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2016年1月31日日曜日

ゆきむら亭 ネギ味噌ラーメン


昨日、長男と行った「ゆきむら亭」のネギ味噌ラーメンと餃子。
確かネギラーメンはチェーン店「ラーメンショップ」の看板メニュー。茨城では30年くらい前に随分流行って、色んな店で出すようになった。ラー油とか胡麻油で絡めた細切りの葱をたっぷり載せる。この辛みが癖になる。ラーメンショップのはチャーシューも細切りにして葱に混ぜていたんじゃなかったかな。
茨城でラーメンのチェーン店と言えば「珍来」と「ゆきむら亭」が双璧。(それに「ラーメンショップ」「山岡家」が続く。)
珍来は定食、ご飯もののメニューも豊富で、中華料理屋という感じ。ゆきむらの方がラーメンに特化している。
うちは子どもが小さい頃から、何となくゆきむらを利用している。きっと子どもたちにとって、ラーメンの基本はゆきむらなんだろうな。
肩の凝らない味。あーお腹いっぱい、旨かった、と気楽に言える。これもまた捨て難い味である。

では、アップで。






2016年1月30日土曜日

外は寒い雪の日


雪になったり雨になったり。今年初めて、うっすらと白くなる。
今日は、次男と妻は子ども会の行事でお出かけ。
昼は、長男とゆきむらへ行く。私はネギ味噌ラーメンと餃子、長男は贅沢和風ラーメンを食べる。

午後は、家でまったり。
高校の時録音した、ボブ・ディランの「ローリング・サンダー・レビュー・ライヴ」のテープを聴く。


これはテレビから録音したものである。
このツアーのライヴはレコード化されたり、2枚組のCDになったりしてるけど、そこに入っていないバージョンや曲もあったりして、今でも貴重な音源だな。
ボブ・ディラン最大のヒットアルバム『欲望』の後のツアー。ヴォーカリストとしては全盛期だと思う。「激しい雨が降る」とか「嵐からの隠れ場所」、ジョーン・バエズとのデュエット「風に吹かれて」なんか圧巻だねえ。
60分テープで録っているので、余った時間に色々入れてある。まずは「風に吹かれて」をレコードから、その後、ビートルズの映画『レット・イット・ビー』を、やはりテレビから録音している。
ビートルズの方は、アップル屋上の「ルーフトップ・ライヴ」から、「ゲット・バック」と「ドント・レット・ミー・ダウン」、そしてレコードの「レット・イット・ビー」に繋いでいる。
最後の2分ぐらいは、オリジナルのサウンドコラージュ。きっとビートルズの「レボリューション・NO.9」に影響を受けたんだね。「東京オリンピック開会式実況」とか、どこかから拾った英語のスピーチとか、ラジオのクラシックをチューニングを合わせたり外したりとか、果ては「競馬の実況中継」「大相撲の優勝力士表彰(しかもパン・アメリカン航空会社のやつだ)」なんてのまで録っている。やるなあ、高校生の俺、面白いぞ。

夕方は休日のお楽しみ、夕方ビール。今日はサッポロ黒ラベルにしてみた。


夜は湯豆腐で燗酒。一丁、70円と210円の豆腐を食べ分ける。まあそりゃあ違いますわな。
とはいえ、どちらもおいしくいただきました。
んじゃ、寝しなにボウモアでも飲もうかね。

