私が師匠と呼ぶ噺家は二人いる。七代目橘家圓蔵師匠と三笑亭夢楽師匠である。
どちらも、大学の落研の技術顧問だった。
圓蔵師匠は私が2年の時亡くなった。その後任が夢楽師匠だった。
圓蔵師匠が亡くなったのが5月。6月には我が落研は「みな好き会」という定例の対外発表会を開いていた。私はその年、『牛ほめ』で初高座を踏んだ。
対外発表会には技術顧問が補導出演する。この時は圓蔵師匠に代わって月の家圓鏡師(現八代目圓蔵)に出て頂いた。慌ただしく楽屋入りした圓鏡師は、『猫と金魚』で客席を沸かせ、あっという間に帰っていった。圓鏡師には売れっ子の輝くばかりのオーラがあった。高座のそでから観るプロの芸は、客席から観るそれより数倍凄かった。
夏には夢楽師匠の技術顧問就任が決まった。OBの方々の尽力によるものだったと聞いた。
夢楽師匠になって、我々の合宿は劇的に変わった。
それまで、合宿の発表会では真打ちが上がるまで部員は正座で噺を聴かなければならなかった。時にそれは1時間以上に及び、発表会は部員にとって地獄の時間に他ならなかった。
圓蔵師匠は発表会で全員の噺を聴くことはなく、選抜された二人ほどが師匠の前で噺を披露した。
しかし、夢楽師匠は発表会に進んで参加し、全員の噺を聴いてくださった。そして、正座をやめさせた。噺を聴くということを最優先させるということが目的だった。
噺が終わると、一人一人に丁寧な批評をしてくださった。その教えはとても論理的で分かりやすかった。私たちは、職人が歩くときはやぞうを組むということや天秤の担ぎ方といったもの、上下や目線といった基本的なことを丁寧に教えられた。
当然のことながら、夢楽師匠は圓蔵師匠より若く、その分、フラットな立場で私たちに接してくださったのだろう。
私たちは幸福だったと思う。圓蔵師匠のように遙かに仰ぎ見る存在と、私たちの地平まで下りてきて温かく手を取ってくれる夢楽師匠と、どちらも経験することができたのだから。
合宿の夜、夢楽師匠は一緒に風呂に入ろうと我々を誘った。師匠は10代から70代までの男女を問わず相手にし、ある時は、立川談志に「一回だけ、お願いだから」とパンツ一丁で迫って、「兄さん、洒落にならねえ」と言われたという逸話を持つ性豪として知られる。我々は、悲壮な決意を持って風呂に入った、というと大袈裟か。もちろん、そんなことは杞憂にすぎず、楽しい一時を過ごしたし、いい思い出をいただいた。ロセンは確かに見事だったが。…どうもすみません。
とにかく、夢楽師匠には、スケールの大きな、人を引きつける魅力があった。談志も志ん朝も師匠を慕っていたという。私も、ほんのささやかな交流しかなく甚だおこがましいが、何となくその気持ちが分かるような気がする。夢楽師匠の側にいると、太陽の光を浴びているように、温かい穏やかな気持ちになれた。それは師匠に接した誰もが感じることだと思う。
この話はつづきます。
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2009年6月30日火曜日
2009年6月29日月曜日
憧れの鰻屋
暑いねえ。こう暑いと鰻でも食べて精をつけたいという気分になる。
落語に「鰻の幇間」というのがある。この中に出てくる、鰻屋の二階で飲み食いする場面がいい。
本当は、ここで食べる鰻はおそろしく不味いという設定なのだが、八代目桂文楽がやると、何だかすごく旨そうに思えてしまう。厳密に言えば困ったことだが、私は文楽のこの場面が本当に好きなのだ。この人の演出は、うらぶれた芸人が本寸法のちゃんとした芸人に描かれていたりして、リアリズムの点から言えば大いに問題があるのだが、そのために噺の格調・美しさは抜群のものになっている。
まあいい。鰻の話だ。私が憧れる鰻屋での飲み食いは、およそ次のようなものである。
