ページビューの合計

2012年12月27日木曜日

伝助の根多帳⑦

3年夏合宿の噺。お次は『浮世床』の上。将棋と本の場面だ。
音源が手に入らず、興津要編『古典落語』で覚えた。本で覚えちゃいかんよなあ。
これも三代目紫雀さんが勧めてくれた。
正直言って、演りたくてしょうがないって感じではなかった。とにかく3本の噺を持っていきたかったんだな。
当時はこういうわいわいがやがやの噺には、あまり魅力を感じなかった。啖呵を切るとか、酒に酔うとか、ちょっとほろっとするとか、見せ場のある噺を演りたがっていたなあ。
こんなふうに、大したストーリーもない、登場人物がじゃれ合っているような噺こそ難しいのだよ。これこそ落語だ、と言ってもいい。とやっと思えるようになった。
後半の夢の場面も覚えれば、こっちはストーリーとしても起伏があって面白いし、十分トリネタにもなっただろう。ただ、こっちは芝居の場面があり、『湯屋番』で夢楽師匠から「学生さんには芝居の噺は無理だよ。」と言われたのがブレーキをかけていたのかもしれない。
発表会で演っただけで、客前では演らなかった。
プロの落語家さんみたいに、寄席で毎日落語を演るといった状況だったら、きっと重宝なネタになったろうな。軽やかに自らも遊ぶように喋ってみたいと、今にして思う。
そう考えると、寄席のシステムってすごいな。毎日客前で喋る。それも、客は自分を目当てに来ているとは限らない。そこで聴かせようというのだ。工夫もするだろうし、反応は直に感じられる。そりゃあ力になるわな。しかも、楽屋で先輩方からアドバイスが貰えたりもするのだ。羨ましいなあ。

2012年12月24日月曜日

豊洲へ行く

昨日、キッザニアに行って来た。
誕生月の特典があるので、次男がどうしても行きたいとせがむのだ。よし、連れて行ってやろうじゃないの、というので出掛けることにした。
朝食は守谷のSAでかき揚げそば。立ち食いの味。そうそうこれなんだよ。
豊洲には8時半ごろ着く。 キッザニアの前は、もうけっこうな行列。皆、緑色の財布を首からぶら下げている。リピーターが多いなあ。
もう子どもたちは慣れたもんで、あちこちのパビリオンで、思い思いの体験をしておりました。
3時まで目いっぱい遊んで、少し外に出る。都会の絶景ですな。
その後、ららぽーとの中をぶらぶらする。宝探しのイベントをやっていて、子どもたちは夢中で走り回っておりました。
夕食はレストラン街のさぼてん。ロースカツ定食。ビールが飲みたかったが、しょうがないね。
妻は服、私はボブ・ディランの新作を買って帰る。
けっこう疲れたが、楽しかったよ。
寝しなにウイスキーを飲みながら、買って来たCDを聴く。ディランも70過ぎたか。老いてますます盛ん、すげえなあ。

キッザニアにて。長男はパイロット。次男は薬剤師を体験中。

2012年12月21日金曜日

伝助の根多帳⑥

学年で最も早く真打に昇進した者を、我々はトップ真打と呼んだ。
トップ真打は、3年の夏合宿で誕生するのが通例だったが、諸般の事情もあり、私が入部して以来、2年続けて夏合宿でのトップ真打誕生はなかった。
その3年の夏合宿で、私は3本の噺を用意した。真打昇進を意識したのである。
『締め込み』は秋の対外発表会のネタ。
『権助提灯』、『浮世床』は三代目紫雀さんが「お前に合うネタだから。」と言って勧めてくださった。
合宿の発表会では、まず『権助提灯』をかけた。1年の時『藪医者』やっててよかった。
覚えたのは、立川談志のテープ。談志そのままだったろうな。そこそこウケた。多分、まんま談志の所が可笑しかったんだろう。
この合宿の後、すぐ文学部のゼミ合宿があったんだけど、そこで披露したのがこの噺だった。
この時は、4年生のKさんが前座で松茸の小噺を演ってくださった。Kさんは高校時代落研に入っていて、私が入る前の、ゼミでの落語担当だったという。
その後で『権助提灯』を演ったけど、バカウケだった。私の傾向としては、落研部員よりも一般客の方がウケるのだ。この時は、喋ってて楽しかったな。いい客だった。
落語の後は、ジャズ研のDさん(美人である)が、『センチメンタル・ジャーニー』を歌った。これがよかった。
これ以降、ゼミのコンパの余興は、私の落語とDさんのジャズが定番となる。落語とジャズ。いかにもアカデミックですなあ。
とりあえず、今日はここまで。『浮世床』『締め込み』については次回書きます。

