名人論である。
優れた落語家は数多いたが、名人と呼ばれた人は限定される。
最高峰、三遊亭圓朝。話術では師圓朝を凌ぐと言われた四代目橘家圓喬。
大正期の初代三遊亭圓右、三代目柳家小さん。
この四人がその昔、名人と呼ばれた人たちだった。
そして、昭和30年代以降、八代目桂文楽を筆頭に、五代目古今亭志ん生、六代目三遊亭圓生の三人が昭和の名人としての地位を得ていく。
その名人誕生の過程の分析がすこぶる面白い。特に「昭和の名人」については、著者が時代の体験者であるだけに説得力がある。ああそうだったのか、とぐいぐい読ませるな。特に桂文楽が、昭和の「俺たちの名人」だったというのは興味深い。
私たちにとっての「俺たちの名人」、古今亭志ん朝も登場する。しかし、彼はもはや「名人はもう出ない」という価値観に生きる人であった。三遊亭圓生のように、名人を目指し、ぎらぎらした野心を剥き出しにすることはない。志ん朝のそういう名人観もやはり彼らしい。
タイトルの『こんな噺家はもう出ませんな』というのは、四代目圓喬の噺を聴いた客が、思わずもらした言葉である。八代目文楽が若い頃それを聞いて、圓喬の名人芸を語る時には必ずその言葉を引用したという。もはや名人は出ないという志ん朝の考えに通じるし、さらに言えば、著者もそう思っているのだろう。
名人へのオマージュを語る美しい本だと思う。
ただ、この本に私が思う「平成の名人」、古今志ん朝、柳家小三治は登場するが、立川談志は一切出てこない。筆者の好みではないのだろうな。でも、小林信彦にも言えることだが、談志を無視するのは、フェアじゃないと私は思う。好むと好まざるとに関わらず、文楽・志ん生後、並び称される存在といえば、志ん朝・談志であることは誰もが認めるところだろう。談志をきちんと論じないことは、著しく客観性を欠いているのではないかと思う。吉川潮の評論が、(反対の立場から)客観性を欠いているのと同じようにである。談志を認めないのであれば、取り上げてきっちりと批判すべきだ。無視はいけない。
まあ、きっと東京人の著者にとって、そういうのは野暮なことだったんだろうな。でも、それでいいんだろうか。
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