大福さんの『子別れ』の文章を読んで、色々考えた。
柳家小三治の『子別れ』通しのCDは、私も持っている。1983年9月の録音か。私が大学を卒業した社会人1年目の年だ。そうか、大福さん、この高座を観ていたか。いいなあ。いい出来だ。私はこの中では、地味だけど「中」が好き。ここがあるから「下」が生きる。この「中」が小三治の凄さを感じさせる所だ。
実の親子という点では、本当にうろ覚えだけで、はなはだ心許ないが、あえて調べずに書くけど、『文七元結』に、長兵衛の娘は彼の連れ子で、おかみさんの実の娘ではないという演出があったような気がする。間違ってたらごめんなさい。でも、それはありだと思う。娘は実の父親の情けなさと継母への申し訳なさから、自分の身を売ろうとしたのかもしれない。
それにしても、落語に共通するのは、駄目な男とそれを受け入れる女、立ち直らせる女、許す女、という組み合わせだ。
色川武大は『名人文楽』という文章で「文楽の落語は男の呟きだ。」というようなことを書いていたが、こう考えると、やはり落語というのは「男の呟き」に他ならないな。男は、駄目な自分を、女に受け入れてもらい、立ち直らせてもらい、許して欲しいものなんだ。
確かに大福さんが言うような設定の落語も聴いてみたい。そのためには多分、女性落語家の視点が必要になるかもしれないな。
大福さんの文意からは大分それた。申し訳ない。あの文章から大福さんの今が、少し分かったような気がした。
軽々しくは言えないが、きっと大丈夫、きちんと誠実に向き合っていけば何とかなるもんだ。幸せの形は人の数だけあるさ。
大福さんの幸せを祈る。
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