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2020年9月19日土曜日

彼岸の入り

 朝、パン、牛乳、ハムステーキ。

次男土曜授業、駅まで送る。妻は仕事。

長男とコーヒーを淹れて飲む。

レコードを聴く。ビートルズ『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』、ドノヴァン『グレイテスト・ヒッツ』。


網戸に雨蛙。


この間、長男をバイトに送った時、車の中に雨蛙が入ってきた。雨蛙は車のダッシュボードにいて、石岡まで往復して来た。帰ってから車から出したけど、「かえるくんとドライブ」というのも悪くなかったよ。

長男と買い物に行く。鉾田で饅頭とキムチを買う。


お彼岸。父と長男と墓参り。


今年は彼岸花の咲くのが遅い。まだつぼみだったが、1株だけ生えているのを見つけた。


昼に長男は緑のたぬき、私は赤いきつねを食べる。

午後に妹と甥が来る。甥が肉を買って来てくれて晩飯は焼肉にする。ビール、赤ワインを飲みながら、焼きそばまでしっかり食べる。旨し。甥に御馳走になる日が来たんだなあ。

子どもたちは甥にゲームで遊んでもらった。よかったねえ。

食後にちょっとだけアイリッシュウィスキー。

今日からお彼岸。「暑さ寒さも彼岸まで」というけど、昨日の暑さとは打って変わって涼しかったな。暑いのはもういいよ。



2020年9月16日水曜日

神崎町と幕末の志士

 先日、千葉県神崎町に行った時、ちょっとだけ歩いた。

利根川の水運で栄えた町。ここはその名も河岸通りである。






水戸藩幕末の天狗党の資料を漁っていたら、神崎町が出てきた。清河八郎という勤王の志士が、神崎に来た記録がある。

「清河八郎、水戸藩の士天狗と称するもの境外に脱し金穀を募り横浜を襲撃せんとするを聞き、其の形勢を伺はんと欲し一僕を率へ、佐倉、酒々井、成田、飯岡を経て神崎に至り、同志村上政忠に会し、始めて石坂宗順に交る。二子と相携へて佐原を経、舟に乗じて潮来に至り、天狗党の酒楼に飲むを知り、之に会せんと欲す。天狗辞して遭はず。詩人宮本茶村を訪ひ時事を談ず。神崎に泊する三日にして江戸に帰る。二月、別に天狗なるもの与に為すあるに足らざるを以て別に今年八、九月の間を以て尊攘の挙に出でんとす。」

清河は水戸の天狗党が横浜襲撃を企てていると聞き、連携しようとして神崎まで来て、潮来で彼らと接触しようとしたが不調に終わったらしい。

清河八郎(1830~1863)は庄内藩出身の志士。尊攘運動に奔走する一方、京都で浪士隊を募り新選組結成への流れを作った。幕府を利用しながら尊攘の先駆けとなるという奇策を弄せんとし、近藤勇らと袂を分かつ。1863年4月、江戸で幕府の刺客、佐々木只三郎らに暗殺された。

水戸の尊攘派が横浜襲撃を称して軍用金の徴発を始めたのが文久三年(1863年)だから、清河は神崎から江戸に帰って間もなく殺されたことになる。

そんなことが、この町にあったんだねえ。


時事ネタ。

我が国の首相が代わった。


秋田県の農家に生まれ、高校卒業後東京に出て就職、大学の二部を卒業し、地縁も血縁も地盤もない横浜で政治家を志した、「たたき上げ」の人だという。

以前、私は、この人が権力の中枢に座った時にこの経歴を知って、故野中広務氏のような存在になってほしいと思った。(落研の後輩と同じ高校を出ていたし)しかし、甘かったな。

苦労した人は二つのタイプに分かれる。弱者に優しい人と弱者に厳しい人だ。後者は「自分は苦労してここまで来た。弱者に甘んじているのは努力が足りないからだ」と思うらしい。

この「たたき上げの人」は、今までの言動を見ると、どうやら後者のようだ。沖縄や批判的な女性記者などへの対応からは「政治技術として「いじめ」を使うことをいとわない政治家」(朝日新聞・社説余滴「すがすがしくおめでたい」より)の姿が透けて見えてくる。

いずれにせよ、前政権をそのまま引き継いだような形で、新政権は始動した。それをお祭り騒ぎで迎える人たちが、またいっぱいいるねえ。「こっちの水は甘いぞ」と言っているように見えなくもないな。



