現在、三遊亭には、いくつかの系統がある。
芸術協会では、圓馬系と圓遊系。落語協会では圓歌系と金馬系。
もちろん、本流は圓生系である。当然、圓楽党がその主流派であるべきはずなのだが、六代目圓生の死後、先代圓楽は「三遊協会」を名乗ることを許されなかった。とすれば、圓楽党を本流とは言い難い。
先代圓楽と袂を分かった圓生の直弟子たちは、落語協会に復帰する。その際、彼らは三遊亭圓弥を中心に三遊亭一門としてまとまってやっていこうと決めた。だが、落語協会は彼らの香板順を下げた上、協会預かりという処置を下す。こうして、三遊亭本流はずたずたに分断された。
私が初めて圓弥を知ったのは、分裂騒動の前、NHKの「お好み演芸会」の大喜利コーナー「はなしか横町」のメンバーとしてだった。キャッチフレーズは「幻の噺家」。容貌も地味だったが、存在も地味だった印象がある。
地味ではあったが、お囃子の名手(『寄席囃子』というCDでは太鼓を担当した。)、踊りの名手(藤間流の名取り。住吉踊りでは座長の志ん朝を支える存在だった。)、芝居通として知られていた。諸事芸事に通じ、かちっとした楷書の芸を聴かせる、本格派の名に恥じない落語家だった。
寄席では『肝つぶし』とか『掛け取り』なんかを聴いたなあ。どっしりとした安定感が漂う高座だった。女は強いという枕で、男は虫を殺すのにためらいがあるが、女は「すぐ殺して」と当たり前のように言う、と言っているのを聞いて、この人は細やかな観察眼を持っているなあと思ったものだ。
入門したのは八代目春風亭柳枝。それだけに、長い間空席になっている柳枝襲名を期待させた。圓弥をおいて他に適任者は見あたらなかった。
しかし、彼は三遊亭圓弥という、さほど大きくもない名前を、生涯名乗り続けた。柳枝の遺族からの過重な条件を飲めなかったという話はある。
だけど、圓弥は、柳枝という柳派の大看板を襲名するより、三遊亭であり続けることを選んだのではないかと私は思う。彼は晩年、出囃子を「正札附」に変えた。言わずと知れた、師圓生の出囃子である。我こそが三遊亭本流であるという自負がにじむ。
余談だが、圓生は落語協会脱退について圓楽と協議したが、弟子たちに対しては秘密裡に話を進めた。志を事前に明かしたのは、圓窓と圓弥のみ。事の是非はともかく、芸至上主義の圓生が弟子の中で認めたのは、この3人であったと言っていい。
2006年4月29日、三遊亭圓弥死す。享年69歳。肝臓癌がこの三遊亭の支柱を奪っていった。
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