であるから、貴方が幹部披露をして私より地位が上になると、亡き親父の手前面目ないから何とかそこのところを宜敷く頼む』と言われたから、私もすぐに貞山師の所へ行って、『現在の地位のまんまで円生は一枚上にしといて呉れなきゃ、私は大幹部にはなりにくい』と言ったらば、貞山師が私の顔をジッと見て、『お前は欲のない人間だ』と言ってお笑いになったことがありました。」
圓生と正蔵が不仲だったとは以前に書いた。その不仲の原因が、このエピソードにあったのかもしれないということは、案外知られていない。
立川談之助著『立川流騒動記』の中にこのような記述がある。以下に引用する。
「それではなぜ円生と正蔵がそんなに不仲になったのだろうか、この騒動の最中に私はある正蔵師のお弟子さんに意外な事実を聞いた。それによると円生は正蔵より落語協会の香盤(芸人の序列のこと)が上になっているが、本来は正蔵の方が円生より一枚上だったというのである。落語の世界では序列が一枚違えばそれだけで兄弟子、弟弟子という上下関係になってしまう。それがどうして円生が正蔵よりも上になったかというと、円生が円蔵から『三遊亭円生』という大名跡を襲名する時に、当時蝶花楼馬楽だった正蔵に、
『馬楽さん、私も円生という大きい名前を継ぐんで、すまないがお前さんより私を形だけでもいいから上にしてもらえないだろうか』
と頼んだそうである。普通の芸人なら断るところだが、人のいい正蔵は、
『ああ、あたしは構わないよ』 とうっかり承諾してしまったというのである。それがこれ以来ずっと協会の順列になってしまったのである。」
二人の証言を並べてみると、ちょっとした違いがある。正蔵の記述では「現在の地位のまんまで円生は一枚上にしといて呉れなきゃ」とあるが、談之助の方は「本来は正蔵の方が円生より一枚上だった」としてある。ここは本人が言っているのだから、当時の香盤は圓生の方が正蔵よりも一枚上、しかし正蔵が幹部に抜擢されて圓生を抜きそうになったので、抜かないように圓生が頼みに行ったというのが真相だろう。
とはいえ、その後の次に続く談之助の分析は鋭い。
「正蔵は本来自分の方が上だと思っているから、円生に対して遠慮しないでずけずけと物を言う。円生はたとえ譲ってもらったとしても香盤上では自分が上であり、芸の上でも逆転したという自負があるので面白くないという図式で、いつの間にか2人は犬猿の仲になってしまったというのである。つまり円生の落語協会脱退の真の原因は、正蔵がバックの小さんと、正蔵嫌いの円生の代理戦争だったという訳なのだ。」
さらに正確を期すとすれば、正蔵はあくまで圓生を対等に置いていた。入門では先輩だが、年は5歳も上、しかも同時期に真打ちに昇進、その若手の売り出し時期に、二人ともそろって下手だと酷評されていた。そこに、圓生に対する正蔵の遠慮のなさがあったのだと思う。
一方、圓生から見れば、「芸の上で逆転した」といった意識もなく、芸の上では常に正蔵など眼中になかったのだと思う。彼が張り合っていたのは、むしろ正蔵より上の、文楽や志ん生だったのだから。そんな正蔵に香盤を抜いてくれるな、と頼みに行ったこと自体、圓生にとっては屈辱だったのだろう。そして、それを正蔵があっさり受け入れたからこそ、圓生のプライドはいっそう傷ついたのではないか。
人間というのはつくづく難しいものだねえ。
圓生は、義父圓窓が師匠の名跡を継いで五代目橘家圓蔵となったのに伴い、その名を継いで三遊亭圓窓と改名した。
正蔵は、師匠三代目三遊亭圓遊が落語家を廃業し幇間に転向したことから三遊派を離れ、三遊亭圓楽のまま三代目柳家小さんの預かり弟子となる。一時大阪へ出て二代目桂三木助の世話になるが、やがて東京へ戻り四代目蝶花楼馬楽の内輪になった。
大正14年1月、圓生は、義父の五代目三遊亭圓生襲名とともに六代目橘家圓蔵を襲名する。名前の上では順調に大きな名前を継いではいるが、それは義父のおかげ。依然圓生の低迷期は続いていた。
正蔵の方は同年8月、柳家小三山(後の五代目古今亭今輔)らと落語協会を脱退し、落語革新派を結成するが、翌年の1月に解散。あだ名となった、「トンガリ」ぶりを発揮している。
昭和3年4月、馬楽が四代目柳家小さんを襲名。その後を継いで、正蔵は五代目蝶花楼馬楽を襲名した。昭和15年1月には五代目圓生が57歳で死去。翌年の1月、いよいよ六代目三遊亭圓生が誕生する。
その頃の話として、正蔵は前回引用した「円生師匠への公開状」という文章の中で、こんなことを書いている。
「貴方はお忘れになったかもしれないが、私は自分自身のことであるからよく覚えているが、中国との事変が少し大きくなって来た時分ですが、当時の落語協会の会長は一竜斎貞山師でしたが、この先生が、『今度協会で幹部を拵えよう。第一号としてお前がなれ』と言って、蝶花楼馬楽時代の私に白羽の矢が立った。(中略)その時に貴方が私の家においでになった。『私も親父の名前を継いで円生であるから、貴方が幹部披露をして私より地位が上になると、亡き親父の手前面目ないから何とかそこのところを宜敷く頼む』と言われたから、私もすぐに貞山師の所へ行って、『現在の地位のまんまで円生は一枚上にしといて呉れなきゃ、私は大幹部にはなりにくい』と言ったらば、貞山師が私の顔をジッと見て、『お前は欲のない人間だ』と言ってお笑いになったことがありました。」
圓生と正蔵が不仲だったとは以前に書いた。その不仲の原因が、このエピソードにあったのかもしれないということは、案外知られていない。
立川談之助著『立川流騒動記』の中にこのような記述がある。以下に引用する。
「それではなぜ円生と正蔵がそんなに不仲になったのだろうか、この騒動の最中に私はある正蔵師のお弟子さんに意外な事実を聞いた。それによると円生は正蔵より落語協会の香盤(芸人の序列のこと)が上になっているが、本来は正蔵の方が円生より一枚上だったというのである。落語の世界では序列が一枚違えばそれだけで兄弟子、弟弟子という上下関係になってしまう。それがどうして円生が正蔵よりも上になったかというと、円生が円蔵から『三遊亭円生』という大名跡を襲名する時に、当時蝶花楼馬楽だった正蔵に、
『馬楽さん、私も円生という大きい名前を継ぐんで、すまないがお前さんより私を形だけでもいいから上にしてもらえないだろうか』
と頼んだそうである。普通の芸人なら断るところだが、人のいい正蔵は、
『ああ、あたしは構わないよ』 とうっかり承諾してしまったというのである。それがこれ以来ずっと協会の順列になってしまったのである。」
