安藤鶴夫の「桂文楽十八番演目解説」でも、飯島友治の『古典落語 文楽集』の解説でもそうだが、暉峻康隆だけは違う。『CDブック 八代目桂文楽』の中で、彼は言う。
「私の親友であった八代目文楽がこの噺を習ったのは、まだ七代目翁家さん馬門でさん生と名のっていた大正時代、大阪の噺家で東西の噺を消化してレパートリーが多く、巧者とされた三代目三遊亭圓馬であった。浅草三筋町の圓馬に稽古をつけてもらっていると、当時の文楽はむやみに『エー、エー』という癖があったので、その都度師匠がガラスのおはじきをピシーリと投げつける。最初は七十余りもあったのが、一つもなくなるまでおはじきの稽古が続き、『明烏』もそうして仕込まれたという。(『落語芸談』)」
しかし、この説には大きな穴がある。文楽が旅の修行から帰り、七代目翁家さん馬門に入ってさん生と改名した大正5年、当時朝寝坊むらくだった三代目圓馬は、四代目橘家圓蔵との不和がもとで東京を引き払い、旅に出る。文楽が浅草三筋町の圓馬の家に稽古に通っていたのは、彼が前座で小莚といっていた頃。おはじきのエピソードは、文楽の自伝『あばらかべっそん』の中で、『牛ほめ』のけいこの場面に出てくるのだ。
『落語芸談』の中でも、文楽の口から「その夢楽(原文のまま、正しくは「むらく」)の少し前の立花家左近といった時代から、夢楽になったころですよ、私がオハジキでやられたのは。」と言っているのだから、このエピソードは明治末期でなければおかしい。(圓馬が左近からむらくを襲名したのが明治42年である。)
柳家小満んは『べけんや』で、「桂文楽の『明烏』は、若い頃からの十八番で、師匠がまだ翁家さん生といっていた二ツ目の頃に、志う雀という師匠から教わったそうだ。」と言っている。文楽と日常的に接している内弟子が言うのだから、文楽自身、そう言っていたと思って間違いはあるまい。さらに、その志う雀について、「こんなゴツゴツした手で、色が黒くて、渋い顔の爺さんで、それでいてじつに噺がうまくてね・・・」という文楽の言葉を紹介しているのだから、かなり具体的な証言と言える。やはり文楽の「明烏」は志う雀からのものであると、私も思う。
ただ、前述の『落語芸談』で文楽自身が、「夢楽のころの圓馬師匠は、羊かん一つたべるしぐさでも、どういう家の羊かんか、たべ分けてみせてくれるし、豆だって、枝豆、そら豆、甘納豆とたべ方が違うんですね。それがあたくしはできなくって、ピシーリとやられました。『明烏』なんかもそうしておそわりました。」とも言っているから、志う雀から仕入れた「明烏」を圓馬にも見せて指導を受けたということなのだろう。(ちなみに、仕草の稽古に関して『あばらかべっそん』では、一尺の物差しで手の甲を叩かれることになっているから、この「ピシーリ」はおはじきではないと思う。)
本名鈴木芳三郎。生没年不詳。安政7年1月に生まれ、大正期に没したらしい。初代三遊亭圓遊(ステテコの圓遊)門下で、はじめ遊楽。明治23、4年頃、師匠の前名である、志う雀に改名した。同43年、八代目司馬龍生を襲名するが、大正4年の名簿では三升家小勝門で三升亭志う雀を名乗っている。噺のスジはよかったが売れず、晩年は指物師を内職にしていたという。
実はこの志う雀、文楽の初高座に立ち会っているのである。『あばらかべっそん』の中に出てくる、文楽が小南に入門して、小莚の名前をもらった頃の話である。
神田の白梅という寄席で、橘寿という年寄の前座が来ず、急遽、寄席に出て3日目の小莚が高座に上がることになった。小莚は、素人時代に聞いてうろおぼえだった「道灌」をしどろもどろになりながらも何とかやり切る。高座を下りて意気消沈している小莚に、志う雀が「小僧さん、お前ははなしかになれるよ。一生けんめいにやんな」と言ってくれたという。
飯島友治は「師匠はこの噺を、当時すでに相当の年配だった三遊亭志う雀から稽古を受け、初めて板(高座)にかけたのは二ツ目のさん生時代であった。」と書いている。文楽がさん生を名乗ったのは大正5年から。翌年には翁家馬之助で真打に昇進しているから、さん生を名乗ったのは1年ほどである。
小満んの話と合わせれば、この大正5年に文楽は志う雀から「明烏」の稽古を受け、その年にはこの噺を高座にかけて、大いに売り出したことになる。むらくの圓馬はこの年に東京を離れているから、その前に三筋町で甘納豆の仕草を稽古されたということか。さん生(文楽)、志う雀、むらく(圓馬)の三人が揃う可能性は、かろうじて、ある。これまでの話を総合すると、文楽が「明烏」を仕入れたのは、この大正5年でしかあり得ない。
しかし、文楽の「明烏」は、それまでの演出から大きな改編を遂げている。文楽の新ネタへのアプローチの仕方を考えれば、ひとつの噺を覚えてそれが大当たりをとるまでに、1年もかからなかったとは考えにくい。
実は文楽は旅に出る前の小莚時代に二つ目に昇進している。噺が仕込まれたのが「二つ目の頃」といのであれば、旅に出る前だったと見るのが自然ではないかと、私は思うのだが、どうだろう。
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