2016年1月29日金曜日

出口一雄 桂文楽との別れ

文楽・志ん生の最後の会談の2日後、昭和46年11月2日、文楽は駿河台の日大附属病院に入院する。少量の吐血を見たため、検査のためにというのがその理由だった。
経過もよく、12月18日に退院する日取りを決めた。前夫人である寿江の3回忌を済ませ、現夫人梅子と彼女との間に生まれた長男益太郎も籍に入れた。益太郎も嫁を迎え、退院した暁には、皆で揃って水入らず、快気祝いをしようという話になっていたという。
12月10日に文楽は人間ドックに入り健康診断を受けた。しかし、11日の夜、容体は急変する。その時、主治医西野入尚一は、医局の旅行で熱海にいた。知らせを受けて東京に戻ったのは12日の朝。その日は日曜日で人も手薄だった。西野入は器具をかき集め、懸命に処置したが、大量の吐血が繰り返される。そして、午前9時20分、八代目桂文楽はとうとう帰らぬ人となった。
川戸貞吉との対談で、西野入は「時間が全然足りなかった。もし、スムーズにやれたら、100%とは言わないけれど、とにかくあんなに急には逝かなかったろう。何日かはもたせられたはずだ」と悔やむ。
京須偕充がネットに発表している「落語みちの駅」によると、出口一雄は11日の夜、病院に駆け付け、まだ意識がはっきりしていた文楽の枕辺から離れることなく、翌日の臨終に立ち会ったという。だから、後に出口は文楽最後の日付を「12月11日」と言い続けた。「駆け付けた11日の深夜から何時間か出口一雄の心の時計は停止していた」と京須は書く。
退院する予定だった12月18日、浅草東本願寺において、落語協会葬を兼て告別式が執り行われた。喪主は長男益太郎、葬儀委員長は、当時の落語協会会長六代目三遊亭圓生だった。圓生は弔辞で、「戦後、人心の動揺、人情、生活と、依然とは移り変わり行く世相で、勿論落語界も、世間のあおりを食い、動揺したその中で、貴方の芸は少しも、くずれなかった。我れ人とともに時流に押し流されやすい時に、貴方は少しもゆるがなかった。」と述べ、「それが立派な芸であれば客はよろこんでくれるのだ、これでいけるのだ」と自分を含め人々に勇気を与えてくれた、と感謝した。実際には反りが合わなかったであろう二人だが、これは圓生の正直な気持ちなのだと思う。
告別式の前日、黒門町の自宅近くの黒門会館で通夜が営まれた。この席で、出口一雄は大西信行に、文楽最後の高座の様子を語ったという。『落語無頼語録』から引用する。 

「とても見ちゃいられなかった―」
  黒門会館のいちばん奥でコップの酒を顔をしかめて飲みながら出口マネージャーが言うのを、そうだろうな、さぞせつないことだったろうとぼくはうなずいていた。まだラジオ東京といっていたころのTBSで、文楽たちと契約を結び、民放の落語専属制度を確立させたのが出口マネージャーだった。定年でTBSを辞めてプロダクションを始めてからも、いまの世の親子との間ではとても見られぬこまやかな情愛で文楽の面倒を見続けて来た人だったから、いまもし文楽が命を終えていなかったら出口マネージャーの方がせつなさのあまり死んでしまったかもしれないと思った。
 (中略)
  「三代目になっちゃったよ・・・」  と、言った時に、我慢しきれずに泣いたのは文楽ではない。出口マネージャーだった。文楽自身は涙ひとつ人には見せていなかったのである。
  いつか自分が三代目小さんの悲惨さを味わうだろう日のあることを、文楽はすでに予知していたのではなかったか― 

この場面で大西は、「文楽は自殺をしたのではなかったか」という直感に襲われる。
このスリリングな展開は、どうか『落語無頼語録』中の「桂文楽の死」をお読みいただきたい。 

京須は『みんな芸の虫』に収められた「出口一雄 鬼の眼に涙」で、出口が文楽の最期について語る場面を、次のように書いている。場所は新富町の一角にある小さな洋食屋。出口はここでコロッケやカキフライをつつきながら、コップ酒を飲むのを好んだ。
以前にも載せた文章だが、再度引用してみる。

「黒門町の最期はかわいそうだった・・・。病院のベッドで血を吐いてな・・・」
  出口さんはプイと横を向いた。見られまいとしたのだろうが、涙は隠しようがなかった。小さなテーブルの差し向かいで、出口さんは老眼鏡を外していたから、大粒の涙がとめどなく頬を伝うのが見えた。
 「あれだけの名人だったんだ。あれだけいい噺家で、あんな品のいい綺麗な芸だった・・・。だから、せめて死ぬ時は・・・、高座であんなことになっただけに、せめて逝く時だけは、綺麗事にな・・・、わかるだろ、綺麗に往くところへ往かしてやりたかった。それが・・・。くやしいけれど、思うようにゃアいかねえ」 