2020年9月14日月曜日

渡辺直人選手お疲れさまでした

 楽天ゴールデンイーグルスの渡辺直人選手が今季限りで引退をするという。松坂世代の39歳。でも、松坂大輔は高校時代にはこの選手のことを知らなかったにちがいない。

茨城県立牛久高校の出身。中学時代は軟式野球をしていた。高校での最後の夏は県ベスト16だった。

大学は城西大学へ進む。城西は有名無名を問わず、広く練習会に参加させていた。

それからノンプロの三菱ふそうを経て、2006年、大学生・社会人ドラフト5巡目で楽天に指名された。(同じ年、あのニューヨークヤンキースの田中将大が駒大苫小牧から楽天に入団している。)

知将野村克也に見出され、ショートのレギュラーを獲得する。以来、堅実な守備と勝負強い打撃で楽天の中心選手として活躍した。

2010年、横浜ベイスターズに移籍。その後、西武ライオンズを経て、2018年、古巣楽天に復帰した。今年からは兼任で打撃コーチを務めていた。

こういうのをたたき上げというのだ。朝日新聞で言う、まさに「派手さはないが、求められた役割を堅実にこなし、けがをしても隠してプレーしてきた」選手だった。昨季、春先に右足首を脱臼。それでも彼は試合に出た。テーピングを繰り返したため、かぶれがひどかったという。

「2010年オフに楽天から横浜(現DeNA)に金銭トレードで移る時、楽天の選手たちが報道陣の前で泣きながら惜しんだ。「スポ根」と人情なんてそぐわないと言われかねない時代に、人望が厚く、人間的な魅力にあふれた選手だった」という朝日新聞の文章に、おれは胸が熱くなったよ。

茨城県からも多くのスター選手がプロに進んだ。しかし、同時代の誰よりも渡辺選手はプレーし続けた。野球は人間がするものだ。人間性の素晴らしさは何よりの宝であり、それが渡辺選手の最大の武器だったのだろう。

渡辺直人選手、お疲れさまでした。指導者としてますます活躍してくれることを期待します。




2020年9月13日日曜日

涼しい週末

 昨日の日記。

朝、マフィン、牛乳。涼しい。

妻は仕事。長男が教習所に通い始め、その送迎。

図書館に行く。『ジョージ・ハリスン自伝 I・ME・MINE』、『水戸朋党の争い—諸生党からみた記録—』(大録義行・筑波書林)を借りる。

昼はざるうどん。

午後はごろごろしながら本を読む。雨、けっこう激しく降る。

『ジョージ・ハリスン自伝』は厚いわりに中身がスカスカだったな。結婚生活なんかほとんどスルー。最初の妻、パティが親友エリック・クラプトンとできちゃった話とか、もうちょっとインタビュアーが突っ込んでほしかった。

夕方、長男のバイトの送迎。

夕食はアジフライ、白身魚フライ、冷奴でビール、酒。酒は義妹からもらった会津の酒。3年間熟成させたものだという。旨し。

食後妻と缶チューハイ。

寝しなにアイリッシュウィスキー。


今日の日記。

朝、御飯、味噌汁、スクランブルエッグ、ウィンナーソーセージ。

江戸や亭に出演。

ネタは『たがや』。反応は重かったが、よく聴いてくださっていたと思う。

随分涼しくなった。浴衣で出たけど、着物でもよかったくらい。

5時半頃帰る。

夕食はししゃも、トマトと卵の炒めもの、鶏つくね、塩辛で酒。

食後にアイリッシュウィスキー。


シメに、神崎町の猫。


2020年9月9日水曜日

川崎のアパートで飲む

酒を飲み始めた頃は、「一人で飲む」という選択はなかった。酒を飲むのは「ハレ」、つまり非日常のことだったからだ。

私が酒を一人で飲むようになったのは、大学の3年も最後の頃になってからだと思う。

今考えてみれば、あの辺りから酒を飲むのが、私にとって日常になったのだろう。

きっかけは、自分のアパートで飲むのが楽しいということに気づいたのである。

自分の好きな本があり、落語や音楽のテープがあり、それを自分のペースで思う存分楽しめる。しかもそこが、川崎の路地裏の四畳半という、私にとってはこの上ない空間だった。ここで飲むのは、確かに至上の時間だったのだ。

部屋の真ん中に炬燵やぐらがあり、そこには中学校卒業記念の笠間焼の湯飲みが置いてあった。万年床の敷布団を座布団代わりにして座っていた。手の届く範囲に、本やらカセットテープやらが積んであった。

当時は日本酒の二級酒が1200円ぐらい、サントリーホワイトも同じぐらいだった。日常的に酒を飲み始めた頃はそういうのを飲んでいたが、そのうち金が続かなくなって、サントリーレッドに替えた。レッドは800円だったと記憶している。

