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2016年6月6日月曜日

香取神宮


先日、仕事であっち方面に行った時、香取神宮を参詣した。
小学校の遠足で行ったきり。かれこれ45年振りぐらいか。
ここ数年のうちで、やっと東国三社参詣を達成した。



昨今のパワースポットブームのせいか、佐原のあやめ祭りのせいか、ほどほどの賑わい。


新緑の参道を行く。清浄な佇まい。



小学校に入る前、子ども会で銚子に海水浴に行った時、香取神宮に寄って、この石段で記念写真を撮ったっけ。

楼門。

拝殿。
茅の輪くぐりがある。

本殿。
元禄年間のもの。

元禄らしい色鮮やかな彫り物です。

要石。

いかにも格式が高い雰囲気。心が洗われたような気がしましたな。

2016年6月5日日曜日

小柳枝の話

Suziさんが、いずれ「伸治と小柳枝の面白い話」をしてくれるというので楽しみにしていた。
この小柳枝は何代目であろうか。
Suziさんはこう言う。

「私の知っている小柳枝は確か千葉の人です。青白いうらなりの瓢箪みたいな顔していた記憶があります(口の悪いのは生まれつきでして、スミマセン)。この人もオッチョコチョイの人でしたね。少し変人的なところもありました。」

まず七代目で間違いない。色川武大のいう「しょぼしょぼの小柳枝」である。
千葉県野田の出身。はじめ七代目林家正蔵(初代三平の父、九代目正蔵の祖父にあたる)門下で正太郎といった。その頃の彼について色川は「老練の味を出そうとして、なんの話をやってもしょぼしょぼしており、聴くのにかなりの努力を要する。(中略)当時、内心で、駄目な若手というといつも正太郎をまっさきに思い出した。」(『寄席放浪記』より)と書いている。
その後、六代目春風亭柳橋門に移り、昭和24年には小柳枝を襲名した。奇人として知られ、その粗忽さを示すエピソードは数多あるという。
その「しょぼしょぼの小柳枝」が化けたのだ。「化ける」というのは停滞していた芸ががらっと変わり、一気に開花することをいう。立川談志はCD集「ゆめの寄席」の中に小柳枝の『子別れ(上)』を入れて、「三代目柳好を思わせる歌い調子」と評した。色川は、その「化けた」後の小柳枝を、前述の『寄席放浪記』の中でこう言っている。「正太郎時代とは打ってかわって、華やいだテンポがあり、洒脱で、上ッ調子で、いったん転がり出すと限度知らずにハメをはずしてしまいそうなおもしろさを含んでおり、甲高い哀しい、いい声で話の中にはさむ音曲もいい。」
しかし、活躍の時期は短かった。やがて小柳枝は、糖尿病と結核を患う。糖尿病は栄養を摂ってはいけない病、結核は栄養を摂らくてはならない病である。それじゃどうするんだ、といって同僚から笑われたらしい。 

「糖尿病になって父のところに来たので知っているだけで、高座も何も見ていません。」
Suziさんの父君は、出口一雄の弟。 日本医科大を出て医者になった。長男の一雄に代わって両親と同居し出口家の後を継ぐ。彼もまた兄一雄の関係で芸界と深いかかわりを持っていた。 

「可笑しな話というのは、父が何度言ってもなかなか食べものに合点がいかない人で、『でんぷん質=ご飯とかパン』という感覚は全くない人で、品物一つ一つ言わないとダメでした。
『小柳枝さん、糖尿病はね、パンとかうどん、ご飯はダメだよ。お芋とかジャガイモもダメ。兎に角野菜や魚、脂肪の少ない肉をとりなさいね』
『へい!わかりました』 と帰っていきました。
そして1、2週間後の再診の日、
『先生!今日は絶対、絶対糖は少ないですよ。言われた通りにやってきました!』
『そうかい、すごいなあ。俺も糖尿病だけどね。俺は飯より飲みたいんで、飯なんて1日にピンポン玉1個分くらいなんだよ』
『へエーー、先生も大変ですねえ』なんて会話になりました。
『先生、自分は自信持ってるんですよ。うどんでしょ、ご飯でしょ、パンでしょ。みーーんな食べないね、今回はソバをずーーーっと食ってましたから』
『エ!なんだって?小柳枝さん、ソバをうんと食ったのかい?』
『だって先生、うどん、飯、パンは。ダメなんでしょう。だからね、ソバをバッチリ食べて腹持たせました!』
・・・・・・・・・・・・・・・・
『俺はポカンとしちゃたぜ』 と夕飯の時に話してくれたことがありました。こんな人でした。
今と違って落語界には本当に全く違うプラネットから来たような芸人さん、てのが居ました。それもわざとじゃないんです。これが地なんです。だから小柳枝さんの場合いくら食事療法を教えてもぜんぜん通じないんですよ。
『先生!無理、無理!腹減っちゃってねえ、食っちゃいました』
だから絶対に糖なんて下がらないんです。 そういえばこんなことも父は言っていました。
『俺がナ、あれもこれもダメ、こうこうこういう風にバランスをとって腹の減らないように・・・とかイロイロ言うだろう。そうするとナ、小柳枝は結構カッカと怒るんだよ。“先生。腹減っちゃ死んじまいます!”ってくってかかるんだ。こっちがいくらやり方を教えたってダメなんだよ。あれじゃ早死にすんだろうなあ』
何で亡くなったか正確には私は子供だったから知りませんが、『小柳枝は長生きは無理だろうなあ』と父はよく言っていました。」

