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2012年2月28日火曜日
瀬戸散策
T君の車で瀬戸に行く。
瀬戸は焼き物の街。陶磁器の総称、「瀬戸物」はこの土地に因んだものだ。
瀬戸黒、黄瀬戸、志野、織部といった茶道具として有名なものも多い。加藤唐九郎という陶芸界の偉人も、この街の出身である。
T君の住む多治見も焼き物の産地。同じ山の土をあっちとこっちで掘って焼いている。笠間と益子の関係に似ている。
瀬戸蔵という観光拠点に車を止め、辺りを散策する。
表通りから一本裏に入ると、この街並みがいい。昭和の香り漂う、まさに私好みの雰囲気だ。
さらに進むと、アーケードのある商店街があった。瀬戸銀座という名前もうれしい。雛巡りの真っ最中。ここでもやってたか。でも、古い街のこういう催しはいいものだ。
アーケードの出口に神社があった。深川陶彦神社という。いい感じ。
お参りをして瀬戸蔵に戻る。織部の小皿をお土産に買う。
調子に乗ってけっこう写真を撮った。その一部をアップします。
裏通りのいい感じの街並み。
瀬戸銀座のアーケード。
雛巡り。
深川陶彦神社参道。
2012年2月27日月曜日
旅の始まりは味噌カツ丼
先日、岐阜のT君と旅をした。
彼とは同じ大学で、同じクラス、同じゼミだった。
卒業してからも、年に1度、色々なところをほっつき歩いた。
二人とも結婚して子供ができると、そんなことも出来なくなったが、それでもたまにお互いの地元へ遊びに行ったりしている。
今回は、T君の地元、美濃を旅することにした。「美濃を制する者は天下を制す」である。
なかなか濃い旅であった。とても1回では書ききれない。しばらくの間、お付き合い願いたい。
名古屋でT君と合流。まずは昼飯だ。名鉄デパートのレストラン街にある「矢場とん」に行く。ここの本店が、名古屋名物味噌カツ発祥の地である。
11時過ぎに着いたが、既に満席。開店と同時に満席となったという。さすが「矢場とん」。
20分ほど待って、味噌カツ丼と対面。いやあ旨い。見た目と違って全然しつこくない。あっという間に完食。丼の底に描かれたイラストがかわいい。
2012年2月21日火曜日
マイブームは岡林信康
『岡林、信康を語る』という本を読んでから、岡林信康マイブームが続いている。
内原イオンで『私を断罪せよ』を買い、アマゾンで『レクイエム』『ロックミュージック』『セレナーデ』を買って、せっせと聴いている。
岡林信康という人ほど、目まぐるしくスタイルを変えたシンガーソングライターはいないだろう。フォークの神様として登場し、はっぴいえんどを従えロックをやり、突然山村に籠って演歌のアルバムを出したかと思えば、ポップスに狂い、果ては民謡のリズムを取り入れた「エンヤトット」を提唱するといった具合。しかも、売れない方へ売れない方へと変わっていくから凄い。
前半は、ボブ・ディランを健気に追いかけて行ったような感がある。「それで自由になったのかい」は「ライク・ア・ローリング・ストーン」だし、「まるで男のように」なんか(多分三島由紀夫を歌ってはいるが)、まんま「ジャスト・ライク・ア・ウーマン」だ。「ホビット」とか「黒いカモシカ」なんてのも、ディランの影響は大だ。「エンヤトット」でやっとディランの呪縛から解放されたのかな。そんなことをアメリカのミュージシャンに言われたみたいなことを、岡林が書いていたような気がする。
でも、どの時期の岡林も私は好きなんだなあ。何となくじたばたしながら戦っている感じがいい。前述した曲も、実は大好き。「チューリップのアップリケ」「手紙」といったプロテストフォークも、「私たちの望むものは」や「自由への長い旅」のようなロックも、「新説SOS」みたいなキワモノも大好き。「エンヤトット」の連作もけっこうのれる。中でもピュアなやつはいい。「オリビアに」「君に捧げるラブソング」「山辺に向かいて」「嘆きの淵にある時も」「26ばんめの秋」「みのり」…。ファン以外にはあまり知られていない曲だが、実にいい。岡林の繊細な声にぴったりなんだ。
風貌もいいねえ。巨匠なのに偉そうじゃない。定年後の数学の先生みたい。あんな風に年を取りたいものです。
