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2015年3月14日土曜日

海門橋 キラキラ・ドリーム・ベル


那珂川河口近くのひたちなか市那珂湊と大洗を結ぶ、海門橋真ん中あたりにある「キラキラ・ドリーム・ベル」。
恋人たちが愛を誓って鳴らす鐘なんでしょうね。土肥の恋人岬にも同じようなのがある。
よく見ると、もはや鳴らせないようになっている。いたずら防止なのかな。いつかまた、ここで恋人たちが愛を誓う日が来るといいんだけど。

プレートにはこんな文章が書かれています。

普段歩いてこの橋を渡ることはないと思うけど、たまに歩いてみると面白い。
眺めも素晴らしいですよ。



2015年3月9日月曜日

出口一雄と妻たち④

Suziさんは、続けて言う。
「私の父は、子どもを抱っこするなんて、決してしない人でしたが、伯父はよく抱っこしてくれましたね。もし子どもができていれば、子煩悩な父親になっていたんじゃないでしょうか。他人様が見ると伯父が父親みたいだった、って母が笑って言ってました。
私も伯父に甘えたりなついたりしたそうです。可愛がってもらったんですねぇ。勿論何の記憶もありませんが。」

Suziさんからいただいた写真の中に、Suziさんを抱く出口の写真がある。
以下に掲載する。


後年、出口は会社を定年退職してデグチプロを設立するが、その新富町の事務所は妻の実家であった。 

その後のことについてSuziさんはこう言う。
「新富町の伯母の家の二階に住み、そこがデグチプロのオフィスになっておりました。そこからデグチプロは出発し、その後、新宿の牛込辺りのアパートに移り、後年金も出来たので伯父は生まれて初めて六本木のマンションを買い、家主になりました。勿論此処がデグチプロの移転先です。人生で初めての持ち家であり。これが最初で最後です。可笑しなことに伯父の家のナンバーは六本木マンション805。毒蝮三太夫のオフィス、マムシプロは508だったと思います。
マンションはフランスベッドの会社のまん前、俳優座のすぐ近くでした。部屋は805なので高速道路のずっと上に位置します。窓を開けると車の走る音のうるさい事この上なし。閉めると全く音が遮断されます。中学生(?)だった私は開けたり閉めたりして、伯父に『うるせえ』って怒られたのを覚えています。」 

ただし、京須偕充の著作では、『みんな芸の虫』でも『圓生の録音室』でも『落語名人会 夢の勢揃い』でも、一貫してデグチプロ事務所は新富町としてある。三遊亭圓生のレコード制作を交渉する場面や桂文楽のレコード監修に際してのやりとりなど、出口の晩年時における舞台はすべて新富町の事務所が舞台である。
『落語名人会 夢の勢揃い』の中では、1973年当時の事務所の様子が詳細に描かれている。以下に引用する。
*( )内はSuziさんのコメントである。

「やはり二階家で、階下は二つに区分され、向かって右が印刷か製本かの作業所(これは伯母のお兄さんのやっていた印刷会社なのではないでしょうか)、左は内部の見えない、ドアひとつに閉ざされた狭いスペースだ。表札に『デグチ』とあるだけだから、ここがどういう職種の事務所なのか、知らない人には皆目見当がつくまい。表札がカタカナでなかったら、入り口を捜しに裏へ回る頓馬もいただろう。」
そして、こうも書いている。
「とはいえ、あとで聞くと主人公出口一雄の住まいは、そのころ若者が群れて夜を明かす街、六本木にあったのだから、これもまたおもしろい。俳優座劇場からいまのアークヒルズへと坂を下りかかる途中の大きなマンションの一室だった。新富町の事務所は妻女の実家の一隅だったらしく、往復の足は、そのカミさんの運転するマイカーだった。」(伯父も私の父も運転はしません。理由は簡単です。「運転をすると飲めねぇじゃねえか」だからです) 

もちろん、自宅が仕事場としての機能も果たしていたのだろう。
「デグチプロオフィスはもしかしたら新富町が正しいのかもしれません。ただ朝方などはこの六本木の自宅から電話をして仕事の打ち合わせや、書類を見ていた伯父を思い出します。それを私がオフィス、と混同しているのかもしれませんね」とSuziさんも言っている。

