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2018年5月8日火曜日

木比提(きびさげ)稲荷神社

旧水戸街道沿い、筑波乳業の向かい側にこんな石碑がある。


「これよりきびさけいなり道」と読める。
以前から気になっていたので、散歩のついでに行ってみることにした。
まあまあ歩いた。前方にこんもりした森が見えたので、ここかなと思ったら、果たしてそうだった。


まるで伏見稲荷を思わせる奉納鳥居。一目見て、ただものでないのが分かる。




よく見たら、本殿の前面が炭化している。どうやら火事で焼け残ったらしい。拝殿がやけに新しいので、そっちが焼けたのだろう。



家に帰って、先日買った『石岡の地名』(石岡市教育委員会刊)で調べてみたら、以下のようなことが分かった。
このお稲荷さんは、木比提(きびさげ)稲荷神社という。祭神は宇迦魂命。創立年は不詳だが、ずっと府中大掾氏の鬼門の守りとされてきた。大正6年から大正12年にかけて東京の講中が参拝して隆盛を極め、当時は笠間稲荷を凌ぐほどだったという。関東大震災後、東京の講中が絶え衰微した。
どうしてこの稲荷神社が突如脚光を浴びたのか。多分それには次のような伝説が関与しているものと思われる。
「昔、真家に関本道之助という人がいた。明治の半ば頃、高浜へ行った帰り、国分寺の薬師様の祭りで子狐が二匹、籠に入れられて見世物小屋に売る相談をしていたのに出会った。道之助はそれを憐れんで買い取り、木比提の杉森に逃がしてやった。数年後、あの狐はどうしているかと、木比提の森で声をかけると、白い狐が現れて逆立ちして見せたという。大正半ばのある夜、お稲荷様が夢枕に立った。早速夢に見た所を掘ってみると、一朱金が一枚出てきた。その年の秋にも夢のお告げがあり、陸稲畑の株の間から一朱金を見つける。こうしたことが度重なって、とうとう小判合計百枚余りとなった。一応警察に届けたところ、新聞に掲載され世間の評判となった。見聞した村人たちはお稲荷様の御利益のあらたかなのに感心し、講中を作って二斗餅を奉納し、毎日参拝したということである。」
その新聞記事を、東京の人たちも見たのだろう。新聞に掲載されたというのが大正の半ば、この神社の最盛期と符合する。東京から田舎町の郊外にある稲荷神社に大挙して参拝客が訪れたのも、そんな事情があったからなのだ。面白いもんだねえ。

鳥居には新しいのもある。現在も奉納している方がいるのだろう。

境内には奉納記念の石碑もいくつかある。
これは土地を奉納したもの。大正11年11月建立。
他には「金百圓」や「杉苗」なんていうのもありました。

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