この前の土日、二日続けて霞ケ浦の堤防に行って湖面を眺めてきた。
職場の前線で頑張っていた頃には、心が弱った時にそうしたものだった。
毎日遠くから眺めているし、最近はすっかりご無沙汰だったのだが、長男がコロナだったこともあり、ふと「霞ケ浦を見に行こうかな」と思い立ったのである。
やっぱり水際に座るのはいい。風に吹かれ、水音を聞く。湖面ではひっきりなしにボラが跳ねている。自分がこの世界の一部であることが実感できる。
土曜日は、湖畔公園近くの堤防に座った。
対岸は行方市玉造。この辺りはその昔、大規模干拓事業の計画があってすったもんだした所だ。干拓事業は、戦後の食糧難から米余りへと状況が変化したのと、反対派の激しい抵抗もあって中止となった。
下手したら、ここは田圃になっていたのかもしれないんだな。事業が中止になってくれて、本当によかったな、と思う。
同級生が体を壊して引きこもりになっている。友だちと見舞いに行こうと言っていたのだが、それを固辞されたという。友だちとLINEでやり取りをしながら、湖面を眺める。「会えば何とかなるのではないか」と「弱っている姿を無理に見ることはないのではないか」との間で気持ちが揺れる。「彼と会って話がしたい」というのは、我々のエゴなんだろうか。
日曜日は筑波山が見える所にした。
何と言っても私の地元から見る筑波山がいちばん美しい。しかもそれを霞ケ浦越しに見ることができるのだ。
ごろりと横になる。少しだけうとうとする。莫迦みたいに身も心も霞ケ浦にあずける。
この日もボラがひっきりなしに跳ねる。ボラが跳ねるのは、体の寄生虫を落とすためだ、いやただ単に遊んでいるんだなどと、諸説ある。私としては遊んでる説が好きだな。
二日間、たっぷり霞ケ浦の風に吹かれた。こういう時間が必要だったのだ。
2 件のコメント:
世の中にはいろいろな風が吹いておりますが、時にその風に身をあてて自分自身を見つめるなんという事は良い時間ではないでしょうか。私の近所では山の風やら湖の風にはなかなかあたれず、うらやましいです。五月の連休明けから仕事や祭りの段取りなどで自分の時間がちょいと少なかったので落ち着いたら寄席の風にでもあたってこようと思ってます。今年も暑い夏がきますかねぇ。
そちらには、私が憧れてやまない「江戸の風」が吹いていますよ。
「ここではないどこか」を夢見るのも、「ここにしかないもの」をいとおしむのも、両方大切なんだと思います。
今年は梅雨が来るのでしょうかねえ。
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