三遊亭圓朝といえば、『真景累ヶ淵』、『怪談牡丹灯籠』などの作者として明治文壇の言文一致運動に大きな影響を与えた唯一無比の名人、本名出淵次郎吉その人である、ということに異論を持つ人はあるまい。
しかし、多くの落語ファンは、一方で二代目圓朝が存在したことを知っている。
二代目圓朝を襲名したのは、初代三遊亭圓右。初め二代目三遊亭圓橘に入門したが、後に師ともども圓朝門に入った。「いずれ圓朝の右腕に」という期待をかけられ「圓右」の名を貰う。圓朝死後は、明治末期に四代目橘家圓喬とともに、大正年間には三代目柳家小さんとともに名人と並び称せられた。大正13年、圓朝の名前を預かっていた藤浦周吉から二代目圓朝襲名を許される。しかし、圓右は軽井沢で引いた風邪をこじらせ肺炎を引き起こしてしまう。同年10月24日、病床で襲名の披露目をしたものの、一度も圓朝の名で高座に上がることなく、11月2日に死んだ。したがって彼を「二代目圓朝」と言う者はいない。
ちなみに五代目古今亭志ん生は、師初代柳家三語楼とともにこの初代圓右の芸を参考にして売り出した。皮肉な古老は、楽屋で志ん生の噺を聴きながら「三語楼じゃねえか」とか「圓右じゃねえか」とか言っていという。
「咳をしても一人」で知られる尾崎放哉に、「糸瓜が笑つたやうな圓右が死んだか」という句がある。
放哉は、東京帝大法学部を出て生命保険会社の要職に就いた、いわばエリートだ。ところが大正12年、突如職も学歴も妻も捨て去り、京都一燈園という宗教団体に入る。そして寺を転々としながら寺男として働き、その傍ら自由律の俳句を詠んだ。
圓右が死んだ頃には神戸市の須磨寺にいた。遠く神戸の、俗世を離れた寺にまで「圓右死す」のニュースは届いたらしい。
初代圓右はそれ程の名人だった。
その後、圓朝を継ぐに値する者は出ず、「三遊亭圓朝」という名跡は落語界の最高峰として冒すべからざる存在として、今も君臨している。
・・・というのが定説だが、どうやらその実色々あったらしい。
圓朝の名を預かっている藤浦家では、圓朝の名を塩漬けにするつもりはなかった。その名にふさわしい者が出てくれば、継がせるつもりだった。
藤浦周吉の孫、藤浦敦が書いた『三遊亭円朝の遺言』(新人物往来社:1996年刊)の中で、彼は五代目柳家小さんとの対談でこう語る。
「でぶの円生(五代目、六代目三遊亭圓生の養父)はあんまりうまいんで、私の家(落語三遊派宗家)で二代目の円朝を継がせようとしたくらいなんですが、果たさぬうちに早死しました。」
また、六代目圓生についても「余談だが、最晩年に円生は円朝を襲名したいという妄想を抱いて私に頼みに来た。」と言っている。
五代目、六代目と圓生が二代にわたって「圓朝襲名」を視野に入れていたとは興味深い。
しかし、圓生という名前は三遊亭では最高峰の名前である。圓朝が二代目圓生の弟子であり、「エンチョウ」が「エンショウ」の音に似せた名前であることからも、この襲名は筋目がよくない。「圓生→圓朝」の流れが出来上がると、ちょっとおかしな状況になってしまうだろう。
やはり圓生は三遊亭の「てっぺんの名前」でいた方がいい。
近年、春風亭小朝の圓朝襲名がまことしやかに囁かれたことがある。現在はとんと聞かないが、藤浦敦自身、小朝のことは買っている。前述の『三遊亭円朝の遺言』では、立川談志、五代目小さんと並ぶ対談の相手、しかも3つある対談のトリを飾るのが小朝なのだ。可能性としてなくはない。
小朝ももう60歳を超えた。随分前に出したCD(圓朝作『怪談牡丹灯籠、お札はがし』)では、何か名跡襲名の可能性をほのめかしていたが、このまま「小朝」で全うするつもりなんだろうか。襲名するとすれば、この辺りが最後のチャンスだろう。
しかし圓朝はどうか。確かに系譜をたどれば、五代目春風亭柳朝→八代目林家正蔵→四代目橘家圓蔵→四代目三遊亭圓生→三遊亭圓朝、と圓朝に行き着かないわけではない。八代目正蔵が教えを受けた三遊一朝は圓朝の直弟子でもある。ただ、正蔵は最後には三代目柳家小さんの弟子になり、自らの住まいも「小心居」と名乗るほど小さんに傾倒した。後に四代目小さんの身内となって、四代目の前名である蝶花楼馬楽を襲名。四代目の死後は五代目と小さん争奪戦を繰り広げた。芸は三遊派だが柳派にあまりにも近い。そもそも小朝の春風亭も柳派の亭号だ。そこから三遊亭の象徴的な名跡である圓朝を継ぐのはいささか強引ではないか。
圓朝は出淵次郎吉が一代で大きくした名前だし、あまりにも大きくなり過ぎた。やはり永久欠番としておいた方が自然だろう。
それよりも各亭号の「てっぺんの名前」、三遊亭圓生とか古今亭志ん生、春風亭柳枝なんていうところを塩漬けにせず、きちんと継承させていくべきだと、私は思うのだが。
ページビューの合計
