ページビューの合計

2017年7月27日木曜日

北浦湖畔

この間、珍しく休日出勤した時、北浦湖畔を車で走ってみた。


旧大洋村の辺り。シブい建物。

なぜここに「東北サファリパーク」の看板が。

鹿嶋市に入った所で、北浦大橋を行方市白浜側に渡り、湖岸を北上する。


北浦が大きく湾状になっている境川河口の辺り。



旧北浦村辺りの蓮の花。

これも旧北浦村。シブいお店。


2017年7月24日月曜日

よしのや ラーメンセット


神立駅前、よしのや。ラーメンセット、850円。
長男と水族館へ行った帰り、この前行った福寿の「ラーメン定食」があまりに旨そうだったので、行ってみるが、無情にも臨時休業。
では、というので長年気になっていた、よしのやに行く。
蕎麦もラーメンも定食も、という店。ずーっとこの神立駅前に暖簾を出している。
蕎麦屋に来たら、もりか、とも思ったのだが、腹が減っていたのと、「ラーメン定食」の気分になっていたので、これをチョイスした。
ラーメンにミニ肉丼、これにサラダ、冷奴、お新香に、もずくまで付いてくるじゃありませんか。栄養バランスもいいねえ。これで850円はお値打ちですな。

では、ラーメンのアップね。


昔ながらの中華そば。ナルトが2枚と見せかけて、実はもう1枚、スープに沈んでいるのである。スープはもうちょっと澄んでいる方が好みだが、充分旨かった。


普通、ラーメンセットでは半チャーハンが定番だが、ここはミニ肉丼。優しいお味。旨し。

お店は老夫婦で切り盛りしてる。
店内の雰囲気も、私好みだ。


店の入り口には、ショーケースに食品サンプルが並ぶ。



店構えも文句なし。正しい駅前食堂である。

2017年7月23日日曜日

かすみがうら市 歩崎

今日は妻と次男がお出かけ。
昼頃、長男と出かける。
もう1回、かすみがうら市水族館に行きたいというので、連れて行く。けっこう客が入っていたな。規模の割には展示も豊富で楽しめる。



久し振りに近くの歩崎観音に行ってみる。




この辺りは旧出島村。
多分、霞ケ浦に半島状に突き出した地形に由来した名前だと思う。
歩崎観音はその霞ケ浦を望む高台にある。その眺望は「茨城百景」にも指定されている。
ここから見る霞ヶ浦は広い。

この湖畔は、昭和30年代までは、浮島・天王崎・桃浦と並ぶ湖水浴場だった。

茨城百景の碑。

土浦藩が建てた常夜灯。

映画『米』の撮影記念の碑。
南田洋子がロケに来た時の写真が家にある。

昼は神立駅前のよしのやで食べる。

なかなかシブい店構え。
詳しくは後日「飲んだり食ったり」で紹介します。

今日は雨が降ったりやんだり。猛暑もさすがに中休みといったところだったね。



2017年7月22日土曜日

夕姫さんと楓さん

落研には女子部員もいる。
私たちの代には、夕姫さんと楓さんと2人いた。2人とも途中でやめることなく、無事落研部員として卒業した。

女子部員ということでいえば、私たちが1年の時の4年生こそ3人の女性の先輩がいたものの、2代上は女子部員はゼロ。(実は1人Tさんという方がいて、写真を見せていただいたが、アグネス・チャンに似た美人だった。彼女は私たちが入学する前にやめていた。)1つ上の代は美恋さんだけ。(この代は男子部員も風神さん1人。2人はお雛様コンビと呼ばれていた。)
下の代も同様で、1つ下は2人いたが、結局、露漫さんだけが残った。2つ下は風°鈴(プリン)さん1人しか入らなかったし、その下は4人入ったが、やはり1人しか残らなかったと記憶している。

そんなわけで、私たちの代は、夕姫さんと楓さんが2大アイドルとして君臨していたのだ。
そして、この2人の個性が対照的だったのも面白い。明るく太陽のような夕姫さんと、クールで繊細な楓さんは、当時の2大アイドル、松田聖子と中森明菜のようだった。(先日、知ったことだが、初め楓さんは真打名を「あき菜」にするつもりでいたが、中森明菜の登場で、「わか菜」にしたのだという。)
落語でいえば、夕姫さんは『饅頭怖い』や『松竹梅』を得意とし、はじけた面白さがあったし、楓さんは『初天神』や『金明竹』で、いかにもかわいらしい子供や与太郎を描き出した。2人とも、とても楽しそうに落語を演じていた。よく稽古して上手かったと思う。
この2人が、共に最後までやめなかったのは大きい。2人の絆が、私たちが想像できないほどのものであったことに間違いはない。

