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2010年9月30日木曜日

古今亭志ん五死去

古今亭志ん五死去。
私はそれを朝日新聞の記事で知った。
「享年61歳。死因は結腸癌。古今亭志ん朝の一番弟子。与太郎話を得意とした。」とあった。
志ん生最後の弟子でもあった。本人は志ん生に弟子入りするつもりで行ったのだが、美濃部家としては志ん朝の弟子としてとった。弟子入り後、志ん朝が忙しかったことから、志ん生に預けられ、身の回りの世話をした。前座名である高助という名前も志ん生がつけてくれた。
二つ目の志ん三時代、衝撃とも言える与太郎像を確立させ売り出した。
当時、私は大学生だったが、その破壊的な凶暴ですらある与太郎の登場はセンセーショナルだった。枕の「親子三人の馬鹿」の小咄の第一声、「ああーんちゃーん」からして凄かった。あれほどまでに突出したキャラクターを、私はそれまで知らなかった。(師匠志ん朝は「あれは確かに面白い。でも、あれなら俺にもできる。」と言ったらしい。)
真打ち昇進直前に志ん五と改名。これが無断だったことから志ん朝が激怒、破門寸前にまでいったという。
与太郎で売り出した志ん五だが、そのイメージに縛られたことは否めないだろう。飛び道具を武器にしているような印象を与えたが、実際は骨格の太い確かな腕を持つ落語家だった。男っぽいいい噺家だった。
志ん朝亡き後、一門の支柱として存在感を発揮していた。これから一回りも二回りも大きくなるはずだった。
師匠志ん朝も弟弟子右朝も、あっという間に神様は奪っていった。そして今志ん五もだ。どうして神様はここまで古今亭につらく当たるんだろう。
「お前ちょっと早く来すぎだよ。」と、あの世で志ん朝が言ってるような気がしてならない。
青春時代の若手が亡くなるのは、やっぱり寂しいなあ。田舎の片隅からだが、ご冥福を祈りたい。

2010年9月28日火曜日

文楽の「芝浜」

文楽の「芝浜」における有名な話がある。
文楽が黒門町の自宅に弟子たちを集め、稽古をしていた「芝浜」を聴かせた。
一席語り終え、感想を求めたところ、その中にいた後の三代目三木助が「師匠のは金を見つけた時の嬉しさが出ていない。」と言ってダメを出した。
三木助は「隼の七」と異名を取る博打打ちだった。一発逆転の、思わぬ大金が転がり込むという体験を彼もしていたのだろう。その三木助の目から見れば、文楽の表現は物足りなかった。
それを聞いた文楽は、そのまま「芝浜」をお蔵入りにしたという。文楽の完全主義を物語るエピソードだ。
だが、一方でこんな話もある。これは名古屋を拠点にしていた初代雷門五郎の証言である。
文楽が「芝浜」を演じると、弟子たちが感動して泣いた。
それを見て文楽は言った。「お前たちが泣くようじゃあ、私はこの噺は演らないよ。お客様は寄席に楽しみでお見えになるんだ。お客様を泣かしちゃいけない。」
戦後、三木助は「芝浜」で売り出す。三木助が名古屋に来た時、五郎が確認すると、三木助は「あれは黒門町の『芝浜』だよ。」と答えたという。
(三木助も五郎も文楽の弟子ではなかったが、可愛がられて、よく噺の稽古をしてもらっていた。五郎は文楽が二つ目時代に演っていた「出来心」や「天災」などを教えてもらったという。三木助や五郎が文楽の自宅で「芝浜」を聴いたとしても不自然ではない。)
事の真偽はともかく、「お客様を泣かしてはいけない」というのは、文楽のひとつの主義であった。文楽は人情噺を持ちネタにしていない。「景清」や「心眼」といった人情がかった噺はあるが、泣かせに走らずきちんと落語として演じている。
この文楽の主義を受け継いだ落語家がいる。文楽のライバル、古今亭志ん生の次男、古今亭志ん朝である。