夏の気だるい午後。店は古い方がいい。二階の座敷。冷房はなくていい。開け放した窓の、簾を通ってくる風を感じたい。最初はビールといきたいが、ここは日本酒でいこう。冷酒などではなく、常温の冷や、あるいはぬる燗がいい。新香をつまみに鰻が焼けて来るのを待つ。そして白焼きをわさび醤油であっさりといただき、最後は鰻重で締めて、ほろ酔い加減で店を出る。鰻屋の酒は、あくまで食が主で酒が従。べろべろになるまで飲むのはみっともない。
とまあこんな具合だが、実はこれに似たことをやったことがある。それは職場の宴会で、石岡駅前の古い鰻屋を使ったのだ。
そこは昔は旅館だったらしい。建物はおそろしく古い。私たちは奥の座敷に通されたのだが、畳がぼかりと沈んだり、ほんのりと猫の匂いがしたりして、まるで「鰻の幇間」のうらぶれた鰻屋のようだった。
店は母娘らしい二人が切り盛りしていた。二人とも誠心誠意サービスしてくれた。刺身、白焼き、新香、蒲焼きと、料理も質量共に申し分なかった。
少し暑くなってきたので、中庭に面した障子を開けた。庭の緑が鮮やかに見える。猫の匂いも消えた。ひとしきり雷雨が来て、部屋に快い涼気を招いた。風情のある、楽しい宴会だった。
…ただ、私の場合、酒が出てくるとがぶがぶ飲んでしまい、粋に切り上げることができないんだよねえ…。
落語に「鰻の幇間」というのがある。この中に出てくる、鰻屋の二階で飲み食いする場面がいい。
本当は、ここで食べる鰻はおそろしく不味いという設定なのだが、八代目桂文楽がやると、何だかすごく旨そうに思えてしまう。厳密に言えば困ったことだが、私は文楽のこの場面が本当に好きなのだ。この人の演出は、うらぶれた芸人が本寸法のちゃんとした芸人に描かれていたりして、リアリズムの点から言えば大いに問題があるのだが、そのために噺の格調・美しさは抜群のものになっている。
まあいい。鰻の話だ。私が憧れる鰻屋での飲み食いは、およそ次のようなものである。
夏の気だるい午後。店は古い方がいい。二階の座敷。冷房はなくていい。開け放した窓の、簾を通ってくる風を感じたい。最初はビールといきたいが、ここは日本酒でいこう。冷酒などではなく、常温の冷や、あるいはぬる燗がいい。新香をつまみに鰻が焼けて来るのを待つ。そして白焼きをわさび醤油であっさりといただき、最後は鰻重で締めて、ほろ酔い加減で店を出る。鰻屋の酒は、あくまで食が主で酒が従。べろべろになるまで飲むのはみっともない。
とまあこんな具合だが、実はこれに似たことをやったことがある。それは職場の宴会で、石岡駅前の古い鰻屋を使ったのだ。
そこは昔は旅館だったらしい。建物はおそろしく古い。私たちは奥の座敷に通されたのだが、畳がぼかりと沈んだり、ほんのりと猫の匂いがしたりして、まるで「鰻の幇間」のうらぶれた鰻屋のようだった。
店は母娘らしい二人が切り盛りしていた。二人とも誠心誠意サービスしてくれた。刺身、白焼き、新香、蒲焼きと、料理も質量共に申し分なかった。
少し暑くなってきたので、中庭に面した障子を開けた。庭の緑が鮮やかに見える。猫の匂いも消えた。ひとしきり雷雨が来て、部屋に快い涼気を招いた。風情のある、楽しい宴会だった。
…ただ、私の場合、酒が出てくるとがぶがぶ飲んでしまい、粋に切り上げることができないんだよねえ…。
2009年6月23日火曜日
2009年6月18日木曜日
森鴎外『阿部一族・舞姫』
森鴎外『阿部一族・舞姫』を読む。高校時代に買った、新潮文庫版である。
凄い文章だな。
『舞姫』の華麗な文章に、まず心を奪われた。文語文だけに敷居は高いが、これは原文で読まなきゃ駄目だ。口語訳をしたがる人がいるけど、やはり「石炭をば、はや積み果てつ。」だよな。「石炭はもう積んだ」じゃなあ。