二人の証言を並べてみると、ちょっとした違いがある。正蔵の記述では「現在の地位のまんまで円生は一枚上にしといて呉れなきゃ」とあるが、談之助の方は「本来は正蔵の方が円生より一枚上だった」としてある。ここは本人が言っているのだから、当時の香盤は圓生の方が正蔵よりも一枚上、しかし正蔵が幹部に抜擢されて圓生を抜きそうになったので、抜かないように圓生が頼みに行ったというのが真相だろう。
とはいえ、その後の次に続く談之助の分析は鋭い。
「正蔵は本来自分の方が上だと思っているから、円生に対して遠慮しないでずけずけと物を言う。円生はたとえ譲ってもらったとしても香盤上では自分が上であり、芸の上でも逆転したという自負があるので面白くないという図式で、いつの間にか2人は犬猿の仲になってしまったというのである。つまり円生の落語協会脱退の真の原因は、正蔵がバックの小さんと、正蔵嫌いの円生の代理戦争だったという訳なのだ。」
さらに正確を期すとすれば、正蔵はあくまで圓生を対等に置いていた。入門では先輩だが、年は5歳も上、しかも同時期に真打ちに昇進、その若手の売り出し時期に、二人ともそろって下手だと酷評されていた。そこに、圓生に対する正蔵の遠慮のなさがあったのだと思う。
一方、圓生から見れば、「芸の上で逆転した」といった意識もなく、芸の上では常に正蔵など眼中になかったのだと思う。彼が張り合っていたのは、むしろ正蔵より上の、文楽や志ん生だったのだから。そんな正蔵に香盤を抜いてくれるな、と頼みに行ったこと自体、圓生にとっては屈辱だったのだろう。そして、それを正蔵があっさり受け入れたからこそ、圓生のプライドはいっそう傷ついたのではないか。
人間というのはつくづく難しいものだねえ。
2018年6月26日火曜日
六代目三遊亭圓生と八代目林家正蔵③
正蔵が一朝爺さんから三遊亭圓楽をもらったのが大正8年(1919年)。翌年には圓楽のまま真打ちに昇進する。その当時の圓生との交友を、彼はこんなふうに語っている。
「そうこうするうちに私も円楽と名前をまた変えまして、落語研究会の前座に使ってもらうことになった。そうすると貴方も落語研究会の会員になって、我々と席はそう違わないところにいたわけですね。落語研究会の若手に円楽という者があり、その時分、貴方は小円蔵か円好というお名前で、私と“読まんどし聞かんどし”という間柄で研究会の末席に連なっている。そうすると聞いている人、その時分の評論家の的になるのは貴方と私。落語研究会という権威のあるところにどうしてこんなへたな奴が出るのだろうというのが評判記の要領なんですねえ。それほどはたの者が上手かったと言えるんですが、何時も今の言葉で言えばケチョンケチョンにやっつけられる。完膚なきまでに打ちのめされるのが二人だったんで、その時代を顧みて懐かしくないことはありませんねえ。」(『噺家の手帖』1982年3月6日 一声社刊中、「円生師匠への公開状」より)
落語研究会は大正12年(1923年)9月1日の関東大震災で中絶となるので、大正8年頃からほぼ4年ぐらいの話であろう。
二人は同じ大正9年(1920年)に真打ちに昇進し、そして同時期に落語研究会に若手として出演を果たす。この時点でライバル同士だったと言っていいのではないか。
『古今東西落語家事典』(平凡社刊)には、大正8年5月11日の落語研究会プログラムが載っている。会場は日本橋宮松亭。その演目と出演者を列記してみよう。
・真田小僧 橘家小圓蔵(六代目三遊亭圓生)
・鬼面散 蝶花楼馬楽(四代目柳家小さん)
・一目上がり 翁家さん馬(八代目桂文治)
・山崎屋 柳家つばめ(二代目)
・おもと違ひ 三遊亭金馬(二代目)
・心眼 三遊亭小圓朝(二代目)
・碁どろ 柳家小さん(三代目)
・お七 三遊亭圓窓(五代目三遊亭圓生)
・あくぬけ 橘家圓蔵(四代目、俗に「品川の圓蔵」)
・巌流島 三遊亭圓右(初代、二代目三遊亭圓朝を襲名)
この時は小圓蔵時代の圓生がサラを務めている。なるほど、錚々たる面子だ。初代圓右、三代目小さん、四代目圓蔵は健在。後の五代目圓生、四代目小さん、八代目文治がそれに続く。大正から昭和初期にかけての名人上手がズラリと並んでいる。
この時期、圓生は「皮ばかりで肉のない芸」、正蔵は「骨ばかりで肉のない芸」と言われて酷評された。正蔵は圓生を自らと同列に語り懐かしんでいるが、圓生からすれば、それは思い出したくない過去だったのではないか。
「そうこうするうちに私も円楽と名前をまた変えまして、落語研究会の前座に使ってもらうことになった。そうすると貴方も落語研究会の会員になって、我々と席はそう違わないところにいたわけですね。落語研究会の若手に円楽という者があり、その時分、貴方は小円蔵か円好というお名前で、私と“読まんどし聞かんどし”という間柄で研究会の末席に連なっている。そうすると聞いている人、その時分の評論家の的になるのは貴方と私。落語研究会という権威のあるところにどうしてこんなへたな奴が出るのだろうというのが評判記の要領なんですねえ。それほどはたの者が上手かったと言えるんですが、何時も今の言葉で言えばケチョンケチョンにやっつけられる。完膚なきまでに打ちのめされるのが二人だったんで、その時代を顧みて懐かしくないことはありませんねえ。」(『噺家の手帖』1982年3月6日 一声社刊中、「円生師匠への公開状」より)
落語研究会は大正12年(1923年)9月1日の関東大震災で中絶となるので、大正8年頃からほぼ4年ぐらいの話であろう。
二人は同じ大正9年(1920年)に真打ちに昇進し、そして同時期に落語研究会に若手として出演を果たす。この時点でライバル同士だったと言っていいのではないか。
『古今東西落語家事典』(平凡社刊)には、大正8年5月11日の落語研究会プログラムが載っている。会場は日本橋宮松亭。その演目と出演者を列記してみよう。
・真田小僧 橘家小圓蔵(六代目三遊亭圓生)
・鬼面散 蝶花楼馬楽(四代目柳家小さん)
・一目上がり 翁家さん馬(八代目桂文治)
・山崎屋 柳家つばめ(二代目)
・おもと違ひ 三遊亭金馬(二代目)
・心眼 三遊亭小圓朝(二代目)
・碁どろ 柳家小さん(三代目)
・お七 三遊亭圓窓(五代目三遊亭圓生)
・あくぬけ 橘家圓蔵(四代目、俗に「品川の圓蔵」)
・巌流島 三遊亭圓右(初代、二代目三遊亭圓朝を襲名)
この時は小圓蔵時代の圓生がサラを務めている。なるほど、錚々たる面子だ。初代圓右、三代目小さん、四代目圓蔵は健在。後の五代目圓生、四代目小さん、八代目文治がそれに続く。大正から昭和初期にかけての名人上手がズラリと並んでいる。