2010年9月23日木曜日

土浦イオンで嘉門達夫を見た


土浦イオンで嘉門達夫が無料ライブをやっていた。
私は妻子を連れ帰り際だったので、ほんの少し眺めただけだった。
歌っていたのは、替え歌メドレー。けっこうウケていたな。
何を隠そう、私は嘉門達夫のデビュー作「お調子者でいこう」をLPレコードで持っている。CDも4、5枚持っているかなあ。
そう、実は私、コミックソングが好きなのだ。
私の中では(活躍時期、芸風ともに大分違うが)、東のなぎら健壱と西の嘉門達夫が双璧だ。
なぎら健壱の歌は、コミカルなものでもどこか哀愁があり、情緒がある。東京落語の佇まいを感じる。
嘉門の方はひたすら馬鹿馬鹿しい。(なんたって「バルセロナの5段活用、バロセロナ、ビロセロナ、ブロセロナ…」だもんね。)その分、爆発力は凄い。「小市民シリーズ」「替え歌シリーズ」などヒット作を持ち、「替え歌」では紅白歌合戦にも出場した。
ただ、コミックソングの旬は短い。多くの人は、1回聴けば充分、と思うだろう。でも、そこで勝負していく姿はいっそ清々しいと、私は思う。
紅白にまで出場した嘉門が、土浦イオンで買い物客相手に歌っている。見ようによっては哀れかもしれない。だけど、そんな湿っぽさを微塵も感じさせず、目の前の客をしっかり掴もうとする嘉門達夫、格好いいぞ。

2010年9月19日日曜日

石岡のおまつり


妻子を連れ、石岡のおまつりを見物する。
関東の三大祭り(あとの二つは知らない)。今年もいっぱいの人出だった。
二人の息子は、チョコバナナだ、綿菓子だ、クジだ、リンゴ飴だ、と盛んにねだる。落語の「初天神」みたい。
1時間ほど歩いて、山車、獅子を堪能。八間道路をぶらぶらしながら帰ることにする。
駅前で山車が集まっていて、すごい混雑。通り抜けようとすると、後ろから電車に乗ろうとしているらしい人たちが焦って押してくる。子ども二人をかばいながら何とか抜け出す。一人つまずいて転びでもしたら、将棋倒しになって大惨事になるところだ。
帰って、屋台で買った、たこ焼き、広島焼き、唐揚げ、揚げ餅でビール。冷たいビールが旨い。それにしても、屋台の食べ物って、買った時は旨そうなのに家で食べるとそれほどでもないのは何故なんだろう。

2010年9月18日土曜日

佐野へ行く


遅ればせながら、妻の厄払いに、妻子を連れ佐野へ行く。
茨城空港北ICから北関東自動車道に乗り、11時少し前に佐野に着く。
佐野厄除け大師にお参り。
昼は大師様近くのラーメン屋。佐野ラーメンをいただく。
麺は手打ちのちぢれ麺。あっさりとした醤油だし。二人の息子は完食でした。
ただ、以前食べた佐野ラーメンは、もっとスープが澄んでいたような気がするな。
自家製餃子も旨かったよ。
それから、アウトレットへ。
日差しが強く、暑い。結局何も買えず。
帰りに壬生のおもちゃのまちバンダイミュージアムに寄る。
入場料が大人1000円、子ども600円と少々高め。
でも、まあ古今東西色んなおもちゃの展示があって楽しかった。(ガンダムは世代じゃないので、燃えなかったが)
妻はファミコンの「スーパーマリオ」を懐かしがって、大喜びで長男と対戦しておりました。
帰りは友部ICで下りた。時間は大差ない。とすれば、こっちの方が高速代が幾らか安く済む。
帰宅は6時。子どもを風呂に入れ、明太子スパでビール、白ワイン。