2012年12月18日火曜日

沖縄・伊江島

出張で沖縄に行った時の写真。
伊江島に行きました。
伊江島のスロット屋。2階がスロット、1階が洋品店です。
お次は魚屋さん。
この坂道を上ると、現在は使われていない滑走路に出る。ここを軽トラが走ってたりするんだよな。
塗装屋さんかな。きれいな絵だね。
きれいな海だ。このずっと先にオスプレイの演習場があるんだよね。

2012年12月15日土曜日

昼間っからハートランドビール

朝、ごはん、石狩鍋、納豆、ウインナーソーセージ。
雨。寒い。島尾敏雄『死の棘』読了。
午前中、子どもたちを床屋に連れて行く。帰りに、マクドナルドに寄って昼食を買う。
家に帰り、昼食は、チキンタツタ、テリヤキバーガー。夕方飲もうと思って買って来た、ハートランドビールを、妻が「飲めばいいじゃない」と言うので、ありがたく頂戴する。旨し。
ビートルズ『ア・ハード・デイズ・ナイト』『ヘルプ』、ジョン・レノンのベスト盤を聴く。
夕食は、ほっけ、ちくわ麩と大根の貧乏おでん、豚肉と玉葱の炒めもので、いただきものの濁り酒。

写真は、春頃飲んだハートランドビール。昼間っから飲むビールは旨いよねえ。

2012年12月12日水曜日

はとバスツアー

OB会ではとバスに乗った時の写真。 自由時間は限られていたけど、東京の街を歩くのは楽しい。 まずは東京駅。
最初の見学地は皇居。二重橋を見ると、『東京だよ、おっ母さん』を歌ってしまう。
お次は浅草。どの裏道に入っても、いい雰囲気なんだな。
一度ここでゆっくりお湯に浸かりたいねえ。
この後東京タワーに行きました。あれ、写真撮ってなかったな。

2012年12月9日日曜日

土浦へお出掛け

朝、パン、マーマレード、コーンスープ、炒めもの。
長男が、どうしても土浦のイトーヨーカドーに行きたいと言うので、行く。 来年2月の閉店が決まっており、土浦駅周辺からは、これで大型商業施設が全てなくなることになる。
昔は、西友があり丸井があった。京成霞も小網屋もあった。西友や京成霞の屋上遊園地に行くのは、それは楽しみだったよ。旧イトーヨーカドーでは、初めて回転寿司なるものを食べた。社会人になって、初めて礼服を買ったのが、小網屋だった。妻と結婚する時は、結納返しに丸井で夏のスーツを買ってもらった。
寂しいけど、しょうがないのかなあ。私も今は、買い物はつくばに行くか、土浦だったらイオンだものなあ。
店内は閉店セールもやっていたためか、まるっきりの閑古鳥というわけではなかった。子どもたちは、本屋見ておもちゃ屋見て大喜び。妻は子どものトレーナーを買う。私は本屋で、フロイトの『精神分析入門』、雑誌『東京人』、マンガ『毎日やらかしてます。』を買う。
昼食は和洋中何でもありの、いわゆるデパートの食堂。私は五目あんかけそば、長男は醤油ラーメン、妻はオムライス、次男はハンバーグセットをそれぞれ食べた。
昭和のデパートの気分だな。懐かしかった。安くもないし、すんごく旨いわけでもないけど、よかったよ。
閉店までにまた来ようと長男は言う。分かったよ、また連れて来てあげよう。お父さんも小さい頃、こういう所が大好きだったんだ。

