カミュの『ペスト』読了。
このコロナの騒ぎで随分前から読まれているというのは知っていた。ふと本棚を見ていたら、高校時代に買った新潮文庫版が出てきた。長男が読んでみると言うので貸してやる。で、長男が読み終えたので、私も遅ればせながら読んでみることにしたのである。
何しろ40年ぶりだから初読同然、面白かったよ。
仏領北アフリカ、オランの街がペストに襲われ封鎖される。医師リウーを中心に、最前線で病疫と格闘する者たちを描く物語。それが今の状況に切実に符合する。
オランにペストの兆候が出始めるのが4月下旬、5月6月にはあっという間に蔓延し市が封鎖される。微妙に季節がかぶっている。ペストの勢いが衰えるのが12月下旬、終息が1月、とすれば、かなりの長期戦を強いられたことになる。
封鎖された市から脱走しようとする者、刹那的に夜の街に繰り出す者、迫りくる見えない敵に怯える者、今まさに我々が目にしている光景が、この小説の中にある。
しかし、オランの市民は、感染者やある民族・階層の人々を攻撃したりしない。20世紀のフランスの植民地の方が、現代の我が国より民度が高いように感じるのは気のせいだろうか。
主人公、リウーの言葉が胸に刺さる。
「こんな考え方はあるいは笑われるかもしれませんが、しかしペストと戦う唯一の方法は誠実さということです」
この国を動かしている人たちは、果たして誠実か。この国に住む者として、しっかり見届けていこうと思う。
今日はふと目に着いた漱石の『二百十日・野分』(新潮文庫版)を読む。
「二百十日」を読み切る。初読の時は、小説の形を借りたアジテーションのように思え、私としては駄作と断じていたのだが、読み返してみると味わい深い。ここに登場する二人の主人公が、子規と漱石に思えてくる。
阿蘇登山の場面がいい。
(前略)圭さんが、非常な落ち着いた調子で、
「雄大だろう、君」と云った。
「全く雄大だ」と碌さんも真面目で答えた。
「恐ろしい位だ」暫く時をきって、碌さんが付け加えた言葉はこれである。
「僕の精神はあれだよ」と圭さんが云う。
「革命か」
「うん、文明の革命さ」
「文明の革命とは」
「血を流さないのさ」
「刀を使わなければ、何を使うのだい」
圭さんは、何も云わずに、平手で、自分の坊主頭をぴしゃぴしゃと二返叩いた。
「頭か」
「うん。相手も頭でくるから、こっちも頭で行くんだ」
「相手は誰だい」
「企力や威力でたよりのない同胞を苦しめる奴等さ」
「うん」
「社会の悪徳を公然商買にしている奴等さ」
「うん」
「商買なら、衣食の為めと云う言い訳も立つ」
「うん」
「社会の悪徳を公然道楽にしている奴等は、どうしても叩きつけられなければならん」
「うん」
「君もやれ」
「うん、やる」
どうだ、この今日性は。この国に住む、外国籍を持つ人や生活保護受給者などを分断し、攻撃をあおる人。そんな人の主張を垂れ流すメディア。それに賛同する人々。まさにそれは「企力や威力でたよりのない同胞を苦しめる奴等」ではないか。
確かに二人は青臭い。「奴等」との戦い方も漠然としているし、彼らの言うことは理想論にすぎるだろう。しかし、理想論を軽んじた結果が今の惨状を生んでいるのではないか。「企力や威力でたよりのない同胞を苦しめる奴等」「社会の悪徳を公然商買にしている奴等」を拒絶する青臭さが、私たちには必要なのではないか。
古典と呼ばれている作品の今日性というものについて、今日は考えさせられましたよ。
夕食はコロッケ、揚げ餃子でビール、酒。初物の筍の味噌汁。
寝しなにアイリッシュウィスキー。
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