この時期、圓生は「皮ばかりで肉のない芸」、正蔵は「骨ばかりで肉のない芸」と言われて酷評された。正蔵は圓生を自らと同列に語り懐かしんでいるが、圓生からすれば、それは思い出したくない過去だったのではないか。
2018年6月24日日曜日
梅雨のお休み
昨日の日記。
朝、パン、目玉焼き、ウィンナー、紅茶。一日中雨が降ったりやんだり。
午前中、妻と次男がお出かけ。長男は来週テストだと言って家に籠る。
八代目桂文楽の『鰻の幇間』をレコードで聴く。1967年(昭和42年)の録音。噺の後には対談が付いている。鰻屋の掛け軸が「応挙の虎」というのは受けが少ないかもしれないが、味わい深い。この黒門町の型は、今六代目柳亭左楽が受け継いでいる。
昼ぐらいは外に出ようと、長男と丸亀製麺に行く。カレーうどん、メンチカツ、高菜のおにぎり。旨し。
午後は森田童子の『夜想曲』のCDを聴く。童子のオリジナルアルバムでは、これだけ持っていなかった。当時どうしてレコードを買わなかったのか、と今さらに思ったが、改めて聴くと、ラスト曲が前のアルバムと同じ「ラスト・ワルツ」だったからなんだな、と思い出す。
夕方、妹夫婦と甥っ子が来て、皆で飲む。親父が一緒に飲みたくて企画した飲み会。魚屋の刺身(鰹と鮪)に、妹が作って来た鶏のやわらか煮、じゃがいもをふかしたのなんてのをつまみに、ビール、酒。酒を一升空けた所でお開き。我々も分別が付くようになったものだな。
寝しなに八代目林家正蔵『生きている小平次』を聴く。
今日の日記。
朝は御飯、味噌汁、卵のソーセージの炒め物、納豆。
午前中、雨。
キース・ジャレット、ソロコンサートのLPレコードを聴く。雨によく合うね。
昼はそうめん。
午後は晴れる。本屋に行く。清水潔著、『「南京事件」を調査せよ』(文春文庫)を買う。面白い。
皆で『世界の果てまでイッテQ』の録画を見る。
夕方、妻とハートランドビール。
夕食は餃子、麻婆茄子でビール、酒。
夕焼けがきれいだった。
2018年6月23日土曜日
六代目三遊亭圓生と八代目林家正蔵②
六代目三遊亭圓生と八代目林家正蔵について、もう少し語る。
この二人の不仲は有名だった。あの、落語協会分裂騒動も、本当の原因は彼らの確執からだったと言われている。
では、この二人は落語家としてどのようなキャリアを辿ったのか。その辺りのところから見てみたいと思う。
正蔵は1895年(明治28年)生まれ。圓生が1900年(明治33年)生まれだから、5歳年長。年代的には圓生よりも三代目三遊亭金馬(1894年生まれ)の方が近い。
ところが、落語家への入門となると話は違ってくる。
圓生は1909年(明治42年)、9歳で四代目橘家圓蔵に入門した。彼はそれより以前、1905年(明治38年)頃から子供義太夫として圓蔵の身内として寄席に出ていたが、伊香保温泉の石段で転んで胸を打ち、義太夫を語ると早死にをすると医者に言われて落語家に転向したのだ。子供落語家ということで前座の修行はなく、二つ目でのデビューだった。
正蔵は1912年(明治45年)、三遊亭三福(後の三代目圓遊)に入門。1917年(大正5年)頃に師匠とともに四代目橘家圓蔵の身内になる。落語家としては、圓生は正蔵の同門の先輩であった。
しかも圓生の母親が、四代目圓蔵門の俊才、三遊亭圓窓と再婚していた。後に圓窓は師匠圓蔵の死後、すぐに五代目圓蔵を継ぎ、さらには三遊亭の最高峰、圓生の五代目を襲名することになる。こうして圓生は三遊本流の御曹司になっていくが、それに対し、正蔵はあくまで外様の弟子。圓生から見れば取るに足りない存在だったことは容易に想像できる。
暉峻康隆の『落語藝談』の中で、圓生は三代目三遊亭圓馬の稽古について思い出話をしているが、後の四代目柳家小さんなどの大人をしり目に「覚えるのはあたしがいちばん早く覚えちゃう」という。実際、圓馬は子供の圓生を引き合いに出して、小さんを叱った。当時の圓生にとって、視界に入っていたのは、文楽・志ん生よりもさらにひと世代上の四代目小さんたち。正蔵など眼中にない。
一方、正蔵は下座のお婆さんの勧めで、当時圓楽だった三遊亭一朝のもとへ稽古に通うようになっていた。一朝は、名人三遊亭圓朝の弟子。ここで正蔵は、圓朝譲りの人情噺、芝居噺、怪談噺を吸収していく。
圓生は、1920年(大正9年)3月、橘家圓好で真打ちに昇進した。同年6月、正蔵も真打ちに昇進。その前年に彼は、一朝から三遊亭圓楽の名前を譲り受けていた。
*訂正
元記事で圓生の真打ち昇進を大正4年(1915年)としてしまいましたが、これは間違い。小圓蔵と改名した年と取り違えてしまいました。訂正してお詫び申し上げます。
この二人の不仲は有名だった。あの、落語協会分裂騒動も、本当の原因は彼らの確執からだったと言われている。
では、この二人は落語家としてどのようなキャリアを辿ったのか。その辺りのところから見てみたいと思う。
正蔵は1895年(明治28年)生まれ。圓生が1900年(明治33年)生まれだから、5歳年長。年代的には圓生よりも三代目三遊亭金馬(1894年生まれ)の方が近い。
ところが、落語家への入門となると話は違ってくる。
圓生は1909年(明治42年)、9歳で四代目橘家圓蔵に入門した。彼はそれより以前、1905年(明治38年)頃から子供義太夫として圓蔵の身内として寄席に出ていたが、伊香保温泉の石段で転んで胸を打ち、義太夫を語ると早死にをすると医者に言われて落語家に転向したのだ。子供落語家ということで前座の修行はなく、二つ目でのデビューだった。
正蔵は1912年(明治45年)、三遊亭三福(後の三代目圓遊)に入門。1917年(大正5年)頃に師匠とともに四代目橘家圓蔵の身内になる。落語家としては、圓生は正蔵の同門の先輩であった。
しかも圓生の母親が、四代目圓蔵門の俊才、三遊亭圓窓と再婚していた。後に圓窓は師匠圓蔵の死後、すぐに五代目圓蔵を継ぎ、さらには三遊亭の最高峰、圓生の五代目を襲名することになる。こうして圓生は三遊本流の御曹司になっていくが、それに対し、正蔵はあくまで外様の弟子。圓生から見れば取るに足りない存在だったことは容易に想像できる。
暉峻康隆の『落語藝談』の中で、圓生は三代目三遊亭圓馬の稽古について思い出話をしているが、後の四代目柳家小さんなどの大人をしり目に「覚えるのはあたしがいちばん早く覚えちゃう」という。実際、圓馬は子供の圓生を引き合いに出して、小さんを叱った。当時の圓生にとって、視界に入っていたのは、文楽・志ん生よりもさらにひと世代上の四代目小さんたち。正蔵など眼中にない。