2012年12月3日月曜日

眼鏡落語家

48の誕生日に眼鏡デビューをして以来、4年になろうとしている。最近は面倒くさいので、遠近両用眼鏡をかけっぱなしにしている。そろそろ「眼鏡は顔の一部」になりつつあるかなあ。
落語家で眼鏡をかけたまま高座に上がる人がいる。
落語は一人で何人もの人物を描き分けるので、扮装や小道具を嫌う。本来は眼鏡などのように人物を限定させてしまうものは外すべきなのだが、私は子どもの頃からわりとすんなり「眼鏡をかけた落語家」を受け入れていたな。
それは、何と言っても、二人の売れっ子、三遊亭歌奴(現三代目三遊亭圓歌)と月の家圓鏡(現八代目橘家圓蔵)の存在が大きい。
歌奴の売り物『授業中』や『浪曲社長』なんてのに、眼鏡はよく似合っていた。圓鏡の眼鏡を外した顔はどこか貧相で、眼鏡をした方が愛嬌が出てよかった。圓鏡は眼鏡のおかげで、メガネクリンビューのCMというヒット作に恵まれたよね。
この二人に続く「眼鏡落語家」としては三遊亭圓丈か。この人も、ぬう生時代の眼鏡なしの写真を見たけど、眼鏡があった方が個性が際立つ。アメリカンコミックに出てくるような、日本人のステレオタイプの眼鏡出っ歯みたい。それがエキセントリックな部分を誇張させ、圓丈ワールドの形成に役立っている。
それから、川柳川柳もいい。知性と狂気が交錯する川柳の世界に、あの銀縁眼鏡はよく似合う。
当代の売れっ子、春風亭昇太のいつまでも若々しい雰囲気は、あの眼鏡が一役買ってはいないだろうか。
漫才などでは、キャラを立てるために眼鏡を利用する人が多い。Wけんじの東けんじはレンズのない眼鏡をかけていた。現在でもきゃいーんの天野ひろゆきもそうだよね。
そこへいくと落語家の場合は、普段も眼鏡をかけて生活をしていて、そのまま高座に上がるといった自然体な感じがある。そこがいいね。
ただ、本格派は眼鏡を外すという固定観念めいたものはある。
故三笑亭夢楽師匠は、大喜利に出演する時は眼鏡をかけたままだったが、落語を演る場合には外しておられた。現林家正蔵は、こぶ平時代は眼鏡をかけていたが、正蔵襲名を控え本格派を志向するようになってから、高座で眼鏡をかけるようなことはなくなった。
うちの落研は、もちろん眼鏡をかけて高座に上がるのはご法度だった。多分、初めて眼鏡をかけて落語を演じたのは、二代目松風亭歌ん朝さんだったと思う。歌ん朝さんは眼鏡をしたままの方が、本来のほんわかした人柄の良さが出るのだ。その人の芸にとってプラスになるなら、形式的なタブーはいらないよね。
立川談志が髭を生やしても本格派だったように、眼鏡をかけていても本格派という人が出てきていいと思うし、本格派ばかりが落語家じゃないとも、私は思いますよ。

2012年12月1日土曜日

寒い休日

朝、焼きたてのパンにマーマーレード、オニオンスープ、魚肉ソーセージと卵の炒めもの。
午前中から雨、昼ごろ霰から雪、午後には晴れるという忙しい天気。
次男が風邪。これでとりあえず風邪は一回りしたか。これで収まってくれればいいが。
昼食は、漫遊亭のとんかつ。本当は店に行きたかったが、雨なので弁当を頼み家で食べる。
吉行淳之介『娼婦の部屋・不意の出来事』を拾い読み。木村伊兵衛、桑原甲子雄、鬼海弘雄の写真集を見る。
午後は床屋。散髪してもらいながらうとうとするのが、月一度のお楽しみ。
夕食は、パスタ3種とピザで赤ワイン。