2010年9月17日金曜日

文楽十八番

文楽の晩年の持ちネタは、「明烏」「よかちょろ」「船徳」「寝床」「素人鰻」「愛宕山」「鰻の幇間」「王子の幇間」「馬のす」「心眼」「景清」「しびん」「松山鏡」「締め込み」「やかん泥」「厩火事」「按摩の炬燵」「星野屋」「悋気の火の玉」「富久」「夢の酒」「大仏餅」「穴泥」「酢豆腐」「かんしゃく」「干物箱」「つるつる」の28演目しかなかった。
ただ、文楽の持ちネタがこれだけだったというわけではない。
戦後でも「小言幸兵衛」「野ざらし」「品川心中」「お若伊之助」「鶴満寺」を演じたことがあった。戦時中のものでは「子ほめ」の録音も残っている。
(ちなみに「小言幸兵衛」と「品川心中」は大学時代ワゴンセールで買ったテープに入っていた。「鶴満寺」はCD化されている。)
昭和18年刊の『風流寄席風俗』という正岡容の随筆集に収められた「名人文楽」の中には、「芝浜」「九州吹き戻し」を稽古中だと書いてある。自伝『あばらかべっそん』では「三味線栗毛」をものにしたいと書いているし、自分の女を鶴本の志ん生に取られた体験を「刀屋」に生かしたいとも書いている。その他にも『あばらかべっそん』の中には「代脈」や「道灌」を演じた記述もある。
文楽は弟子の柳家小満んに「あたしだって稽古した噺は300ぐらいあります。」と言ったという。そして、こう付け加えた。「富士山も裾があって高いんですよ。」
つまり、文楽の持ちネタは、志ん生や圓生に匹敵する可能性があったということだ。しかし、彼はそれを約10分の1にも絞り込んだのだ。
文楽がここまで持ちネタを絞り込んだのは、その完璧主義にあったのに間違いはなかろう。彼はよく「私のネタはすべてが十八番」と胸を張ったが、逆に言えば十八番しか演らなくなったのだ。いいものしか出さない。いや出せない。名人という称号は、そういう形で文楽を縛ったのかもしれない。
もうひとつ、色川武大が「名人文楽」(奇しくも正岡と同じタイトルだ)という文章で興味深いことを書いている。文楽の演目が少ない理由は「自分の命題に沿えない話は演じない」からだ、というのだ。
文楽のネタが偏っているというのは、誰もが指摘するところだと思う。わずか28演目の中に、盲人の噺、幇間の噺が占める割合は大きい。(春風亭小朝は、主人公が一方的に虐められる噺が多いと言っている。)自分の命題に沿う噺しかできないとなれば、自ずから似た傾向の噺が多くなるのは仕方がないだろう。文楽はその点で言えば、確かに不器用だった。
しかし、こうも言える。文楽は、自分が同化できる噺しか演らない、いわば「一人称の落語家」だったのだ。(三遊亭圓生は「三人称の落語家」だったと思う。登場人物から距離を置き、全ての人物を巧みに演じ、操って見せた。)だから、文楽の噺は、型は決まっていても、熱く躍動し、聴く者の心を揺さぶるのだ。

2010年9月8日水曜日

桂文楽 昭和30年代

昭和30年代、落語は黄金時代を迎える。その主な舞台となったのはホール落語だった。ホール落語を定義すれば、椅子席の大きな劇場(ホール)を用い、厳選された落語家の落語(主に古典)を鑑賞する、といったものになろうか。ホール落語は、寄席のほの暗い「悪所」というイメージを一新し、落語を鑑賞に耐える芸術にステップアップさせた。
さらに、このホール落語のブランドイメージを一挙に高めたのが、昭和31年にスタートした「東横落語会」だった。八代目桂文楽・五代目古今亭志ん生・六代目三遊亭圓生・三代目桂三木助・五代目柳家小さんの5人をレギュラーメンバーに固定。この5人が最も良質な古典落語を演じる者だということを強烈に印象づけた。(もちろん、それはプロデューサーの湯浅喜久治及びその師安藤鶴夫の価値観に他ならなかったが。)
人気者六代目春風亭柳橋・三代目三遊亭金馬は、この舞台では冷遇された。それは、第一次落語研究会における初代三遊亭圓遊の如きものだったのかもしれない。
そんな中、文楽と志ん生を双璧として、圓生がめきめき伸びてくるという図式が顕著になってくる。
文楽は若手真打ちの「睦四天王」の時からずっと売れっ子だったが、志ん生と圓生は長い低迷期を過ごしていた。志ん生は生来のずぼらから干され、圓生は気障なばかりで下手だと酷評されていた。二人は戦争末期満州に渡り、生死をかけた過酷な経験をする。その経験が芸に膨らみを持たせた。帰国後、志ん生人気が爆発、一挙に文楽と肩を並べる。(それ以前から、二人を東京落語界の最高峰と評価していた正岡容のような人はいた。)圓生は猛追してくる小さんを振り切るように自らの芸を伸ばしていく。オールドファンは以前の下手だった圓生のイメージに引きずられる感があったが、若い層は彼を熱狂をもって迎えた。
それに加えて、東大、早稲田といった一流大学で落語研究会が相次いで創立、落語はよりアカデミックなものになる。早稲田の教授、輝峻康隆と興津要は、桂文楽に昭和落語の最高峰という高い評価を下した。それは多分、文楽の一言一句を磨き抜く厳しさと文学性が大学のアカデミズムに合っていたのだろう。純文学の芥川賞を大衆文学の直木賞より重きを置く感覚に似ているのかもしれない。芸術祭を受賞したのは、文楽・志ん生・圓生の順だったが、それがそのまま大衆の人気を反映したものではなかった。後に圓生自身、「人気投票をすると、志ん生・圓生・文楽の順でした。」と言っている。それは現在においても同じかもしれない。
昭和20年代から30年代にかけて、文楽は昭和の名人としての評価を高めていった。そして、その過程の中で持ちネタを絞り込んでいった。もともとネタ数の少ない人だったが、自分で満足できるものしか演らなくなっていく。小心で臆病な文楽にとって、名人の称号は、いいものしか演じられないといったプレッシャーを与えるものだったのかもしれない。
志ん生の、セコな噺でも平気で高座にかけるような図太さは文楽にはなかった。確かに文楽の持ちネタは全てが十八番だったが、逆に言えば十八番しか演れなかったということだろう。エリートのひ弱さがそこに見えるような気がしないでもない。

