この前の記事で香盤(芸人の序列)というのが出てきた。
昭和23年(1948年)の芸術協会と落語協会の名簿があるので見てみよう。この順番がいわゆる香盤順であろう。
まずは芸術協会から、真打のみを記す。
*五代目柳亭左楽 六代目春風亭柳橋 初代桂小文治 三代目春風亭柳好 五代目古今亭今輔 橘ノ圓(三代目桂三木助) 八代目三笑亭可楽 四代目三遊亭圓馬 二代目桂枝太郎 四代目三遊亭圓遊 二代目三遊亭遊三 五代目柳亭燕路 柳亭痴楽 立川ぜん馬 桂文一(九代目土橋亭里う馬)
*印を付けた、左楽は別格となっている。芸術協会創設からの会長である柳橋が、やはりその筆頭となるべきであろう。この中でいちばん新しい真打ちは柳亭痴楽。あの「綴り方教室」の痴楽である。ぜん馬、文一(この年に九代目土橋亭里う馬を襲名した)は寄席にもあまり出ていなかったためか、真打の末席に連なっている。
では落語協会。これも真打のみ。
*八代目桂文治 八代目桂文楽 五代目古今亭志ん生 二代目三遊亭円歌、六代目三遊亭圓生 蝶花楼馬楽(八代目林家正蔵) 八代目春風亭柳枝 桂右女助(六代目三升家小勝) 九代目鈴々舎馬風 翁家さん馬(九代目桂文治) 三代目三遊亭小圓朝 九代目金原亭馬生 三代目柳亭燕枝 四代目柳家つばめ 四代目立川談志 五代目三遊亭圓左 月の家圓鏡(七代目橘家圓蔵) 古今亭志ん馬(二代目古今亭甚語楼) 柳亭市馬 柳家小三治(五代目柳家小さん) 華形家八百八(六代目蝶花楼馬楽) 三遊亭歌笑 古今亭志ん橋(十代目金原亭馬生)
文治も別格になっているが、彼は当時の落語協会会長である。本来は名実ともに筆頭であるはずなのだが、晩年、文治は寄席で売れず、出番も軽んじられており、実質のトップは文楽だった。
ここで特筆すべきは、香盤上位、文楽から馬楽までの所だ。
香盤順では①文楽、②志ん生、③円歌、④圓生、⑤馬楽(正蔵)だが、真打昇進順となると、①文楽、②圓生、③馬楽(正蔵)、④志ん生、⑤円歌、となるのである。
現在では香盤順は真打昇進順であり、それはずっと変わらないとされているが、昔は落語家の協会間の移動も多く、その度に序列も変動した。また名前の格や席亭、観客の評価なども影響したのだろう。志ん生は、昭和10年代後半の時点で文楽と並称されていたし、円歌は明るい芸風と『呼び出し電話』等の新作落語で売れに売れていた。この二人が、昭和初期に低迷が続いていた圓生と馬楽(正蔵)を抜いたのは、仲間内にとって自然なことだったのかもしれない。
しかし、三遊本流の本格派を自負していた圓生は、円歌が上にいるのが我慢ならなかったという。(円歌は地方の天狗連出身、新潟訛と吃音に苦労した人である。)
この後、落語協会の会長は、文治から文楽、そして志ん生へと移っていく。志ん生が病に倒れた後、文楽が再登板するが、その次の会長は志ん生の意向もあって、円歌を飛ばして圓生に行く。文楽、志ん生、圓生という流れ、しかも円歌を飛ばしたということは、「落語協会の会長は古典の本格派であらねばならぬ」という強烈なメッセージにもなったに違いない。
7 件のコメント:
八代目桂文治師 戦前は名人と云われたらしいですが、
戦後は人気が弟子の文楽師や志ん朝師に追い越され、主任を取る事も無くなっていたのでしょうか?
若くして名人と云われると、変な方向に行ってしまうという感じだったのでしょうか?
