昭和3年3月11日、第2次落語研究会の第1回が開催された。
ここに文楽は十八番の『明烏』で出演している。
トリは蝶花楼馬楽(四代目小さん)で『長屋の花見』。その他に、五代目三遊亭圓生『二番煎じ』、八代目桂文治『星野屋』、春風亭柳橋『子別れ』と錚々たるメンバーが、それぞれの得意ネタで競演した。若手では三遊亭圓楽(八代目林家正蔵)、橘家圓蔵(六代目圓生)が名を連ねている。
第1次落語研究会は明治38年発足した。
三遊亭圓朝の死後、東京の落語界を席巻したのはステテコの圓遊、ラッパの圓太郎、ヘラヘラ坊萬橘、釜掘りの談志という珍芸四天王だった。
中でも圓遊はそれまでの人情噺を大胆に滑稽噺に改作し、大人気を博した。それは現在演じられているほとんどの落語が、圓遊の影響を受けているといってもいいほどだった。
圓遊を中心とした珍芸は分かりやすく、大量に流入した地方出身者に圧倒的支持を受けた。
一方、そのため寄席ではまともな噺ができないような状況になる。
そのような現状を憂いた知識人や初代三遊亭圓左が中心となって立ち上げたのが、この落語研究会である。
色物なし。事前に演目が公表され、1席の噺をサゲまできちんとやる。後のホール落語の原型となる落語会であった。
この会で四代目橘家圓喬、初代三遊亭圓右、三代目柳家小さんは名人の名を不動のものにし、三代目蝶花楼馬楽(狂馬楽)、初代柳家小せん(盲の小せん)、四代目古今亭志ん生(鶴本の志ん生)、三代目三遊亭圓馬らが抜擢され、世に認められた。
第1次落語研究会は、結局、大正14年の関東大震災で中絶してしまう。それが、圓蔵の奔走で見事復活を遂げたのである。
自分が終生憧れた圓喬、芸の師圓馬らが出演した会に、しかも、その復活第1回に中心メンバーとして出演する。文楽もさぞ晴れがましかったにちがいない。
0 件のコメント:
コメントを投稿