下の写真は、鬼海の写真集にあった、向ヶ丘遊園北口駅前の饅頭屋。

2012年11月29日木曜日

吉行淳之介『星と月は天の穴』

吉行淳之介『星と月は天の穴』、読了。
タイトルは主人公の小説家が、星をきれいだという女に「あんなものは、空の穴ぼこだよ。」と言い放つ虚無的な言葉に因む。(彼が作中で執筆する小説のタイトルにもなる。)
元ネタは落語だな。親子三人の馬鹿の小噺。
夜空でぴかぴかするものを取ろうとして、竿を振るったり屋根に上ったりする兄弟に向かって親父が言う。「馬鹿、あれは雨の降る穴だ。」それを聞いて母親が「やっぱりお父さんはしっかりしてる。」ってやつ。与太郎噺の枕によく使われる。
それを小説のタイトルに使うというのも、なかなかのセンスだなあ。
話は、40歳の小説家と女子大生の物語。お馴染み、体は合わせるが、心は合わせたくない、吉行的「非人情の世界」である。
『砂の上の植物群』では、ソフトSMが小道具として使われていたが、この作品では何と「入れ歯」。主人公は40歳で総入れ歯、そこに複雑な感情を抱いている。すごい設定だよな。吉行さん、食えない人だ。
この小説に対する開高健の言葉が面白い。「女がオシッコ洩らして、そこからはじまる恋愛小説というのは、古今東西、見当たりませんなあ。」
これが「恋愛小説」かどうかは、作者自身、首をひねっているところではありますがね。

2012年11月28日水曜日

絵を観に行く

午後から休みをもらう。
笠間に絵を観に行く。
途中、蕎麦屋で昼食。寒かったので、温かい種ものをと思っていたのだが、貧乏性の私は天丼セットを頼んでしまう。しかもセットものの場合、私は決まって盛り蕎麦を頼んでしまうのだ。でも、まあ旨かったからいいか。
日動美術館は企画館がお休み。常設館のみの展示となる。
入ってみると、絵の入れ替えをやっている。ちょっと落ち着かないなあと思ったが、考えてみると、入れ替え前と後の両方の絵を観ることができる。お得だな、と思い直す。
マネ、クレー、ピカソ、シャガール、ユトリロ、佐伯祐三など好きな画家の絵を十分に堪能する。
帰りに国道沿いのカフェでミルクティーを飲んだ。窓の外ではすっかり色づいた里山が雨にぬれる。いいねえ。
晩飯は、鶏の大根おろしソース炒め、アグー豚のベーコンとピーマンの炒めもの、蓮根とさつまいもの煮物、刺身蒟蒻で酒。旨し。

2012年11月25日日曜日

ありふれた休日

朝、トーストとかりかりに焼いたベーコン、コーンポタージュスープ。
今日はお出掛けはなし。
いい天気。庭で息子と野球をして遊ぶ。
昼はスパゲティー・ナポリタン。日曜の昼によく似合う。旨い。
ケチャップといえば、昔、牛久に「のぶちゃん」という洋食屋があり、そこのチキンライスが私は好きだった。バターが効いて旨かった。オムライスは時々食べるけど、最近チキンライスを食べる機会がなくなった。
ぽつりぽつりと吉行淳之介を読む。短編集『悪い夏・花束』を読了。『原色の街・驟雨』にとりかかる。甘美な苦悩も、魂を揺さぶる感動もない。あるのは乾いた諦念だ。そこに心惹かれる。
夕食は大根と豚ばら肉の中華風鍋。味付けには胡麻油とオイスターソースを使う。旨し。他に油揚げの焼いたの、シューマイ、モツ煮込みでビール、酒。
特別なことは何もない休日。でも、かけがえのない一日。

2012年11月23日金曜日

「歩道橋の上から愛が見える」―尻手近辺―

この間、川崎を歩いた時の写真。
尻手駅近くの歩道橋からの眺め。
私はこの歩道橋を渡る度、友川かずきの『歩道橋』を連想する。
天気のいい日は、南武線の高架橋の向こうに富士が見える。
私がいたアパートの路地を出た所にあるお豆腐屋さん。
まだ元気に営業中だ。
尻手駅へ向かう道にある仕立て屋さん。何度この看板の下を歩いたろう。 「“超”高級」というのがいいねえ。

2012年11月20日火曜日

風邪の日々

先週の半ばから風邪を引いている。
初めは喉をやられ、今週になって咳が酷くなった。
土曜日には声が出なくなった。熱もなく体は動くし、頭もはっきりしているのだが、声が出ない。立川談志はさぞ辛かったろう。
医者に2回行って、薬も飲んで、やっと快方に向かってきた。
夜は酒も飲めないので、ずっと本を読んでいる。
ここんとこは、吉行淳之介。
代表作『砂の上の植物群』『暗室』を読み、晩年の短編集『目玉』に取り掛かっている。
それにしても、子どもがゲームやったり、妻が雑誌読んだりしている隣で吉行を読むというのも、なかなかスリリングでいいな。