一方、正蔵は下座のお婆さんの勧めで、当時圓楽だった三遊亭一朝のもとへ稽古に通うようになっていた。一朝は、名人三遊亭圓朝の弟子。ここで正蔵は、圓朝譲りの人情噺、芝居噺、怪談噺を吸収していく。
圓生は、1920年(大正9年)3月、橘家圓好で真打ちに昇進した。同年6月、正蔵も真打ちに昇進。その前年に彼は、一朝から三遊亭圓楽の名前を譲り受けていた。
*訂正
元記事で圓生の真打ち昇進を大正4年(1915年)としてしまいましたが、これは間違い。小圓蔵と改名した年と取り違えてしまいました。訂正してお詫び申し上げます。
2018年6月21日木曜日
六代目三遊亭圓生と八代目林家正蔵①
私が子どもの頃、落語界の長老と言えば、落語協会では六代目三遊亭圓生と八代目林家正蔵、芸術協会では六代目春風亭柳橋と五代目古今亭今輔だった。
ここでは圓生と正蔵について話をしたい。
この二人、八代目桂文楽と五代目古今亭志ん生のように、ライバルだったとは言い難い。芸の評価としては、どう見ても圓生の方が上だったからだ。子どもの私でさえもそう思った。
立川談志は『談志絶倒昭和落語家伝』の中で、圓生の芸についてこのように語っている。
「一口にいうと『昭和の名人』、最後の大名人である。現代でも落語の形式を上手に演じる人はいるが、円生師匠の広い守備範囲、攻撃範囲には敵わない。
声も、あのいい声の中音で、音曲が唄えて、子供の頃『豆義太夫語り』だったから、義太夫は勿論いける。大阪にいたから大阪弁もいける。したがって、音曲噺、芝居噺、滑稽噺、人情噺、短い噺、ばかばかしい噺、何でもいけた。
演目は一番多く、それも桁違いであった。(中略)一つ一つが群を抜いている。極端にいえば“非の打ちどころがない”ということだ。見事である。上手くて面白くて、ばかばかしい。」
絶賛と言っていい。意外なようだが、談志の一つの理想形が三遊亭圓生にあったのは間違いないと思う。
それに対し、正蔵には厳しい。同じ『談志絶倒昭和落語家伝』から。
「高座では、大幹部として扱われていたが、“感情注入が下手”という欠点があって、聴いていて面白くない。したがって、余興に演る茶番、これも感情が入っていないから面白くない。」
『談志 名跡問答』でも、
「(対談相手の福田和也に、正蔵のどの辺が下手だと感じたのか、と訊かれ)どの辺と言うより、曰く下手。(中略)いわゆる『噺の間』がワルい。これは噺家として、その頃は決定的だ。」と言っている。
私が子どもの頃感じた正蔵の面白くなさが、一つ一つ的確に指摘されている。
しかし、このままで終わったのではフェアではない。談志はこうも続けているのである。
「けど、この師匠が、客が少ないとき、人形町末広でとろとろとろとろ演ってるとき、“受けよう”という勘定なしに喋ったときは素晴らしかった。」(『談志絶倒昭和落語家伝』より)
私が40ちょっと前の頃、両国の江戸東京博物館で「大落語展」というイベントがあった。
この時に壮年時代の正蔵の映像を見た。ネタは「五人廻し」。これが面白かった。口調が滑らかでテンポがよく、剽軽なフラがある。正蔵ってこんなに面白かったんだ、と私は思った。
圓生は落語を「演ずる」。緻密な演出のもと、登場人物は一人一人、巧みに演じ分けられる。一方、正蔵の落語は「語り」だ。彼の語りを通して、物語が力強く立ち上る。抒情の圓生に対し叙事の正蔵。「生きている小平次」、「ステテコ誕生」、「笠と赤い風車」・・・、改めて聴く正蔵はいい。
ここでは圓生と正蔵について話をしたい。
この二人、八代目桂文楽と五代目古今亭志ん生のように、ライバルだったとは言い難い。芸の評価としては、どう見ても圓生の方が上だったからだ。子どもの私でさえもそう思った。
立川談志は『談志絶倒昭和落語家伝』の中で、圓生の芸についてこのように語っている。
「一口にいうと『昭和の名人』、最後の大名人である。現代でも落語の形式を上手に演じる人はいるが、円生師匠の広い守備範囲、攻撃範囲には敵わない。
声も、あのいい声の中音で、音曲が唄えて、子供の頃『豆義太夫語り』だったから、義太夫は勿論いける。大阪にいたから大阪弁もいける。したがって、音曲噺、芝居噺、滑稽噺、人情噺、短い噺、ばかばかしい噺、何でもいけた。
演目は一番多く、それも桁違いであった。(中略)一つ一つが群を抜いている。極端にいえば“非の打ちどころがない”ということだ。見事である。上手くて面白くて、ばかばかしい。」
絶賛と言っていい。意外なようだが、談志の一つの理想形が三遊亭圓生にあったのは間違いないと思う。
それに対し、正蔵には厳しい。同じ『談志絶倒昭和落語家伝』から。
「高座では、大幹部として扱われていたが、“感情注入が下手”という欠点があって、聴いていて面白くない。したがって、余興に演る茶番、これも感情が入っていないから面白くない。」
『談志 名跡問答』でも、
「(対談相手の福田和也に、正蔵のどの辺が下手だと感じたのか、と訊かれ)どの辺と言うより、曰く下手。(中略)いわゆる『噺の間』がワルい。これは噺家として、その頃は決定的だ。」と言っている。
私が子どもの頃感じた正蔵の面白くなさが、一つ一つ的確に指摘されている。
しかし、このままで終わったのではフェアではない。談志はこうも続けているのである。
「けど、この師匠が、客が少ないとき、人形町末広でとろとろとろとろ演ってるとき、“受けよう”という勘定なしに喋ったときは素晴らしかった。」(『談志絶倒昭和落語家伝』より)
私が40ちょっと前の頃、両国の江戸東京博物館で「大落語展」というイベントがあった。
この時に壮年時代の正蔵の映像を見た。ネタは「五人廻し」。これが面白かった。口調が滑らかでテンポがよく、剽軽なフラがある。正蔵ってこんなに面白かったんだ、と私は思った。
圓生は落語を「演ずる」。緻密な演出のもと、登場人物は一人一人、巧みに演じ分けられる。一方、正蔵の落語は「語り」だ。彼の語りを通して、物語が力強く立ち上る。抒情の圓生に対し叙事の正蔵。「生きている小平次」、「ステテコ誕生」、「笠と赤い風車」・・・、改めて聴く正蔵はいい。
2018年6月17日日曜日
岐阜県特派員報告
「松風亭日乗」岐阜県特派員T君からメールが来て、東濃地方の見どころをレポートしてくれた。
以下に掲載する。
* * *
未だに見ていないが、ドラマ「半分、青い」はかなり話題になっているようだ。瑞浪高校の先生が「学校前の坂の桜並木でロケをした」と言っていた。
また主人公の故郷のモデルが恵那市岩村で、観光客で賑わっているとか。
