寒い。強風が吹きすさぶ。終日、川端康成の「浅草紅団」を読む。
時は、関東大震災からの復興の槌音高き昭和初期。
聖と俗、繁栄と貧困、全てないまぜとなった混沌の街浅草。
浮浪者といかがわしい商売を営む男女があふれる街浅草。
小説家である「私」が、土地の不良少女らとともにその浅草を縦横無尽に駆け巡る。
言問、象潟警察署、隅田公園、花屋敷、カジノフォーリイ、射的場、地下鉄食堂…。地名や風俗は具体的で詳細を極め、さながら昭和初期の浅草ガイドマップを見るよう。
「…だ」を多用した文体はスピード感にあふれており、小説世界も現在と過去を自由に行き来する。
「私」は川端の分身でもある。
川端康成という人、ノーベル賞作家ということで日本の良心のような扱い方をされているが、その実、すこぶる妖しい。
川端は不良少女を浅草を愛している。
しかし、そこには慈愛も同情も憐憫もない。
あるのは好奇心だ。「この美しさの源は何か」ということに対する好奇心。
(「私」は震災直後の浅草へ見物にさえ行く。)
「伊豆の踊子」を純愛小説と読む人もいるが、自分とは住む世界が違う女に興味を持ち、後を付け回すという点では、この「浅草紅団」と同じ構造だと思う。
違うとすれば、ヒロインの美しさの種類か。
「浅草紅団」の弓子の美しさは、刃物の切っ先のような美しさだ。
退廃と爛熟の中に、危うい透き通った美しさがある。
それにしても、この人、女が好きだねえ。
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