文楽の死後、出口は酒を飲むと泣くようになる。これは出口を知る、誰もが言うことであった。
Suziさんも、「伯父は、文楽さん亡き後は『黒門町』って言葉が出てきたらもう泣き、って感じ、本当にガクーっときていました。父も『兄貴も涙もろくなったなあ』と言っていました」と証言している。

2016年1月25日月曜日

バンダイおもちゃミュージアム

去年の暮、栃木県壬生町の「バンダイおもちゃミュージアム」に行った。
おもちゃの町という工業団地の中にある。
古今東西のおもちゃがわんさと展示されていて、すべて撮影OK。
子どもたちは、昔のスーパーマリオを夢中でやっておりました。

野球盤。私はテレビゲームよりこっちの方が好き。

ちょっと怖い熊さん。

お洒落だねえ。

『天空の城ラピュタ』に出てきそうな飛行艇。
現在、息子たちの中で「ラピュタブーム」進行中。(正確には「ムスカブーム」かなあ)

前にも載せたけど、ガンダム。
このミュージアムでいちばん目立ってるものなので、再度アップしてみた。


2016年1月20日水曜日

Wii版 文楽と志ん生


テレビゲームのWiiで作った「ぶんらく」と「しんしょう」。
もちろん、モデルは桂文楽と古今亭志ん生。どうです?似てますかね。
これがスキージャンプやったり、踊ったりするのは、なかなかシュールですよ。

2016年1月17日日曜日

正月の笠間

ちょっと前、笠間に行って来た。
日動美術館の「広重展」を観に行ったのである。


今回は東海道五十三次シリーズ、保永堂版と丸清版の同時展示。メジャーなのは保永堂版の方。さすがに構図もキマってるし、誇張された表現もおもしろい。一方、丸清版の方はどこかのんびりしているなあ。正月の箱根駅伝を見た後でもあり、江戸から箱根辺りまでの風景など楽しかったね。
後半は展示作品が変わるらしい。また観に行こうっと。

その後は、お稲荷様にお参り。この間載せた奉納額の記事はこの時のものだ。
門前をぶらぶら歩く。お店も正月バージョン。何となく華やかでいいな。


フルーツショップの看板なんだけど、達磨がいっぱい。



散歩の締めに、年末に行ったカフェでコーヒーを飲む。ご主人と話をしたら、春にいったん閉店し、水戸で新しい店を始めるとのこと。せっかくいい店見つけたのに、ちょっと残念。新天地でのご健闘をお祈り申し上げます。