      以上「出口一雄と妻たち」の稿、終わり。

2015年3月8日日曜日

出口一雄と妻たち③

「二番目は向島の芸者の妹。お豊さんといいました。とっても陰気な人でした。伯父たちの住んでいたのは借家で、練馬だったと思います。
まだ戦後色の強い時代、戦争後の配給食時代だったか、少し回復した頃だったと思います。庭にはお芋を植えていたりしていました。その畑で遊んでいた私はバターンと倒れて、そこがホコホコの乾燥した粉みたいなドロで、顔中ドロのお化粧した、って皆に笑われたのを覚えています。
やがて二人の間に子どもができたんですが、生まれて10時間ぐらいで亡くなってしまいました。二番目の伯母とはほんの短い結婚生活でした。2年から4年くらいじゃないでしょうか(不明確ですが)。」 

「二番目の奥さんと離婚後の頃からでしょうか、女と別れると私たちの家にきて住みました。でも郊外ですので都心への出勤に時間がかかり、旅館住まいになりました。休日に戻り、母の家庭料理をおいしそうに食べる。そんなことしているうちにすぐ女が出来ちゃうんですよ。そうすると出て行って、どこか借家かアパート住まいをする。それが伯父の生活パターンでした。」 

そして、三番目の相手が圓生言う所の「割に若いお内儀さん」である。 

「この人は伯父の23歳年下でした。東宝のニューフェイスだったと思いますよ。伯父が前の女と別れて旅館住まいをしていた時、たまたまその旅館のオーナーの友人だった彼女と知り合ったということです。」 

京須も彼女のことを「たしかに出口さんには若い奥方で、長女と称しても世間を通りそうであった。」と書いている。 

「彼女も女優としての欲はないし、当時伯父はラジオ東京のディレクターとしてばりばりやってましたからね、(しょっちゅう彼女とその旅館のオーナーを公開録音会場に招待したんです。)その仕事ぶりにも惚れたんだと思います。確かに、イヤホーンを付けてラジオ局で『それQ!』などと足の長い色男が芸人さんやミキサー室を指示しているのは、子供心にも、ホー、カッコいいなあ、と思ったものです。同窓生を連れて局に行った時、その友達が『伯父さんカッコいいい!』って言ってましたね。今でも思い出しますよ。」 

彼女の人柄をSuziさんはこう語る。 「きれいで背が高くて、モダンで、今までの伯母さんの中で私たちが一番好きな人です。母も大好きで『開けっぴろげで明るくてきれいで、私大好き!』そう言ってました。そう、無邪気な人でしたね。『アメリカに遊びに来てよ』と私が言っても、決して来ないんですよ。飛行機が大嫌い、おっかなくて乗れないんです。
しかし伯母さんは残念なことに若い時点で子宮筋腫になり子宮摘出となりました。伯父はものすごくがっかりして、父に,『俺は生涯子無しって運なんだな』、と寂しそうに言ったそうです。大きくなって父から聞きました。」

撮影場所は出口家の親戚である善照寺の客間。
前列右端が出口一雄、左端が妻千枝子。
前列中央は親戚の寺の住職安藤厚。
後列安藤専(厚弟,そして一雄の紹介でポリドールに勤務)。
後列向かって右が弟出口利雄(Suziさんの父)。

正月に丸髷を結った千枝子夫人。
弟の利雄(Suziさんの父)が撮影したもの。

以上写真はSuziさん提供。


2015年3月5日木曜日

出口一雄と妻たち②

さて、出口の最初の妻と母親との関係に戻ろう。
「とにかく芸者を嫁にすることは認められなかったんじゃないですか。如何に頭が良くて芸も何でも出来ても、寺の娘で育ったお祖母ちゃんは、初めっから許さなかった、許しがたかったんでしょう、お嫁さんがいくら努力してもネ。それが悲しいあの時代の世間一般の常識的(?)見解だったのでしょう。
ちなみに、私は自他共に認めるウーマンリブの人間です。後からこのことを母から聞いたり叔母から聞いたりして、随分カッカと来たものです。父そっくりな性格ですが、そういう点ではいつも父とは喧嘩ばかりしていました。私の年代で絶対平等主義ですから、到底日本じゃアウトサイダー、それが私です。アメリカンと一緒になれた自分に感謝しています。
おじいちゃんは物静かな何も言わない、苦労して貿易商になったたたき上げの人でしたから、いい人で人格者のようですが(母がいつもそういっていました)、祖母は、私の父、叔母(これもワガママな自分勝手な人で、結構やきもち焼きの人でした。何時までも子供、の人でしたね。戦争で婚期を逃し、後妻で商人の家に嫁ぎました。その旦那である私の義理の叔父さん(本当に優しくていい人でしたよ)がいつも言っていましたが、ワガママな勝手な甘やかされた娘で女房なのです。
私は伯父の最初の奥さんのことを『ボッチャンバーチャン』って呼んでました(何でだか知りません)。 あの時代です。寺の娘に育ったおばあちゃんには芸者に対する偏見が一杯あったのでしょう。そのような状況ではお嫁さんには針の筵でしょうね。気の毒としか言えません。」 

