この前の日曜日、妻子を連れ、久し振りに筑波山に登った。
筑波神社前の土産物屋で昼食。冷やしたぬきうどん。
まあ予想通りの味。
境内でガマの油売りの口上をやっている。
長男が食い入るように見る。いい客だ。
三代目柳好の名調子を、今度聴かせてやろう。
ケーブルカーで宮脇駅から筑波山頂駅へ。
気温は22度。肌寒いくらい。
御幸ヶ原、コマ展望台に上る。円形のゆっくりと回る展望台。
西に男体山、東に女体山、南東に霞ヶ浦を望む。屋上の眺望、素晴らしい。
宮脇駅に下り、売店で休憩。梨のソフトクリームとところてん。
次男はところてんを大喜びで食べる。
日曜日でけっこうな賑わい。次はロープウエイに乗せてやろう。
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2009年8月21日金曜日
夏目漱石『草枕』
『草枕』。漱石初期の名作である。
非人情を志向する画工が山中の温泉宿に滞在し、そこで一人の美しい女と知り合う。
女は宿の出戻り娘、那美。彼女と画工との交流を中心に話は進む。
しかし、この小説、ストーリーはさほど重要ではない。
それは単に設定に過ぎず、漱石の東西の比較文化論・芸術論が、画工の口を通し存分に展開される。
西洋の芸術が、あくまで関係性・愛憎といった人と人の情との関わりの中で生まれるのに対し、中国に代表される東洋の芸術は、人の世にありながら人の情を超越したところに生命がある。それが画工の憧れる非人情の境地である。
それにしても絢爛たる文章だな。漱石は『草枕』執筆に際し、『楚辞』を読み返したというが、そこで駆使される漢語の美しさといったらない。
初めて読んだのは高校の時だが、当時は何だか分からなかったなあ。
この文章の凄さが分かったような気がしたのは、30歳を過ぎてからだった。
今読み返すと、けっこう色っぽい場面が多い。
画工と那美との混浴シーンは有名だ。その他にも、夜中に那美が就寝中の画工の部屋に入ってくる出会いの場面。那美が振り袖を着て画工の目前を行き来する場面。那美と元夫とのやりとりを画工が盗み見る場面。どれも色っぽい。
確かに、妖艶ではある。だが、そこに性的な匂いはない。
二人の会話も、お互いに好意は認められるものの、恋情に向かう気配はない。
画工にとって那美は肉体を持った生身の女というより、一個の美術品・鑑賞物であるかのようだ。
山中の温泉宿で美女と知り合うという点では、川端康成の『雪国』も同じ作りだ。
ということは、『雪国』は『草枕』のオマージュであったか。
『雪国』の島村は、駒子と肉の交わりは持つが情の交わりを持とうとはしない。もしかしたら、これも川端なりの非人情なのかもしれない。
非人情を志向する画工が山中の温泉宿に滞在し、そこで一人の美しい女と知り合う。
女は宿の出戻り娘、那美。彼女と画工との交流を中心に話は進む。
しかし、この小説、ストーリーはさほど重要ではない。
それは単に設定に過ぎず、漱石の東西の比較文化論・芸術論が、画工の口を通し存分に展開される。
西洋の芸術が、あくまで関係性・愛憎といった人と人の情との関わりの中で生まれるのに対し、中国に代表される東洋の芸術は、人の世にありながら人の情を超越したところに生命がある。それが画工の憧れる非人情の境地である。
それにしても絢爛たる文章だな。漱石は『草枕』執筆に際し、『楚辞』を読み返したというが、そこで駆使される漢語の美しさといったらない。
初めて読んだのは高校の時だが、当時は何だか分からなかったなあ。
この文章の凄さが分かったような気がしたのは、30歳を過ぎてからだった。
今読み返すと、けっこう色っぽい場面が多い。
画工と那美との混浴シーンは有名だ。その他にも、夜中に那美が就寝中の画工の部屋に入ってくる出会いの場面。那美が振り袖を着て画工の目前を行き来する場面。那美と元夫とのやりとりを画工が盗み見る場面。どれも色っぽい。
確かに、妖艶ではある。だが、そこに性的な匂いはない。
二人の会話も、お互いに好意は認められるものの、恋情に向かう気配はない。
画工にとって那美は肉体を持った生身の女というより、一個の美術品・鑑賞物であるかのようだ。
山中の温泉宿で美女と知り合うという点では、川端康成の『雪国』も同じ作りだ。
ということは、『雪国』は『草枕』のオマージュであったか。
