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2019年6月30日日曜日

かすみがうら市「ウェスト・ハウス」 和風鴨ネギパスタ


この週末、長男の誕生日のお祝いに、昼は親子四人で食事に出かけた。
かすみがうら市の「ウェスト・ハウス」。
私は和風鴨ネギパスタ。サラダとドリンクバーのセットを付ける。


サラダのドレッシングはオリジナルのカレー風味。旨かったよ。



つけめんのように、スープに浸して食べる。私は和風パスタが好き。旨しでありました。
子どもたちは、ラーメンみたいだと言っておりましたが。

こちらは妻が食べたチーズハンバーグ。贅沢にチーズを使っていて、お味をみたら、こっちも美味しゅうございました。


居心地のいいお店。また来ましょうね。

2019年6月28日金曜日

宝の山

高山T君に、「Sakak's Gaget Blog」というのを教えてもらった。
行ってみると、商店街やらB級スポット的な所やらの写真がふんだんにある。まさに宝の山。私好みのブログだった。
名古屋を中心としたエリアがホームグランドらしい。特に瀬戸の商店街が好きなようで、よく取り上げられている。私も、高山T君と一緒に旅した時、瀬戸の街並みに心惹かれた。
私が撮った瀬戸の街並みを載せてみる。








瀬戸はいい街だったなあ。また行ってみたい。

また、南千住のこの写真と同じ所で撮っている写真もあった。私が撮った写真はこちら。


こちらは2005年の撮影。むこうはつい最近だったな。
それはともかく、同好の士がいてくれるのはうれしい。もっとも、あちらは写真の方はプロですが。

2019年6月23日日曜日

古今亭志ん朝と立川談志


私が生で聴いたことのある落語家では、やはり古今亭志ん朝と立川談志が双璧だな。私たちの世代にとっての「俺たちの名人」であり、昭和落語の最高峰、文楽・志ん生に匹敵する。
ただ、情報量でいえば、志ん生が文楽を圧倒しているように、談志が志ん朝を圧倒している。志ん生の場合、志ん生ファンの情報発信が(息子である十代目金原亭馬生や志ん朝経由のものも含めて)多い。それに対し、談志の場合、談志信者に加え、談志本人による情報発信も夥しいんだな。談志伝説の成立には、この情報量の多さが貢献しているように、私には思われる。
それでも志ん朝に対する情報も、やはり同時代の落語家の中では抜きん出ているし、その中には貴重なものが多く含まれている。
その辺りの所を、今回は紹介していこうと思う。

2005年に河出書房新社から出た、志ん朝の対談集『世の中ついでに生きてたい』は、志ん朝本人の人生観や落語観が、本人の言葉で語られている好著である。
その中で、立川談志について語っている所がある。志ん朝は他人の芸に対して、あれこれ論評することは、あまりない(この辺りが談志とは対照的なところだが)。しかもそれが、周囲からライバルと目されていた立川談志についてなのだから、興味深い。これについての落語評論家の論評をあまり目にしたことがないので、ここで取り上げてみる。

お相手は江國滋。1994年の対談である。
江國が山藤章二の言葉を引いて、「談志は志ん生の系譜、志ん朝は文楽の系譜」と持ち掛けたのに対し、志ん朝はこう答えている。
「まあ、談志さん自身、志ん生に対する憧れが非常にありますから。ただ、大変だろうなと思うのが、極端な言い方をしちゃうと、三平兄さんの芸をそのまんまやるのに似てるところがあるんですよね。というのは、三平兄さんの高座はあの人がやるもんで、あの人そのものですから。志ん生の芸にもそれがあるんですよね。志ん生そのもので。」
「(前略)談志さんにしてみれば、親子でもないし自分の師匠でもない、ただ好きなはなし家であるということから、落語をやるというより志ん生をやることになっちゃう。そうなるとつらかろうと思いますよ。」
「僕なんかが見てて、ちょっと違うなと思うのは、志ん生をやるときに、かたちとして乱暴が出てくるんですよね。話したことがないからわからないんですけど。落語というのは業の肯定だということを彼はよく言うんです。だからといって、イコール乱暴というもんではないとわたしは思うんですが。乱暴なやり方をすると志ん生に近いかなという考えをひょっとすると持っているかもしれないんですね。僕らが『ああ、すばらしいなあ』と思っていたころの、小ゑんから談志になる時分、あのころのあの人の芸風ってのは、志ん生はやってなかったと思うんです。」
「あんなすばらしい調子の人もいなかったですからね。それをそういうふうにやらないから、わたしなんかはどっちかいうとイライラしちゃうんですよね。やってちょうだいよ、と思う所があって。(後略)」