ここで写真をひとつ。笠間稲荷付近のお饅頭屋さん。雨の中、立ち上る蒸気が暖かそうだ。

2012年11月18日日曜日

川崎市八丁畷駅

川崎市、八丁畷駅。
この間、歩いた時の写真。
駅自体は、ずっと変わんない。
JR浜川崎線ホーム。
ここで、昔、小津安二郎監督作品、『お早う』のロケがあったという。
いい感じに錆びてますねえ。

2012年11月14日水曜日

色物伝助

私は落研時代、自分で言うのも何だが、ずっと真面目な古典落語を演っていたのだが、一時期、「色物伝助」と呼ばれていたことがある。
あれは2年の初めの頃。先輩の真打昇進披露寄席で、一度ならず二度までも色物で出演したのだ。
最初は二代目松風亭歌ん朝さんの時。この時は、落語家の形態模写で出た。
はっきり言って、当時、春風亭小朝が演ってたやつの真似。自分なりに工夫は入れてるけどね。新入生勧誘の時、遊びでやっていたのを見て、歌ん朝さんが起用してくれたのである。
レパートリーは、七代目橘家圓蔵、五代目柳家小さん、古今亭志ん朝、立川談志、八代目林家正蔵。正蔵の声色で『藁人形』のサゲを、「糠はいけねえ釘屋の娘。」とやって、八海君に「師匠、サゲが違います。」と言わせ、オチとした。
二度目は初代夢三亭海太郎さんの時。この時は、音曲と称し、ギターの弾き語りでアリスの『チャンピオン』を歌った。
海太郎さんはフォークソングが好きで、よく部室でギターを弾いていた方だが、私が1年の時茶話会で歌った『チャンピオン』を気に入ってくださったようだ。(微妙だが、谷村新司と堀内孝雄の歌い分けもやってみた。)
高座では、海太郎さんも一緒にギターを弾き、酒合丈君が「キンちゃん(矢沢透)」役で二人の後ろに立って手拍子を打ってくれた。
こうやって並べてみると、結局二つともモノマネか。
でも、大学4年間で寄席に出た色物は、この二つだけだったな。皆、生真面目に落語ばっか演ってたんだ。
今の落研は、落語より色物の方が元気らしいと聞く。それもちょっと寂しいなあと思う。

2012年11月12日月曜日

妻とデート

平日の休み。
雨だったが、妻と笠間に行く。
やきものを見て、お稲荷さんにお参り。
菊まつりで、平日なのにそこそこの賑わい。七五三の親子連れがちらほら。こんな時もあったねえ。
工芸の森近くのカフェでランチ。 塩麹のポークソテー。旨し。デザートはほうじ茶のシロップの杏仁豆腐。さっぱりとした甘さ。こちらも旨し。奥様方が次々とやって来る。
内原イオンに寄り道をして帰る。
夕方は、妻が長男を医者に連れて行ったので、次男と遊ぶ。
ゆっくりできた。奥さん、楽しかったよ。

下の写真は雑貨屋で買ったカヌー猫。

2012年11月8日木曜日

はとバスに乗る

宴会の翌日ははとバスに乗る。
東京半日ツアー。皇居、浅草、東京タワーを巡る、王道のコースだ。
東京駅、9時半出発。中高年のおじさんが集う。(失礼、紅一点がいた。)
まずは皇居。小文治さんの芸術祭受賞パーティーで来た時に散歩して以来だ。
ガイドさんから二重橋の由来を聞く。こういう機会じゃないと聞けない話だね。眼鏡の似合う、なかなか美人のガイドさん。いいねえ。
昼頃、浅草に着く。店で昼飯を食うだけの時間はない。小腹が空いたので、屋台のフランクフルトを頬張る。 ちょっとここから、個人行動。仲見世で、妻の好きな人形焼と揚げ饅頭を買う。ここんとこずっと土日が仕事で、仕上げがこのOB会だ。せめてもの罪滅ぼしになるといいけど。
花やしき通りをぶらぶら歩いて、もう集合時間だった。
スカイツリーの足元を抜けて、東京タワーへ。バスの中で、松時君とあぶのう丸君が商売の話なんかをしているのを聞くともなしに聞いていたら、当たり前だけど、皆それぞれに頑張っているんだなあと思ったよ。
東京タワーは、去年の夏、妻子を連れて行ったばっかだけど、いい天気でいい眺めだった。富士山がきれいだったな。
日のあるうちに帰りたかったので、ツアーが終了してすぐに帰ることにする。
三上寛の歌に『さよなら、ああと手を振って』というのがあったが、いいよな、そういうふうに別れるの。
楽しかったよ。力を貰えた。次に会うまで、おれも頑張るよ。じゃあな、みんな、また会おうぜ。