岩村と言えば、女城主(信長のおばにあたるらしい)の里であり、日本三大山城であり、かの佐藤一斎の出身地である。松浦軒の昔風カステラが名物で、地酒「えなのほまれ」も、ぬる燗が最高。語り出すと長くなるので、詳しくはWebで。
さて岩村から明知鉄道に乗り、終着駅が明智である。
明智光秀の一族が住んでいたと言われる明智城があるが、城主は遠山氏で、光秀とは関係ないようだ。遠山氏は後に旗本になり、「遠山の金さん」が出ている。
明智と言えば、大正村で、大正期を思わせる古い建築物が残っている。明治村のように一流どころを集め、料金を取るのではなく、建築物は街に散在し、有料施設は一部だけである。
大正村には歴代村長がおり、初代高峰三枝子、二代司葉子、そして三代目が竹下景子である。竹下景子が大正村村長?私も年を取る訳である。
最初は郵便局、現役と言いたいが、現役は隣に設置されている。
銀行はそれらしく造 った、なんちゃって大正ロマンである。
その近くにある「またほん商店」には風格がある。
東濃から長野県南部にかけては、黒スズメバチの幼虫を食べる習慣があり、こんな案内も出ている。
さて、今回の目玉は、2つの不思議な喫茶店である。
まずはこちら。
看板に「ねこのくつろぎや」とあるが、いったい…?店が閉まっていて、中の様子は見られなかった。残念ながら、正体は謎のままである。
続いて、道路を渡り廊下が横断している珍しい建築物を撮影していたら、その下にレトロな喫茶店を見つけた。
よく残しておいたものだと思っていたら、「営業中」とある。入ってみたかったが、二度と帰れない嫌な予感がして、あきらめた。
読者諸賢には、恵那から明知鉄道に乗り、極楽駅で途中下車、続いて岩村の観光を楽しみ、最後に明智で2つの喫茶店の謎を暴くツアーをお薦めしたい。
* * *
NHKの朝ドラも、昨年が茨城の「ひよっこ」で、今回が岐阜県の「半分、青い」ですか。何だか縁を感じますなあ。
* * *
未だに見ていないが、ドラマ「半分、青い」はかなり話題になっているようだ。瑞浪高校の先生が「学校前の坂の桜並木でロケをした」と言っていた。
また主人公の故郷のモデルが恵那市岩村で、観光客で賑わっているとか。
岩村と言えば、女城主(信長のおばにあたるらしい)の里であり、日本三大山城であり、かの佐藤一斎の出身地である。松浦軒の昔風カステラが名物で、地酒「えなのほまれ」も、ぬる燗が最高。語り出すと長くなるので、詳しくはWebで。
さて岩村から明知鉄道に乗り、終着駅が明智である。
明智光秀の一族が住んでいたと言われる明智城があるが、城主は遠山氏で、光秀とは関係ないようだ。遠山氏は後に旗本になり、「遠山の金さん」が出ている。
明智と言えば、大正村で、大正期を思わせる古い建築物が残っている。明治村のように一流どころを集め、料金を取るのではなく、建築物は街に散在し、有料施設は一部だけである。
大正村には歴代村長がおり、初代高峰三枝子、二代司葉子、そして三代目が竹下景子である。竹下景子が大正村村長?私も年を取る訳である。
最初は郵便局、現役と言いたいが、現役は隣に設置されている。
銀行はそれらしく造 った、なんちゃって大正ロマンである。
その近くにある「またほん商店」には風格がある。
東濃から長野県南部にかけては、黒スズメバチの幼虫を食べる習慣があり、こんな案内も出ている。
さて、今回の目玉は、2つの不思議な喫茶店である。
まずはこちら。
看板に「ねこのくつろぎや」とあるが、いったい…?店が閉まっていて、中の様子は見られなかった。残念ながら、正体は謎のままである。
続いて、道路を渡り廊下が横断している珍しい建築物を撮影していたら、その下にレトロな喫茶店を見つけた。
読者諸賢には、恵那から明知鉄道に乗り、極楽駅で途中下車、続いて岩村の観光を楽しみ、最後に明智で2つの喫茶店の謎を暴くツアーをお薦めしたい。
* * *
NHKの朝ドラも、昨年が茨城の「ひよっこ」で、今回が岐阜県の「半分、青い」ですか。何だか縁を感じますなあ。
2018年6月16日土曜日
梅雨寒の日
朝のうち雨。寒い。
朝食は御飯、味噌汁、納豆、ハムを厚切りにして焼いたの。
妻子が買い物に出る。給料日前で金もないし、留守番。
森田童子のLPレコードを聴く。『グッドバイ』、『狼少年』の2枚。デビューアルバムとラストアルバム。改めて聴くと、彼女の歌のテーマは一貫しているな。長く歌っている人は、そのキャリアの中で何回かモデルチェンジをしているが、森田童子にはそれがない。もしかしたら、彼女は自分の歌いたいものを歌い尽くしてやめたのかもしれない。ちなみにラストアルバム『狼少年』のラストナンバーである「狼少年」は、『グッドバイ』A面のラスト、「地平線」と同じものである。
村上春樹の短編が載っていたので買った雑誌『文學界』を拾い読む。町田良平「愛が嫌い」が面白かった。女友だちの息子のお迎えを引き受けている男の話。20代後半の彼は正社員の仕事をやめファミレスでバイトをしている。女友だちも、その夫も正社員。普通の暮らしをしているはずなのだが、激務で疲弊している。誰もが身をすり減らさずに生きていくことはできない。そういう「今」を見事に描いている。どうして人は楽に生きていくことができないんだろう。
昼食はマルちゃん生麺醤油味。
午後からは運動がてら散歩に出る。1時間ちょっと歩く。
薬師様の境内にある野仏。 |
霞ケ浦の方へ向かう。 |
やはり霞ケ浦はいいなあ。 |
夕食はポトフ、シューマイ、マカロニで燗酒。いただきものの「神亀」。やっぱ旨いわ。
桔梗が咲き始めました。 |
2018年6月14日木曜日
潮来の素鵞熊野神社
先日、鹿嶋から潮来、稲敷を通って土浦に行った時、潮来の素鵞熊野神社にお参りをした。
潮来市辻にあった小社を、1188年(文治4年)天王河岸に移し、牛頭天王と称したのが始まり。一村一社政策により、1696年(元禄9年)、現在地に移って熊野三社権現と相殿となる。1844年(天保15年)には牛頭天王は素鵞神社に、熊野三社権現は熊野神社に改称される。1877年(明治10年)に素鵞熊野神社となって現在に至る。祭神は須佐之男命、奇稲田比命、速玉男命の三柱である。(潮来市公式HPより)
須佐之男命と奇稲田比命はご夫婦だが、速玉男命とはどのような神様なのだろうか。『日本書紀』を読むと、速玉男之神(はやたまおのかみ)という神様が出てくる。
イザナギノミコトがイザナミノミコトを追って黄泉の国へ行った。イザナギは「私を見るな」というイザナミの禁を犯し、腐乱した彼女の醜い実体を見てしまう。イザナギがイザナミに向かって「もう別れよう」と言って、唾を吐いた時に生まれた神がこの速玉男之神である。全国の熊野神社の祭神がこの神様だという。どうして、という感じがしなくもない。