2012年2月20日月曜日
瀧口雅仁『落語の達人』
この人の文章を読むと、その情報量に圧倒される。
落語を聴く機会。落語家との交流。私蔵する資料。どれをとってもだ。
佐藤多佳子の『しゃべれどもしゃべれども』の主人公、今昔亭三つ葉が、人形町の生まれで、幼い頃から寄席に親しんでいたのを、以前、私は特権階級の人だと書いた覚えがあるが、この人にもそれを感じる。
著者は東京中野生まれ。小学生の頃から寄席通いを始めた。羨ましい環境だ。もちろん落語に対する情熱についても敬服に値する。落語が好きな点においては、評論家として当代随一ではないかと思う。
この本で取り上げたのは、五代目柳家つばめ、三代目三遊亭右女助、橘家文蔵の3人の落語家。いずれも落語史上に残る名人といった存在ではない。だが、忘れ去られるには惜しい人たちだ。そこにスポットを当て、記録として残したいというのが著者の願いである。至極真っ当な人選であり、その志も高い。
柳家つばめについては柳家権太楼、三遊亭右女助は桂平治、橘家文蔵は林家正雀という所縁の深い人たちへのインタビューの形式をとっている。それが生の証言となって、3人の落語家の存在を生き生きと甦らせてくれる。
柳家つばめの、立川談志に匹敵する論理性、先進性。(これについては、私は河出文庫から出ている、つばめの2冊の本を読んで瞠目した。)弟子権太楼が語る、人間つばめの生真面目で優しい側面、落語家としての苦悩がいい。芸能人年金をまとめあげたつばめの功績を、私はここで初めて知った。
桂平治が語る三遊亭右女助の項では、1980年代の芸術協会を伝える第1級の資料となっている。私が好きな四代目春風亭柳好との交流も楽しい。芸術協会理事騒動後、右女助、柳好、春風亭華柳の3人が協会を脱退した経緯についても知ることができた。ありがたい。(個人的な話だが、華柳が梅枝を名乗っていた頃の手拭いを、私は落研時代、高座で使っていた。当時前座だった小文治さんが、貰った手拭いを部員にくれたのだ。)
そして、橘家文蔵。地味だったがいい噺家だったな。古今亭志ん朝が信頼を置いていた人だということは知っていた。(志ん朝が、弟子に『穴子でからぬけ』を稽古するために、改めて文蔵に稽古してもらったというエピソードは、よく知られている。)正雀が語る、その人柄が素晴らしい。
巻末に付いている、「落語家名鑑―平成以降の物故者」も充実しているなあ。本当に盛りだくさんの内容だ。
この、知る人ぞ知るといった人選もこの人らしいが、いつかこの人の手による「志ん朝・談志論」も読んでみたい。
落語を聴く機会。落語家との交流。私蔵する資料。どれをとってもだ。
佐藤多佳子の『しゃべれどもしゃべれども』の主人公、今昔亭三つ葉が、人形町の生まれで、幼い頃から寄席に親しんでいたのを、以前、私は特権階級の人だと書いた覚えがあるが、この人にもそれを感じる。
著者は東京中野生まれ。小学生の頃から寄席通いを始めた。羨ましい環境だ。もちろん落語に対する情熱についても敬服に値する。落語が好きな点においては、評論家として当代随一ではないかと思う。
この本で取り上げたのは、五代目柳家つばめ、三代目三遊亭右女助、橘家文蔵の3人の落語家。いずれも落語史上に残る名人といった存在ではない。だが、忘れ去られるには惜しい人たちだ。そこにスポットを当て、記録として残したいというのが著者の願いである。至極真っ当な人選であり、その志も高い。
柳家つばめについては柳家権太楼、三遊亭右女助は桂平治、橘家文蔵は林家正雀という所縁の深い人たちへのインタビューの形式をとっている。それが生の証言となって、3人の落語家の存在を生き生きと甦らせてくれる。
柳家つばめの、立川談志に匹敵する論理性、先進性。(これについては、私は河出文庫から出ている、つばめの2冊の本を読んで瞠目した。)弟子権太楼が語る、人間つばめの生真面目で優しい側面、落語家としての苦悩がいい。芸能人年金をまとめあげたつばめの功績を、私はここで初めて知った。