2012年11月5日月曜日

神田の朝、ちょっとだけ歩く

OB会の宴会の後、神田のホテルに泊まった。
翌朝、ロビー集合の前、30分ほど近くを散歩。
神田には、こういう古い建造物がたくさん残っていて、歩いていて楽しい。
おでん屋さん。たぶんもう営業はしていないだろうな。それにしても、シブい。
この建物なんか、凄みさえ感じさせますなあ。
江戸小物屋さんの店先に貼ってあった千社札。 昭和・平成の名人がずらりと並ぶ。
あれ、三遊亭圓生がいないぞ。

2012年11月4日日曜日

OB会に行く

落研のOB会があって、東京に行って来た。
昼のうち、少し足を延ばして川崎へ行く。 西口から、住んでいた辺りをぶらつく。
南河原銀座入り口の所にあるとんかつ屋で昼食。前からあるよな。もしかしたら、友川かずきの『死にぞこないの唄』に出てくる、三上寛と友川が入ったとんかつ屋がここかもしれない。
サービスランチはあったけど、やはり基本のロースカツ定食。休みなのでビールを頼む。これも基本の瓶ビール。昼日中、とんかつをつまみながらビールを飲む。たまんないっす。
尻手の駅までぶらぶら歩き、それから八丁畷へと向かう。ビールを飲むと、小便が近くなる。散歩にはちょっと不便だな。
30年前とは随分変わった。あの頃はまだ東芝の工場があったんだよな。
八丁畷から浜川崎線に乗る。学生の頃は、旧式の茶色の電車だった。誰かが「ゴキブリ電車」と呼んでいたっけ。電車が工場地帯の方からとことこやって来ると、私は決まって泉谷明の『やがて電車が傾きかけてやって来る』という詩を思い出した。
尻手で南武線に乗り換え。登戸へ。向ヶ丘遊園まで歩く。向ヶ丘遊園は、北口の駅舎がかわいい。
川崎、向ヶ丘遊園と昔の生活圏を歩いて当時の気分を味わってから、いよいよOB会に臨む。集まったメンツは私たちの代が一番上で、そこから下の出る入るの代まで。 およそ30年振りに会う顔もけっこういた。
お互い皺が増えて髪が減ったなあ。仕事場や家庭ではそれなりに貫録がついたんだろうが、こうやって集まると瞬時に昔に帰るのが楽しい。
八海君、五里ん君にいい機会を作ってもらった。ありがとう。

2012年10月31日水曜日

牧志公設市場

牧志公設市場。
こういう所がそそるのよ。
魚なんか見てるだけで楽しいよねえ。
奥の方はこんな感じだった。

2012年10月30日火曜日

沖縄の晩飯

沖縄に出張。
沖縄に行った日の晩飯は、牧志公設市場の二階にある食堂で食べた。
ポーク玉子沖縄そばセット。こういうのが旨いのよ。

大福さん、ありがとね。ちょっとため息がでただけなのよ。
ま、“やり手”の人にはじれったいかもしれないけど、不器用に誠実に身の丈に合った仕事をしていこうと思いますよ。

2012年10月23日火曜日

どうでもいいんだけどね

このんとこ、ちょっとばかり心が弱ってた。
中島みゆきの『蕎麦屋』の、「世界中の誰もかもが偉い奴に思えてきて/まるで自分一人が要らないような気がする時」という歌詞そのままの気分。こんな時は、もともと低い自己評価が、どんどん低くなる。
この年齢になると、突然蕎麦屋に誘ってくれて、何となく慰めてくれるような友達なんていない。
だけど、あれか、家族がいるか。妻や子どもの顔を見ると、何とか頑張んなきゃな、という気になるよな。
結局のところ、皆に生かされているんだな、私は。まだまだ修行が足りないねえ。