2016年1月14日木曜日

三代目桂春団治逝去 ― 「四天王の時代」の終焉

三代目桂春団治の訃報を知る。
私は上方落語はあまり得意ではないが、それでも彼は好きな落語家だった。
戦後絶滅の危機に瀕していた上方落語を、現在の隆盛に導いた「上方四天王」の一人、というか最後の生き残りだった。六代目笑福亭松鶴、五代目桂文枝は既に亡く、三代目桂米朝も昨年3月鬼籍に入っている。
東京では昨年10月、八代目橘家圓蔵が亡くなり、昭和の「若手四天王」と呼ばれた5人全てが冥界の人となった。奇しくも、同時期に東西の「四天王の時代」が終わったことになる。
私は高校の頃、ラジオから春団治の『皿屋敷』を録音し、このテープを、それこそ擦り切れるまで聴いたものだ。
お菊の幽霊が皿を数える、その「9枚」の声を聞いたら祟りで死ぬ。7枚くらいで逃げたら命に別状はあるまい。そう教えられた若い者が、もしかして幽霊のことだから根性の悪い数え方をするかもしれないと言って、「いちまーい、にまーいと順にきたらええで。ごまーい、ろくまーい、(そこから早口で)ひちまい・はちまい・くまいッ!」と言うところ。
アイドル並みの人気になったお菊さんが見物客に言う「おこしやす」。
ひっくり返って笑った。
笑えただけではない。その端正なたたずまい、品のある色気が、私の心を掴んだのだ。春団治を越える『皿屋敷』を、私はまだ聴いていない。
熱心に追いかけたわけではない。生の高座に触れたこともない。たまにテレビで観たり、ラジオで聴いたりしただけだ。春団治を語れる資格が、私にあるとは思わない。しかし、これは「好きな人について語りたい」と思って始めたブログである。私なりに春団治を語っています。熱心なファンの方、ご容赦ください。
きれいな高座だった。華やかな「野崎」の上りで高座に現れ、型通りの口上を述べる。枕で凝ることはなく、すっと噺に入っていく。(黒門町八代目桂文楽みたい)
羽織の紐をほどき、左右の手で袖をつまみ、そのまましゅっと引いて、すとんと羽織を背後に落とす。その形のいいこと。東京では十代目金原亭馬生がそんな感じだった。
松鶴の破天荒さは志ん生を思わせ、芸の幅が広く学究肌の米朝は圓生を思わせる。それに対し、華があり品があり色気がある春団治は文楽だ。ネタの数を絞り、磨きに磨くという姿勢も、文楽に通じる。まさに私の好みにどんぴしゃだったんだなあ。
「春団治」というと、どうしても世間のイメージは、演歌『浪速恋しぐれ』の「芸もためなら女房も泣かす」になるだろう。しかし、あの”どあほう”春団治は初代である。三代目は色男だったし、艶っぽい話も多かったかもしれないが、芸の上ではああいう八方破れとは対極にあった人だ。
私にとっては、近しいわけではないが、それでも気になっていた落語家だった。距離がありながら、それでも「好き」と確かに言える、そんな落語家だった。東京生まれの谷崎潤一郎は、後年上方文化に憧れた。私もまた、東京の「粋」より、純度の高いものを、春団治に感じていたのかもしれない。そうか、私にとって春団治は、どこか手の届かない「憧れの存在」だったのか。彼を失った、今にしてそう思う。
三代目桂春団治師匠のご冥福を、心よりお祈り申し上げます。

2016年1月11日月曜日

文楽・志ん生最後の会談

昭和46年10月31日、八代目桂文楽は、五代目古今亭志ん生宅を訪れる。これが、文楽・志ん生、最後の会談となる。
この会談は出口一雄がセッティングしたものだ。
この経緯について、出口と親交の深い、東京新聞記者、富田宏が次のように書いている。  

  もとTBSの演芸部長で、いま出口プロダクション社長の出口一雄さんから「そのうち黒門町(文楽さんの通称)と志ん生をあわせようよ。ここんとこ黒門町が元気ないんだ。半身不随の病気でも明るくやっている古今亭(志ん生)と話をさせたら、気が晴れるんじゃないかと思ってね」といって来た。十月半ばのことで、天気のいい日を見はからって、機会を待った。そして十月三十一日日曜日の午後、黒門町、いまは台東区上野一丁目とかわった文楽さんの家で落ち合って、日暮里の志ん生さん宅へ行った。 

この記事は、昭和46年12月13日、つまり、文楽死去の翌朝の朝刊に載った。
この後、弟子に自分が飲むウィスキーのボトルと、志ん生に飲ますつもりの日本酒の一升瓶を持たせて出かける場面が描かれる。
文楽は、お膳の上にあったクリせんべいを見つけ、「これを孝ちゃん(志ん生の本名は美濃部孝蔵という)に食べさせよう」と言って、その箱をポケットに入れた。
出口の言う「黒門町の元気がない」という件について、富田はさらに以下のように続ける。