『雪国』の島村は、駒子と肉の交わりは持つが情の交わりを持とうとはしない。もしかしたら、これも川端なりの非人情なのかもしれない。
2009年8月12日水曜日
桂文楽 黒門町へ
鵜飼富貴から逃げた文楽は、横浜の芸者しんと3度目の結婚をする。しんは文楽より10も年上だった。
このしんという女は大変な浮気者で、東西を問わず多くの芸人と関係を持っていた。言うまでもなく、この結婚に対して楽屋の評判は最悪だった。
弟子の文雀がこのことを注進に及ぶと、文楽は腹を立て、文雀を破門してしまう。
でも、この破門はそれだけが理由ではない。文雀はしばしば師匠が主任の時に持ってくるワリ(寄席の出演者のギャラ)をくすねていた。寄席芸人として最もやってはいけないことである。
こののち文雀は吉原の牛太郎となったが、それもしくじり、名古屋に落ちて幇間となる。結局、東京に戻って文楽に再入門するのだが、その時文雀は40歳を過ぎていた。
この結婚で文楽は西黒門町に居を構える。木造2階建ての小粋な家だった。
建坪は10坪ほど。庭もない小さな家だったが、家具が全てはめ込みとなっていた。そのため、畳の上には何一つ載っていない。ただ一つ、師匠五代目左楽から文楽襲名の祝いに贈られた長火鉢が、でんと鎮座していた。
後年、文楽は「黒門町の師匠」と呼ばれたが、その家がこれだった。
現在家は取り壊され、空き地となっている。落語協会事務所の広小路側から少し奥、右側の小さな空き地がそれである。
果たして、この結婚は瞬く間に破綻した。
しんと別れた直後、文楽は4度目の結婚をする。神田明神で式を挙げ、講武所の「花屋」という料亭で披露宴をした。
この相手が「長屋の淀君」と呼ばれ、長年の間君臨した寿江夫人である。
このしんという女は大変な浮気者で、東西を問わず多くの芸人と関係を持っていた。言うまでもなく、この結婚に対して楽屋の評判は最悪だった。
弟子の文雀がこのことを注進に及ぶと、文楽は腹を立て、文雀を破門してしまう。
でも、この破門はそれだけが理由ではない。文雀はしばしば師匠が主任の時に持ってくるワリ(寄席の出演者のギャラ)をくすねていた。寄席芸人として最もやってはいけないことである。
こののち文雀は吉原の牛太郎となったが、それもしくじり、名古屋に落ちて幇間となる。結局、東京に戻って文楽に再入門するのだが、その時文雀は40歳を過ぎていた。
この結婚で文楽は西黒門町に居を構える。木造2階建ての小粋な家だった。
建坪は10坪ほど。庭もない小さな家だったが、家具が全てはめ込みとなっていた。そのため、畳の上には何一つ載っていない。ただ一つ、師匠五代目左楽から文楽襲名の祝いに贈られた長火鉢が、でんと鎮座していた。
後年、文楽は「黒門町の師匠」と呼ばれたが、その家がこれだった。
現在家は取り壊され、空き地となっている。落語協会事務所の広小路側から少し奥、右側の小さな空き地がそれである。
果たして、この結婚は瞬く間に破綻した。
しんと別れた直後、文楽は4度目の結婚をする。神田明神で式を挙げ、講武所の「花屋」という料亭で披露宴をした。
この相手が「長屋の淀君」と呼ばれ、長年の間君臨した寿江夫人である。
2009年8月10日月曜日
2009年8月9日日曜日
初めての寄席
寄席に初めて行ったのは、中学を卒業した年の春休みだった。
高校の合格祝いも兼ねて、父親が上野の鈴本へ連れて行ってくれたのだ。
芸術協会の興行(現在は鈴本で芸術協会の興行はない)で、NHKの「お好み演芸会」の収録がある日だった。
今でもその日の様子は覚えている。
柳好『道具屋』。圓馬『三人癖』。助六『あやつり』。いずれも先代である。
色物も充実していた。獅子てんや・瀬戸わんやの漫才。やなぎ女楽の曲独楽。
ひっくり返って笑い、目を凝らして見つめた。夢のような一時だった。
主任は六代目春風亭柳橋。ここから、TVの収録が入る。
ネタは『山号寺号』。子どもの私にとっては、全く面白くはなかったが、この人は偉い人なんだな、ということは分かった。
この後に、「針すなおの似顔絵コーナー」というのがあった。
針すなおが、赤い達磨にゲスト(この日は春風亭柳橋である)の似顔絵を描き、客にプレゼントをするという趣向である。
司会の桂米丸が「欲しい人は手を挙げてください」と言うと、一斉に客が手を挙げる。
私は学帽を振り回したが、結局、柳橋は他の人を指名した。
米丸は「そこの学生さんが帽子を振ってくれたんですがね」とすまなそうに言ってくれた。