Suziさんのお父上の予言通り、小柳枝は昭和37年に42歳で死んだ。 

立川談志が監修したCD集『ゆめの寄席』に収められている、小柳枝の『子別れ(上)』(別名『強飯の女郎買い』)を聴く。13分とコンパクトにまとめられたそれは、色川武大の言そのまま。華やかなテンポ、軽快なリズム、明るくて軽くて底抜けに楽しい。途中に入る端唄「夜桜」も粋なもんだ。何より「三代目柳好を思わせる歌い調子」が快い。近年の「一人演劇」「一人コント」の落語とは一線を画す、懐かしい落語である。
春風亭柳昇、桂小南の一つ下、柳亭痴楽とは同い年だった。芸術協会になくてはならない人になるはずだった。七代目春風亭小柳枝の早逝を惜しむ。
それにしても、「弁松の弁当」、旨そうだなあ。

2016年6月3日金曜日

笠間稲荷神社 有名人の絵馬

笠間稲荷の境内に「有名人の絵馬」コーナーがある。
笠間では高田文夫プロデュースの落語会も開かれており(大福さんがブログでレポートしてくれている)、落語関係の絵馬の充実ぶりが楽しい。
参詣の折はぜひご覧ください。

まずは御大高田文夫。駄洒落もすばらしい。

中堅どころではいちばん好き。桃月庵白酒。

ペーさん、柏屋でおそば食べたのね。きつねそばかしら。

今は亡き春風亭柳昇。春風亭柳昇といえば、わが国では・・・。

遊雀、いい名前だねえ。頑張ってほしい。

次代のホープ、春風亭一之輔。

二代目さんです。

立川派の雄、立川志の輔。
2016年の今は、もう「ためしてガッテン」とは書かないだろうな。
駄洒落もいいねえ。

長男が好きな林家たい平。
美大出だけあって達者だねえ。

落語家じゃないけど、華原朋美。
「希望」に何かしみじみしちゃった。

2016年5月30日月曜日

餃子の王将 王将ラーメンと焼き飯のセット


餃子の王将、水戸さくら道店のランチメニュー、王将ラーメンと焼き飯のセット。
消費税を入れると850円弱。
王将行って餃子食わないのもどうかと思ったけど、晩飯が餃子と予想されたので、あえてこうした。

ラーメンはちょっと少な目。醤油、塩、王将の3タイプから選べる。
王将ラーメンはとんこつ系の白濁したスープ。


まずは麺をやっつけて、焼き飯とスープで締める。
焼き飯は、卵、葱、叉焼というまさに王道。


おたまの形そのままの半球形がうれしいやね。
旨し、でござんした。

満腹になった後は、近代美術館で絵を見る。
企画展は「あした天気にな~ぁれ」。


ここはいつも凝った企画ものを出してくる。
今回は「晴れ」「曇りから雨」「小堀進の空」「雨上りの虹」という構成。
学芸員さんが心から楽しんでいる感じがいい。
中でも「小堀進の空」が圧巻でしたな。
この大胆な雲の描写を、是非見て欲しい。


2016年5月26日木曜日

正岡子規『水戸紀行』 ~土浦辺り~

先日、真鍋と土浦の間をうろついた。
ふと本棚を眺めてみて、『水戸紀行』という本があったのに気づく。筑波書林版、「ふるさと文庫」シリーズの1作で、正岡子規の水戸へ旅した紀行文と、柳生四郎土浦短期大学教授の解説が収められている。奥付を見ると1979年に初版本が出ている。
では、子規も私が歩いたあの辺りを歩いたのだな、と思って拾い読みしてみると、これがなかなか面白かった。
土浦辺りのくだりを紹介してみよう。

この紀行文を子規が書いたのは、明治22年10月17日から同20日にかけて。旅行そのものは、これに先立つことおよそ半年前、4月3日に東京を出発し、同7日に帰京している。

明治22年4月3日早朝、同じ下宿の友人一人を伴い、子規は、友人菊池謙二郎のもとを訪ねようと水戸へ出立する。当時子規は22歳(子規と漱石は共に慶応3年生まれ、翌年が明治元年だったため、明治の年数がそのまま満年齢を表している)、文科大学(東京帝国大学文学部)国文科の学生だった。