そして、『阿部一族』の厳しさ。鴎外の描写には人名が多い。若い頃は、それが煩わしかったが、それは間違いだった。鴎外は、その一人一人の人生を、死を看取ったのだ。そして、その漢語表現の素晴らしさ。漢籍が身体に染み付いていればこそのものだと思う。それにしても、『阿部一族』『堺事件』『じいさんばあさん』に登場する武士の、凛とした美しさはどうだ。義のために死ぬということに惹かれることが、危険であると自覚しながらも、どうしても心の奥底に響いてくるのを押さえることが出来ない。
大正の人たちの文章は巧みだが、鴎外を読むと(仕方のないことだが)軽く感じる。さすがに国造りに参加した明治人は、骨が太い。
『舞姫』にしろ非道い話だが、国家草創期のエリートとしては、やはり帰らなければなるまい。国を背負う悲壮な自負がそこには存在する。それを抜きに太田豊太郎の苦悩は語れない。
鴎外は、敷居は高いが、でも、読み物として充分面白い。文章にやられ、登場人物の美しさに心を奪われ、展開に引き込まれる。芥川も太宰も荷風も、鴎外に憧れた。私もその仲間に入れてもらえないだろうか。
凄い文章だな。
『舞姫』の華麗な文章に、まず心を奪われた。文語文だけに敷居は高いが、これは原文で読まなきゃ駄目だ。口語訳をしたがる人がいるけど、やはり「石炭をば、はや積み果てつ。」だよな。「石炭はもう積んだ」じゃなあ。
そして、『阿部一族』の厳しさ。鴎外の描写には人名が多い。若い頃は、それが煩わしかったが、それは間違いだった。鴎外は、その一人一人の人生を、死を看取ったのだ。そして、その漢語表現の素晴らしさ。漢籍が身体に染み付いていればこそのものだと思う。それにしても、『阿部一族』『堺事件』『じいさんばあさん』に登場する武士の、凛とした美しさはどうだ。義のために死ぬということに惹かれることが、危険であると自覚しながらも、どうしても心の奥底に響いてくるのを押さえることが出来ない。
大正の人たちの文章は巧みだが、鴎外を読むと(仕方のないことだが)軽く感じる。さすがに国造りに参加した明治人は、骨が太い。
『舞姫』にしろ非道い話だが、国家草創期のエリートとしては、やはり帰らなければなるまい。国を背負う悲壮な自負がそこには存在する。それを抜きに太田豊太郎の苦悩は語れない。
鴎外は、敷居は高いが、でも、読み物として充分面白い。文章にやられ、登場人物の美しさに心を奪われ、展開に引き込まれる。芥川も太宰も荷風も、鴎外に憧れた。私もその仲間に入れてもらえないだろうか。
2009年6月17日水曜日
桂文楽 芸の師
文楽には、もう一人「芸の師」というべき人がいた。三代目三遊亭圓馬である。
前座の頃、みっちりと基礎をたたき込まれた。仕草では手が腫れ上がるほど物差しで叩かれた。「ええ」という口癖を矯正するのに何十個のものおはじきをぶつけられた。ある時、ぼんやりと庭の池を眺めていると、いきなり後ろから背中を押された。「あっ」と叫んで池に落ちて、ずぶ濡れになって振り返ると圓馬がいた。「いきなり何をするんですか?」と文楽が抗議すると、「さっきの『あっ』と言った間はよかったなあ。あの間を忘れるなよ」と言われた。
「どうしてあたしにだけ、あんなに厳しいんだろうと思いました」と文楽は言う。
文楽が二つ目に昇進して間もなく、師匠桂小南が東京を捨て、文楽はやむなく旅に出る。4年経って旅から帰ると、圓馬は四代目橘家圓蔵との確執で文楽と入れ替わるように旅に出ていた。
文楽は翁家さん馬の弟子になった後、五代目柳亭左楽の門に入り、翁家馬之助で真打ち、やがて八代目桂文楽を襲名する。一方圓馬は生まれ故郷大阪に帰り、二代目圓馬から譲り受け三代目三遊亭圓馬を襲名する。
文楽が後に十八番と言われた数々の噺を圓馬に稽古して貰うのは、実はこの文楽襲名以後においてである。
文楽は年に2回吉本に呼ばれ、上方の寄席に出演したが、定宿、初勢旅館から、萩の茶屋の圓馬の家へ行く道しか、文楽は大阪の地理を知らなかった。それ程熱心に圓馬の元へ通い詰めたのだ。
