昨夜、録画していた立川談志のドキュメンタリー番組を観ていたら、爆笑問題の太田光が自分たちのライブに談志を招き落語を演ってもらった場面が出てきた。太田がリクエストした噺は『鼠穴』。いいよな、談志の『鼠穴』。初めて私が池袋の主任をとった談志を聴いたのが、この『鼠穴』だ。あらすじは次の通り。
父親の遺産を半分に分けた兄弟。兄は江戸へ出て商売で成功する。弟は田舎に残るが、遊びを覚え遺産を食い潰す。どうしようもなくなって江戸へ出て、兄に「店で雇って欲しい」と頼むが、兄からは「元手を貸すから自分で商売を始めろ」と勧められる。金包み開けて中を見ると入っていたのはわずか三文。弟は憤るが一念発起。ここから身を起こし、粉骨砕身働いて、やがて深川蛤町に蔵が三つもある店の主人となる。ある冬の晩、弟はかつて借りた元手を返しに兄の店を訪れる。ここで兄の真意を知り兄弟は和解。酒を酌み交わす。蔵に鼠穴があることから、火事を心配し帰ろうとする弟を、兄は「もし焼けたら俺の身代をやる」とまで言って引き留める。その夜は兄弟仲良く枕を並べて寝た。夜中、果たして深川で火事が起きる。蔵の鼠穴から火が入り、店は丸焼け。弟は零落する。尾羽うち枯らし、弟は兄のもとに行き商売の元手を借りようとするが、思うような金は出せないと突っぱねられる。やむをえず娘を吉原に売って、やっと手に入れた金を帰り道にすられ、絶望して首をくくって死のうとしたところで目が覚めた。火事以降は夢だったのだ。サゲは夢オチの定番「夢は五臓の疲れ」の地口で「夢は土蔵の疲れだ」である。
この噺について八代目桂文楽は、「最初に兄弟が話すところ、弟は田舎から出てきたばかりだから、本当の田舎言葉。兄貴の方は江戸に出てしばらく経っているから、少し薄れた田舎言葉。二度目は弟の方も純粋な田舎言葉ではなくなってきているし、兄貴の方はさらに田舎言葉は薄れているはず。その演じ分けをしなきゃならない。こんな難しい噺はとてもできない。」と言っている。
かつて落語はこのように聴かれたのだろう。職人は職人らしく武士は武士らしく、商人も大店の主人から番頭、棒手振りに至るまで、きれいに演じ分ける。それを見事だと見分けられる観客が存在したのだ。
志賀直哉は太宰治の『斜陽』を読んで、「貴族はこんな言葉遣いはしないよ」と言った。それを伝え聞いた太宰は荒れ狂い『如是我聞』というエッセイを書いて志賀を攻撃した。本物の上流階級である志賀に、地方の新興資産家の家に生まれた太宰が痛いところを突かれたといったところか。
しかし、本物の貴族言葉ではない『斜陽』は、没落する貴族階級の悲哀を余すところなく描き、本物の貴族言葉を知らない戦後の読者に圧倒的な支持を受ける。
談志の『鼠穴』も、文楽に言わせれば、肝心の描き分けはできていないのかも知れない。でも、私は(そしてきっと太田光も)この談志の『鼠穴』にやられたのだ。三遊亭圓生のような華麗な『鼠穴』ではない。これは生の人間の業がぶつかり合う『鼠穴』である。
私にとっては桂文楽の『締め込み』に匹敵する、思い出の演目だ。次回、もう少し詳しく書いてみようと思う。
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2011年11月29日火曜日
2011年11月27日日曜日
この週末
この週末。
土曜の朝は水戸で迎えた。金曜の晩、飲み会があってステーションホテルに泊まったのだ。
朝食のオムレツが絶妙。ネットの口コミでも褒めていたが、評判通りの旨さだったね。
夕方から妻子を連れて、つくばに行く。夕食はQ‘tの3階でオムライス。夕食後、イルミネーションを見る。「がんばろう日本」。今年はそうだよな。
日曜は妻子を連れて日立シビックセンター科学館へ。初めて行ったけど、充実してるなあ。
イライラ棒やお絵かきロボット、その他多数のアトラクションが、ほとんど待ち時間なし。子どもたちは、もう大喜びで遊んでた。うちの子は二人とも理系だな。おかしいな、両親共に国文科出身なのに。
帰りは日立の海を見ながら、一般道でのんびりとドライブ。先週は2日とも仕事だったからなあ。今週は子どもたちといっぱい遊べてよかったよ。
2011年11月23日水曜日
立川談志死す
立川談志死す。まさに巨星墜つ、である。