原田常治の『古代日本正史』によると、速玉男命とは須佐之男命の別名とのこと。須佐之男命は出雲の熊野山に葬られ、和歌山県の熊野速玉大社は出雲に因んで祀られた。熊野神社の祭神は、だから須佐之男命なのだということだ。
牛頭天王も須佐之男命と同一視されており、いずれにしても須佐之男命がこの神社の主神であることに間違いはあるまい。
牛頭天王と熊野三社権現との相殿だったからか、本殿が二つ並んでいる。 |
この下に県の天然記念物になっている大欅があるという。 |
境内社には、明神神社、淡島神社、大杉神社、金比羅神社などがある。 |
2018年6月12日火曜日
もうこの世にいないのか、森田童子
森田童子の死を、夕方のニュースで知った。
日本音楽著作権協会の会報に訃報が載っていたという。
亡くなったのは4月24日、65歳だった。ニュースでは「死因は心不全」だと言っていたが、詳しくは分かっていない。
高校の時、彼女のデビューアルバム『グッドバイ』を買い、大学に進学して川崎のアパートに引っ越す時、幼馴染のH君に『マザー・スカイ』と『ア・ボーイ』をダビングしてもらった。大学を卒業して社会人1年目の年には、ラストアルバムになる『狼少年』を買っている。私の10代後半から20代前半にかけて、最もよく聴いたシンガーソングライターの一人と言っていい。
「死に近い」歌だった。「安全カミソリがやさしく僕の手首を走る」とか「太宰の好きな君は睡眠薬飲んだ」とか、自殺をモチーフにした作品も多かった。以前、このブログに森田童子のことを書いた時、「なかにし礼」という方から「(彼女の歌は自殺誘発ソングであり、)森田童子を手放しで称讃することはできない」というコメントをいただいたが、それに対して童子のファンの方からは反論のコメントが相次いだ。童子の歌は「死に近い」がゆえに絶望の淵にいる者に優しく寄り添う歌でもあったし、「切実に生を求める」歌でもあったのだと思う。
2016年に発売されたリマスター版CD『マザー・スカイ』を聴く。
もちろんイアホンをつけて。
妻が近くで本を読み、息子は机で勉強をしている。
このアルバムを毎日のように聴いていた頃、私は川崎の四畳半で、部屋中を煙草の煙でいっぱいにし、サントリーレッドをあおっていたのだ。
あの頃感じたひりひりしたものは今は感じない。童子の声は、言葉は、優しかった。
そうか、もうこの世にいないのか、森田童子。
歌うのをやめてから35年間、あなたは決して再び歌おうとしなかったけれど、あなたの歌に心を動かされている人は今でもたくさんいます。
私もあなたの歌が大好きでした。ご冥福をお祈り申し上げます。
日本音楽著作権協会の会報に訃報が載っていたという。
亡くなったのは4月24日、65歳だった。ニュースでは「死因は心不全」だと言っていたが、詳しくは分かっていない。
高校の時、彼女のデビューアルバム『グッドバイ』を買い、大学に進学して川崎のアパートに引っ越す時、幼馴染のH君に『マザー・スカイ』と『ア・ボーイ』をダビングしてもらった。大学を卒業して社会人1年目の年には、ラストアルバムになる『狼少年』を買っている。私の10代後半から20代前半にかけて、最もよく聴いたシンガーソングライターの一人と言っていい。
「死に近い」歌だった。「安全カミソリがやさしく僕の手首を走る」とか「太宰の好きな君は睡眠薬飲んだ」とか、自殺をモチーフにした作品も多かった。以前、このブログに森田童子のことを書いた時、「なかにし礼」という方から「(彼女の歌は自殺誘発ソングであり、)森田童子を手放しで称讃することはできない」というコメントをいただいたが、それに対して童子のファンの方からは反論のコメントが相次いだ。童子の歌は「死に近い」がゆえに絶望の淵にいる者に優しく寄り添う歌でもあったし、「切実に生を求める」歌でもあったのだと思う。
2016年に発売されたリマスター版CD『マザー・スカイ』を聴く。
もちろんイアホンをつけて。
妻が近くで本を読み、息子は机で勉強をしている。
このアルバムを毎日のように聴いていた頃、私は川崎の四畳半で、部屋中を煙草の煙でいっぱいにし、サントリーレッドをあおっていたのだ。
あの頃感じたひりひりしたものは今は感じない。童子の声は、言葉は、優しかった。
そうか、もうこの世にいないのか、森田童子。
歌うのをやめてから35年間、あなたは決して再び歌おうとしなかったけれど、あなたの歌に心を動かされている人は今でもたくさんいます。
私もあなたの歌が大好きでした。ご冥福をお祈り申し上げます。
2018年6月7日木曜日
古今亭志ん朝が語る、落語協会分裂騒動
1994年1月20日発行の雑誌『Switch』は、「落語の粋を生きる」と題する古今亭志ん朝の特集号であった。
この中の「古今亭をめぐる冒険」(文:濱美雪)という、志ん朝へのインタビューをもとにした記事で、落語協会分裂騒動について語っている部分がある。貴重な記録なので紹介したい。
では、志ん朝の立場から、あの事件を振り返ってみよう。
「ええ・・・あれはですね、結局、亡くなった円生師匠と正蔵師匠との揉め事に、おっちょこちょいのあたしなんかが絡んじゃったということなんですよ。
円生師匠が会長を引いたあと、小さん会長が自分の政策をいろいろ始めた。それが円生師匠はお気に入りじゃなかったんですよ。
で、折しも、正蔵師匠がご自分の弟子を真打ちにするについてお宅のお弟子さんも一緒にって円生師匠に言ったんだけど、大勢をいっぺんに真打ちにすることに初めっから反対していた円生師匠は断った。また正蔵師匠のほうも引かない。
で、理事会で採決を取ったら円生師匠の意見が通らないんで、円生師匠が協会をやめると言い出した。そのときに、ま、ある男が円楽さんやあたしなんかを集めて『円生師匠がやめるなんてのはとんでもない話だ。黙って見ていては駄目だ。俺たちは行動を共にして三遊亭を頭に置いて協会をこしらえよう。』って言った。それがきっかけで三遊協会というのが発足したんです」
簡潔に事件の背景が語られる。何人か登場する中で、一人だけ「ある男」と名前が伏せられている。これが立川談志だということは明らかだ。やはりこの騒動の起点は談志だったか。敢えて名前を伏せたのは、志ん朝の配慮か、あるいは屈託か。