桂平治が語る三遊亭右女助の項では、1980年代の芸術協会を伝える第1級の資料となっている。私が好きな四代目春風亭柳好との交流も楽しい。芸術協会理事騒動後、右女助、柳好、春風亭華柳の3人が協会を脱退した経緯についても知ることができた。ありがたい。(個人的な話だが、華柳が梅枝を名乗っていた頃の手拭いを、私は落研時代、高座で使っていた。当時前座だった小文治さんが、貰った手拭いを部員にくれたのだ。)
そして、橘家文蔵。地味だったがいい噺家だったな。古今亭志ん朝が信頼を置いていた人だということは知っていた。(志ん朝が、弟子に『穴子でからぬけ』を稽古するために、改めて文蔵に稽古してもらったというエピソードは、よく知られている。)正雀が語る、その人柄が素晴らしい。
巻末に付いている、「落語家名鑑―平成以降の物故者」も充実しているなあ。本当に盛りだくさんの内容だ。
この、知る人ぞ知るといった人選もこの人らしいが、いつかこの人の手による「志ん朝・談志論」も読んでみたい。
2012年2月15日水曜日
石岡、十七屋
石岡、十七屋履物店。いいでしょう。
この付近は、十七屋、すがや、近江屋という看板建築の傑作があり、福島砂糖店、丁子屋があり、東京庵があり、しばのやがあり、と見所が多い。
私がガキの頃は、さらにモリコー、コーキというデパート(今思えば、デパートと呼ぶにはささやかなものだったが)があり、高木書店があって、賑わっていた。
高木で本を見て、モリコーの屋上で味噌おでんを食べ、コーキのゲームコーナーで遊ぶ、というのが我々の黄金パターンだった。
今は商都の中心としての役割を終え、昭和の香りを残すだけの一角になってしまった。この間歩いた時には、雛祭りを見に来た人が、ぽつりぽつりと散策しているだけだったな。しょうがない。時代は変わる。イオンモールだって永遠ではない。たぶん。
十七屋をもう1枚。こちらは、夏に撮ったものです。
2012年2月13日月曜日
今年も横浜へ行ったのだ
日曜日、親子4人で横浜に行って来た。去年も今頃だったな。
首都高での渋滞がなく、2時間もかからずに山下公園の駐車場に入ることができた。
横浜には小学生の頃、川崎の伯父の車で連れて来てもらったことがあった。港内遊覧船に乗せてもらったが、ひどい雨の日で、辺りが白く煙っていたのを憶えている。小さなポンポン船で、よく揺れた。
今も遊覧船はあるのだが、白い豪華な船で、料金は大人1人2000円程。皆で乗るとなると結構な出費になる。というわけで、今回も氷川丸を見学。
お昼を食べに中華街に入る。昼食の前に、次男のリクエストで唐辛子ストラップを買う。お店の人が、生まれた年と月で性格を占ってくれる。次男には「君は落ち着きがないね」と言い、長男には「君は屁理屈をこねるだろ」と言う。ずばりその通り。アドバイスされたままの色のストラップを購入した。
そのすぐ近くの中国家庭料理の店に入る。上海風焼きそば、叉焼麺、蟹炒飯、春巻、焼餃子を4人で分けて食べる。去年の所の方が旨かったかな。
食べている時、子どもたちが「お父さんとお母さんも占ってもらおうよ」と言い出した。
そこで、再び唐辛子ストラップの店に行く。私は「癒し系だけど、嫌々仕事をやっている」妻は「おだてに弱く、頼まれたら嫌と言えない」とのこと。当たっているかなあ。もちろん、それぞれストラップ買いましたよ。
その後は、長男お気に入りの「よしもと水族館」。こういう所では長男は一つ一つ時間をかけてじっくり見る。ほんとマイペースな奴だ。
表に出て、江戸清で豚まんを買う。1個500円。二つ買う。熱々。でかい。東門の側で腰を下ろし、4人で分けて食べる。餡の肉もたっぷり、ジューシー。旨い。猫舌の子どもたちも「熱い熱い」言いながら大喜びで食べた。
それから、マリンタワーに上った。平成のひとケタの頃、妻とデートで来た時には、まだ昭和の匂いがしてた。色も赤からシルバーに変わり、内部も大分お洒落になった。展望台からの眺めは絶景だった。天気も良く、富士山や房総半島もよく見えた。