圓馬から授けられた噺は、『愛宕山』『景清』『素人鰻』『馬のす』『富久』等々、いずれも珠玉の名作と言っていい。稽古の後、文楽はその台詞を旅館で原稿用紙に書き写した。尋常小学校を10歳で中退した文楽にとって、それは苦しい作業だったに違いない。そして、その噺に独自の刈り込みを施し、徹底的に磨く。こうして、所謂文楽十八番は完成する。このため、圓馬の噺より文楽のそれは、いささか神経質的にはなったが、精緻な工芸品の如き輝きを持った。人は「圓馬の豪放な部分を三代目金馬が、繊細な部分を文楽が受け継いだ」と言った。つまり、それ程、圓馬の芸には幅があり、大きなものだったということだ。
晩年、圓馬は中風を患い、言語障害となる。それでも文楽は、大阪へ行くと圓馬の家へ通った。文楽の顔を見るといつも圓馬は喜び、稽古をやろうと言った。しかし、舌がもつれて噺にならず、やがて圓馬は悔し泣きに泣く。文楽もやはり、泣かずにはいられなかった。帰りには文楽を送っていくと言って聞かなかったという。鞄を持つとさえ言ってくれたという。いい話だが、身を切られるように辛い話である。
とにかく、文楽は圓馬に惚れ、徹底的に食らいついた。無我夢中で圓馬の芸を吸収しようとした。そして、迷うことなく、圓馬を目ざし精進を重ねた。
有名な話だが、常に文楽はこう言っていた。「汚いたとえですが、もし圓馬師匠に俺のげろを舐めろと言われたら、あたしは舐めます。」
前座の頃、みっちりと基礎をたたき込まれた。仕草では手が腫れ上がるほど物差しで叩かれた。「ええ」という口癖を矯正するのに何十個のものおはじきをぶつけられた。ある時、ぼんやりと庭の池を眺めていると、いきなり後ろから背中を押された。「あっ」と叫んで池に落ちて、ずぶ濡れになって振り返ると圓馬がいた。「いきなり何をするんですか?」と文楽が抗議すると、「さっきの『あっ』と言った間はよかったなあ。あの間を忘れるなよ」と言われた。
「どうしてあたしにだけ、あんなに厳しいんだろうと思いました」と文楽は言う。
文楽が二つ目に昇進して間もなく、師匠桂小南が東京を捨て、文楽はやむなく旅に出る。4年経って旅から帰ると、圓馬は四代目橘家圓蔵との確執で文楽と入れ替わるように旅に出ていた。
文楽は翁家さん馬の弟子になった後、五代目柳亭左楽の門に入り、翁家馬之助で真打ち、やがて八代目桂文楽を襲名する。一方圓馬は生まれ故郷大阪に帰り、二代目圓馬から譲り受け三代目三遊亭圓馬を襲名する。
文楽が後に十八番と言われた数々の噺を圓馬に稽古して貰うのは、実はこの文楽襲名以後においてである。
文楽は年に2回吉本に呼ばれ、上方の寄席に出演したが、定宿、初勢旅館から、萩の茶屋の圓馬の家へ行く道しか、文楽は大阪の地理を知らなかった。それ程熱心に圓馬の元へ通い詰めたのだ。
圓馬から授けられた噺は、『愛宕山』『景清』『素人鰻』『馬のす』『富久』等々、いずれも珠玉の名作と言っていい。稽古の後、文楽はその台詞を旅館で原稿用紙に書き写した。尋常小学校を10歳で中退した文楽にとって、それは苦しい作業だったに違いない。そして、その噺に独自の刈り込みを施し、徹底的に磨く。こうして、所謂文楽十八番は完成する。このため、圓馬の噺より文楽のそれは、いささか神経質的にはなったが、精緻な工芸品の如き輝きを持った。人は「圓馬の豪放な部分を三代目金馬が、繊細な部分を文楽が受け継いだ」と言った。つまり、それ程、圓馬の芸には幅があり、大きなものだったということだ。
晩年、圓馬は中風を患い、言語障害となる。それでも文楽は、大阪へ行くと圓馬の家へ通った。文楽の顔を見るといつも圓馬は喜び、稽古をやろうと言った。しかし、舌がもつれて噺にならず、やがて圓馬は悔し泣きに泣く。文楽もやはり、泣かずにはいられなかった。帰りには文楽を送っていくと言って聞かなかったという。鞄を持つとさえ言ってくれたという。いい話だが、身を切られるように辛い話である。
とにかく、文楽は圓馬に惚れ、徹底的に食らいついた。無我夢中で圓馬の芸を吸収しようとした。そして、迷うことなく、圓馬を目ざし精進を重ねた。