  出口さんがいう「黒門町の元気がなくて―」というのは、実は私も気にしていたところだった。出口さんはTBS時代、専属落語家制をいち早く打って、ラジオ・テレビの落語ブームのきっかけを作った人だ。若いころから寄席演芸界を見ていて、芸人の気持ちをだれよりも理解してくれると、文楽さんはこの人を全面的に信頼し、実の親子のように気持ちが通い合っている。その出口さんが、文楽さんの高血圧や、手のリューマチや、糖尿など以上に気にしていたのはこの夏以来の気うつ症だ。
  原因はTBS主催で毎月末、国立小劇場で開いている落語研究会で七、八月と二回続けて高座でミスをしたことだろうという。「鰻の幇間」と「大仏餅」で、間違えたり、ことばがでなくなったりした。「大仏餅」では、客にわびて途中で高座をおりてしまった。
  それからあとは「高座ではしゃべらないよ」と宣言して、寄席も休み、公園めぐりをしたり、なつかしい人や場所をたずねたりした。そして親しい人には、三代目柳家小さんが、老衰してもなお高座を勤め、時に失敗したみじめな様子を語って、言外に「あたしは、ああはなりたくない」とにおわしていた。
  座持ちがうまくて、日常は明るい笑い声を絶やさない人だが、一面小心。ことに自分の芸には神経質なくらいで、書でいえば楷書の芸。一字一句をゆるがせにせず、みがきにみがきあげた芸が特徴だった。「やります」「勉強中」といっていながら、とうとう高座にかけなかっただしものも多い。だから、落語研究会のミスがひどいショックで、三代目・小さんのイメージと重なって、ノイローゼになったふうにもみえる、と出口さんはいうのだ。

この会談の様子は、最初11月15日付の東京新聞夕刊に掲載された。残念ながら、私はそのすべてを読んではいない。矢野誠一の『志ん生のいる風景』にその一部が紹介されているが、それによると、文楽はウィスキーのお茶割り、志ん生は日本酒の水割りを飲みながら話をしたという。
録音されたものを、山本益弘が聴いてまとめているので、その文章を紹介しよう。出典は『文藝別冊 八代目桂文楽』に収められた「あばらかべっそんの哀しさ」からである。

  久しぶりに向かいあったふたりは、あいさつを済ますと、これといって話すことがない様子で、
 「文治さん(九代目)はどうです」
  と、志ん生が口を開くと、
 「達者ですよ」
  と、文楽が答え、しばらく沈黙が続き、こんどは文楽のほうから、
「きょうは頭がきれいだね、何で刈ってるの。電気カミソリ?」
  と、尋ねれば、
「何で刈ってんのかね、知らねんだ」
  と、志ん生が言葉を返すような会話が続く。それでも、そこに居あわせた人たちを退屈させてはいけないという、持ち前の芸人根性が頭をもたげたらしく、文楽が懸命に話題をつくろうとする。
  文楽が庭先にそのキッカケを見つけたらしく、
 「あのね、ほら、蔦がね、むこうの家にからんでんだろ、蔦がからむことについては大へんだよ」
  と、高座の口調そのままに言うと、
 「蔦(下)にいろうなんて…いばるんだよ」
  と、志ん生がすかさずシャレで返した。
  (中略)
  二人に共通な話題ということで、文楽が食べものの話をしはじめた。
 「あたしは、神田川(神田明神下にある鰻屋)がひいきなんだけどね、こないだ、さる方に連れられてね、築地の竹葉亭に連れてかれましてね、そいでね、久かたぶりで白焼を食べました。うまいんだよ、また」
 「うまいんだよ、また」と、高ッ調子で早口に言うところなど、元気なときの高座の口調と少しも変わらない。この文楽のしかけに志ん生が乗って、自分の好物を唐突に言った。
 「刺身ね」
 「刺身いいね」
 「刺身はかたくって食えねえってことはないから…」
 「刺身がかたくっちゃしょうがない」 

他愛もない内容だが、そこはかとなく可笑しい。 文楽がしかけ、志ん生がすかし、さらに文楽がツッコむ。「これはもう漫才のボケとツッコミの会話のセンスだ」と山本も言う。 

この会談の記事はこのような言葉で結ばれている。では『志ん生のいる風景』から。

 〈婦人のおうわさとなる。お互い、いろいろあった勇者たちだ。志「したいことをして来たから、死ねばセコ(悪い)なとこへ行くだろう。イヌにケツッペタをくわれたりしてね」文「うん、この節、もう静かに、おむかえを待つ心境もわかってきたね」こんな話をしていても、人生を達観したふたりは陽気で、はなし家ならでは。帰りしなに、かたい握手をして、文「また来ます。このウィ(スキー)のビンはここへあずけとこう」志「ああ待ってるよ。今度は二人会の相談でもしようよ」〉 