この前のOB会の日は、昼間2人で上野の美術館を観、会の後は楓さんは夕姫さんの家に泊まったという。あの濃い4年間を過ごした女同士、積もる話でいくら時間があっても足りなかっただろう。そういう機会が持てたことが、お節介なようだが、私としても嬉しい。

また会いましょう。皆、お互い時を重ねていい具合に大人になった。こんなふうに齢を取るのも悪くないな。

ちなみに夕姫さんと楓さん、生年月日も同じ。しかも元日。すごいよねえ。





2017年7月18日火曜日

備前掘 たまげ橋


水戸の備前掘歴史ロードの中ほどにある「たまげ橋」。
水戸街道の起点。旅に出る者とここで別れなければならない嘆き悲しみから、魂も消える「銷魂(たまげ)橋」と名付けられた。


江戸時代は高札場でもあったというから、人通りも多かったのだろう。


ここでは幕末の元治甲子の乱(俗に天狗党の乱)で戦闘があった。
当時の藩主は水戸徳川家10代目慶篤。彼には定見がなく、強く訴えられると、すぐその意に沿った命令を出してしまう。「そうせい公」とか「よかろう様」などととあだ名されたほどだった。(慶篤の諡号は順公。斉昭の烈公といい、うまく付けたものだ。)結果的にそれが水戸の内乱を激化させた。
前藩主斉昭が尊王攘夷派を重用した反動で、慶篤の時代になると門閥派が息を吹き返してくる。尊攘派の過激グループ、天狗党が筑波山で挙兵し、幕府が追討を命じると、門閥派は、幕命に従い天狗党を鎮圧することこそが御三家である水戸藩の使命であると主張、慶篤に働きかけ、藩政の実権を握った。しかし、門閥派の首領、市川三左衛門が水戸城に入り、尊攘派を弾圧すると、今度は江戸詰の尊攘派が働きかけ、市川らを諌めるために水戸藩の支藩、宍戸藩の藩主、松平頼徳を名代として水戸へ送ることになった。頼徳一行には、やがて尊攘派の重鎮、水戸藩家老武田耕雲斎らが合流する。
尊攘派にかつがれた感のある頼徳一行を、市川三左衛門が水戸城に入れるはずがない。市川は入城するのであれば頼徳一人でと条件をつけた。藩主名代としてやって来た自分に単身入場せよとはあまりに無礼であろう、と頼徳はそれを拒否。両軍は「銷魂(たまげ)橋」を挟んで睨み合う形となった。
その場面を『天狗争乱』の中で吉村昭はこう描く。
「道の前方には備前掘という豊かな水がながれている用水路があって、そこに消魂橋(たまげばし)という橋がかかっている。その備前掘の向こうに門閥派の兵たちが陣をしき、多くの朱色の旗を立て、その先兵は消魂橋をわたって藤柄町まで押し出していた。」
「その時、砲声が空気をはげしくふるわせた。藤柄町に押し出していた門閥派の兵が頼徳の前衛隊にむけて発砲したのだ。」
「頼徳の前衛隊も大砲で応戦したが、すでに日没をむかえていたので、戦いはやんだ。」
頼徳の怒りは激しかったが、城下を戦乱に巻き込むのを避け、攻撃は控えた。
その後、一行は物資の豊かな那珂湊へと向かう。そして那珂湊で門閥派との大規模な戦闘があり、結局、頼徳は幕府に逆らったかどで切腹を申し付けられる。この内戦で頼徳ほど貧乏くじを引いた人はいないだろう。

水戸城に向かって橋を渡った所を七軒町という。門閥派が陣を敷いていたのはこの辺りか。猛暑日の真昼間、歩いているのは私一人だった。



近くにはハミングロードという商店街がある。伊勢屋という甘味処のラーメンが旨いというので行ってみたら、休みだった。


私好みのシブい建物もありました。


ぶらぶらしたかったけど、熱中症になりそうだったので勇気ある撤退。
昼はイオンタウンの丸亀製麺でおろし醤油うどん(冷)を食べ、妻子にKOSAIのシュークリームをお土産に買って帰る。