有名な話だが、常に文楽はこう言っていた。「汚いたとえですが、もし圓馬師匠に俺のげろを舐めろと言われたら、あたしは舐めます。」
2009年6月11日木曜日
桂文楽 人生の師
文楽には3人の師匠がいた。
初代桂小南、七代目翁家さん馬(後の八代目桂文治)、そして、五代目柳亭左楽である。
現在はあまり師匠を変えるといったことはないが、この時代はそう珍しいことではなかった。五代目古今亭志ん生にも、二代目三遊亭小圓朝、六代目金原亭馬生(後の四代目古今亭志ん生、人呼んで鶴本の志ん生)、初代柳家三語楼と、3人の師匠がいる。
さて、五代目左楽である。文楽は、この人を終生「人生の師」と呼んだ。
長い間、五代目といえば左楽のことを指した。それは歌舞伎界において、六代目といえば尾上菊五郎を指すが如くであった。
左楽は明治5年生まれ。文楽より20歳年長であった。春風亭柳勢、伊藤痴遊、四代目左楽と、彼も3人師匠を変えている。日露戦争に従軍し、その体験談を語り大いに売れた。落語家としてよりも、政治的手腕に長け人望厚く、リーダーとしての評価が高い。
文楽が左楽の門に入ったのは、東京落語界が演芸会社派と睦会に分裂したことがきっかけだった。当時の師、さん馬が血判まで交わしたにもかかわらず、演芸会社に寝返ったことが我慢できず、左楽の元へ走ったのである。
左楽は、当時翁家さん生を名乗っていた文楽を「亭号などそのままでいいから、うちでよければおいでなさい。」と暖かく迎えた。そして、その言葉通り、翁家馬之助として真打ちに昇進させた。その際の高座では「この馬之助、実はこれこれの事情でうちにおりますが、どうかお客様、お立ちになるのならあたしが喋っているうちにお立ち頂いて、あれが上がりましたら、どうぞ最後まで聞いてやってくださいまし。これは左楽のお願いでございます。」と言って、毎回客を泣かしたという。
その後、以前にも書いた通り、強引な形で八代目桂文楽を襲名させる。この時も「噺は小味ですが、どうぞ聞いてやってください」と心のこもった口上を述べた。
文楽は、左楽について「恐くって恐くって、実に恐くって、それでいて別れられない人でした。情があってね。」と言っている。
実際に左楽の人間の大きさは相当のものだった。三代目小さん、二代目燕枝、初代圓右といった名人に伍して、左楽がいなければ顔付けがまとまらないと言われたほどだ。
睦会においても、文楽、柳橋、柳好、小文治を「睦の四天王」として売り出したり、落語家の高座への登場に出囃子を使ったりするなど、プロデューサーとしての手腕も発揮した。(それまで落語家は「しゃぎり」という太鼓で高座に上がっていた。)
そして、睦会のリーダーとして君臨する左楽に付き従いながら、文楽はそのリーダーシップを存分に吸収する。
昭和12年、睦会は解散。六代目春風亭柳橋の芸術協会に合流した。天下の五代目が、20歳以上も年下の柳橋の軍門に下ったのだ。この時から左楽は長い余生に入ったのだと思う。
昭和28年、左楽は引退興行を目前にして82歳で死ぬ。その葬列は、清水町の自宅を出発し池之端から鈴本演芸場の前を通り稲荷町の菩提寺へと進んでいったが、長さ200メートルに及んだという。落語家の葬儀としては、まさに空前にして絶後であった。
文楽はこの時、親族と共に笠を被り人力車に乗った。文楽が左楽の門に入って30年余、中途の弟子ではあったが、その間に、それ程の信頼と権威を、文楽は自らのものとしたのだった。
初代桂小南、七代目翁家さん馬(後の八代目桂文治)、そして、五代目柳亭左楽である。
現在はあまり師匠を変えるといったことはないが、この時代はそう珍しいことではなかった。五代目古今亭志ん生にも、二代目三遊亭小圓朝、六代目金原亭馬生(後の四代目古今亭志ん生、人呼んで鶴本の志ん生)、初代柳家三語楼と、3人の師匠がいる。
さて、五代目左楽である。文楽は、この人を終生「人生の師」と呼んだ。