こういうことは、柳家小三治も言っている。朝日新聞「語る—人生の贈りもの—」より引用する。
「(立川談志について)あの先、どうなったんだろうって思いはあります。若い時から口調もしっかりしてたし、落語をまともにやって、まともにおもしろいんですから。みんなその技量がないからギャグを入れたりするわけでしょ? 家元になりたいとか、議員になりたいとかということがなければ、とんでもない人になっていましたねえ。『家元・元祖』って言われるものに、知らずのうちになれる人だったと思いますよ。」

談志の高弟、立川談四楼は著書『談志が死んだ』(新潮文庫)の中でこのように綴っている。
(談志が亡くなって、その「お別れの会」のシーンから。)
「二〇〇七年と一〇年の『芝浜』を聴き、昔の師匠は上手かったと龍志が言ったのは、立川流以前の弟子の共通した思いだった。二〇一〇年の『芝浜』はもちろん、〇七年の伝説の『芝浜』も、技術的にいい出来ではなく、下手である。セリフは噛む。上下を間違え、妙な間さえ空く。これを落語家は下手と呼ぶのだ。
 しかるに会場の感動はどうだ。居合わせた客の誰もが〇七年の『芝浜』はよかった、感動した、神が降りたと称え、体力が落ち、ほとんど聞き取れない一〇年の『芝浜』さえ、涙まじりに、スゴかった、あの人は紛れもなく神だと言い募る。
 ここかと思えばまたあちらと、談志は変貌を遂げた。その速さにとり残された客と弟子がいた一方、変わらず愛し続ける客がいたということか。ああ、半端だなと自分の存在を思う。一門の上と下を、以前と以後を行きつ戻りつしたつもりだったが、それぞれを深く知っちゃいなかったのだ。それでいて両者の橋渡し役のつもりでいたわけで、ま、グレーゾーンもよしとするか。」

山藤章二や、談志本人が言うように、談志は写実を超えて、ピカソが達した域へと行ってしまったのかもしれない。ついていけない者は、それまでのレベルだったということか。
談四楼は会場の客の誰もが感動していたと言うが、少し意地悪な言い方をすれば、そこにいたのは談志信者といってもいいファンばかりであったのであり、例えば新宿末広亭のトリ席だったり、名人上手が腕を競う東横落語会の高座であったりというのであれば、果たしてどうだったか。談志自身の「技、神に入る」という言葉と、それに続く信者の賞賛とが、あの高座を「伝説の名演」に上書きしてしまったのではないだろうか。

私もまた「取り残された客」の一人である。
談志を巡る論議では、信者による盲目的な賛美と、アンチの談志への人格攻撃とに分断されている。私としては、志ん朝や小三治、談四楼のような視点がしっくりくるのだが。

『世の中ついでに生きてたい』の続編で、『もう一席うかがいます。』(2006年・河出書房新社刊)というのがある。
この中の村松友視との対談(2000年のもの)で、志ん朝は次のようなやり取りをしている。

村松 (前略)、こうなったら勇気をもっておたずねしますが、談志さんとの「二人会」とかあり得ます?
志ん朝 ええ・・・、一度はやってみたいんですがねえ。
村松 こりゃあ、すごい!
志ん朝 それはね、さっきの志ん生襲名の話よりね・・・、私にとっての意味は大きいかもしれない。
村松 第三者がとやかく言うことじゃないけど、これはうれしい話だなあ。
志ん朝 飲んだ勢いで言うんだけれど、俺もそう思うけれども、あの人もたぶんそうだと思うんだよ。俺がいて幸せだと思いますよ。

最後の台詞がぐっとくる。翌年、志ん朝は亡くなり、結局、「二人会」は実現しなかったけれど、この二人には二人でしか分からない感情があったのだろう。
そういえば、文楽・志ん生の最後の対話でも、志ん生が「二人会やろう」と言っていたっけ。

2019年6月19日水曜日

2005年10月1日のこと

2005年10月1日、私は南千住の駅に下りた。
この日は土曜日だったが、午前中に仕事があって、それを済ませて上野の鈴本演芸場に行くつもりだった。いつもはのんびり街歩きをするのだけれど、時間的余裕もなかったので、せめて都電荒川線に乗ろうとしたのである。
南千住から三ノ輪まで歩く。