最後は大喜利「はなしか横町」。
司会は若き日の柳家小三治。メンバーは、柳家さん八、桂文朝、三遊亭歌奴、三遊亭圓弥、三笑亭夢二(現夢太郎)といった面々。文朝、歌奴、圓弥は既に鬼籍に入った。皆あの頃はまだ若手だった。小朝が、笑点の山田君のような役割で出ていた。
NHKだけに「笑点」のようなはじけ方はなかったが、それでも私にとっては十分に面白かった。
この日のことは、私にとって大切な思い出となった。
いつか我が子も寄席に連れて行ってあげたいと思う。かつての私のように、喜んでくれるとは限らないのだが。
高校の合格祝いも兼ねて、父親が上野の鈴本へ連れて行ってくれたのだ。
芸術協会の興行(現在は鈴本で芸術協会の興行はない)で、NHKの「お好み演芸会」の収録がある日だった。
今でもその日の様子は覚えている。
柳好『道具屋』。圓馬『三人癖』。助六『あやつり』。いずれも先代である。
色物も充実していた。獅子てんや・瀬戸わんやの漫才。やなぎ女楽の曲独楽。
ひっくり返って笑い、目を凝らして見つめた。夢のような一時だった。
主任は六代目春風亭柳橋。ここから、TVの収録が入る。
ネタは『山号寺号』。子どもの私にとっては、全く面白くはなかったが、この人は偉い人なんだな、ということは分かった。
この後に、「針すなおの似顔絵コーナー」というのがあった。
針すなおが、赤い達磨にゲスト(この日は春風亭柳橋である)の似顔絵を描き、客にプレゼントをするという趣向である。
司会の桂米丸が「欲しい人は手を挙げてください」と言うと、一斉に客が手を挙げる。
私は学帽を振り回したが、結局、柳橋は他の人を指名した。
米丸は「そこの学生さんが帽子を振ってくれたんですがね」とすまなそうに言ってくれた。
最後は大喜利「はなしか横町」。
司会は若き日の柳家小三治。メンバーは、柳家さん八、桂文朝、三遊亭歌奴、三遊亭圓弥、三笑亭夢二(現夢太郎)といった面々。文朝、歌奴、圓弥は既に鬼籍に入った。皆あの頃はまだ若手だった。小朝が、笑点の山田君のような役割で出ていた。
NHKだけに「笑点」のようなはじけ方はなかったが、それでも私にとっては十分に面白かった。
この日のことは、私にとって大切な思い出となった。
いつか我が子も寄席に連れて行ってあげたいと思う。かつての私のように、喜んでくれるとは限らないのだが。
2009年7月29日水曜日
連日の宴会
先週の金曜は、水戸で宴会。
今回も大洗鹿島線に乗る。
山には百合の花。
高架を真っ直ぐに走る。気持ちがいい。
店は駅南のM水産。
どーんとまぐろの兜焼き。
刺身、天ぷら、手羽先といった充実のつまみで、きりっと冷えた生ビール。
もう言うことありませんな。
冷酒だと飲み過ぎるので、燗酒をちびちび飲む。
この季節、これがなくっちゃあ、と鰹の刺身を追加。
二次会は駅ビル。楽しい宴会でありました。
翌日、家で軽く一杯やっていると携帯が鳴る。
先輩に近所の中華料理屋に呼び出される。
肉野菜炒めと秋刀魚の刺身できりっと冷えた生ビール。
何も言うことありません。
二軒目は神立。いやあ盛り上がった。
もう若くないんだから無理しちゃいけないんだけど、飲み始めると調子に乗っちゃうんだよなあ。
わかっちゃいるけどやめられない。
まだまだ修業が足りません。
今回も大洗鹿島線に乗る。
山には百合の花。
高架を真っ直ぐに走る。気持ちがいい。
店は駅南のM水産。
どーんとまぐろの兜焼き。
刺身、天ぷら、手羽先といった充実のつまみで、きりっと冷えた生ビール。
もう言うことありませんな。
冷酒だと飲み過ぎるので、燗酒をちびちび飲む。
この季節、これがなくっちゃあ、と鰹の刺身を追加。
二次会は駅ビル。楽しい宴会でありました。
翌日、家で軽く一杯やっていると携帯が鳴る。
先輩に近所の中華料理屋に呼び出される。
肉野菜炒めと秋刀魚の刺身できりっと冷えた生ビール。
何も言うことありません。
二軒目は神立。いやあ盛り上がった。
もう若くないんだから無理しちゃいけないんだけど、飲み始めると調子に乗っちゃうんだよなあ。
わかっちゃいるけどやめられない。
まだまだ修業が足りません。
2009年7月22日水曜日
桂文楽 関東大震災
大正12年9月1日、正午前、東京をマグニチュード7.9の大地震が襲った。震度は7に達し、多くの家屋が倒壊した。昼食前で炊事をしていた家が多かったためか、各所から火の手が上がり、やがてそれは東京の街を焼き尽くした。