出口一雄はこの会談に同席していたのだろうか。多分、していたんだろうな。していたとすれば、この二人をどんなふうに見ていたのだろう。
文楽は、久し振りに志ん生に会って、元気を取り戻したようにも見える。「次は二人会の相談でもしよう」という志ん生の誘いに、文楽が乗ってくれれば、と出口は思わなかっただろうか。
この時の握手の場面の写真が残っている。ダークスーツにネクタイを締めた文楽は、志ん生の右側に座り、右手で握手をしながら、左手で志ん生の肩を抱いている。紋付の羽織姿の志ん生は、体を右側にいる文楽の方に傾け(身を預けるようにして)握手をしている。そして、どこかぼんやりと、微かに口元に笑みを浮かべたような表情で、カメラの方を向いている。それに対し文楽は、唇をきゅっと引締めてレンズを見つめる。その眼はうるんでいるようにも見える。
もしかしたら、この時文楽は、この盟友と話すのはこれが最後だと、覚悟していたのかもしれない。
 会談の2日後、文楽は少量の吐血をし、日大附属病院に入院する。しかし、生きて彼が病院を出ることはなかった。

2016年1月10日日曜日

笠間稲荷東門の奉納額 訂正

先日、笠間稲荷へ行った。
お参りを済ませ、以前記事にした東門の睦会奉納額を見る。
ありがたいことに、お札の回収所が移動してあったので、その全容をしっかり見ることができた。
それがこちら。


「は組」が中心となり、睦会が参加した形らしい。
睦会は、下から2段目の、左右1列ずつを占めていて、芸人と寄席の名前が見える。

奉納は大正7年(1917年)5月。前の記事で大正7年から9年だろうという見立ては正しかった。
東京寄席演芸株式会社が設立され、芸人のギャラが月給制になったのに反対し、落語睦会が発足したのが、その前年の8月である。だから、この奉納札には、睦会草創期のメンバーがずらりと名を連ねている。
ちなみに八代目桂文楽は、大正6年9月、翁家馬之助と改名し、真打に昇進したばかり。その名前は、ここには見られない。ここに名前が載るには、まだ若かったというべきか。

では、アップで載せてみる。


2015年12月3日の記事にあるので、個々についての詳しい解説はそちらを見て欲しい。

前回「柳亭痴楽」と読んでしまったのは、実は「伊藤痴遊」の間違いだった。
伊藤痴遊は安政3年、横浜に生まれた。星亨のもとで政治活動の手段として講談を読んでいるうちにそれが本業となり、政治講談という1ジャンルを確立させる。一方、東京府議会議員、国会議員としても活躍した。五代目左楽はこの人の弟子だった。左楽の政治的手腕は、おそらく痴遊のもとで育まれたのだろう。昭和13年72歳で没した。

訂正をもう1つ。
「金原亭馬生」は、実は「おもちゃ屋の馬生」ではなく、後の4代目古今亭志ん生となる「鶴本の馬生」だった。前回、私は、文楽の自伝『あばらかべっそん』の中で、鶴本が会社派に名を連ねていたので、奉納札の馬生を「おもちゃ屋」としたのだが、「おもちゃ屋の馬生」が大阪から戻ったのが大正8、9年頃ということが分かった。まず、この奉納札の馬生は、「鶴本」で間違いない。とすれば、文楽が若手真打の頃、付き合っていた芸者を鶴本にとられたというエピソードも、鶴本が早い段階で睦会に移ったと考えると、辻褄が合う。

6代目金原亭馬生(後の4代目古今亭志ん生)は、明治10年の生まれ。2代目古今亭今輔に入門。今輔没後は兄弟子の5代目雷門助六門下となった。明治43年、古今亭志ん馬で真打。3代目蝶花楼馬楽、初代柳家小せんとともに、落語研究会の若手メンバーとして注目された。大正元年5代目(自称)金原亭馬生を襲名。しかし大阪にすでに「おもちゃ屋の馬生」がおり(だから正確には6代目である)、名古屋から西では名乗らないという条件付きだった。美声で歌い調子の高座は、「これぞ江戸前」と人気を集め、若手落語家の憧れの存在でもあった。(文楽は、付き合っていた芸者に、鶴本の素晴らしさをしきりに語り、それが彼女を鶴本に走らせる原因となった。3代目春風亭柳好は独特の歌い調子で人気を博したが、それは鶴本の口調を参考にしたものだったという。)
大正13年10月、4代目古今亭志ん生を襲名するも、同15年1月、胃がんのため50歳で亡くなった。手術の際、麻酔をかけられ確認のために数を数えるように医者に言われ、落語『ずっこけ』を喋りながら意識を失っていったという逸話が残る。