さらに祖母の人柄についてSuziさんはこう続ける。
「要するに食事はばあやさん任せ、身の周りは子守さん任せに世話をされ、それじゃマトモに子供は育ちません。ワガママいっぽうで勝手な大人に育ちますよね。
私の母にも、小さい時には子供が多かった(7人)から、子守さんは付いたそうですが、3、4歳頃には居なくなり、お祖母ちゃん(母の母)が厳しく育てたんでしょう。
それに対し、父、伯父、叔母の母である祖母はそんなにマメに色々した人じゃないんです。いつも冬はデーーンと火鉢の前に一日中坐りぱなしでタバコくゆらせ……、だから早く呆け、早く死んだんだと思います。確か60くらいから呆け出しました。
当時、いたずらっ子の私は祖母をからかったり、後から行って『わつ!!』なんて脅かしビックリさせるのが大好きでした。母に怒られましたねぇ。まあ、いたずらっ子でしたから。
すばしっこいことは天下一品、と親戚中、近所中で評判でした。エネルギーが一杯一杯あって、じっとしていることのできない子でした。」 

結局、出口一雄夫婦は両親とは別居という形で結婚生活をスタートさせる。その結果、弟夫婦(Suziさんのご両親である)が両親と同居することとなった。
「私の母は近衛兵の娘で、話し方は典型的山の手弁、上品な言葉使いでした。それに対し、私は親父ソックリな子で、母とは似ても似つかないおてんばな子でした。(母も若いときは水泳にテニスにと言うスポーツウーマンですが、100%父そのものが私。母と同じなのは女、と言うだけの父のミニチュアが私です)
その上母は陽気だし、料理でも洋裁でも何でもできる利口者の、そしてしゃしゃり出ない。そういう母が気に入られてしまうのは致し方ない状況ですよね。
時代が時代なら何てことはないし、長男の嫁だろうとなんだろうと、別居したっていいんですからね。伯父たちは近くと言うか、詳しくは知りませんが、敷地内みたいな所に住んでいたのでしょう。
ま、色々伯父には問題がありましたので、祖父母は、私の両親と住むしかなかったのでしょう。父が『俺は次男坊だぜ、何で祖母さんと一緒なんだよ、』と言うと、母がそれをいつも戒めていましたよ。
伯父は死ぬまでこの母の態度と接し方に感謝し続けました。『俺はな、利雄にゃあなんにも世話になっちゃいねえよ。だけど、百合子さんには一生頭が上がらねえな』でした。」 

こう言う情況下では夫婦生活はうまくいかず、出口は最初の妻と別れることになる。

「母は『最初の奥さんだって頭のいい、とっても素晴らしい人で随分努力したいい人だったのよ』と言っていました。」

出口一雄、最初の妻との結婚写真。

裏面には、「三野谷(通称ボッチャンバーチャン)。柳橋の芸者で、踊り、楽器、全てvery goodの人。しかしながら、オバアチャン、フクさん気に入らず。伯父は生涯この人にホレていた様。伯母も同様。大人になり、これは感じた」というメモ書きがある。

以下は彼女の写真である。(いずれの写真もSuziさん提供)



2015年3月4日水曜日

出口一雄と妻たち①

では、出口一雄の結婚歴を辿る。 順を追ってSuziさんに語っていただこう。 

「最初の結婚は、伯父が27、8の時でした。お相手は柳橋の芸者さん。きれいで頭のいい人でした。唄が歌えて、踊りがよくて、三味線は一流、という人でした。柳橋の芸者は芸者の中でも格は高いんです。」
まるで桂文楽の『つるつる』に出て来る小梅のような人。
「父も『兄貴がいちばん惚れていたのは彼女だ。』と言っていました。」 