私にとっての南千住駅前の象徴的存在、金太楼鮨。

そのお隣も風情があった。
商店街に入る。



もつ焼き屋さん。
この頃は、生ビールのポスターといえば、ビキニのお姉さんでしたな。



都電荒川線、三ノ輪橋駅。
ここから大塚まで荒川線に乗り、上野に出た。
サンドイッチを買って鈴本演芸場の列に並ぶ。夜席のトリは柳家小三治なのだ。
満席のお客。この少し前から小三治は気楽に聴ける落語家ではなくなったな。
柳家喬太郎が、社会保険庁が民営化され、年金の取り立て屋が活躍するという新作落語で、どっかんどっかん爆笑を取っていた。年金はまた最近、旬な話題になってしまったなあ。
小三治は『小言幸兵衛』。フラでもって行く感じ。マクラを入れて40分、充実の高座だった。
上野駅で押し寿司を買って帰り、寝しなにそれでビール、酒を飲んだ。
10月1日といえば、古今亭志ん朝の命日。小三治が演じたのが、志ん朝の得意ネタ『小言幸兵衛』だったのも、ただの偶然ではなかったのかもしれない。


2019年6月16日日曜日

梅雨の晴れ間

朝、マフィン、紅茶。
昨日とは一転して晴天。暑くなる。


内田百閒『冥途』を読む。ひとつひとつは短いが、ゆっくり読むべき小説。
昼は妻が作った焼うどん。旨し。
昨日の雨、今日の風で空気はきれいになった。気温のわりにはさっぱりした天気。
牛堀出身の画家、小堀進が描くような雲が出ていた。




午後、妹が来る。
父の誕生日と父の日を兼ねた宴会をやる。妹夫婦も参加。刺身、天ぷらでビール、酒。
子どもたちからはハートランドビールをもらう。嬉しい。
妹夫婦にはミー太郎もなれてきたみたい。
暑かったせいか、ミー太郎は二階でごろごろしていたな。


2019年6月15日土曜日

一日中雨


一日、ずっと雨。
朝、パン、ウィンナーソーセージ、チキンナゲット、紅茶。
長男は模試だといって学校に行く。
妻と次男は、妻の実家に遊びに行った。
コーヒーを飲みながら、この間買ったCD、バロック集を聴く。
内田百閒を題材にしたマンガ、『ヒャッケンマワリ』(竹田昼・白泉社刊)を読み始めたら止まらなくなる。細かいから、また時間がかかるんだ。


昼はチャーハンを作って食べる。味付けは魔法の調味料、香味シャンタン。旨し。


午後、地区の生涯学習センターの映画会に行く。
沖縄の辺野古基地反対運動を描くドキュメンタリー映画、『戦場ぬ止み(いくさばぬとぅどぅみ)』。初めのうちは「現政権支持者だったら、こういうツッコミを入れるだろうな」とか思いながら観ていたのだが、そのうちに画面の中に引きずり込まれ、いつのまにか、ぼろぼろと涙がこぼれていた。どうして、これほどまでに沖縄の人々の思いが、踏みにじられなければならないのだろう。
これは2015年の作品である。辺野古反対を鮮明に打ち出した翁長雄志氏が知事選で圧勝し、その後行われた衆院選でも自民党候補はことごとく敗れた。沖縄の民意は辺野古反対を明確に示したはずなのに、それを無視して国が強引に工事を進めるところでこの映画は終わる。
それから4年経っても状況は変わらない、いやもっとひどくなっていることを、私たちは知っている。翁長氏死去に伴う知事選でも、翁長氏の後継、玉城デニー氏が勝ち、県民投票でも辺野古米軍基地建設に伴う埋め立てに反対を投じた人々が7割を占めた。にもかかわらず、国は埋め立て工事を強行している。まるで「いくら反対しても無駄だ」とでも言うように。そして、辺野古基地に反対する人々への、現政権支持者による攻撃がそれを後押しする。
映画の中で菅原文太氏は言う。「この海も山も、国家のものではありません。そこに住む人たちのものです。国家がそれを取り上げることはできません。」
日本国は、現政権や現政権支持者だけのものではない。

霞ケ浦沿いを車を走らせ、スーパーに寄って酒を買って帰る。


ちょうど、妻と次男が帰って来たところだった。
夕食は、鶏の唐揚げ、煮物でビール、酒。
今日はミー太郎、一日家の中だったな。


2019年6月11日火曜日

鹿島神宮東の一之鳥居


鹿嶋市明石にある、鹿島神宮東の一之鳥居。
出雲で大国主命からの国譲りを済ませた武甕槌命は東国に入り、ここに上陸したとされる。
ちなみに西の一之鳥居は北浦湖畔に、南の一之鳥居は息栖神社の前に、北の一之鳥居は神戸の森にある。