2010年9月2日木曜日

桂文楽 昭和20年代

昭和21年、四代目柳家小さんが落語協会の会長に就任する。しかし、彼は翌年、愛弟子小三治(五代目小さん)の真打ち昇進披露で「鬼娘」を演じた後、上野鈴本演芸場の楽屋で急逝。後任の会長には八代目桂文治が就いた。(昭和26年の東京新聞社刊『藝談』では文楽を副会長と紹介している。)
昭和24年、安藤鶴夫『落語鑑賞』刊行。安藤の筆によって文楽の噺が活写され、その名人芸が賞賛された。
昭和26年以降、民放ラジオ局が相次いで創設される。この草創期のラジオで、落語は有力なコンテンツとなった。昭和28年、東京放送(TBS)は、桂文楽・古今亭志ん生・三遊亭圓生・柳家小さん・昔々亭桃太郎と専属契約を結ぶ。(これには演芸プロデューサー出口一雄の功績が大きい。)それを皮切りに民放各局の落語家争奪戦が起きたが、その契約金によって落語家の生活が向上したという。
文楽の出口に対する信頼は絶大で、TBSを「うちの会社」と呼び、背広(文楽は洋装を好んだ)には常にTBSの社員章を付けていたという。出口はTBSを退社後。出口プロダクションを設立。文楽を始め多くの落語家のマネジメントをした。
昭和29年、文楽は「素人鰻」の口演により、落語家初の芸術祭受賞を果たす。
翌昭和30年には八代目文治が没し、文楽が落語協会会長に就任。こうして文楽は名実共に東京落語界のトップに立った。
六代目春風亭柳橋・三代目三遊亭金馬に、人気という点では一歩も二歩も譲った文楽が、これほどまでに評価されたのは、正岡容と安藤鶴夫という二人の落語評論家の存在が大きい。
正岡は昭和18年刊の『随筆寄席風俗』に「名人文楽」という文章を載せている。恐らく彼が、最も早く文楽に名人の称号を与えた一人であろう。
安藤は『落語鑑賞』以後、文楽賞賛の文章を次々に書いた。そして、彼は芸術祭の選考委員になるなど、業界で大きな影響力を持つようになる。文楽が落語家初の受賞を果たした昭和29年の芸術祭で奨励賞に輝いたのは、やはり安藤が肩入れしていた三代目桂三木助。しかも受賞した演目の「芝浜」は、安藤と三木助が二人三脚で練り上げたものだったのである。その安藤が柳橋・金馬を無視し、文楽を手放しで賞賛したのだ。名人文楽という評価を定着させるのには、大きな追い風になったに違いない。
もちろんそれだけではない。昭和20年代は文楽の50代後半から60代前半にあたる。年齢的にも絶頂期にあった。端正で艶があり、しかも迫力のある文楽の噺は、聴く者を魅了せずにはおかなかっただろう。