「新たに協会をこしらえると、落語協会と落語芸術協会と会が三つになる。三つできればお互いに競い合うのと、いっぱい増えてきた二つ目さんの高座がある程度確保できる。一年も高座に上がれないような二つ目がいなくなる。俺はそういういい方にとった」
落語家にデビューして以来、志ん生の息子ということで何かと引き立てられたことに、志ん朝自身負い目のようなものがあったという。それが恵まれない若手への思いとなったか。二つ目に高座の機会を与えられる、それが志ん朝を新協会設立に向かわせた最大の動機だった。
しかし反旗を翻された落語協会はもちろん、結果出番を減らされる芸術協会も強硬に反発した。理屈では正しいのかもしれないが、人の情として受け入れがたいことというのはあるものなのだ。
「僕の考えは間違っていたとは思わないんだけどもケンカの仕方がね、向こうが支度していないのにいきなり石投げたり、戦争の仕方が間違ってた。あんな中途半端なかたちでなく、もっときちっと三遊亭を助けてさしあげられるようなやり方があったと思うんだけど、自分の判断力がないから人にそそのかされたという感じのまんま『そうだ!』って気持ちばかり高ぶって馬鹿なことしたなって、今でもそれは思います。他の人たちには思わないけど、『次期会長は志ん朝さん』とまで言ってくださった三遊亭の師匠には力足らずで申し訳なかったと、この僕は思います」
この時、志ん朝は55歳。「自分の判断力がないから人にそそのかされたという感じのまんま『そうだ!』って気持ちばかり高ぶって馬鹿なことしたな」と自らの若さ振り返っている。騒動の頃はまだ40歳だったのだ。
「もう、ほんとうに一番嫌だったのは、本家の落語協会に反旗を翻して負けて戻ったわけだから、ペナルティーを受けたいわけですよ。それがなかったのは、とてもなんか寂しいとこでしたね。それと家族に引き戻されたこと。
あたしはそれまでずうっと自分の思いどおりに世の中を進もうと思ってやってきた。それが初めて自分の思いを覆されて、しぶしぶというか泣く泣く向こうの意見に従った。 昔連合赤軍が浅間山荘に立てこもったとき、母親がきて説得してた。こもってる連中にしてみれば、あれは嫌だろうと思う。もうそこまで行っちゃったんだから覚悟してやってる。世間には迷惑かけるけど、でも男の気持ちから言うと、あれはやっぱりやらしてあげたいね。
でも俺が『あ、もう駄目だ』と思ったのは、寄席が最終的にどこも賛成してくれなかったとき。そうなると俺のやる意味がない。降参するしかない。でも円生師匠は、これからは寄席の時代じゃないみたいなことをおっしゃった。あたしの考えは、寄席がある間はあくまで寄席が大事なんですよ。
でも、まず円生師匠の意見をもっと聞こうって訴えるべきだった。とことん訴えてどうしても駄目ということになってから事を起こせばよかった。気がはやったねえ」
「あらぬ一点を見つめるようにして一気に志ん朝は言った」と濱美雪は書いた。志ん朝にとって、この騒動から受けた傷は15年経ったこの時でも疼いていたのだろう。
三遊亭圓丈は『師匠、御乱心!』のあとがきの中で、志ん朝の〈それから〉についてこう書いている。
「そして、志ん朝師とは亡くなるまで随分会ったが、以前は、いつも笑いながら『ぬうちゃん元気!』と言っていた志ん朝は、あまりしゃべらない、静かな人になっていた。
志ん朝は分裂騒動で、三遊協会に行ったのを悔やんでいるのではと思った。三遊協会のことは死ぬまで一言も話さなかった。多分、あの事件は思い出したくないコトだったんだと思う。」
それを踏まえると、この記事は本当に貴重な記録である。
この中の「古今亭をめぐる冒険」(文:濱美雪)という、志ん朝へのインタビューをもとにした記事で、落語協会分裂騒動について語っている部分がある。貴重な記録なので紹介したい。
では、志ん朝の立場から、あの事件を振り返ってみよう。
「ええ・・・あれはですね、結局、亡くなった円生師匠と正蔵師匠との揉め事に、おっちょこちょいのあたしなんかが絡んじゃったということなんですよ。
円生師匠が会長を引いたあと、小さん会長が自分の政策をいろいろ始めた。それが円生師匠はお気に入りじゃなかったんですよ。
で、折しも、正蔵師匠がご自分の弟子を真打ちにするについてお宅のお弟子さんも一緒にって円生師匠に言ったんだけど、大勢をいっぺんに真打ちにすることに初めっから反対していた円生師匠は断った。また正蔵師匠のほうも引かない。
で、理事会で採決を取ったら円生師匠の意見が通らないんで、円生師匠が協会をやめると言い出した。そのときに、ま、ある男が円楽さんやあたしなんかを集めて『円生師匠がやめるなんてのはとんでもない話だ。黙って見ていては駄目だ。俺たちは行動を共にして三遊亭を頭に置いて協会をこしらえよう。』って言った。それがきっかけで三遊協会というのが発足したんです」
簡潔に事件の背景が語られる。何人か登場する中で、一人だけ「ある男」と名前が伏せられている。これが立川談志だということは明らかだ。やはりこの騒動の起点は談志だったか。敢えて名前を伏せたのは、志ん朝の配慮か、あるいは屈託か。
「新たに協会をこしらえると、落語協会と落語芸術協会と会が三つになる。三つできればお互いに競い合うのと、いっぱい増えてきた二つ目さんの高座がある程度確保できる。一年も高座に上がれないような二つ目がいなくなる。俺はそういういい方にとった」
落語家にデビューして以来、志ん生の息子ということで何かと引き立てられたことに、志ん朝自身負い目のようなものがあったという。それが恵まれない若手への思いとなったか。二つ目に高座の機会を与えられる、それが志ん朝を新協会設立に向かわせた最大の動機だった。
しかし反旗を翻された落語協会はもちろん、結果出番を減らされる芸術協会も強硬に反発した。理屈では正しいのかもしれないが、人の情として受け入れがたいことというのはあるものなのだ。
「僕の考えは間違っていたとは思わないんだけどもケンカの仕方がね、向こうが支度していないのにいきなり石投げたり、戦争の仕方が間違ってた。あんな中途半端なかたちでなく、もっときちっと三遊亭を助けてさしあげられるようなやり方があったと思うんだけど、自分の判断力がないから人にそそのかされたという感じのまんま『そうだ!』って気持ちばかり高ぶって馬鹿なことしたなって、今でもそれは思います。他の人たちには思わないけど、『次期会長は志ん朝さん』とまで言ってくださった三遊亭の師匠には力足らずで申し訳なかったと、この僕は思います」
この時、志ん朝は55歳。「自分の判断力がないから人にそそのかされたという感じのまんま『そうだ!』って気持ちばかり高ぶって馬鹿なことしたな」と自らの若さ振り返っている。騒動の頃はまだ40歳だったのだ。