今日は一日休みで、子どもたちとキャッチボールをし、白帆の湯に行ってゆっくり温泉につかり、家に帰ってクリスマスツリーを出し、今日はいい一日だったなあと晩飯前にテレビを見ていたら、このニュースが速報で流れてきた。
ここのところの談志の衰えようを見て、ある程度覚悟はしていた。
ああ、そうか、とうとうこの日が来たんだなあ。
以前このブログで「立川談志考」という文章を書いているので、ここで彼について長々と書くつもりはない。ただ、立川談志という人は、私の青春時代を強烈に彩った落語家であった、かつて落語の演者のはしくれだった私に圧倒的な影響を与えた落語家であった、ということだけは言っておきたい。
たくさんの人が、この稀代の天才の死を悼み彼について語るだろう。
しかし、談志が先代林家三平を、先代金原亭馬生を、古今亭志ん朝を悼んだように、彼を悼んでくれる者は、多分いない。あれもまた名人芸であった。
亡くなったのは21日だったか。志ん朝の死から10年。それからの談志は、何だか色んな事に絶望していったように思える。
走って走って走り抜いた75年の生涯だったのではないか。ご冥福を祈る。立川談志と同時代に生きたことを、私は誇りに思います。
2011年11月21日月曜日
蟹を食う
八海君から送ってもらった蟹を家族でありがたくいただく。
花咲蟹が2杯。北海道では、毛蟹、タラバ、花咲が御三家だが、私は花咲がいちばん好き。
毛蟹の繊細な味はそりゃあいいけど、花咲蟹は肉に甘味があっていい。これぞ根室の味なんだな。
八海君の地元ということもあるが、私は北海道では根室がいちばん好き。
特に、釧路から根室への列車の旅が忘れられない。北海道にはどちらかというと、どこまでも続く広大な大地というイメージがあるが、この路線は釧路湿原があり、厚岸の海があり、日本でいちばん朝日が近い地、根室へと至る、実にバリエーションに富んだ風景が楽しめる。釧路駅で買った、駅弁の蟹飯も旨かった。あまりポピュラーでないせいか、パック旅行にもなっていないので、なかなか気軽に行けないのが残念。でも、いいよお、道東。
蟹はね、もう子どもたちが大喜びで食べた。じいちゃん、ばあちゃんも一緒で楽しかったみたい。あっというまに完食。旨かったねえ。
大人は真壁の地酒を飲む。これも旨かったな。どっしりとした米の味、爽やかな香りが素晴らしい。瓶にラベルが貼っていなかったので、どんな酒か詳しくは知らないけどね。
ここのところ忙しくて帰りも遅く、晩飯も一人の時が多かったけど、皆で食べる楽しさを久々に味わえました。八海君、改めてありがとう。
2011年11月20日日曜日
八海君ありがとう
この土日は両方とも仕事。
今日の朝食は、妻のママ友からいただいた煮卵を、ご飯の上で割り、煮汁をかけて食べる。半熟の具合が絶妙。とろとろで旨い。
仕事から帰ると、北海道の八海君から、蟹、イカ、ホッケ、鮭などの海産物がどさっと届いていた。毎年すまないねえ。
早速、夕食にホッケを焼いて食べる。肉厚で旨い。燗酒によく合うぞ。
八海君にお礼の電話をする。久々に話ができて楽しかった。
子どもたちを寝かしつけてから、ジョニーウォーカー赤ラベルを飲む。これは、昔、酒合丈君と二人で飲み明かした時の酒だ。夏休みにOBの落語会の手伝いをした後、方南町の彼の家のキッチンで飲んだ。口に含むと、あの時聞いた夜明けの鳥のさえずりを思い出す。
写真は、この間OB会で行った時ぶらついた歌舞伎町。この辺りは八海君や酒合丈君など落研の仲間とよく歩いたもんだよ。
2011年11月15日火曜日
2011年11月12日土曜日
その昔「安芸」という居酒屋があった
小田急線、和泉多摩川の近くに「安芸」という居酒屋があった。
桂小文治さんが学生の頃、アパートに遊びに行くと、決まってこの店に連れて行ってくれた。小文治さんが卒業した後も、私たちはここに足繁く通ったものだった。
暖簾をくぐると、手前が居酒屋、奥がスナックという変わった造りだった。手前の居酒屋と、奥のスナックに、それぞれおばちゃんがいて、この二人の仲が頗る悪かった。二人ともいつも酔っぱらっていて、よく喧嘩をしていた。
大して食べ物が旨かったわけでもない。焼き鳥の焼き加減はいつもまちまちだったし、おでんはいつ入れたか分からないぐらい黒っぽい色をしていた。酒は広島の「千福」。お燗を頼むと、いつもやたら熱かったような気がする。