談志師が「私が入った頃は変な声と抑揚だけでやっている」
「若い時に極めると、どうして良いか解らないと云う感じの典型」と云われてました。
八代目文治は戦後、四代目小さんの後の落語協会会長になりました。小さんも文治も、五代目小さんは昭和の名人に挙げています。
ただ、人気は文楽・志ん生の方が上だったのでしょう。
文治の晩年は寄席でもあまり重く用いられず寂しいものだったといいます。
若くして名人と言われても変な方向に行くとは限りません。八代目文楽も、志ん朝も、若い時から高い評価を受けていましたが、それぞれ時代を代表する名人になっています。
彼らは自分のスタイルに「飽きなかった」ことが大きいんじゃないでしょうか。
文治の「夜桜」の音源を聴くと、ボブ・ディランの90年代みたいな変な発声をしています。文治もディランも一つのスタイルを貫く根気がなかったんでしょうね。ディランは2000年代になって、もうひと化けしてノーベル文学賞まで取ってしまいましたが。
談志だって若い頃は楷書の芸でしたが、「人間の業の肯定」を言い出してからはずいぶん芸風が変わりました。立川流を立ち上げてからは、信者の囲まれてよりいっそう乱暴になって行ったと思います。
私は昭和50年代、談志の熱心なファンになりましたが、平成の談志からは離れて行きました。新宿末広亭の北村銀太郎席亭が「談志は歪んだ感じに進んで行く」と予言しましたが、その通りになったと私は思います。
≫彼らは自分のスタイルに「飽きなかった」ことが大きいんじゃないでしょうか
談志師が文楽師は「飽きる前に衰えた(高座に上がらなくなった)」
志ん朝師は(60過ぎで早い死去でしたが)「いい時に死んだよ(これも非難もありましたが談志師的な
追悼の思いだった)」と云われていたと思います。
唯自らの芸を基盤として変な方向に入り込まずに、年相応の芸に変化された、談志師がこの事で
誉めているのが師匠の小さん師と晩年の志ん朝師の枕「年取ると立ち上がる時に寄りかかったり、よいしょ
と云う」と云う事をどぎつくなく嫌味もなく見事だと称賛していたと思います。
》文治の「夜桜」の音源を聴くと、ボブ・ディランの90年代みたいな変な発声をしています。文治もディランも一つのスタイルを貫く根気がなかったんでしょうね
多分名人と云われるとそれ以上にと思い変な方向に入って行くという事もあるのでしょうか?
やはり60前半で自死をされた上方の桂枝雀師もそうだったと思います。
≫「人間の業の肯定」を言い出してからはずいぶん芸風が変わりました。立川流を立ち上げてからは、信者の囲まれてよりいっそう乱暴になって行ったと思います。
私は昭和50年代、談志の熱心なファンになりましたが、平成の談志からは離れて行きました。新宿末広亭の北村銀太郎席亭が「談志は歪んだ感じに進んで行く」と予言しましたが、その通りになったと私は思います。
談志師も晩年は志ん朝師の様に成りたかったが、自分のキャラクターでは出来ない、故に変な方向に入って行った、立川流の独演会等で自分の好きな様には出来るが、落語の基本と云うレベルはかなり落ちていたと
協会時代からの弟子、談之助師も云った居られたと思います。
そのもうひと化けが出来る人と、逆に変な方向に行く人とに分かれるのでしょうか?
人それぞれなので一概には言えませんね。
私は、談志は歪んだ方向に行ったと思っていますが、談志自身は「おれはピカソになったので、ついて来られなくなったやつもいた」という認識でした。熱狂的なファンもできたし、それはそれでいいでしょう。
志らくや吉川潮あたりの談志神格化が、若い落語ファンにも浸透しているというのが、私の感想です。
談志師は立川流で談志教のファンの人には良かったが、
仰られた様に歪んだ方向に行ったという見方も強かったと思います。
さて、昭和23年頃の香盤ですが、馬風 さん馬(後の九代目文治) 小圓朝
そして早くに亡く成られた 談志 つばめ(先先代)燕枝 圓左 市馬と云われた人達は
人気の面で低迷したので、この位置なのでしょうか?
何かで読みましたが、小さん(当時小三治)師が芸術協会に引き抜かれそうになったので、
香盤を上げ、先輩である馬風 さん馬(後の九代目文治) 小圓朝の上にされたと云う様な話を読んだ事が有ります。
ホール落語などで名人と云われる文楽 圓生 小さんから馬生 志ん朝と云う様な人の芸も良いが、
寄席でしか見られない 七代目圓蔵 九代目文治 馬楽 さん助等と云う様な人も興味深いと
高田文夫氏云われていたと思います。
この時代も(この様な事を云っては失礼かもしれませんが)馬風 さん馬(後の九代目文治) 小圓朝
という人はその様な感じだったのでしょうか?
先代馬風は奇人としても逸話が多く、芸人らしい芸人だったと思います。愛嬌のある毒舌で人気もあったといいます。卒中で倒れた後の復帰の高座の音源が残っていますが、楽しい高座ですよ。
九代目文治は大好きでした。「今戸焼」なんか絶品。抱腹絶倒でした。この人もエピソードが多く楽しい人です。是非調べてみてください。
小圓朝は、若手の頃あの名人圓喬の未亡人が絶賛したほど上手かったといいます。確かな芸を持ちながら、文楽・志ん生のような新しさに欠け、人気は出ませんでした。ただ、稽古台として慕われ、多くの落語家が稽古に通ったそうです。文楽のマネージャー出口一雄の姪御さんの証言を、当ブログで記事にしていますので、お読みください。
私も、先代小せん、圓菊、川柳など寄席派の人たちが大好きでした。
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