長い間、五代目といえば左楽のことを指した。それは歌舞伎界において、六代目といえば尾上菊五郎を指すが如くであった。
左楽は明治5年生まれ。文楽より20歳年長であった。春風亭柳勢、伊藤痴遊、四代目左楽と、彼も3人師匠を変えている。日露戦争に従軍し、その体験談を語り大いに売れた。落語家としてよりも、政治的手腕に長け人望厚く、リーダーとしての評価が高い。
文楽が左楽の門に入ったのは、東京落語界が演芸会社派と睦会に分裂したことがきっかけだった。当時の師、さん馬が血判まで交わしたにもかかわらず、演芸会社に寝返ったことが我慢できず、左楽の元へ走ったのである。
左楽は、当時翁家さん生を名乗っていた文楽を「亭号などそのままでいいから、うちでよければおいでなさい。」と暖かく迎えた。そして、その言葉通り、翁家馬之助として真打ちに昇進させた。その際の高座では「この馬之助、実はこれこれの事情でうちにおりますが、どうかお客様、お立ちになるのならあたしが喋っているうちにお立ち頂いて、あれが上がりましたら、どうぞ最後まで聞いてやってくださいまし。これは左楽のお願いでございます。」と言って、毎回客を泣かしたという。
その後、以前にも書いた通り、強引な形で八代目桂文楽を襲名させる。この時も「噺は小味ですが、どうぞ聞いてやってください」と心のこもった口上を述べた。
文楽は、左楽について「恐くって恐くって、実に恐くって、それでいて別れられない人でした。情があってね。」と言っている。
実際に左楽の人間の大きさは相当のものだった。三代目小さん、二代目燕枝、初代圓右といった名人に伍して、左楽がいなければ顔付けがまとまらないと言われたほどだ。
睦会においても、文楽、柳橋、柳好、小文治を「睦の四天王」として売り出したり、落語家の高座への登場に出囃子を使ったりするなど、プロデューサーとしての手腕も発揮した。(それまで落語家は「しゃぎり」という太鼓で高座に上がっていた。)
そして、睦会のリーダーとして君臨する左楽に付き従いながら、文楽はそのリーダーシップを存分に吸収する。
昭和12年、睦会は解散。六代目春風亭柳橋の芸術協会に合流した。天下の五代目が、20歳以上も年下の柳橋の軍門に下ったのだ。この時から左楽は長い余生に入ったのだと思う。
昭和28年、左楽は引退興行を目前にして82歳で死ぬ。その葬列は、清水町の自宅を出発し池之端から鈴本演芸場の前を通り稲荷町の菩提寺へと進んでいったが、長さ200メートルに及んだという。落語家の葬儀としては、まさに空前にして絶後であった。
文楽はこの時、親族と共に笠を被り人力車に乗った。文楽が左楽の門に入って30年余、中途の弟子ではあったが、その間に、それ程の信頼と権威を、文楽は自らのものとしたのだった。
2009年6月9日火曜日
二代目桂小文治
桂小文治さんからDVDを頂いた。
小文治さんは、私の大学時代の先輩である。大学の落研で、私が1年生の時の4年生だった。
落研時代の名前は、夢三亭艶雀。昭和54年の大学落研名人選手権に出場。『もぐら泥』を演じ、本選に残る。ちなみにその時の優勝は、東海大学2年生の頭下位亭切奴、現在の春風亭昇太である。
大学在学中の昭和54年、十代目桂文治に入門し桂亭治の名前を貰う。昭和59年、亭治のまま二つ目昇進。平成5年には二代目桂小文治を襲名し、真打ちに昇進している。
二つ目昇進の時は、浅草演芸ホールに伺う。確かヨシカミでご飯をご馳走になった。真打ち昇進の時には、新宿末広亭の披露目を観た。春錦亭柳櫻と同時昇進だった。口上などで芸協幹部の期待がひしひしと感じられ、自分のことのように嬉しかった。この時、小文治さんは主任で『大工調べ』を熱演した。
小文治さんは高校時代、体操をやっていた。トンボが切れることから、踊りを売り物にした。故古今亭志ん朝が座長を務めた「住吉踊り」のメンバーでもある。
