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2009年11月3日火曜日

桂文楽 昭和初期の東京落語界

大正から昭和にかけての落語界は、様々な団体が生まれ離合集散を繰り返していた。
やがて、月給制をとった寄席演芸会社をルーツとする東京落語協会と、月給制に反抗し歩合制をとった落語睦会にほぼ二分されるが、さらに大正15年、東京落語協会から柳家三語楼の一門が離脱、落語協会(通称三語楼協会)を設立する。この三つ巴の状況で東京の落語界は昭和を迎えることになる。(講釈師を辞めた志ん生が、睦会に入れてもらおうと五代目左楽を訪ねて拒絶され、三語楼門下になったのはこの年のことだ。)
最近買った保田武宏の『志ん生の昭和』には、この辺りのことが整理されていて大変参考になる。
睦会は五代目左楽を中心に、六代目柳橋、八代目文楽、初代小文治、三代目柳好の睦四天王が売れ、勢いがあった。一方、東京落語協会は五代目三升家小勝、三代目柳家小さん、八代目桂文治などの大看板が揃う。他に蝶花楼馬楽(後の四代目小さん)、三代目金馬などがいた。三語楼協会は、柳家三語楼、金語楼、小三治(後の七代目林家正蔵、三平の父である)、権太楼、東三楼を名乗っていた志ん生といった面々。五代目三遊亭圓生は睦会から三語楼協会に移籍、再び睦会に戻り、さらには東京落語協会に加入するといった具合だった。
しばらくこの三派を中心に、多少の落語家の移動があったり提携したり離れたりしながら、微妙なバランスを保っていたのだが、やがて三語楼協会が分解する。金語楼の台頭が師三語楼との不仲を招いたのだ。
結局、三語楼は東京落語協会の軍門に下る。当時、志ん生は柳家甚語楼を名乗っていた。隅田川馬石に改名し、一旦フリーとなるも、にっちもさっちもいかなくなって師匠三語楼のいる協会に加入し、名前も柳家甚語楼に戻す。
金語楼は昭和5年、柳橋とともに日本芸術協会を設立。金語楼はやがて、落語の世界にとどまらず、映画、喜劇へと活動の場を広げていくことになる。
昭和7年、三語楼は協会を飛び出す。志ん生はそこで三語楼と別れ、鶴本の志ん生門下にいたときの名前、古今亭志ん馬に改名した。この辺りから志ん生にも日が当たり始める。上野鈴本の支配人に目をかけられ、寄席の出番が増える。その年の11月には、文楽に誘われ睦会の高座に上がった。翌昭和8年には正式に睦会に加入することになった。そして、昭和9年、「若手三十分会」で文楽・志ん生はついに同じ土俵で競演することになる。ここで志ん生は、後に彼の代名詞ともなる『火焔太鼓』を演じたのだった。

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