私たちは、いつも座敷に上がって、おでんと焼き鳥をつまみに、やたら熱い燗酒を飲みながら、くだらない話で盛り上がっていた。
客層はほとんどが中高年で、学生は我々ぐらいだった。一度、私たちに説教してきたおじさんを取り巻いて、結局奢ってもらったばかりか、一人1000円ずつ小遣いを貰った。飲みに行って黒字になったのは、後にも先にもこの時だけだった。
そのうち、おばちゃんの酔い方が、尋常ではなくなってきた。小文治さんに連れて行ってもらった頃は、酔ってはいたが、勘定はしっかりしていた。ところが、その後、勘定も滅茶苦茶になっていった。馬鹿に安い時もあれば、ちょっと高い時もある。そんなに馬鹿高いことはなかったが、会計の時はちょっとしたスリルを味わった。安い時は、帰りの夜道ではガッツポーズをし、高い時は「今日は外したな」と反省しながら歩いた。
二人のおばちゃん同士の喧嘩も、常態化してきた。怒号、罵声の飛び交う場所で酒を飲むのは、あまり心地よいものではなかった。
ある時、ひどい喧嘩があって、さすがに私たちもあきれて早々と帰ったことがあった。しばらく足が遠のいていたが、「そろそろ大丈夫だろう。行ってみるか。」という話になった。店に近づくにつれて、何やら人の声が聞こえてくる。店の前に立つと、明らかに中は派手な喧嘩の真っ最中だった。「こりゃ駄目だ。」と私たちは引き返した。
その後、もう一度行ってみると、もう「安芸」という名前の店はなくなっていた。ああいう店だったが、私たちはその時、深い喪失感を味わった。何だかんだ言って、私が初めての馴染みになった飲み屋だ。ここで私は酒の味を覚え、人生の機微をちょっとだけだが、味わうことができたのだった。
桂小文治さんが学生の頃、アパートに遊びに行くと、決まってこの店に連れて行ってくれた。小文治さんが卒業した後も、私たちはここに足繁く通ったものだった。
暖簾をくぐると、手前が居酒屋、奥がスナックという変わった造りだった。手前の居酒屋と、奥のスナックに、それぞれおばちゃんがいて、この二人の仲が頗る悪かった。二人ともいつも酔っぱらっていて、よく喧嘩をしていた。
大して食べ物が旨かったわけでもない。焼き鳥の焼き加減はいつもまちまちだったし、おでんはいつ入れたか分からないぐらい黒っぽい色をしていた。酒は広島の「千福」。お燗を頼むと、いつもやたら熱かったような気がする。
私たちは、いつも座敷に上がって、おでんと焼き鳥をつまみに、やたら熱い燗酒を飲みながら、くだらない話で盛り上がっていた。
客層はほとんどが中高年で、学生は我々ぐらいだった。一度、私たちに説教してきたおじさんを取り巻いて、結局奢ってもらったばかりか、一人1000円ずつ小遣いを貰った。飲みに行って黒字になったのは、後にも先にもこの時だけだった。
そのうち、おばちゃんの酔い方が、尋常ではなくなってきた。小文治さんに連れて行ってもらった頃は、酔ってはいたが、勘定はしっかりしていた。ところが、その後、勘定も滅茶苦茶になっていった。馬鹿に安い時もあれば、ちょっと高い時もある。そんなに馬鹿高いことはなかったが、会計の時はちょっとしたスリルを味わった。安い時は、帰りの夜道ではガッツポーズをし、高い時は「今日は外したな」と反省しながら歩いた。
二人のおばちゃん同士の喧嘩も、常態化してきた。怒号、罵声の飛び交う場所で酒を飲むのは、あまり心地よいものではなかった。
ある時、ひどい喧嘩があって、さすがに私たちもあきれて早々と帰ったことがあった。しばらく足が遠のいていたが、「そろそろ大丈夫だろう。行ってみるか。」という話になった。店に近づくにつれて、何やら人の声が聞こえてくる。店の前に立つと、明らかに中は派手な喧嘩の真っ最中だった。「こりゃ駄目だ。」と私たちは引き返した。
その後、もう一度行ってみると、もう「安芸」という名前の店はなくなっていた。ああいう店だったが、私たちはその時、深い喪失感を味わった。何だかんだ言って、私が初めての馴染みになった飲み屋だ。ここで私は酒の味を覚え、人生の機微をちょっとだけだが、味わうことができたのだった。
2011年11月10日木曜日
夏目漱石『門』
