襲名に関する騒動で最も有名なのが五代目柳家小さんのものだろう。
四代目小さんの死から3年後、桂文楽が、進境著しい小三治を五代目小さんにしようとした。時に小三治、35歳。これには、四代目門下の兄弟子たちが猛反発した。中でも蝶花楼馬楽が強硬に「自分が小さんになる」と言って聞かない。
馬楽は三遊派で落語家としてのスタートを切りながら、紆余曲折を経て三代目小さん門下になった人だ。三代目引退の後は四代目門下となり、四代目の前名である馬楽を譲られた。三代目小さんを敬愛し、小さんという名前には強い憧憬があった。
この一件では、一時テキ屋の親分までが乗り出す騒ぎとなった。結局、五代目小さんは小三治が継ぎ、馬楽は「小さん」級の名前を襲名することで片が付く。
白羽の矢が立ったのは、「林家正蔵」という名跡だった。七代目が死に、彼の息子三平はまだ前座の身だった。そこで落語協会幹部が遺族と交渉し、「一代限りの借用」ということで八代目林家正蔵が誕生したのである。
この時の借用の証文が今も残っている。八代目正蔵の本名、岡本義名義で書かれた証文には、九代目正蔵は海老名家(七代目正蔵の遺族)へ返上すると明記されている。
八代目は三平が売り出すと、正蔵を返す旨を申し出たが、三平は、八代目存命中は正蔵で通して欲しいと言って辞退した。ところが、三平は八代目より早く死ぬ。そこで八代目は彦六と改名し、正蔵の名を海老名家に返した。
この時、七代目の未亡人は「ずいぶん遅くなりました」と言ったという。海老名家としては、三平の真打ち昇進時に返してもらうつもりだった。正蔵という名前はあくまで海老名家のものであるという意識だったのだ。
しかし、七代目正蔵襲名の経緯を知ると首をかしげたくなる。
大正15年、柳家三語楼が落語協会を脱退、師三代目小さんと袂を分かつ。三語楼門下の小三治も行動を共にしたのだが、小三治は柳家の出世名、小さん門下から流出させるわけにはいかない。昭和4年、落語協会は小三治の名前の返上を要求するが、三語楼側ではそれに応じない。業を煮やした落語協会は、後に落語協会の事務員になる高橋栄次郎に小三治を襲名させてしまう。そこでやむなく三語楼門下の小三治は、たまたま空いていた名跡、七代目林家正蔵を襲名するのだ。(ここでも柳家小三治という名前が絡む。何やら因縁めいたものを感じる。)
七代目正蔵は他の三語楼門下と同じく爆笑派で、三平の「どうもすみません」のギャグはこの人が元祖だという。怪談噺の始祖、林家正蔵の芸風ではない。
三平は正蔵になることを拒み、昭和の爆笑王として、三平の名前を落語史に残した。
五代目小さんは柳家本流の滑稽噺を見事に継承する。七代目三笑亭可楽経由で三代目小さんの芸を吸収し、その器の大きさで門弟に慕われ、今日の柳家隆盛を築いた。
八代目正蔵はもともと三遊派の人である。型から入る演出で、彼が小さんになったら、柳家の芸は変質してしまっただろう。三遊亭一朝に仕込まれた怪談噺や人情噺で、文字通り「正蔵らしい正蔵」となった。
こう考えると、神は絶妙な配材をしたのだと思う。
芸名はあくまで落語界のもので、家のものではない。その名前に合った芸風でしかるべき実力を持った者が襲名すべきではないか、と私は思うのだ。
4 件のコメント:
八代目正蔵師が名前を海老名家に返した時の先方の返答は、ドラマか何かの創作ではないでしょうか。あまりにも失礼で、海老名家が異常に思われます。
落語研究会八代目林家正蔵全集の付録に、長女の藤沢多加子さんの証言が出ています。彼女が一緒についていったとのこと、海老名家の七代目正蔵未亡人は「こんな大きな名前にしていただきまして、本当にありがとうございました」とおっしゃってくださった、とあります。
もちろんこれが真実かどうかもわかりませんが、普通の感覚であれば、これがまともなやり取りだなあ、と思う次第です。
このエピソードは誰かの本で読みました。確か第三者の書いたものだったと思います。随分前に読んだ文章ですが、強烈な台詞だったので、強く記憶しています。この記事を書いた時、出典をはっきりさせておくべきでした。今は何の文章だったか、よく思い出せません。
彦六師の娘さんがそうお書きになっているからには、そちらの方が本当でしょう。「名跡は家のものではない」という主題に引きずられて、刺激的なエピソードを引いてしまいました。批判的な論調の時ほど、事実関係をしっかりしておかなければならないのに、軽率でした。ご指摘ありがとうございます。
海老名家には大変失礼な記事になってしまいました。謹んでお詫び申し上げます。
相当昔の記事にコメントしてしまい恐縮です。少し年上でのdensukeさんの記事を楽しみに読ませていただいているので。
本件は事実は当事者しかわかりませんが、手元にある資料ではそう書いてあった、ということでした。これが事実であれば、何かと批判される「海老名家」(川戸さんの著作の中にある「林家三平死す」でも相当酷く書かれていますね)であっても、誠実な応対をされているのだな、と思います。1980年当時、落語界の最長老だった正蔵師に、海老名家がそんな失礼な口を利くはずがない、という単純な話かと思います。
quinquinさんのおっしゃることが自然だと思いますね。
七代目正蔵の妻として三平の母としてのプライドが、彼女に「こんな大きな名前にしていただきまして、本当にありがとうございました」という言葉を言わせたのだと思います。
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