踊りは小文治さんに美しい所作を与えた。十八番『虱茶屋』の面白さは、まさに踊りの賜である。『殿様団子』の仕草もいい。
収まった口調で爆発的なフラはない。でも、演出は丁寧で、はっきりと人物を描き分ける。堅実な芸風だ。50代を迎え、落語家としては脂が乗り切る時期にさしかかってきた。風格が出、端正な芸にふくらみが出てきたように思う。
DVDには『船徳』と『芝浜』が収められている。『船徳』は仕草の多い噺で、まさに小文治さんのニンに合っている。オリジナルのくすぐりも入っていて、楽しい一席に仕上がった。『芝浜』は適度に笑いがあり、変に湿っぽくなっていない。人情噺ではなくきちんと落語になっている。小文治さんの見識がうかがわれる。程がいい。
この度、小文治さんは『宮戸川(上・下)』で芸術祭賞を受賞した。特に「下」は小文治さんの創作という。第1集で「上」(多分)の方が収録されているが、通しで是非DVD化してもらいたい。
この受賞が、小文治さんを一回りも二回りも大きくしてくれると思う。層が薄いと言われている芸協にとっても、小文治さんは貴重な戦力だ。どうか健康に注意されて、息の長い落語家になって頂きたい。文楽も志ん生も圓生も、小文治さんの師匠十代目文治も、丈夫で長生きしたからこそ、芸の華を咲かせることができたのだから。(HPの日記を拝見すると、心配は無用のようですね。)
小文治さんは、私の大学時代の先輩である。大学の落研で、私が1年生の時の4年生だった。
落研時代の名前は、夢三亭艶雀。昭和54年の大学落研名人選手権に出場。『もぐら泥』を演じ、本選に残る。ちなみにその時の優勝は、東海大学2年生の頭下位亭切奴、現在の春風亭昇太である。
大学在学中の昭和54年、十代目桂文治に入門し桂亭治の名前を貰う。昭和59年、亭治のまま二つ目昇進。平成5年には二代目桂小文治を襲名し、真打ちに昇進している。
二つ目昇進の時は、浅草演芸ホールに伺う。確かヨシカミでご飯をご馳走になった。真打ち昇進の時には、新宿末広亭の披露目を観た。春錦亭柳櫻と同時昇進だった。口上などで芸協幹部の期待がひしひしと感じられ、自分のことのように嬉しかった。この時、小文治さんは主任で『大工調べ』を熱演した。
小文治さんは高校時代、体操をやっていた。トンボが切れることから、踊りを売り物にした。故古今亭志ん朝が座長を務めた「住吉踊り」のメンバーでもある。
踊りは小文治さんに美しい所作を与えた。十八番『虱茶屋』の面白さは、まさに踊りの賜である。『殿様団子』の仕草もいい。
収まった口調で爆発的なフラはない。でも、演出は丁寧で、はっきりと人物を描き分ける。堅実な芸風だ。50代を迎え、落語家としては脂が乗り切る時期にさしかかってきた。風格が出、端正な芸にふくらみが出てきたように思う。
DVDには『船徳』と『芝浜』が収められている。『船徳』は仕草の多い噺で、まさに小文治さんのニンに合っている。オリジナルのくすぐりも入っていて、楽しい一席に仕上がった。『芝浜』は適度に笑いがあり、変に湿っぽくなっていない。人情噺ではなくきちんと落語になっている。小文治さんの見識がうかがわれる。程がいい。
この度、小文治さんは『宮戸川(上・下)』で芸術祭賞を受賞した。特に「下」は小文治さんの創作という。第1集で「上」(多分)の方が収録されているが、通しで是非DVD化してもらいたい。
この受賞が、小文治さんを一回りも二回りも大きくしてくれると思う。層が薄いと言われている芸協にとっても、小文治さんは貴重な戦力だ。どうか健康に注意されて、息の長い落語家になって頂きたい。文楽も志ん生も圓生も、小文治さんの師匠十代目文治も、丈夫で長生きしたからこそ、芸の華を咲かせることができたのだから。(HPの日記を拝見すると、心配は無用のようですね。)
2009年6月2日火曜日
芥川龍之介と志賀直哉
ここのところ、芥川龍之介と志賀直哉を読んでいる。改めて読むと、それぞれに面白い。
