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2022年12月8日木曜日

ジョン・レノンの命日に寄せて

 1980128日、ジョン・レノンは40歳で死んだ。しかし、彼がこの世から消滅した訳ではない。彼の22歳から40歳までに録音した楽曲はいつでも聴くことができる。夥しい量の映像も残されている。彼の文章や喋ったこと、描いた絵も楽しむことができる。ジョン・レノンは、今でも消費され続けている。

それでも、ジョンは40歳以上にはなれない。ジョンは40歳のまま静かに死に続けている。

私もいつの間にかジョンの齢を追い越した。追い越すどころか、もはや60を過ぎてしまった。60を過ぎた目で見ると色んなものが見えてくる。そんなことを、とりとめもなく書いてみたい。

 

母よ、私はあなたのものだったが、あなたは私のものではなかった

私はあなたが欲しかったが、あなたは私を欲しくなかった

だから、私はこう言うしかない さよなら、さよなら

 

父よ、あなたは私を捨てた 私はあなたを捨てなかったのに

私はあなたを必要としていたが、あなたは私が必要ではなかった

だから、私はこう言うしかない さよなら、さよなら

 

ジョン・レノン初のソロアルバム『ジョンの魂』のオープニングを飾る「マザー」の一節である。

ジョンが生まれた時、父のアルフレッド・レノンは船員として外洋にいて不在だった。母、ジュリアは一人でジョンを育てることができず、ともに実家で暮らすことになる。一時、アルフレッドが帰って来るが、夫婦仲が険悪となって間もなく出て行った。やがてジュリアはジョンを姉のミミに預けて新しい恋人と暮らし始める。

ジョンが6歳の時、アルフレッドが不意に姿を現し彼を連れ出した。一週間、父とブラックプールで暮らすが、ジュリアが連れ戻しに来る。幼いジョンに両親は、どちらかを選ぶよう迫った。初めジョンは「父さんといたい」と言ったが、悲嘆にくれる母を見て「母さん、ごめんなさい。やっぱり母さんと行く」と泣きながら訴えた。こうして、ジョンは母と一緒にリバプールへ帰るが、結局、もとのように伯母に預けられた。

この出来事はジョンの胸に深い傷を残す。あずかり知らぬ大人の事情に巻き込まれ、両親を傷つけた罪の意識を背負わされ、挙句の果てに捨てられたのだ。

後にジョンは母との交流を再開するが、18歳の時にジュリアは非番の警察官の車に轢かれ死んでしまう。

ジョン・レノンを理解するうえで、この幼少期の過酷な体験を抜きにして語ることはできない。

21歳でアートカレッジの同級生、シンシア・パウエルと結婚。これはシンシアが妊娠したからである。翌年、息子、ジュリアンが生まれる。後にジョンはジュリアンのことを「ウィスキーでできた子どもだ」と言った。「酔っ払ってやったらできちゃった」ということだ。

ジュリアンが生まれた1963年、ビートルズは瞬く間にスターダムにのし上がる。ジョンは乱痴気騒ぎのようなツアーに明け暮れ、家庭を顧みることはなかった。(考えてみればジョンも22歳のあんちゃんだ。家庭より乱痴気騒ぎの方が面白いに決まっている)

そして、ジョンはオノ・ヨーコと出会う。やがて二人は恋に落ち、ジョンとシンシアは離婚する。ジュリアン、5歳の時であった。ジョンは、自分の父と同じように、我が子ジュリアンを捨てたのだ。

ポール・マッカートニーはジュリアンのために名曲「ヘイ・ジュード」を作った。ポールはジュリアンをかわいがり、一緒に西部劇ごっこをして遊んだ。ジョンはポールに向かって「どうやったら子どもとそんなふうに遊べるんだ?」と訊いたという。

1970年、ビートルズ解散。ジョンとヨーコは一時別居するがよりを戻し、1975年、一粒種、ショーンを授かる。以後、ジョンは音楽活動を引退し、ハウスハズバンドとして育児に専念した。

もちろん、そこにはジュリアンにした仕打ちに対する後悔がある。ジョンは言う。

「五年間、常にそばにいてやれる時間を(ショーンに)与えたかったからだ。僕は一人目の息子の成長を見ずにきてしまい、気がつけば電話でバイクの話をするような一七歳の青年になってしまった。あの子が小さい頃、僕はツアーに出ていて、まったくそばにいてやれなかったんだ。この先どうなるかわからないが、子どもとの関りを怠った代償は大きい。〇歳から五歳の間見てやれなかったら、一六歳から二〇歳のあいだにもっとしっかり見てやる必要が出てくる。借りがあるんだから。宇宙の法則みたいなものだ」と。

引退前のアルバム『心の壁、愛の橋』のラストナンバーは、ジュリアンの叩くドラムに合わせてジョンが歌う「ヤ・ヤ」。「スタンド・バイ・ミー」のPVでは、冒頭にイギリスのファンへのメッセージとともにジュリアンに語りかける場面がある。ジョンは明らかにジュリアンとの交流を求めていた。(事実、1979年にはジュリアンをアメリカに呼び寄せ、一緒にフロリダを旅している)

1980年、音楽活動を再開。しかし、その直後、ジョンは凶弾に倒れる。この時、ショーンは5歳。ショーンもまたジュリアンと同じ、5歳で父と引き剥がされたのである。

ジュリアンは、父と同じミュージシャンの道を歩んだ。偉大な父と同じ道に進むのは、それだけで苦難の連続だろう。デビュー作は成功を収めたものの後が続かず、薬物にも溺れたという。それでもジュリアンは生き延びた。来年は還暦を迎える。ショーンもまた、今年47歳になった。二人とも、父の齢を追い越したか。よかった、と思う。

ジョンが書いた二人の息子への子守歌、「グッド・ナイト」と「ビューティフル・ボーイ」は両方とも「目を閉じなさい」から始まる。色々あったけど、ジョンにとって二人ともかけがえのない息子だったんだな。

 

今、改めて思う。やはりジョン・レノンは、あんなふうに死ぬべきではなかった。二人の息子たちのためにも。ジョンはジュリアンへの借りを返していないじゃないか。

 

今日は通勤の行き帰り、『ダブル・ファンタジー』と『ミルク・アンド・ハニー』を聴いた。ジョンの最後の録音だ。まだまだこの先があったはずだと思うと、とても悲しい。

『ミルク・アンド・ハニー』、ジョンのターンのラストナンバー「グロー・オールド・ウィズ・ミー」。ジョンはこの曲を「ウェディングソングのスタンダードナンバーになるよ」と言ったという。

私たちの結婚式に使わせてもらったよ、ジョン。本当にいい曲だ。私も君と同じ、二人の男の子の父親になった。まだまだ頑張るよ、ほんの少し君の曲に助けてもらいながら。

 

「ジョンの命日に何か書いてくれ」という高山T君のリクエストに応えて書いた。だらだらとまとまりのない文章になってしまったが、ご容赦願いたい。

なお、この文章は河出書房新社『文藝別冊/ジョン・レノン・フォーエバー』を参考にした。



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