「もう、ほんとうに一番嫌だったのは、本家の落語協会に反旗を翻して負けて戻ったわけだから、ペナルティーを受けたいわけですよ。それがなかったのは、とてもなんか寂しいとこでしたね。それと家族に引き戻されたこと。
あたしはそれまでずうっと自分の思いどおりに世の中を進もうと思ってやってきた。それが初めて自分の思いを覆されて、しぶしぶというか泣く泣く向こうの意見に従った。 昔連合赤軍が浅間山荘に立てこもったとき、母親がきて説得してた。こもってる連中にしてみれば、あれは嫌だろうと思う。もうそこまで行っちゃったんだから覚悟してやってる。世間には迷惑かけるけど、でも男の気持ちから言うと、あれはやっぱりやらしてあげたいね。
でも俺が『あ、もう駄目だ』と思ったのは、寄席が最終的にどこも賛成してくれなかったとき。そうなると俺のやる意味がない。降参するしかない。でも円生師匠は、これからは寄席の時代じゃないみたいなことをおっしゃった。あたしの考えは、寄席がある間はあくまで寄席が大事なんですよ。
でも、まず円生師匠の意見をもっと聞こうって訴えるべきだった。とことん訴えてどうしても駄目ということになってから事を起こせばよかった。気がはやったねえ」
「あらぬ一点を見つめるようにして一気に志ん朝は言った」と濱美雪は書いた。志ん朝にとって、この騒動から受けた傷は15年経ったこの時でも疼いていたのだろう。
三遊亭圓丈は『師匠、御乱心!』のあとがきの中で、志ん朝の〈それから〉についてこう書いている。
「そして、志ん朝師とは亡くなるまで随分会ったが、以前は、いつも笑いながら『ぬうちゃん元気!』と言っていた志ん朝は、あまりしゃべらない、静かな人になっていた。
志ん朝は分裂騒動で、三遊協会に行ったのを悔やんでいるのではと思った。三遊協会のことは死ぬまで一言も話さなかった。多分、あの事件は思い出したくないコトだったんだと思う。」
それを踏まえると、この記事は本当に貴重な記録である。
2018年6月3日日曜日
夢の浮島
仕事で鹿嶋に泊まる。
今日は土浦に用事があったので、潮来から稲敷を車で走った。
途中、浮島に寄る。
かつては霞ケ浦に浮かぶ、唯一の島であった。「夢の浮島」と呼ばれ、霞ケ浦を代表する観光地でもあった。
『常陸風土記』には「乗浜の里の東に、浮島の村あり。長さ二千歩、広さ二百歩なり。四方絶海にて山野交錯(まじ)れり。戸は一十五烟、田は七八町余あり。(注:耕作できる田畑は少ないということ。)住める百姓、塩を焼きて業と為す。而して九の社あり。言も行も謹めり。(注:土地の人の謹厳実直な様を言う。)」とある。
昭和29年に干拓事業が始まり、昭和43年に完成した。(当時は食糧増産の目的から、干拓事業が盛んに行われた。秋田県では、そのために、琵琶湖に次いで全国2位の面積を誇った八郎潟の大部分が消滅した。)結果、浮島村は古渡村と地続きになり、昭和30年、両村は合併して桜川村となった。(現在は稲敷市である。)
では現在の浮島の風景です。
堤防ではサイクリングを楽しむ人が多かった。霞ケ浦の周囲は堤防で囲まれ、道路が整備されている。高低差もないのでサイクリングにはうってつけである。
今日は土浦に用事があったので、潮来から稲敷を車で走った。
途中、浮島に寄る。
かつては霞ケ浦に浮かぶ、唯一の島であった。「夢の浮島」と呼ばれ、霞ケ浦を代表する観光地でもあった。
『常陸風土記』には「乗浜の里の東に、浮島の村あり。長さ二千歩、広さ二百歩なり。四方絶海にて山野交錯(まじ)れり。戸は一十五烟、田は七八町余あり。(注:耕作できる田畑は少ないということ。)住める百姓、塩を焼きて業と為す。而して九の社あり。言も行も謹めり。(注:土地の人の謹厳実直な様を言う。)」とある。
昭和29年に干拓事業が始まり、昭和43年に完成した。(当時は食糧増産の目的から、干拓事業が盛んに行われた。秋田県では、そのために、琵琶湖に次いで全国2位の面積を誇った八郎潟の大部分が消滅した。)結果、浮島村は古渡村と地続きになり、昭和30年、両村は合併して桜川村となった。(現在は稲敷市である。)
では現在の浮島の風景です。
和田岬公園を望む。 |
対岸は行方市天王崎辺りであろう。 |
和田岬公園の案内板。 |
堤防の向こうには砂浜が再現されていた。 |
堤防ではサイクリングを楽しむ人が多かった。霞ケ浦の周囲は堤防で囲まれ、道路が整備されている。高低差もないのでサイクリングにはうってつけである。
2018年6月1日金曜日
初夏、土浦を歩く
ちょっと前の休みになるが、息子を学校まで送ったついでに土浦を散歩した。
雨上がりで空気が澄んで、気持ちよかったな。
何だかんだで1時間半ぐらい歩いた。ケータイの万歩計にもほめられたよ。
亀城公園に入る。
亀城公園を出て、大手町の方を歩く。この辺も古い建物も大分なくなっちゃったな。
桜町にも足を延ばす。
そろそろお昼をと思ったのだが、なかなか店が決まらない。
水戸街道を真鍋に向かう。
豊崎自転車ラーメン事業部かなとも思ったが、ふと思い立ち、ホテルマロウドつくばの向かいにある中華料理なかむらまで行ってみる。
初めて入った。店内はカウンターのみ。なじみらしいおじさんが一人焼酎飲んでいた。
ラーメンと玉子チャーハンを食べる。しめて900円。旨かったよ。ご主人も頑固そうでいて、なかなか気さくな人だった。新聞がきちんと積まれているのが几帳面な感じがして、好感が持てた。また行ってみよう。
牛堀の画家、小堀進の描くようなきれいな青空の日でした。
雨上がりで空気が澄んで、気持ちよかったな。
何だかんだで1時間半ぐらい歩いた。ケータイの万歩計にもほめられたよ。
土浦市立博物館を見学。この日は無料開放日であった。 『土浦の昔の写真』という本を購入する。 |
土浦城のもともとの遺構は、この太鼓櫓のみであった。 |
西櫓。 |
東櫓に上る。こちらも無料開放。 |
東櫓。 |
土浦にも伊勢屋さんがあった。 |
桜町にも足を延ばす。
水戸街道を真鍋に向かう。
初めて入った。店内はカウンターのみ。なじみらしいおじさんが一人焼酎飲んでいた。
ラーメンと玉子チャーハンを食べる。しめて900円。旨かったよ。ご主人も頑固そうでいて、なかなか気さくな人だった。新聞がきちんと積まれているのが几帳面な感じがして、好感が持てた。また行ってみよう。
牛堀の画家、小堀進の描くようなきれいな青空の日でした。
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