西の一之鳥居。

南の一之鳥居

神戸の森にあるという北の一之鳥居はまだ見ていない。
もう少し、東の一之鳥居を載せる。


海は防潮堤の向こうにある。
すぐ近くにある道標。
高台には灯台もある。

2019年6月9日日曜日

梅雨寒の一日

朝、トースト、目玉焼き、ウィンナーソーセージ、スープ。
梅雨空、寒い。
朝イチで散歩がてら床屋に行く。

アジサイが色づき出した。

栗の花が満開。


午前中、ピアノの調律が来る。
昼はマルちゃん正麺の塩、昨夜の石焼ビビンバ。
午後は子どもたちが床屋。
モーツァルトのピアノ協奏曲を聞きながら昼寝。
皆で「世界の果てまでイッテQ」の録画を観る。
夕方妻とハートランドビールを飲む。
夕食は、茄子・ピーマン・豚バラの炒めもの、シューマイ、ジャガイモの蒸かしたのでビール、酒。
夜になって雨が降り出す。

ふと、この前の夏場所の千秋楽、トランプ氏が来た時の国技館を思い出す。
あの日、トランプ氏が来場した後、朝乃山と御嶽海が土俵に上がっても、土俵の周りの観客は、立ったままトランプ氏の方にカメラを向けていた。一種異様な光景だった。私はテレビで見ていて、力士に対する敬意のないことに一瞬憤ったが、その後、あの辺りにメディアでよく見る顔がたくさんいたことに気がついた。そうか、あの日、あそこにいたのは純粋な相撲ファンではなかったのだ。そうでなければ、次代を担うホープ同士の取り組みに(しかも一方は本場所優勝力士だ)、いつまでも背を向けていられるはずがない。あの振る舞いは、彼らが相撲よりもあの方々に価値を置いていたということを、正直に示していたと思う。
・・・今更ながらですが、ただの個人的な感想ですよ。

2019年6月8日土曜日

昔の写真 ~火の見櫓その22

昔の写真を見ていたら、火の見櫓のが出てきた。
時期としては、1990年代の末か、2000年代初頭だと思う。
まずはこれ。


つくばの大角豆からちょっと西へ向かったとこ、友朋堂という本屋があった辺りじゃないかな。

お次は小川。


小川の町営駐車場の近く。旧園部川が暗渠になっている、旧小川河岸の辺りだ。
ここに火の見櫓があったことなんぞ、きれいさっぱり忘れてた。
人間の記憶なんてそんなものなんだなあ。

この頃、あまり火の見櫓に興味はなかったはずなんだけど、写真には撮っていたんだねえ。

2019年6月7日金曜日

2003年1月5日のこと

先日、「ちょっと昔の東京」という記事を書いた。
その南千住で撮った写真の日付が、2003年1月5日だった。当時の手帳で確認したところ、私は妻の実家からホリデーパスを使って上京したようだ。

まずは小田急線で向ケ丘遊園まで行く。向ケ丘遊園は私が大学に通っていた頃の最寄り駅。向ケ丘遊園が閉園した少し後だった。小田急向ヶ丘遊園駅前から、遊園地までを結んでいたモノレールの撤去工事が行われていた。


手帳には「向ヶ丘マーケット、じょんじょこがなくなっている。」とある。この二つの建物がなくなったのを私が認識したのは、この2003年1月5日だったんだなあ。
在りし日の向ヶ丘マーケットとじょんじょこはこちら。



この日の向ケ丘遊園で、私は深い喪失感を味わったに違いない。

昼食は、インドールでインドールカレーを食べた。

この写真は2015年に食べた時のものである。

その後、登戸から南武線に乗って川崎まで出て、上野に行く。

南武線登戸駅のホーム。

鈴本で初席の第二部を観ようとしたのだが、切符が取れず、第三部を観ることになった。時間が余ってしまったので、山手線で大塚まで行き、都電荒川線に乗った。
終点の三ノ輪橋まで約40分の小さな旅であった。

終点、三ノ輪橋。

そして、三ノ輪から南千住まで歩いて行った。それが「ちょっと昔の東京」で載せた写真である。もう少しあったので、ここに載せておく。


まだTXはできていなかった。

南千住駅ホーム。

上野に戻り、蓮玉庵で鳥南蛮蕎麦とお銚子を二本。
これもこの間食べた時の写真を載せます。


鈴本の初席のトリは柳家小三治。久々の『小言念仏』を聴いた。
中入りの辺りで、泥酔した客が楽屋でトラブルを起こしていた。柳家権太楼がおっとり刀で駆けつける様子が、何とも男っぽくてかっこよかったことを憶えている。

その晩は、妻の実家に帰った。ホリデーパスをめいっぱい使った一日だったな。