2017年7月16日日曜日

東山紀之『カワサキ・キッド』

著者はご存じ少年隊のヒガシ。
40代になった彼が自分のルーツ、川崎を語る。

川崎市桜本のコリアンタウンの一角にあるアパートで幼少時代を過ごした。
祖父はロシア人の血を引いていて、実父は酒を飲んでは暴力をふるった。近所には焼肉屋を営む朝鮮人母子が暮らしていて、東山兄妹はよくその家に上り込んでは豚足を食べさせてもらっていた。
「当時シュウちゃん一家は日本名を名乗っていた。差別のため本名は名乗れない時代だった。」と東山は綴る。
やがて両親は離婚し、東山一家は南武線沿いの市営住宅に移り住む。遊び場が鶴見操車場とあるところから、多分最寄駅は矢向だろう。
市営住宅から南武線の線路を挟んで、母方の祖父が住むアパートがあった。東山少年は、脳溢血の後遺症で体の不自由な祖父の手を引き、銭湯へ連れて行ったり、夕食を食べさせるため自宅へ送り迎えしたりした。南武線の踏切を渡る時には、電車が来たらどうしようと毎回ヒヤヒヤしていたという。
1979年、小学6年生の時、渋谷に公開放送を見に行った帰り、ジャニー喜多川にスカウトされる。母の再婚、養父の暴力などもあって中学卒業とともにジャニーズの合宿所に入り、1985年に少年隊としてデビュー。後の活躍は周知のとおりである。

マイノリティーに対するまなざしの優しさ、芸に対する真摯な姿勢、言っちゃ何だが、近隣諸国に向かって悪口雑言をまき散らすベストセラー作家なんかより、東山の方がずっとずっと上質の言葉でものを語っていると思う。

私は1979年から1983年の初めまで、川崎に住んでいた。東山の住む市営住宅からは一駅しか離れていない。大学には南武線で通っていたから、もしかしたら、電車の中から、おじいさんの手を引く東山少年の姿を目にしたことがあったのかもしれない。
私にとって川崎と言えば、フォーク歌手の友川かずきだが、彼もまた秋田から出てきた人だ。そこへいくと東山紀之こそが川崎ネイティブ、文字通り「カワサキ・キッド」なのだな。
ラストの川崎再訪の文章が特にいい。





2017年7月15日土曜日

夏本番

猛暑日。暑い。
義妹が長男の誕生日のプレゼントを買ってあげたいというので、妻子を連れてつくばイオンに行く。
3連休の初日だからなのだろうか、車が多い。いつもは1時間ぐらいで行くところが、今日は1時間半かかってしまった。
義妹とはイオンで待ち合わせ。子どもたち二人、義母からもお小遣いを頂戴する。
長男は色々買ってもらってご満悦だった。
昼はフードコートで食べる。私は楼外楼の麻婆チャーハン。
本屋で東山紀之の『カワサキ・キッド』の文庫を、CD屋でエルトン・ジョンの『グレイティスト・ヒッツ』を買う。
その後、最近長男がコーヒーを飲むようになったので、レギュラーコーヒーを淹れるセットを買う。息子とコーヒーが飲めるようになったか。5年もしたら、今度は酒か。

ご近所から夏野菜をたくさんもらったので、夕食は夏野菜のピザ。ビールに赤ワイン。旨し。

庭の桔梗、前山の山百合が咲く。いよいよ夏本番だねえ。





2017年7月14日金曜日

水戸 備前掘

先日、水戸に泊まった時、そのホテルが備前堀の近くであることに気づいた。
チェックアウトして、桜川沿いをぶらぶら歩きながら、備前掘へと向かう。


備前堀は、初代水戸藩主徳川頼房が灌漑と桜川・千波湖の洪水防止のため、伊奈備前守に命じて作らせた用水堀である。桜川と涸沼川を結び、現在も農業用水として使われている。1996年には新水戸八景にも選ばれ、特に下市地区周辺は歴史ロードとしても整備されている。
行くのは初めて、地図も持ってはいないが、何とか当たりをつけて向かってみる。


