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2014年9月23日火曜日

風柳の根多帳⑨

当時、私は21歳。女房はおろか彼女さえいなかった。
その私が、夫婦の噺である『芝浜』に、どうしてのめり込んだのか。
私が特に力を入れた場面がある。
まず、女房が金を拾ったのが夢だと信じ込ませる場面。ここは志ん朝の演出を採った。
「お前さんは朝起きて湯へ行ったの!帰りに大勢友達を連れて来て、さんざん飲み食いして寝たんじゃないか!いつ芝の浜へ行ったんだい?」
「どうせ夢を見るんだったら、52両稼いだって夢を見とくれよ。あたしが隠したって言うのかい?だったら捜しゃいいんだ。どこだい?押入れかい?天井裏かい?縁の下かい?どこだって捜しゃいいんだ!」
海で拾ったとはいえ、他人の金に手をつけたとあってはただではすまない。ましてや52両の大金だ。夢にしてしまうことで、女房が亭主を必死に守ろうとする。
このような存在を、私は強く求めていたのだろう。(私には彼女はいなかったが、好きな人もいなかったとまでは言わない。しかし、その人とはこういう関係にはなれないな、という予感があった。)
そして、3年目の大晦日。裏長屋でくすぶっていた棒手振りが、若い者の二、三人を使う魚屋の主になって、昔の自分を振り返る場面。
「俺は、昔、酒を旨いと思って飲んでいたんだろうか。考えてみりゃあ、俺は酒に逃げていたのかもしれねえな。今、若え者が愚痴をこぼすとな、俺は言ってやるんだ。まずは、とにかく働いてみろ。一心に働いてみると、そこから何か見えてくるぞ、ってな。」
これは小三治の演出に、自分の言葉を足してみた。(今ならブラック企業の経営者みたいな台詞だけど。)
私は、何度かこのブログでも書いたが、大学時代は無頼派を気取っていた。魚勝の述懐のような価値観を否定する所に、私の存在価値があると思っていた。私は酒に酔うと、こう心の中で呟いたものだ。「生きよ、堕ちよ。ばかやろめ。」
しかし、この頃、私は落語家になることを諦め、大学に入る頃に抱いていた夢を果たすべく歩き出そうとしていた。私は無頼派から脱却しようとしていたのだ。
桂三木助は、かつて「隼の七」と呼ばれた博打うちだった。それが娘のような、齢の離れた自分の踊りの弟子に惚れ、一緒になるために生活を建て直し、芸の道に精進した。その自分の姿を、彼は『芝浜』の魚勝に投影してみせた。
三木助と同じにしては申し訳ないが、私は私なりに拙いながらも、魚勝の再生に自分を重ねようとしていたのかもしれない。大学にも落研にも、『芝浜』を演ることで一区切りつけようとしていた、とも言える。
サゲを言って頭を下げ、追い出しの太鼓を聞きながら、私は演りきった想いでいっぱいだった。
緞帳が下り、呆けたように舞台の袖に戻った私に、太鼓を叩き終えた三笑亭小夢(現桂扇生)さんが言った。「ばかうま。よかったよ。」
この言葉は嬉しかった。今も忘れない。

第18回S大寄席の番組です。

「かぜ 17号」から。










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