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2009年11月8日日曜日

桂文楽 文楽と志ん生②

志ん生がどん底を味わったのは、ずぼらだったというだけではなかった。
彼は自分のやりたいようにやった。
浅い出番でも平気で大ネタをかけた。
四代目橘家圓喬に憧れ、きちっとした芸風だった。痩せて髪が薄く、多少反っ歯の気味がある。「死に神」とあだ名されるような陰気な顔立ちだった。後のふっくらした容貌からは想像もつかない。
志ん生の後に出る芸人はたまったものではなかった。彼は完全に寄席の流れを無視していた。自分のやりたいようにやる、それを最優先する。それも志ん生の居場所をなくしていく、大きな要因だった。
文楽は違う。文楽は周囲を味方につけることで、自分のやりやすい環境を作った。
初奉公で懸命に勤め主人に可愛がられた。三代目圓馬に食らいつき、五代目左楽に付き従い、圧倒的な信頼を得る。久保田万太郎、正岡容、安藤鶴夫などの評論家に気に入られたことで名人という評価を受けることになる。
決して器用な質ではない。計算尽くで取り入ったわけでもないだろう。文楽は必死だったのだ。必死で自分の周りの環境を整えたのだ。
多分それは、最愛の母から捨てられるように奉公に出されたという彼の少年期の体験によるのではないか。いきなり他人の中に放り出された文楽は、周囲を心地よくすることで味方にし、自分の有利になる方へもっていく、というやり方を必死で身に付けたのではないだろうか。
一方、志ん生は放蕩の末、自分から家族を捨てた。落語家になっても自分から飛び出す形で団体を転々とした。周囲に合わせて自分を曲げることより、リスクを負っても自分のやりたいようにやるということを、一貫してやってきた。
対照的に生きた二人だが、二人とも係累を持たない中で、それぞれのやり方でのし上がっていった。二人の友情は有名だが、それはどこか戦友に似た関係ではなかったか、と私は思う。

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