水門があったので堤防を下りてみると、これが大当たり。


ここから堀端を歩くことにする。


両岸には柳が植わっている。ちょっと佐原の小野川沿いに似た雰囲気だ。

竃(かまど)神社にお参り。


染物屋さんが何軒かあった。

伊奈備前守の像。

三叉水門。

かつてはここで堀はY字路状に分かれていたという。

歴史ロードとして整備されているのはこの辺りまで。またぶらぶらと戻った。


駅からちょっと距離があって、駐車場も近くにない。歴史ロードとして整備しているからには、もうちょっと客を呼び込む工夫があってもいいと思うんだけどねえ。

2017年7月11日火曜日

プロ野球ファン

落研OB会の2次会はカラオケだった。
歌ったのは1曲だけ。あとはずーっと喋ってた。
その1曲も八海くんたちが歌った『六甲おろし』だ。

私たちの学生時代といえば、プロスポーツといえば野球だった。
前述のとおり八海くんは熱狂的な阪神ファンだった。何しろ自分の結婚式のキャンドルサービスで『六甲おろし』で登場したくらいである。他にトラキチは世之助くん、1級下ののん平くんがいた。
広島出身の弥っ太くんは、もちろん広島ファン。悟空くんは近鉄ファンだった。
あの伝説の日本シリーズ「江夏の21球」の時は、部室でラジオの実況中継にかじりついていた。私たちの大半は、西本監督に悲願の日本一を達成させてあげたくて、悟空くんと近鉄に声援を送っていた。江夏によってスクイズが外された場面では、文字通り落胆の雄たけびを上げたよ。
巨人ファンは酒合丈くん、楓さん。五里んくんも大阪出身にもかかわらずG党だったよな。(先日は『六甲おろし』を歌ってたけど。)
そうそう二代目紫雀さんはシブいところでロッテ・オリオンズのファンだったな。

私は巨人ファンの末席にいた。江川卓と長嶋茂雄が大好きだった。あの江川の糸を引くようなストレートの美しさがたまらなかった。
ただ私はチームそのものよりも選手個人に惹かれていくようになる。
大学を卒業した後は巨人ファンの看板を下ろし、年ごとに応援するチームが変わるという節操のない人間になった。たぶん八海くんには、ことプロ野球ファンとして許しがたい存在だろうな。
江川引退後は落合博満を好きになった。長いバットをしならせて打つ美しいフォームに魅了されたのだ。特に中日時代、巨人の西本のシュートをとらえた逆転サヨナラホームランは目に焼き付いている。
そして近鉄時代の阿波野秀幸。あんなにしなやかで躍動感のあるきれいなサウスポーを、私はそれ以前も以後も見たことがない。
あの頃の仰木彬率いる近鉄バファローズはいい。中西太コーチの指導のもとびゅんびゅん振ってくる「いてまえ打線」も小気味よかった。その後の時代の、エース野茂英雄や主砲石井浩郎も好きだったなあ。

村上春樹が東京に出てきた時、ヤクルトファンになることを選び、そのままずっと応援し続けているように、私も川崎に住み着いた時に、ロッテ・オリオンズのファンになるべきだったのかもしれない。4年間川崎球場に通い、負けても負けても負けても声援を送り続けるのもよかったかもしれない。そんな腰の据わったファンになってみたかったという憧れはある。
でも、惚れっぽい私にとっては色んなチームや色んな選手を応援できる、今のスタンスが性に合っているのだろう。
今は茨城県牛久高校出身の渡辺直人選手を応援している。必然的に西武ライオンズの結果が気になる。渡辺の現役中に西武ライオンズが優勝してくれることを、私は祈っているのである。

近鉄バファローズの帽子。
岡本太郎のデザインであります。

2017年7月9日日曜日

落研OB会

上野で落研の仲間で集まった。
「久し振りに飲みたいねえ」と酒合丈くんと言っていたら、八海くんから「わしもまぜてくれ」と反応が来て、「じゃ八海が東京へ出てくることがあったら、皆で集まろうや」という話になっていたのである。
八海くんが指定してきた日は、私にはけっこう優先順位の高い仕事が入っていたのだが、何とかやりくりした。(たぶん八海くんも気を使ってくれて、場所を上野にしてくれたのだろう)
上野駅で八海くんと合流して、会場の居酒屋に向かう。上野駅浅草口を出てすぐの所だ。
店に入ると酒合丈くんが先に来ていた。落研当時と同じく酒合丈くんが会計係になって会費を集める。
集まったのは、うちの代からは、酒合丈くん、八海くん、弥っ太くん、夕姫さん、楓さん、私の6人。1つ下は大福くん、風公くん、牛丼くん、のん平くん、露漫(ろまん)さん、2次会からは松時(シュータイム)くんが参加した。2つ下は五里んくん、小鉄くんの2人。さらにその2つ下の代からも、吾助くん、小夏さんの2名の参加があった。
さすが八海くんが招集をかけると結構な人数が集まるな。
楓さんは卒業以来会ってなかった。楓さん自身、上京するのも卒業以来とのこと。
それでも、飲んで話し始めれば、あっという間に時間があの頃に戻っちゃうんだけどね。
皆、お互い「変わんないね」と言い合っていたけど、ほんとは皆、あの頃のままじゃないことはよく分かっている。それぞれに色々あって、人生の苦みやら嫌というほど味わい、どうにかここまでやって来たんだ。それでもここで瞬時にあの頃とおんなじ気持ちで話し合える、そこが素晴らしいんだよ。
昔話に花は咲くが、皆覚えてることのポイントが、ちょっとずつ違ってて面白かったな。
終電までたっぷり飲んで喋って笑って、楽しい夜でした。

落研の部室があった、通称「らせん階段」。
すべてはここから始まったのだ。