三遊亭圓丈が死んだ。寂しい。
圓丈を初めて見たのは新宿末広亭だった。落語協会に復帰した直後だったと思う。ネタは『競走馬イッソー』だった。雑誌『落語界』で『ぺたりこん』も読んでいたが、今まで聞いたことのないタイプの落語だった。それまでの新作落語といえば、熊さん八つぁんを鈴木君山田君に代えた、古典の焼き直しのようなものだったが、圓丈の新作は、SFあり不条理あり、とにかくぶっ飛んでいた。
やがて圓丈は、テレビの「名人劇場」で口演した『グリコ少年』をきっかけに、一躍マスコミの寵児となった。
同時期には池袋演芸場で、前日のお題から翌日新作を作り、ネタおろしするという「三題噺の会」を開いた。定席だから十日間ぶっとおし。本当にとんでもないことをやったのだ。ここから名作『インドの落日』は生まれたのではなかったか。
その頃、私はちょうど大学生で落研に所属していた。私自身はゴリゴリの古典派だったが、圓丈の登場には興奮したな。落語の新しい時代が切り開かれていく高揚感があった。『グリコ少年』は無論だが、『悲しみは埼玉に向けて』『パニックイン落語界』など、まさに抱腹絶倒の面白さだった。(落研同期の八海くんが「追ん出し寄席」で演った『夢地獄』も面白かった)
圓丈がテレビで売れていたのはそれほど長い期間ではない。その身にまとうマイナー感が、テレビとは相性がよくなかったのだろう。そのおかげで消費されずに済んだ。圓丈はテレビタレントにならず、あくまで落語家でいてくれた。
そして、落語協会分裂騒動を描いた『御乱心』の刊行。大圓朝へと遡る三遊本流をずたずたにした師匠圓生、兄弟子圓楽へのまっすぐな怒りをぶちまける。これを書くことで世間が狭くなることは明白だったろうに、それでも彼は書かずにはいられなかったのだ。圓丈は闘う男だった。
後年の著書『ろんだいえん』でも、その刃は古典という財産にただ乗りしているような落語家に、評論家に、果ては観客にも向かった。
圓丈が作った新作落語は300席に及ぶという。師匠圓生の持ちネタに匹敵する数ではないか。
彼が切り開いた道に、春風亭昇太が柳家喬太郎が三遊亭白鳥が続いた。立川志の輔の初期の新作も、圓丈という先達がいなかったら生まれていなかったと思う。
新聞は圓丈を「新作落語のカリスマ」と呼んだが、彼は自分が権威になろうとはしなかった。若手を相手にウケで負けまいと、本気でのたうち回っていた。
先代圓楽がぶち上げた鳳楽による七代目圓生襲名騒動の時は、圓窓とともに襲名レースに名乗りを上げた。圓楽一門が推す鳳楽と、六代目の遺族の意をくんでいるという圓窓との泥沼の争いに割って入った圓丈は、鳳楽と浅草東洋館で「七代目三遊亭圓生争奪落語会」を開く。まるでプロレスのような展開に、いつしか襲名問題も立ち消えになって行った。
この時圓丈は「鳳楽は六代目の孫弟子、圓窓は柳枝門下からの移籍、圓生の名は直弟子の私が継ぐ」と言った。圓生の死後、落語協会に復帰した際、三遊一門としてまとまることすら許されなかったことへの怒りが、圓丈を突き動かしたのだろうか。ただ、圓丈は策謀を巡らすことはせず、観客を巻き込んだ。それが先代圓楽の野望を吹き飛ばす結果となった。(鳳楽には気の毒な結果にはなったが)
この一件で私が感じたのは、圓丈の「自分は大圓朝に連なる三遊本流の落語家である」という強烈な自負であり、矜持であった。
私が圓丈を最後に見たのは、2019年5月下席、浅草演芸ホール昼主任の高座だった。圓丈はその頃好んで着ていた袖なしの羽織姿で現れた。昔はワッペンをちりばめた高座着だったなあなどと思いながら、私は圓丈の高座に向き合った。
座布団の前には見台があり、そこにはメモが用意されていた。ここ数年、彼が記憶力の低下に悩み、薬を服用していたことを、私は後に知った。
ネタは『強情灸』。分裂騒動の際の圓生の宿敵、柳家小さんが得意にした古典落語が、私が最後に見た圓丈の落語かと思うと、今更ながらに感慨深い。
その時は、そんなことになろうとはつゆ知らず、それなりに楽しんでいたのだが、今にして思えば、やっぱり新作が聴きたかった。
圓丈師匠、あなたの闘う姿を、私はずっと、カッコいいなあと思いながら見てきました。
ご冥福をお祈り申し上げます。
6 件のコメント:
お疲れ様です、Densukeさん。
川柳さんに続いて圓丈さんと、三遊本家の噺家さん達が鬼籍に入り非常に残念です。
私も寄席で圓丈さんを何度も聴いておりますが、当たり外れが多いけど、当たりの時は本当に楽しませていただきました。
私が一番印象に残ってるのは両国寄席に出演した時で、確か「夢一夜」と言う新作を演じていました。
その時の圓丈さんの噺の勢いと、中入り後の楽太郎さん(現六代目圓楽)と対談で柳派の悪口を言っているのは今でも忘れません(笑)。
でも圓丈さんは300近くも新作を作っていたのは初めて知りました。