漱石の作品の中で、私がいちばん好きなのが、この『門』だ。高校の時、模試の問題文で出た、「彼は門を通る人ではなかった。また門を通らないですむ人でもなかった。要するに、彼は門の下に立ちすくんで、日の暮れるのを待つべき不幸な人であった。」という文章に強く惹かれた。それから、何度か読んだが、その度に違った感動を与えてくれる。
崖下の家でひっそりと暮らす夫婦の話。
親友の妻を奪う形で結婚した宗助とお米。そのために二人は世間から指弾され、宗助は大学を中退、エリートコースから転落、何とか官吏の職を得、社会の片隅でひそやかに生きることになる。
二人の罪の意識が切ない。特にお米の三度の妊娠が、流産、死産など、ことごとく悲劇的な結末に終わったのを、「人の恨みによる呪いのため、一生子どもはできない」と易者に断じられる場面などはたまらないな。結婚して子どもができた立場で読むと、それがいかに残酷であるかが分かる。
ひょんなことから崖上の家主と交流が生まれ、やがて、家主の弟が、お米の前夫安井と知り合いであることが判明する。いつ何時、安井が宗助夫妻の前に姿を現すか分からない状況に、宗助は動揺する。彼はその苦境から救われようと、参禅による悟りを求めた。
鎌倉の禅寺を紹介され、修行に取り組むが、結局悟りは得られない。信仰は宗助を救ってはくれなかったのだ。
三角関係、伯父に父の遺産を使い込まれるといったエピソードなど、後の『こころ』を思わせる内容である。しかし、『こころ』よりも救いがあるな。
お米さんが可愛らしい。逆境にありながらも二人が深く愛し合い、支え合う姿が健気だ。
どうにか危機は去り、夫婦には、つかの間の平安が訪れる。「ほんとうにありがたいわね。ようやくのこと春になって」と言うお米に、宗助は答える。「うん、しかしまたじき冬が来るよ」
『こころ』を知っている私は思う。宗助、死ぬな、お米さんと二人きりでいい、寄り添って生きてくれ。
崖下の家でひっそりと暮らす夫婦の話。
親友の妻を奪う形で結婚した宗助とお米。そのために二人は世間から指弾され、宗助は大学を中退、エリートコースから転落、何とか官吏の職を得、社会の片隅でひそやかに生きることになる。
二人の罪の意識が切ない。特にお米の三度の妊娠が、流産、死産など、ことごとく悲劇的な結末に終わったのを、「人の恨みによる呪いのため、一生子どもはできない」と易者に断じられる場面などはたまらないな。結婚して子どもができた立場で読むと、それがいかに残酷であるかが分かる。
ひょんなことから崖上の家主と交流が生まれ、やがて、家主の弟が、お米の前夫安井と知り合いであることが判明する。いつ何時、安井が宗助夫妻の前に姿を現すか分からない状況に、宗助は動揺する。彼はその苦境から救われようと、参禅による悟りを求めた。
鎌倉の禅寺を紹介され、修行に取り組むが、結局悟りは得られない。信仰は宗助を救ってはくれなかったのだ。
三角関係、伯父に父の遺産を使い込まれるといったエピソードなど、後の『こころ』を思わせる内容である。しかし、『こころ』よりも救いがあるな。
お米さんが可愛らしい。逆境にありながらも二人が深く愛し合い、支え合う姿が健気だ。
どうにか危機は去り、夫婦には、つかの間の平安が訪れる。「ほんとうにありがたいわね。ようやくのこと春になって」と言うお米に、宗助は答える。「うん、しかしまたじき冬が来るよ」
『こころ』を知っている私は思う。宗助、死ぬな、お米さんと二人きりでいい、寄り添って生きてくれ。
2011年11月6日日曜日
鹿嶋に泊まる
2011年11月2日水曜日
幻の噺家 三遊亭圓弥
現在、三遊亭には、いくつかの系統がある。
芸術協会では、圓馬系と圓遊系。落語協会では圓歌系と金馬系。
もちろん、本流は圓生系である。当然、圓楽党がその主流派であるべきはずなのだが、六代目圓生の死後、先代圓楽は「三遊協会」を名乗ることを許されなかった。とすれば、圓楽党を本流とは言い難い。
先代圓楽と袂を分かった圓生の直弟子たちは、落語協会に復帰する。その際、彼らは三遊亭圓弥を中心に三遊亭一門としてまとまってやっていこうと決めた。だが、落語協会は彼らの香板順を下げた上、協会預かりという処置を下す。こうして、三遊亭本流はずたずたに分断された。
