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2017年7月18日火曜日

備前掘 たまげ橋


水戸の備前掘歴史ロードの中ほどにある「たまげ橋」。
水戸街道の起点。旅に出る者とここで別れなければならない嘆き悲しみから、魂も消える「銷魂(たまげ)橋」と名付けられた。


江戸時代は高札場でもあったというから、人通りも多かったのだろう。


ここでは幕末の元治甲子の乱(俗に天狗党の乱)で戦闘があった。
当時の藩主は水戸徳川家10代目慶篤。彼には定見がなく、強く訴えられると、すぐその意に沿った命令を出してしまう。「そうせい公」とか「よかろう様」などととあだ名されたほどだった。(慶篤の諡号は順公。斉昭の烈公といい、うまく付けたものだ。)結果的にそれが水戸の内乱を激化させた。
前藩主斉昭が尊王攘夷派を重用した反動で、慶篤の時代になると門閥派が息を吹き返してくる。尊攘派の過激グループ、天狗党が筑波山で挙兵し、幕府が追討を命じると、門閥派は、幕命に従い天狗党を鎮圧することこそが御三家である水戸藩の使命であると主張、慶篤に働きかけ、藩政の実権を握った。しかし、門閥派の首領、市川三左衛門が水戸城に入り、尊攘派を弾圧すると、今度は江戸詰の尊攘派が働きかけ、市川らを諌めるために水戸藩の支藩、宍戸藩の藩主、松平頼徳を名代として水戸へ送ることになった。頼徳一行には、やがて尊攘派の重鎮、水戸藩家老武田耕雲斎らが合流する。
尊攘派にかつがれた感のある頼徳一行を、市川三左衛門が水戸城に入れるはずがない。市川は入城するのであれば頼徳一人でと条件をつけた。藩主名代としてやって来た自分に単身入場せよとはあまりに無礼であろう、と頼徳はそれを拒否。両軍は「銷魂(たまげ)橋」を挟んで睨み合う形となった。
その場面を『天狗争乱』の中で吉村昭はこう描く。
「道の前方には備前掘という豊かな水がながれている用水路があって、そこに消魂橋(たまげばし)という橋がかかっている。その備前掘の向こうに門閥派の兵たちが陣をしき、多くの朱色の旗を立て、その先兵は消魂橋をわたって藤柄町まで押し出していた。」
「その時、砲声が空気をはげしくふるわせた。藤柄町に押し出していた門閥派の兵が頼徳の前衛隊にむけて発砲したのだ。」
「頼徳の前衛隊も大砲で応戦したが、すでに日没をむかえていたので、戦いはやんだ。」
頼徳の怒りは激しかったが、城下を戦乱に巻き込むのを避け、攻撃は控えた。
その後、一行は物資の豊かな那珂湊へと向かう。そして那珂湊で門閥派との大規模な戦闘があり、結局、頼徳は幕府に逆らったかどで切腹を申し付けられる。この内戦で頼徳ほど貧乏くじを引いた人はいないだろう。

水戸城に向かって橋を渡った所を七軒町という。門閥派が陣を敷いていたのはこの辺りか。猛暑日の真昼間、歩いているのは私一人だった。



近くにはハミングロードという商店街がある。伊勢屋という甘味処のラーメンが旨いというので行ってみたら、休みだった。


私好みのシブい建物もありました。


ぶらぶらしたかったけど、熱中症になりそうだったので勇気ある撤退。
昼はイオンタウンの丸亀製麺でおろし醤油うどん(冷)を食べ、妻子にKOSAIのシュークリームをお土産に買って帰る。

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