展望台の下の階には、横浜の古写真が展示してあった。八代目桂文楽は、明治の末、横浜伊勢佐木町の薄荷問屋「多勢商店」に奉公した。「荷造りは益どんじゃなきゃ」と言われ、「おしゃべり小僧」として可愛がられたという。文楽はこの横浜が思い出の地で、相鉄演芸場の高座では、枕でわざわざその話題に触れた。アドリブでものを言わない文楽には異例のことであった。文楽門下、七代目橘家圓蔵師匠(私の落研時代の師匠です)は横浜が生まれ故郷。鍛冶屋を振り出しに職を転々と変えたが、横浜では商館のボーイをやっていた時期が比較的長かったという。古い写真を眺めながら、二人の落語家の青春時代に思いをはせた。
展望台から下りると、ロビーでピアノとフルートのミニコンサートをやっていた。きれいなお姉さんがカーペンターズの曲を演奏しておりました。お洒落になったなあ、マリンタワー。
山下公園でもう少し遊んで帰る。楽しかったね、また来ようねと子どもたちが口々に言う。
その夜、次男は、いつも苦労する絵日記の宿題をいっぱい書いていたよ。
2012年2月11日土曜日
石岡の雛祭り2012
昼は親子でサンドイッチを作って食べる。
私が作ったのは、辛子を効かせたハムサンドとタルタルソースの卵とツナのサンド。旨し。
午後はちょっとだけ石岡散歩。いつもの駐車場に車を止めて歩く。
福島砂糖店が修復中。丁子屋はきれいになっていた。とりあえずほっとする。
街は雛祭りの初日。それぞれのお店で、雛人形が飾ってある。
ただねえ、休業している店が多いのよ。肉屋のメンチでもぱくつきながら歩こうかなと思ったが、肉屋さん1軒もやってない。雛祭り初日にしては、ちょっと商売っ気がないかな。
高木書店の旧店舗が取り壊し中。ラーメンの名店朝日屋があった所は、もはや更地になっていた。
散歩のシメにしばのやで酒を買う。幻の酒米「亀の尾」で造った酒があったので、いそいそと購入。「この酒米は珍しいんですよ。燗にすると旨いです。」と旦那。「最初は素っ気ない感じがしますが、じわじわと美味しくなってくるお酒ですよ。」とお内儀さん。自分の店で扱う商品に対する愛情がひしひしと感じられる。いい店だ。丁寧に新聞紙で包んでくれた。盛岡の酒だが、ラベルが見えないので名前は忘れちゃった。晩飯の時、お燗して飲んだが、なるほど旨かったなあ。
2012年2月8日水曜日
田山花袋『温泉めぐり』
田山花袋、大正7年の作。あの『蒲団』で一大センセーションを巻き起こしたのが、明治40年。小説家としてはとっくにピークを越していた頃だ。
私としては、この人、小説よりこういうルポルタージュの方が面白い。変に深刻でないところがいい。
実際、旅行ガイドとして結構売れたらしい。
各地の温泉場を巡るといった内容だが、これがまた日本全国津々浦々にまで及んでいる。何と朝鮮、満州、台湾に至るまでだ。(そうか当時は国内だったんだね。)草津、熱海といった有名どころは言うに及ばず、鉱泉の沸かし湯といった類いまでフォローしている。有名無名問わず、そのラインナップは見事と言っていい。しかも大正の風俗が生き生きと描かれているんだよなあ。
まあよくも歩いたもんだな。もしかしたら、花袋こそ漂泊の人なのかもしれない。そんなに高尚に思えないところがまた偉い。
各温泉の批評がもう言いたい放題。実名を挙げて「見るところはない」なんて平気で書いてある。今のガイドブックじゃあできない芸当ですな。でも、どの温泉も、とりあえずは行ってみたくなる。不思議なもんだ。
風景、宿、食べ物といろいろ紹介されている中で、花袋さんが割と熱っぽく語るのが、女についてだったりする。美人が多いとか芸者がどうとか、こういう件が多いのよ。そういえば、『東京震災記』を読むと、あの大地震の後、花袋がいてもたってもいられなくなって家族を置いて向かったのが、深川かどっかの馴染みの妓の所なんだよなあ。女は好きだねえ。
ま、それはともかく温泉はいいね。好きな時に大正時代に各地の温泉にトリップできる本です。
このブログで田山花袋を取り上げるのは3冊目。取り立ててファンという訳ではないのだが、何か引っかかってくるんだよねえ。
写真は岩波文庫版。カバーがいい。
2012年2月4日土曜日
四代目柳家小せん
四代目柳家小せん。この人の名前が寄席のプログラムに載っているだけで、何となくにんまりしてしまったものだった。
初代は大正デカダンを体現するような破滅型の天才だったが、私たちがよく知る四代目は、それとは対極にあるような、のほほんとした持ち味の、いわば癒し系の落語家だった。