写真は10年ほど前の浜川崎の駅前。

2012年10月20日土曜日

キッザニアに行って来た

妻子を連れて、キッザニアに行って来た。
職業体験型のテーマパーク。長男が小学生のうちに行こう、と妻が常々言っていた。
先月の末から、土日はずっと仕事。この後もしばらくそんな調子なので、ここらでどこか連れてってあげないと、家庭の安寧が保てないよな。
初めて行ったけど、よく出来てるね。
豊洲のららぽーとの中にあって、そんなに広くはないんだけど、それがかえって歩く距離が少なくて済み、子どもも歩き疲れなくていい。
制服を着て仕事をして、キッズォというお金を貰う。基本的にパビリオンに入ることができるのは子どもだけというシステムもいい。
9時過ぎに着いたが、1部終了の3時まで、ずっと遊んでいた。長男はサービス業、次男は技術系が好きみたいだな。
随分喜んでくれて、親としても嬉しい。また、行きましょう。

下の写真は、薬剤師の仕事をする長男です。

2012年10月17日水曜日

昔の上野駅

昔の上野駅。
JRのりばから地下鉄の方に下りる辺りに、こういうシブい店がいくつかあった。
私も若かったからね、なかなかこういう所には入れなかったな。
今は上野も大分きれいになった。
一度くらい、こんな所で飲んでおけばよかったなあ。

2012年10月15日月曜日

安藤鶴夫『三木助歳時記』

久し振りに『三木助歳時記』を読む。
安藤鶴夫の絶筆。高校の頃、旺文社文庫版を買って読んだ。夢中で読んだな。大学の時、この本は八海君にあげた。今持っているのは河出文庫版。すっきりとした装丁できれいな本である。
三代目桂三木助の一代記。人呼んで「隼の七」。長い間博奕に狂い、不遇を託った落語家。一時踊りの師匠として生計を立てていた頃の女弟子に恋におち、一念発起、生活を立て直して落語に精進し、やがて、文楽・志ん生・圓生・小さんとともに、戦後古典落語の旗手として大成するが、その全盛期に癌に倒れた。鯔背な江戸前の落語家であった。十八番の『芝浜』は、彼の代名詞にもなっている。
今回読んだ感想としては、前半の不遇時代がよかったな。賭場に向かう佃島の場面や、いわゆる土手組の寄席の場面なんかがいい。大正の東京の、いわば場末の雰囲気の臨場感たるや、見事。闇の深さ、空気の匂いまで、まざまざと感じさせる。安藤鶴夫の筆力を、再認識したな。
あと、ストーリーとは関係ないけど、食べ物が出てくる所もいいよ。前述の佃島で、ミルクホールでトーストを食べる場面、ミルクのほんのりとした甘さ、さくっとしたトーストの歯触り。大正の洒落た感じも漂う。惚れ抜いた女弟子、後の仲子夫人に叉焼麺を食べさせる場面、ここで三木助は仲子が食べ終えた後のスープだけを飲むのだが、これがものすごく旨そうなのよ。黒門町の文楽の自宅に招かれて、文楽と鳥鍋をつつく場面なんか、まさに一幅の絵を見るが如きだな。
ただねえ、安藤の分身、こんかめ先生が登場してくると、いささか煩わしい。何かいい役回りを演じたがるんだよな。『巷談本牧亭』でもそうだったけど、いいとこをさらっていく感じ。
それから、素人のこんかめが三木助の落語を見てやって駄目を出すという場面を得々と描くのも、今は違和感を感じる。当時としては、作家先生の方が落語家ふぜいより偉かったんだろうが、6歳年長の三木助がこんかめにやたらへりくだるのもなあ。しかも、書いてるのが当の安藤なんだからね、自分で自分のことを書いているんだもんなあ。もうちょっと控えめでもいいんじゃないかな。
そうは言っても、あの落語黄金時代をびしびしと感じる。人形町末廣があり、文楽が、志ん生が、圓生が、生き生きと描かれる。たまんないよねえ。
安藤の死によって未完に終わったのが、返す返すも惜しい。
最後になっている場面、三木助が、娘茂子の一言に傷ついて、酒に酔って泣く。自らの老いを振り返り、年若い妻、幼い子どもを思う。これが、また、しみじみと切ないんだよねえ。