だいたいは学校帰りに麻雀打って、近くで晩飯を食べて電車に乗ってアパートに帰る。そこから腰を据えて飲み始めるのだ。

まずはビールの500ml缶を飲んで喉を湿し、笠間焼の湯飲みにサントリーレッドを注ぎ、氷を入れる。つまみは赤ウィンナーを炒めたのや、塩胡椒とガーリックパウダーで味をつけたスクランブルエッグや、でん六豆を好んだ。

飲みながら、手当たり次第に本を読み、落語を聴き、音楽を聴いた。酔えば酔うほど、どんどん神経が鋭敏になっていくような気がした。

太宰治、坂口安吾の小説。中原中也の詩。マンガは、つげ義春、高野文子、近藤ようこ、いしかわじゅん、吾妻ひでお、大友克洋。音楽は友川カズキ、三上寛、友部正人、泉谷しげる、宇崎竜童。落語では、黒門町、晩年の『つるつる』、志ん朝の『三枚起請』、小さんの『らくだ』、馬生の『うどんや』、談志や小三治の『芝浜』。・・・こんなところが、あの部屋では胸に沁みたなあ。

一回だけ一人で吐くまで飲んだことがあり、さすがにこれは自分でもまずいと思ったよ。

思い出すときりがない。改めて振り返ると馬鹿だったなあ。でも、あれが楽しかったんだ。あれが私の青春だったのか。随分暗い青春だが。

何度か載せているが、路地裏のアパートであります。
これも何度も書いていますが、この近くにはフォーク歌手の友川カズキが住んでいました。


この豆腐屋さんの脇の路地を入るとアパートがあった。豆腐屋さんも今はない。


2020年9月5日土曜日

暑い9月

 朝、パン、牛乳、ハム。

次男は高校の土曜授業。駅まで送る。妻は仕事。

散歩がてら床屋に行く。朝から暑い。


10時頃帰る。長男とコーヒーを飲む。

長男と図書館。『激派と民衆—大橋の天狗党始末—』(江川文展・筑波書林)、『口訳 常久肝膽夢物語—牛久助郷一揆の記録』(鈴木久・筑波書林)を借りてくる。

昼は「すぐおいしい、すごくおいいしい」インスタントラーメン。旨し。


図書館で借りてきた本を読みながら、うつらうつらしたり、マイルス・デイヴィスやチャーリー・パーカーを聴いたりする。

夕食は父が買って来た刺身、唐揚げ、カキフライでビール、酒。酒は妹夫婦にもらった木曽の地酒「中乗りさん」純米大吟醸、これまた旨し。


今日の朝日新聞の「朝日川柳」より。

世論まで勝ち馬に乗る軽さかな

都構想 俺が勝つまでやるじゃんけん

上手いよね。けど笑えない。すごい国になっちゃたな、我が国は。

2020年9月2日水曜日

祖母と浅草

 私の祖母は浅草に住んでいたという。

祖母は明治30年、関川村(現石岡市)に二女として生まれた。

大正8年、高浜町(現石岡市)の人と結婚し、翌月東京市浅草区に所帯を持つ。

この結婚生活は長く続かなかったようだ。

昭和16年頃か、先妻を亡くした祖父のもとに後妻として嫁いだ。だから、私との血のつながりはない。(しかし、祖母の弟が祖父の実家から嫁を貰っていて、この辺りからこの縁談が出たものではないかと思われる)

浅草に住んでいた祖母は、私が茨城弁を喋るのを嫌った。「・・・だっぺ」と言うと「・・・でしょう」と言い直された。小学校に上がった頃、「・・・でしょう」と言うと、級友から「女みたいだ」と笑われた。それ以後、私は意識して茨城弁を使うようにした。

祖母が住んでいたのはどの辺りだろうと思い、国土地理院で明治40年浅草区全図(復刻版)を買って来た。古い戸籍の写しを持っているのだが、これが手書きで癖が強く判読できず、それらしい町名もみつからなかった。でも、古い地図を眺めること自体が好きなので、まあいいか。



さて、昨日9月1日は関東大震災があった日だ。震災が起きたのは大正12年。その時、浅草は火の海となって甚大な被害を受けた。その時、祖母は浅草にいたのだろうか。

「あの地震はすごかった。バケツの水が(揺れで)半分になった」と祖母は言っていたが、それが浅草でのことか、田舎に帰ってからのことか、聞いた覚えはない。

今となっては聞くこともできない。祖母が亡くなって38年になった。祖母の命日は6月19日。太宰治の桜桃忌の日である。


暑い時期の浅草の写真。2011年のもの。