若い頃から「お笑いタッグマッチ」で売れ、「ケメコ」という流行語を生んだ。私が子供の頃は、「末広演芸会」の大喜利コーナー「お笑い七福神」のレギュラー回答者をやっていた。
この「お笑い七福神」では、拙い答えをした者には、罰として顔に墨を塗る。笑点の座布団競争に比べるといささか泥臭いが、大喜利としては実はこちらの方が伝統に則っている。
小せんはボケ役だったから、よく墨を塗られていた。小せんが、もう顔中真っ黒になるまで塗られるのが、このコーナーの売りになっていたくらいだ。
子供心にすごく面白かったなあ。
だから、寄席に行くようになってからも、小せんはお気に入りの落語家の一人だった。
私は、特にこの人の『やかん』とか『浮世根問い』のような八つぁんと隠居さん(『やかん』は先生か)が出てくる噺が大好きだった。
五代目小さんが、小三治の『道灌』を評して、「おめえの『道灌』は八つぁんと隠居の仲が良くねえな。」と言ったという。小さんの凄味を感じさせるエピソードだ。
小せんの場合は、この八つぁんと隠居の仲が良いのよ。二人じゃれ合っている感すらする。やりとりはすげえくだらないんだけど、思わずにこにこしてしまう。
『道具屋』の与太郎のすっとぼけ方もいいし、『犬の目』で目玉をくり抜く時の「きゅるきゅるすっぽん」なんて擬音の楽しさも忘れ難い。
平成18年に83歳で亡くなったが、亡くなるほんの少し前まで寄席に出ていた。晩年は、現役落語家の最長老だった。衰えを、ほとんど感じさせなかったから、死去のニュースには驚いた。かけがえのないものを失ったなという思いが、ひしひしと胸に湧いてきたのを憶えている。
名人という存在ではない。だけど、名人でなければ価値がないというわけでは、決してない。素敵な落語家だった。素敵なおじいちゃんだった。こんな人が出てくるところに寄席の楽しさがある。
私にとって、忘れられない落語家の一人です。
初代は大正デカダンを体現するような破滅型の天才だったが、私たちがよく知る四代目は、それとは対極にあるような、のほほんとした持ち味の、いわば癒し系の落語家だった。
若い頃から「お笑いタッグマッチ」で売れ、「ケメコ」という流行語を生んだ。私が子供の頃は、「末広演芸会」の大喜利コーナー「お笑い七福神」のレギュラー回答者をやっていた。
この「お笑い七福神」では、拙い答えをした者には、罰として顔に墨を塗る。笑点の座布団競争に比べるといささか泥臭いが、大喜利としては実はこちらの方が伝統に則っている。
小せんはボケ役だったから、よく墨を塗られていた。小せんが、もう顔中真っ黒になるまで塗られるのが、このコーナーの売りになっていたくらいだ。
子供心にすごく面白かったなあ。
だから、寄席に行くようになってからも、小せんはお気に入りの落語家の一人だった。
私は、特にこの人の『やかん』とか『浮世根問い』のような八つぁんと隠居さん(『やかん』は先生か)が出てくる噺が大好きだった。
五代目小さんが、小三治の『道灌』を評して、「おめえの『道灌』は八つぁんと隠居の仲が良くねえな。」と言ったという。小さんの凄味を感じさせるエピソードだ。
小せんの場合は、この八つぁんと隠居の仲が良いのよ。二人じゃれ合っている感すらする。やりとりはすげえくだらないんだけど、思わずにこにこしてしまう。
『道具屋』の与太郎のすっとぼけ方もいいし、『犬の目』で目玉をくり抜く時の「きゅるきゅるすっぽん」なんて擬音の楽しさも忘れ難い。
平成18年に83歳で亡くなったが、亡くなるほんの少し前まで寄席に出ていた。晩年は、現役落語家の最長老だった。衰えを、ほとんど感じさせなかったから、死去のニュースには驚いた。かけがえのないものを失ったなという思いが、ひしひしと胸に湧いてきたのを憶えている。
名人という存在ではない。だけど、名人でなければ価値がないというわけでは、決してない。素敵な落語家だった。素敵なおじいちゃんだった。こんな人が出てくるところに寄席の楽しさがある。
私にとって、忘れられない落語家の一人です。
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