2012年10月10日水曜日

山の上大学(仮称)2012

藤子F不二雄ミュージアムに行った時は、大学にも寄って来た。
3号館跡の、何もない空間もこの目で見た。ちょっと信じられなかったなあ。
3号館の地下には学食があって、文学部仲間は「貧民食堂」と呼んでいた。 薄暗い、あまりおいしくない食堂であった。
私は、一人の時は、そこでカツ丼かモーニングセットを食べた。どことなくうらぶれた雰囲気は好きだった。(あまりおいしくなかったけど。)
こっちは落研が愛用していた、森永食堂があった所。「末廣飯店」という中華屋になった模様。
森永にはよく行った。 記憶に自信はないが、カレーが150円、コロッケライスのランチが180円、そぼろ丼230円、カツカレーが250円だったかな。特にそぼろ丼は卒業してからも無性に食いたくなったな。

そして最後に部室。通称、らせん階段。建物は当時のまんまだ。よく見ると各部屋に冷房が入っている。

2012年10月8日月曜日

登戸駅前

藤子F不二雄ミュージアムに行った時に撮った、登戸駅付近の写真。
この辺りだけは、昔の面影をとどめていますな。

2012年10月3日水曜日

友川かずき『死にぞこないの唄』

物置から持って来て、一気に読んでしまった。友川かずきが書いた、初めての本だ。
奥付を見ると、1977年5月15日初版発行、とある。初版本である。(多分、重版はなかったろうが。)
この本は、大学に入った年、川崎のアパートの近くの本屋で買った。とすると、2年間、私が買うのを、その本は待っていたことになる。
奥付には、今では考えられないことだが、「川崎市幸区**町3-17」(**は自主規制)と著者の現住所も書かれていた。
それを見た私は、思わず膝が震えた。私のアパートは、同じ町内の「3-16」にあったのだ。 この本に出てくる、南河原銀座も三玉酒店もすぐ近所。友川がつげ義春のマンガを買った本屋にも、私はよく行っていた。
前半はエッセイ、後半は対談。途中、何篇かの詩が挿入される。友川、20代の文章。今読むと、かなり青臭い。でも、彼の肉声が聞こえるようだ。
秋田の八郎潟湖畔の村に生まれ、高校卒業後上京し就職するもすぐにそこを辞め、飯場を渡り歩く。岡林信康の影響で歌を作り始め、1974年歌手としてデビューした。難解な詩を、秋田訛りで絞り出すように絶叫して歌う。一度聴いたら忘れられない。そのスタイルそのままに、言葉を叩きつけるように、己の過去を、日常を、書き綴る。
当時、夜、酒を飲みながらむさぼり読んだ。そして、ほんの数百メートルの所にある、ここと同じような木造アパートの中にいるはずの、友川を強く意識した。
だからといって、彼の部屋を訪ねる勇気はなかった。行ったところで、何を話せばいいか分からなかったし、気安く近づくのはあまりに図々しい気がしたのだ。
久しぶりに読んだら、あの頃を思い出した。あの汚い四畳半を思い出した。「川崎で俺は秋田を見ている」なんて文章を読みながら、茨城生まれなんて、何て中途半端なんだ、てなことを思ってたんだ。友川に八郎潟と寒風山があるなら、俺には霞ヶ浦と筑波山がある、てなことを思ってたんだ。友川に影響されて、サントリーの白を飲んでたんだ。(すぐに金が続かなくなって、レッドに変えたけど。)

今や友川も還暦を過ぎた。元同僚のHさんの情報によると、友川の曲が、カラオケに15曲ぐらい入っているという。すげえなあ。俺、スナックで『トドを殺すな』なんて歌う勇気ないぞ。

2012年9月30日日曜日

じょんじょこ

昔、小田急向ヶ丘遊園駅の近くにあった、中華料理店「じょんじょこ」。
折に触れ思い出すのだが、この店の名前の由来が分からない。