『暗夜行路』の解説を阿川弘之が書いているのだが、その中にこんなエピソードがあった。
ある時、芥川が夏目漱石に「志賀さんのような文章を、私はとても書けない。ああいう文章はどうやったら書けるのですか。」と訊いたという。漱石はそれに対しこう答えた。「あれは文章を書こうとしているのではなく、自分の思ったままを書こうとしているのだろう。私にもああいうのは書けない。」
こうして見ると、芥川と志賀というのは、対照的な二人だなと思う。
芥川は、あくまで意識的だ。細部にまで神経を張り巡らせ、ひとつひとつの小道具に意味を持たせる。様々な意匠を凝らした絢爛たる文章を積み上げる。構築された作品世界は、もはや一点一画をも揺るがせにできない完成されたものになる。
志賀は、漱石の言を借りれば、思うがままに書く。と言っても気楽に、というわけではない。自分が思うままに忠実にということだ。そのためには、調子から何から何まで、文章はすべて自分のものになっていなければならない。その自分へのこだわりのためには、辻褄合わせも読む者への説明も不要になる。
だからだろうか、私は芥川に多少の息苦しさを覚え、志賀に多少の傲慢さを感じる。
落語家に例えれば、細部にまで完璧を期す芥川は桂文楽であろうし、あくまで自己にこだわる志賀は古今亭志ん生であろう。そういえば、彼らは同時代を生きた人たちでもある。ちなみに、志賀は明治16年で、八代目桂文治・初代柳家小せんと同年の生まれ。志ん生が明治23年、芥川と文楽は共に明治25年生まれである。(ただし芥川も志賀も、文楽志ん生のような明るさはない。当たり前か。)
そう、私は明治・大正・昭和初期ぐらいまでの風俗や雰囲気が好きなのだ。桂文楽の噺(『つるつる』や『船徳』『明烏』、『かんしゃく』に『厩火事』等々)に、私は明治大正の近代文学の香りを感じる。そんな所も、私が桂文楽に惹かれる所以なのかもしれない。
『暗夜行路』の解説を阿川弘之が書いているのだが、その中にこんなエピソードがあった。
ある時、芥川が夏目漱石に「志賀さんのような文章を、私はとても書けない。ああいう文章はどうやったら書けるのですか。」と訊いたという。漱石はそれに対しこう答えた。「あれは文章を書こうとしているのではなく、自分の思ったままを書こうとしているのだろう。私にもああいうのは書けない。」
こうして見ると、芥川と志賀というのは、対照的な二人だなと思う。
芥川は、あくまで意識的だ。細部にまで神経を張り巡らせ、ひとつひとつの小道具に意味を持たせる。様々な意匠を凝らした絢爛たる文章を積み上げる。構築された作品世界は、もはや一点一画をも揺るがせにできない完成されたものになる。
志賀は、漱石の言を借りれば、思うがままに書く。と言っても気楽に、というわけではない。自分が思うままに忠実にということだ。そのためには、調子から何から何まで、文章はすべて自分のものになっていなければならない。その自分へのこだわりのためには、辻褄合わせも読む者への説明も不要になる。
だからだろうか、私は芥川に多少の息苦しさを覚え、志賀に多少の傲慢さを感じる。
落語家に例えれば、細部にまで完璧を期す芥川は桂文楽であろうし、あくまで自己にこだわる志賀は古今亭志ん生であろう。そういえば、彼らは同時代を生きた人たちでもある。ちなみに、志賀は明治16年で、八代目桂文治・初代柳家小せんと同年の生まれ。志ん生が明治23年、芥川と文楽は共に明治25年生まれである。(ただし芥川も志賀も、文楽志ん生のような明るさはない。当たり前か。)
そう、私は明治・大正・昭和初期ぐらいまでの風俗や雰囲気が好きなのだ。桂文楽の噺(『つるつる』や『船徳』『明烏』、『かんしゃく』に『厩火事』等々)に、私は明治大正の近代文学の香りを感じる。そんな所も、私が桂文楽に惹かれる所以なのかもしれない。
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