だが、出口は彼女と添い遂げることはできなかった。
「祖母がお嫁さんを気に食わなかったようです。」とSuziさんは言った。 

Suziさんの言によると、出口一雄は15の年から女郎買いに通っていたという。しかも、その金は母親が小遣いとしてくれていたらしい。
素人の娘と間違いがあってはいけないから、というのがその理由だった。
この、出口一雄が女に対して早熟であった、ということに関し、Suziさんは、彼の祖父(Suziさんにとっては曾祖父にあたる)の血を受け継いだのではないか、と言っている。
(一雄にとっての)祖父は何度か結婚を繰り返したらしいが、その最後の妻は、長男(出口の父)のわずか1歳上という年齢だったという。
「その最後の奥さん、つまり、私の曾祖母は、曾祖父が亡くなったのを機に故郷の名古屋に帰りました。しかし、曾祖母は『出口』の名を残したくて、養女を取り、養子縁組をしました。そういうわけで、うちには名古屋に親戚があるのです。
ちょっと横道にそれましたね。とにかく祖母はこのお嫁さんが意に染まなかった。
どう説明したらいいのか知りませんが、伯父の顔は自分にそっくりだし、結構甘やかして育てたようです。祖母としては、女遊びの早熟長男ですが、望みもあったんでしょうねえ。(祖母の当時の)生き方において、兎に角不満であり、落胆です。それは息子ではなく、芸者上がりの女房に行くんですよね。偏見ですが仕方ありません。そういう時代ですよ。」 

話は当時の子育てから出口家のことに及んだ。
「あの頃のそれなりの家の子ってほとんどお手伝いさん任せですよね。私は伯父の子守さんのことは全く知りません。兎に角、その当時は子供が生まれると、尋常小学校出(5年で修了です)の10歳くらいの女の子の子守奉公さんが付くんです。
10歳で奉公です。正に“おしん”の時代です。 父にも付きました。父の子守さんは、その後結婚したのですが(そういうのは全て雇っている家で負担しキチンと面倒を見ます)、娘が3歳の時に旦那に死なれ、また祖父母夫婦のところに戻り、その娘は叔母の妹のように育ちました。
そして母が結婚した時もいて、母は初め、この人どういう人?ってよく解らなかったそうです。またお祖父ちゃんが可愛がるので同居の妾に見られたこともあったりしましたが、おじいちゃんは堅物、仕事一本のヒトでした。一笑に付したそうです。
さて、この父に付いたばあやさんはズーーーッと我が家に居続け、昭和25年にお祖母ちゃんの亡くなった後は、正にお祖母さんでした。私の弟はこの人のしなびたおっぱいを吸って、眠り、甘え、大きくなり、彼にとってはこの人がお祖母ちゃんなのです。後に胃がんで亡くなりました。」

明治45年1月20日撮影の出口家の家族写真。(写真:Suziさん提供)
中央の椅子に座っている子どもが出口一雄(当時6歳)。
左後方に父策一(当時38歳)。
左に弟利雄(当時4歳)、さらに左は母フク(当時29歳)。
右は女中やす(当時16歳)。

2015年3月1日日曜日

石岡雛巡り



昨日の午後、石岡で雛巡りをやっているというので、1時間ほどぶらぶら歩いてきた。
街角の店先に仕舞ってあった雛人形を飾る。それを街歩きをしながら見て歩くという趣向だ。
この辺では真壁の雛祭りが有名。これが当たって真壁の街が観光客で賑わった。
2匹目3匹目のどじょうをねらったか、土浦や石岡など古い歴史を持つ街がこぞって始めた。
でも、いいよね。こういうイベント。実際に歩き回ってもらうことで、古い町並みの価値を分かってもらえるかもしれない。
いつものように中町通りから歩き出す。
土曜の午後だが、観光客でごった返ししているというわけではない。リュックを背負った中高年がちょっと目につくといった程度。その分、落ち着いてゆっくりマイペースで見物できる。
金丸通りから駅前に出て、八間通りから中町通りに戻る。
最後に「まちかど蔵」になっている丁子屋さんに上がり、雛人形を鑑賞。喉が渇いたのでラムネを頂く。
いつもより石岡の街がよそいきになった感じ。外で豚汁とか甘酒なんか売ってたりするともうちょっと賑やかになるんじゃないかな。

それからヨークベニマルに行ってハートランドビールを買って帰り、休日のお楽しみ「夕方ビール」を楽しむのでありました。

こんな建物に、
こんな感じで雛人形が飾られてんの。風情があるよねえ。



以下はまちかど蔵の雛人形。壮観ですな。

ラムネ200円。
他にコーヒー250円(クッキー付)、抹茶350円(和菓子付)がある。
また期間限定石岡サンドセットもやってるそうです。

おまけに夕方ビール。





2015年2月26日木曜日

那珂湊の街並み②

今日は休み。
妻と隣町のイタリアンレストランにランチを食べに行く。
私はペスカトーレ、妻はブルーチーズのピザ。
両方とも旨し。
午後は次男の小学校の授業参観。
次男から手紙を貰い、ちょっとうるっときちゃいました。

一昨年の那珂湊散歩の写真があったのでアップします。

看板建築。


こういう看板がたまんない。


CD屋さん。貼ってあるポスターがなかなかシブい。



窓の手すりのデザインなんか見事だねえ。

店名だけじゃ何を売っているのかよく分からない。