もし古典も含めたらですけど、確か圓丈さんは130くらい持ちネタがあったので、そこから新しく覚えた古典ネタがあったとして、それを含めたら450以上の持ちネタがあった事になりますね。
本当に凄いです。
でも、圓丈さんは自身の新作落語や古典落語を披露するだけじゃ無く、白鳥さんや天どんさんの様に新作派や二刀流を扱える立派なお弟子さんを育てあげた事も、三遊の噺家として誇れる素晴らしい功績だと思います。
楽太郎さんも追悼で圓丈さんに三遊を守ると仰っておられましたし、
彼等が三遊の芸を後進へ繋いでいく事を期待します。
圓丈の新作は当たり外れが大きかったですね。でも、それがかえって楽しみだったりもしました。
圓丈も、作っては直し、作っては捨て、を繰り返したのでしょう。それがあの数になっていったのだと思います。
彼の本は、三遊亭と柳家の演出の違いを分かりやすく解説してくれていて、面白いです。両派の思想をきちんと理解しての論評。その上で、三遊亭の落語家であることに誇りを持っている。一本芯の通った様子が、本当に魅力的でした。
圓丈の語り口自体は私の好みではありませんでしたが、それでも聞いていると巻き込まれました。大学時代に出会ったというのも大きかったような気がします。私の青春時代を彩った一人でした。
そんな人が次々亡くなっていくのが、とても寂しいです。しょうがないことなんですが。
でも今は音源も豊富にある。若い才能も多く育ってきています。まだまだ落語を楽しもうと思います。
圓丈さんは古典の焼き直し的な新作を捨て、全く新しい形で新作を造られ、
それが1980年頃の漫才ブームの頃に重なって売れたのだと思います。
唯、仰られた様に自身はあくまで落語家で落語で勝負したいという事が
タレント色に染まらなかったのだと思います。
新作を演じるには古典をきっちり演じる人の教えを受け継ぐべきだと
圓生師に入門した事や、新作をやりたい弟子にも最初は圓生師に習った古典落語の
稽古をつけると云う事を書かれており、そこに伝統を大事にしながら自分の世界を
創られた事が伺われました。
マスコミの露出が少なくなったのは、落語で勝負と云う思いもあるが、
やはり『御乱心』の出版で『笑点』等への出演が出来なくなった事も大きいのでしょうか?
又、40年近く前に出版された『落語文化学』と云う本の対談で、(小里ん師と八朝師だったか?)
「奴隷の様な事に耐えるのが修行でそれが耐えれない奴が駄目と云う土壌を是とする事が正しいのか?」
「常識弁えない弟子や後輩が居たらそら叱りますよ。でも理不尽さに絶対服従するのが良いとは思えない」
とこの時代にこの様な考えが云える人は凄いと思いました。
それが、師圓生や兄弟子圓楽 圓窓の批判『御乱心』の出版へと繋がるのでしょうか?
「奴隷の様な事に耐えるのが修行でそれが耐えれない奴が駄目と云う土壌を是とする事が正しいのか?」
「常識弁えない弟子や後輩が居たらそら叱りますよ。でも理不尽さに絶対服従するのが良いとは思えない」
圓丈、こういうことを言っていましたか。やっぱり圓丈はカッコいいなあ。教えて下さりありがとうございます。そんな彼だからこそ『御乱心』のような本が書けたんでしょうね。
圓丈がテレビで売れている頃はリアルタイムで見ていましたが、彼はテレビのバラエティー番組では生きなかった。ああいう場では面白くなかった、というのが正直な印象でした。まあ『御乱心』の出版は確実に世間を狭くしたと思いますが。
ご回答ありがとうございました。
圓丈師先述の対談の中で、師弟関係も(この対談時丁度NSC等タレント養成所出身のダウンタウンや
オーデション番組から芸界入りした、とんねるず等を例に挙げ)
学校形式の様な形でも良いのではないかと云っておりました。
(これは何かの対談で小朝師も云って居たと思います。)
師弟関係の是非よりも、圓丈師の『御乱心』で此方の考えを云うと師圓生師から「恩知らず」と罵倒された事や兄弟子圓楽圓窓の両氏から「これに意見を言うのは許されない」と云われた事や、弟弟子の圓好師(当時旭生)が「皆さんの云う通りで」と云うと、圓丈師が「君の意見を聞きたいんだよ」と云うと、
泣きながら「皆が云わせてくれなかったじゃないですか」と云ったのを聞いた様な事から、
「この様な関係に服従するのが是か?」と思い、師匠弟子と云う関係を改めて考える様に成った切欠かなとも思えるのです。
圓丈としてもドライなだけの師弟関係をよしとしたわけでもないでしょう。師弟関係には少なからずウェットな部分があると思います。
ただ、「厳しく躾ける」ということは大切ですが、弟子をまるで召使のように扱うというのも違いますよね。
五代目柳朝一門とか十代目馬生一門とか春風亭柳昇一門とか、比較的のびのびと育てたところから俊才が多く育っている印象があります。
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