その時、文楽は2度目の妻、鵜飼富貴との別れ話の真っ最中だった。
5年前、文楽は糟糠の妻、おえんを捨て、日本橋の丸勘という旅館の入り婿になった。文楽襲名の前年のことで、丸勘の経済力が魅力だったことは間違いのないところであろう。
当時の楽屋雀は「1年ともつまい」と噂し合ったが、大方の予想に反し、その結婚は5年続いた。しかし、もう限界だった。
丸勘の一室で愁嘆場が繰り広げられそうになった刹那、突然、ぐらぐらっときた。この非常事態に別れ話も一時休戦。丸勘もこの時の火災で焼け落ちた。文楽は一家を率いて、富貴の親類を頼り、中野に避難する。
寄席も当分の間、再開は無理。そこで富貴の勧めもあり、文楽は1月前に弟子になったばかりの文雀(後の七代目橘家圓蔵)を伴って、水団を売り歩くことになる。
そのような状況に我慢できなくなった文楽は、富貴を捨て、北海道に旅巡業へ出てしまう。しかもその旅費は、かつて捨てた最初の妻おえんから借りたものだった。文楽を明るく如才のない、円満で機嫌のいい人とばかり見てはいけない。彼は(多くの優れた芸術家がそうであったように)稀代のエゴイストでもあった。
同じ震災の日。志ん生は田端にいた。2年前に金原亭馬きんで真打ちに昇進。翌年には高田の馬場の下宿屋の娘、清水りんと結婚し所帯を持っていた。この年、師匠六代目金原亭馬生の前名、古今亭志ん馬と改名していたが、生来のずぼらがたたり、方々で不義理を重ねて、赤貧洗うが如き生活を送っていた。
地震が起こると志ん生は、りんから財布を引ったくり、酒屋に駆け込んだ。酒屋の主人もこの最中にこのような客が来ることに面食らい、代金を取らずに逃げ出す。地震で激しく物が落ちる中、志ん生は心ゆくまで酒をあおった。
志ん生は「東京中の酒がなくなっちまうと思ったから」と言ったというが、酒でも飲まなければ恐くてしょうがなかったのではないか、と私は思う。何しろ彼は戦争中、空襲が恐くて家族を置いて満州に逃げた男だ。この時も、地震の混乱の中、新妻りんをほっぽり出して酒屋へ走っている。
稀代のエゴイストがここにもいる。
その時、文楽は2度目の妻、鵜飼富貴との別れ話の真っ最中だった。
5年前、文楽は糟糠の妻、おえんを捨て、日本橋の丸勘という旅館の入り婿になった。文楽襲名の前年のことで、丸勘の経済力が魅力だったことは間違いのないところであろう。
当時の楽屋雀は「1年ともつまい」と噂し合ったが、大方の予想に反し、その結婚は5年続いた。しかし、もう限界だった。
丸勘の一室で愁嘆場が繰り広げられそうになった刹那、突然、ぐらぐらっときた。この非常事態に別れ話も一時休戦。丸勘もこの時の火災で焼け落ちた。文楽は一家を率いて、富貴の親類を頼り、中野に避難する。
寄席も当分の間、再開は無理。そこで富貴の勧めもあり、文楽は1月前に弟子になったばかりの文雀(後の七代目橘家圓蔵)を伴って、水団を売り歩くことになる。
そのような状況に我慢できなくなった文楽は、富貴を捨て、北海道に旅巡業へ出てしまう。しかもその旅費は、かつて捨てた最初の妻おえんから借りたものだった。文楽を明るく如才のない、円満で機嫌のいい人とばかり見てはいけない。彼は(多くの優れた芸術家がそうであったように)稀代のエゴイストでもあった。
同じ震災の日。志ん生は田端にいた。2年前に金原亭馬きんで真打ちに昇進。翌年には高田の馬場の下宿屋の娘、清水りんと結婚し所帯を持っていた。この年、師匠六代目金原亭馬生の前名、古今亭志ん馬と改名していたが、生来のずぼらがたたり、方々で不義理を重ねて、赤貧洗うが如き生活を送っていた。
地震が起こると志ん生は、りんから財布を引ったくり、酒屋に駆け込んだ。酒屋の主人もこの最中にこのような客が来ることに面食らい、代金を取らずに逃げ出す。地震で激しく物が落ちる中、志ん生は心ゆくまで酒をあおった。
志ん生は「東京中の酒がなくなっちまうと思ったから」と言ったというが、酒でも飲まなければ恐くてしょうがなかったのではないか、と私は思う。何しろ彼は戦争中、空襲が恐くて家族を置いて満州に逃げた男だ。この時も、地震の混乱の中、新妻りんをほっぽり出して酒屋へ走っている。
稀代のエゴイストがここにもいる。
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