ちなみに5代目志ん生は、2代目三遊亭小圓朝門から、この4代目門下に移り、最後は初代柳家三語楼の傘下に入る。4代目志ん生門下であったことから5代目を襲名することができたといっていい。この額が奉納されたのが、大正7年だから、5代目志ん生も馬生門下として睦会にいたことになるのか。文楽・志ん生の友情もこの辺りから芽生えたのかもしれない。

寄席では、四谷の喜よしの名前も見える。
こういうのを見ると、100年前が今と地続きであることが、ありありと分かって楽しい。

笠間稲荷は初詣バージョンでした。



で、これが東門全景。立派だよねえ。


2016年1月5日火曜日

笠間市愛宕神社



笠間市愛宕神社。旧岩間町にある、標高305メートルの愛宕山山頂に鎮座まします。
創設は大同元年(806年)。全国に800あるという愛宕神社の中でも、かなり古い方である。(黒門町桂文楽の十八番で知られる京都の愛宕山の方は大宝年間にできたというから、あちらの方が100年ほど古い。)
火伏の神様ということで消防関係からの信仰が厚いが、天狗伝説でも知られている。
愛宕神社裏手の石段をさらに上ると、飯綱神社があって、ここには13の天狗の祠が祀ってある。
12月には奇祭「悪態祭り」がある。これは、天狗に扮した13人の氏子が供物を持って無言のまま山頂の飯綱神社へ向かう間に、悪態を浴びせ、供物を奪った者が幸せになれるというものだ。悪態は個人名を出さなければ何でもOKとのこと。1年に1回ぐらい、大声で悪口を叫ぶのも、ストレス解消になっていいかもね。

飯綱神社

飯綱神社裏手にある六角殿。
それを囲むように十三天狗祠が建っている。

愛宕神社拝殿の中には、天狗の面が奉納されている。


愛宕山は、305メートルと高くはないが、眺めがいい。
特に、遠く太平洋まで望むことのできる東側は絶景である。
近くには「天狗の森スカイロッジ」という宿泊施設もある。洒落たログハウスで、設備も充実している。(手ぶらで行ってバーベキューができるくらい。もちろん予約は必要だけど。)


春は桜の名所でもあります。2012年4月に撮影した写真がこちら。

右下に見えるのは、ローラー滑り台。けっこう長い。

ちなみに、愛宕山は笠間市泉地区にあるが、「泉」の地名は、巴川の水源に由来するという。巴川はここから小美玉市を流れ、鉾田市の北浦へと注いでいる。

2016年1月2日土曜日

謹賀新年

元日は、朝に雑煮とおせちで2合ばかりの酒を飲み、地区の新年会へ。
昼過ぎまで宴会。和やかなうちに散会となる。
地元の神社で初参りを済ませ、家でぼーっとしていると、ご近所からのお誘いがある。親父とNさん宅へお呼ばれし、2次会。
いやあ昼酒はききますなあ。へろへろになって早めに寝る。

では、地元の神社の写真をちょっとだけ。



昔はここに土俵があったという。



今日は、妻子を連れて、村松虚空地蔵尊に初詣。
ほどほどの賑わい。
お参りを済ませ、コンビニで昼食を買い、阿字ヶ浦海岸で食べる。
ハムカツ玉子サンド、おかかづくしおにぎり、カレーパンでコーヒー。旨し。
子どもたちは、ズボンをびっしょり濡らしながら遊ぶ。
夕方からは妹一家と宴会。甥も一緒に飲む。
なかなかに盛り上がったねえ。

というわけで、今日の写真。








そんなこんなのお正月です。

明けましておめでとうございます。本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。