私が初めて圓弥を知ったのは、分裂騒動の前、NHKの「お好み演芸会」の大喜利コーナー「はなしか横町」のメンバーとしてだった。キャッチフレーズは「幻の噺家」。容貌も地味だったが、存在も地味だった印象がある。
地味ではあったが、お囃子の名手(『寄席囃子』というCDでは太鼓を担当した。)、踊りの名手(藤間流の名取り。住吉踊りでは座長の志ん朝を支える存在だった。)、芝居通として知られていた。諸事芸事に通じ、かちっとした楷書の芸を聴かせる、本格派の名に恥じない落語家だった。
寄席では『肝つぶし』とか『掛け取り』なんかを聴いたなあ。どっしりとした安定感が漂う高座だった。女は強いという枕で、男は虫を殺すのにためらいがあるが、女は「すぐ殺して」と当たり前のように言う、と言っているのを聞いて、この人は細やかな観察眼を持っているなあと思ったものだ。
入門したのは八代目春風亭柳枝。それだけに、長い間空席になっている柳枝襲名を期待させた。圓弥をおいて他に適任者は見あたらなかった。
しかし、彼は三遊亭圓弥という、さほど大きくもない名前を、生涯名乗り続けた。柳枝の遺族からの過重な条件を飲めなかったという話はある。
だけど、圓弥は、柳枝という柳派の大看板を襲名するより、三遊亭であり続けることを選んだのではないかと私は思う。彼は晩年、出囃子を「正札附」に変えた。言わずと知れた、師圓生の出囃子である。我こそが三遊亭本流であるという自負がにじむ。
余談だが、圓生は落語協会脱退について圓楽と協議したが、弟子たちに対しては秘密裡に話を進めた。志を事前に明かしたのは、圓窓と圓弥のみ。事の是非はともかく、芸至上主義の圓生が弟子の中で認めたのは、この3人であったと言っていい。
2006年4月29日、三遊亭圓弥死す。享年69歳。肝臓癌がこの三遊亭の支柱を奪っていった。
芸術協会では、圓馬系と圓遊系。落語協会では圓歌系と金馬系。
もちろん、本流は圓生系である。当然、圓楽党がその主流派であるべきはずなのだが、六代目圓生の死後、先代圓楽は「三遊協会」を名乗ることを許されなかった。とすれば、圓楽党を本流とは言い難い。
先代圓楽と袂を分かった圓生の直弟子たちは、落語協会に復帰する。その際、彼らは三遊亭圓弥を中心に三遊亭一門としてまとまってやっていこうと決めた。だが、落語協会は彼らの香板順を下げた上、協会預かりという処置を下す。こうして、三遊亭本流はずたずたに分断された。
私が初めて圓弥を知ったのは、分裂騒動の前、NHKの「お好み演芸会」の大喜利コーナー「はなしか横町」のメンバーとしてだった。キャッチフレーズは「幻の噺家」。容貌も地味だったが、存在も地味だった印象がある。
地味ではあったが、お囃子の名手(『寄席囃子』というCDでは太鼓を担当した。)、踊りの名手(藤間流の名取り。住吉踊りでは座長の志ん朝を支える存在だった。)、芝居通として知られていた。諸事芸事に通じ、かちっとした楷書の芸を聴かせる、本格派の名に恥じない落語家だった。
寄席では『肝つぶし』とか『掛け取り』なんかを聴いたなあ。どっしりとした安定感が漂う高座だった。女は強いという枕で、男は虫を殺すのにためらいがあるが、女は「すぐ殺して」と当たり前のように言う、と言っているのを聞いて、この人は細やかな観察眼を持っているなあと思ったものだ。
入門したのは八代目春風亭柳枝。それだけに、長い間空席になっている柳枝襲名を期待させた。圓弥をおいて他に適任者は見あたらなかった。
しかし、彼は三遊亭圓弥という、さほど大きくもない名前を、生涯名乗り続けた。柳枝の遺族からの過重な条件を飲めなかったという話はある。
だけど、圓弥は、柳枝という柳派の大看板を襲名するより、三遊亭であり続けることを選んだのではないかと私は思う。彼は晩年、出囃子を「正札附」に変えた。言わずと知れた、師圓生の出囃子である。我こそが三遊亭本流であるという自負がにじむ。
余談だが、圓生は落語協会脱退について圓楽と協議したが、弟子たちに対しては秘密裡に話を進めた。志を事前に明かしたのは、圓窓と圓弥のみ。事の是非はともかく、芸至上主義の圓生が弟子の中で認めたのは、この3人であったと言っていい。
2006年4月29日、三遊亭圓弥死す。享年69歳。肝臓癌がこの三遊亭の支柱を奪っていった。
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