私が生で聴いたことのある落語家では、やはり古今亭志ん朝と立川談志が双璧だな。私たちの世代にとっての「俺たちの名人」であり、昭和落語の最高峰、文楽・志ん生に匹敵する。
ただ、情報量でいえば、志ん生が文楽を圧倒しているように、談志が志ん朝を圧倒している。志ん生の場合、志ん生ファンの情報発信が(息子である十代目金原亭馬生や志ん朝経由のものも含めて)多い。それに対し、談志の場合、談志信者に加え、談志本人による情報発信も夥しいんだな。談志伝説の成立には、この情報量の多さが貢献しているように、私には思われる。
それでも志ん朝に対する情報も、やはり同時代の落語家の中では抜きん出ているし、その中には貴重なものが多く含まれている。
その辺りの所を、今回は紹介していこうと思う。
2005年に河出書房新社から出た、志ん朝の対談集『世の中ついでに生きてたい』は、志ん朝本人の人生観や落語観が、本人の言葉で語られている好著である。
その中で、立川談志について語っている所がある。志ん朝は他人の芸に対して、あれこれ論評することは、あまりない(この辺りが談志とは対照的なところだが)。しかもそれが、周囲からライバルと目されていた立川談志についてなのだから、興味深い。これについての落語評論家の論評をあまり目にしたことがないので、ここで取り上げてみる。
お相手は江國滋。1994年の対談である。
江國が山藤章二の言葉を引いて、「談志は志ん生の系譜、志ん朝は文楽の系譜」と持ち掛けたのに対し、志ん朝はこう答えている。
「まあ、談志さん自身、志ん生に対する憧れが非常にありますから。ただ、大変だろうなと思うのが、極端な言い方をしちゃうと、三平兄さんの芸をそのまんまやるのに似てるところがあるんですよね。というのは、三平兄さんの高座はあの人がやるもんで、あの人そのものですから。志ん生の芸にもそれがあるんですよね。志ん生そのもので。」
「(前略)談志さんにしてみれば、親子でもないし自分の師匠でもない、ただ好きなはなし家であるということから、落語をやるというより志ん生をやることになっちゃう。そうなるとつらかろうと思いますよ。」
「僕なんかが見てて、ちょっと違うなと思うのは、志ん生をやるときに、かたちとして乱暴が出てくるんですよね。話したことがないからわからないんですけど。落語というのは業の肯定だということを彼はよく言うんです。だからといって、イコール乱暴というもんではないとわたしは思うんですが。乱暴なやり方をすると志ん生に近いかなという考えをひょっとすると持っているかもしれないんですね。僕らが『ああ、すばらしいなあ』と思っていたころの、小ゑんから談志になる時分、あのころのあの人の芸風ってのは、志ん生はやってなかったと思うんです。」
「あんなすばらしい調子の人もいなかったですからね。それをそういうふうにやらないから、わたしなんかはどっちかいうとイライラしちゃうんですよね。やってちょうだいよ、と思う所があって。(後略)」
こういうことは、柳家小三治も言っている。朝日新聞「語る—人生の贈りもの—」より引用する。
「(立川談志について)あの先、どうなったんだろうって思いはあります。若い時から口調もしっかりしてたし、落語をまともにやって、まともにおもしろいんですから。みんなその技量がないからギャグを入れたりするわけでしょ? 家元になりたいとか、議員になりたいとかということがなければ、とんでもない人になっていましたねえ。『家元・元祖』って言われるものに、知らずのうちになれる人だったと思いますよ。」
談志の高弟、立川談四楼は著書『談志が死んだ』(新潮文庫)の中でこのように綴っている。
(談志が亡くなって、その「お別れの会」のシーンから。)
「二〇〇七年と一〇年の『芝浜』を聴き、昔の師匠は上手かったと龍志が言ったのは、立川流以前の弟子の共通した思いだった。二〇一〇年の『芝浜』はもちろん、〇七年の伝説の『芝浜』も、技術的にいい出来ではなく、下手である。セリフは噛む。上下を間違え、妙な間さえ空く。これを落語家は下手と呼ぶのだ。
しかるに会場の感動はどうだ。居合わせた客の誰もが〇七年の『芝浜』はよかった、感動した、神が降りたと称え、体力が落ち、ほとんど聞き取れない一〇年の『芝浜』さえ、涙まじりに、スゴかった、あの人は紛れもなく神だと言い募る。
ここかと思えばまたあちらと、談志は変貌を遂げた。その速さにとり残された客と弟子がいた一方、変わらず愛し続ける客がいたということか。ああ、半端だなと自分の存在を思う。一門の上と下を、以前と以後を行きつ戻りつしたつもりだったが、それぞれを深く知っちゃいなかったのだ。それでいて両者の橋渡し役のつもりでいたわけで、ま、グレーゾーンもよしとするか。」
山藤章二や、談志本人が言うように、談志は写実を超えて、ピカソが達した域へと行ってしまったのかもしれない。ついていけない者は、それまでのレベルだったということか。
談四楼は会場の客の誰もが感動していたと言うが、少し意地悪な言い方をすれば、そこにいたのは談志信者といってもいいファンばかりであったのであり、例えば新宿末広亭のトリ席だったり、名人上手が腕を競う東横落語会の高座であったりというのであれば、果たしてどうだったか。談志自身の「技、神に入る」という言葉と、それに続く信者の賞賛とが、あの高座を「伝説の名演」に上書きしてしまったのではないだろうか。
私もまた「取り残された客」の一人である。
談志を巡る論議では、信者による盲目的な賛美と、アンチの談志への人格攻撃とに分断されている。私としては、志ん朝や小三治、談四楼のような視点がしっくりくるのだが。
『世の中ついでに生きてたい』の続編で、『もう一席うかがいます。』(2006年・河出書房新社刊)というのがある。
この中の村松友視との対談(2000年のもの)で、志ん朝は次のようなやり取りをしている。
村松 (前略)、こうなったら勇気をもっておたずねしますが、談志さんとの「二人会」とかあり得ます?
志ん朝 ええ・・・、一度はやってみたいんですがねえ。
村松 こりゃあ、すごい!
志ん朝 それはね、さっきの志ん生襲名の話よりね・・・、私にとっての意味は大きいかもしれない。
村松 第三者がとやかく言うことじゃないけど、これはうれしい話だなあ。
志ん朝 飲んだ勢いで言うんだけれど、俺もそう思うけれども、あの人もたぶんそうだと思うんだよ。俺がいて幸せだと思いますよ。
最後の台詞がぐっとくる。翌年、志ん朝は亡くなり、結局、「二人会」は実現しなかったけれど、この二人には二人でしか分からない感情があったのだろう。
そういえば、文楽・志ん生の最後の対話でも、志ん生が「二人会やろう」と言っていたっけ。
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