その日は藤代に宿泊。翌4日は朝から雨だった。子規たちは雨に打たれ寒さに震えながら、昼頃土浦に入った。
昼飯を食おうとしたが手頃な店がない。宿屋らしき店に入って声を掛けると体よく断られた。歩いて行くうちにとうとう町はずれまで来てしまう。やむなく目についた小さな旅籠で頼んでみると、快く飯を出してくれた。ただ飯は不味い。家も一間か二間しかなく、ひどくむさくるしい。子細に観察してみて、やがて子規はこう思い至った。
「家族は三人にて夫婦に娘一人と覚ゆ。家婦の愛嬌よくて客を丁寧にもてなす処より娘皃(かほ)のあかぬけして一通りならぬ処を思へば此家は曖昧屋と知られたり」
つまり、この家は「食事も出せば女も出す」あやしげな店だったのである。二人は這う這うの体で逃げ出す。その上、向かいの車屋で車を頼もうとしたが高値を吹っかけられ、彼らは憤然として疲れた足を引きずりながら真鍋の坂を上って行く。

この本の解説を書いた柳生氏は、子規の歩いた水戸街道を実際にたどって実地検分をしているが、土地の人の話によると、その曖昧屋は土浦から真鍋へ入るつなぎの田圃道にあり、「初音」という名前だったらしい。車屋は真鍋の坂下と「初音」の辺りと2軒あり、「初音」の方のは「金さん車屋」と呼ばれ、評判はよくなかったということだ。

子規たちは土浦で霞ヶ浦を見ることが望みだった。できれば、見晴らしのよい座敷から霞ヶ浦を眺めながら、のんびりと昼飯を食べたかった。それがこの有様だ。彼らの落胆はいかばかりだったか。
しかし、真鍋の坂を上って行くと左手に絶壁があり、石段が続いている。あそこを登れば霞ヶ浦が見えるに違いないと思い寄ってみると、果たしてそこは数百坪に及ぶ公園で、茶屋には「總宜園」という額が掲げてあった。
この断崖に立って南の方を見やると、雨に煙って広い湖が見えた。子規はやっと念願の霞ヶ浦を見ることができたのである。
子規はここで「霞ながら春雨ふるや湖の上」という句を詠んだ。
ご難続きの土浦だったが、最後に見ることのできた霞ヶ浦は、子規に静かな感動を与えてくれたのだと信じたい。
この公園は今はない。国道6号線を通す工事で切り崩され、公園そのものが消失してしまったという。
この後子規は北上して石岡で1泊し、水戸へ向かった。

この土浦の場面に象徴されるように、東京から水戸へ、ほとんどを行き当たりばったり徒歩で行くという無茶な旅を子規は続けた。この旅は彼の身体を蝕む。水戸紀行の旅から帰ると間もなく、子規は喀血し結核と診断される。この喀血の後、「鳴いて血を吐くほととぎす」から、彼は筆名を子規と定めた。つまり、この『水戸紀行』が、子規名義で書かれた、まさに初期の文章であったのだ。

今度は『水戸紀行』片手に石岡の街を歩いてみよう。その時は、またこのブログで紹介したい。

雨の真鍋宿。こちらは2014年の初冬。

2016年5月24日火曜日

土浦 旧水戸街道を歩く


先日、旧水戸街道を、土浦の真鍋宿から中城町まで歩いた。
しぶい町並みが続くので、好きなコースである。
初夏の爽やかな日差しを浴びてのお散歩。少々暑かったけど、いい気持ちでした。

真鍋といえば、どうしてもここは撮ってしまう。旧藤本蚕業支店。

真鍋の坂。宿場町の面影を残す。


どうしても、ここも撮ってしまう。

マスターはスタンダールのファンなのか、岩崎良美のファンなのか、どっちだろうね。


関東鉄道筑波線の線路跡は、サイクリングコースになっている。
ここは新真鍋という駅があった所。

この畳屋さんは現役です。

月読神社。
商売繁盛、無病息災にご利益あり。
のぼりには「ピンピンコロリ」と書いてありました。

「北門跡」の石碑がある。




立派な看板建築。





中城通り入り口のほたて食堂。

この後、旧6号沿いのコメダ珈琲で一休み。
無料のモーニングセットが嬉しい。

2016年5月22日日曜日

吾妻庵総本店 大もり


長男と土浦へ行く。
昼食は、中城通りの吾妻庵総本店。大もり、900円。
細くて腰の強い蕎麦を、辛目のつゆにちょっとつけて威勢よく啜り込む。旨いなあ、老舗の味だ。
座敷では、じいさん二人が、ビールとぬる燗で酒盛りを始めた。
ゆったりとした時間が、ここでは流れている。



息子はざる、800円也。

盛りがいいねえ。

ほんとはここでとろとろ飲みたいところだが、車で来ているからね、ささっとやっつけて蕎麦湯を貰う。いい時間を過ごさせていただきました。
何度も載せているが、吾妻庵総本店の店構え。この空間で、この蕎麦を味わうところに価値があるのだ。