2016年11月10日木曜日
2016年11月6日日曜日
晩秋の笠間散歩
この間、笠間の日動美術館でやっている企画展、「北大路魯山人 もてなしの極意」を観て来た。
紀尾井町にある料亭福田家所蔵の器が中心の展示。
改めて観ると、魯山人の作る物は、器にしろ字にしろ絵にしろ、どれも可愛いらしい。
魯山人その人が、相当に狷介だったことを考えると意外だが、しかし彼の本質は案外こんなところにあったのではないかと思う。
日動を出て笠間稲荷にお参り。
震災で被害を受け取り壊されていた大鳥居が復活している。
あるべきものがあるべき所にきちんと収まっているのはいいものだ。
お稲荷様をお参りした後は、お楽しみの笠間散歩。
この日は参道をまっつぐ西へ向かう。
1時間以上歩いたので、少々疲れた。
笠間稲荷の大鳥居前、商家を改装したカフェで一休みする。
天気も良かったし、楽しい散歩でしたな。
紀尾井町にある料亭福田家所蔵の器が中心の展示。
改めて観ると、魯山人の作る物は、器にしろ字にしろ絵にしろ、どれも可愛いらしい。
魯山人その人が、相当に狷介だったことを考えると意外だが、しかし彼の本質は案外こんなところにあったのではないかと思う。
日動を出て笠間稲荷にお参り。
震災で被害を受け取り壊されていた大鳥居が復活している。
あるべきものがあるべき所にきちんと収まっているのはいいものだ。
只今、菊祭りの期間中でありました。
菊人形展は大河ドラマ「真田丸」がテーマでした。
お稲荷様をお参りした後は、お楽しみの笠間散歩。
この日は参道をまっつぐ西へ向かう。
老舗の蕎麦屋。
老舗らしからぬ小洒落た店先。
看板建築発見。
これは見事。
ペットショップの看板。
パンダも売っているのかしら。
川を渡る。
シブイ家並みが続く。
石井神社に到着。
拝殿。
本殿。
佐白山を見ながら戻る。
1時間以上歩いたので、少々疲れた。
笠間稲荷の大鳥居前、商家を改装したカフェで一休みする。
珈琲をいただく。350円。
こうして参道を見下ろしながら、のんびりできるのがいい。
店構えはこんな感じ。
天気も良かったし、楽しい散歩でしたな。
2016年11月4日金曜日
「てっぺん」 ミニカツ丼とかけ蕎麦のセット
笠間市旧岩間町の外れにある「てっぺん」のミニカツ丼かけ蕎麦セット。900円。
フツーに旨いフツーの蕎麦屋。随分長くやってる。代替わりはしているんだろうけど。
玉子丼とかけといかないところが、私の古今亭志ん朝の域まで達していないところだ。
ま、そもそも玉子丼とかけのセットはメニューにはない。
かけ蕎麦とはいえ、トッピングに揚げ玉がついている。ということは、あっという間にたぬき蕎麦になってしまうということですな。
カツ丼は甘辛いしっかりとしたお味。かけ蕎麦はゆずの香りが爽やかだ。小鉢の蓮根も胡麻油の風味が利いている。旨し、であります。
では、カツ丼とかけ蕎麦のアップです。
店構えはこんな感じ。ずっと変わんない。民芸調だねえ。
2016年11月3日木曜日
晩秋の散歩
朝食はトースト、コーンスープ、スクランブルエッグ、ウインナーソーセージ。
次男の習字が、市の文化祭で生涯学習センターに展示されているというので、親子4人で見に行く。
展示を見た後、併設されている図書館で本を読む。
昼前に帰る。
昼食は麺職人の味噌。
天気がいいので午後から散歩に出る。2時間近く歩く。霞ヶ浦の堤防に腰を下ろし、缶コーヒーを飲んで帰る。
ボブ・ディラン、『ジョン・ウェズリー・ハーディング』を聴く。1967年、ビートルズの『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』の半年後に発表されたアルバム。ビートルズの極彩色とは対照的な単色の味わい。これもまたいい。
夕方ビール。
夕食は手羽先、麻婆春雨で燗酒。
寝しなにディランの『テンペスト』を聴きながらタラモアデュー。
では散歩で撮った写真です。
次男の習字が、市の文化祭で生涯学習センターに展示されているというので、親子4人で見に行く。
展示を見た後、併設されている図書館で本を読む。
昼前に帰る。
昼食は麺職人の味噌。
天気がいいので午後から散歩に出る。2時間近く歩く。霞ヶ浦の堤防に腰を下ろし、缶コーヒーを飲んで帰る。
ボブ・ディラン、『ジョン・ウェズリー・ハーディング』を聴く。1967年、ビートルズの『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』の半年後に発表されたアルバム。ビートルズの極彩色とは対照的な単色の味わい。これもまたいい。
夕方ビール。
夕食は手羽先、麻婆春雨で燗酒。
寝しなにディランの『テンペスト』を聴きながらタラモアデュー。
では散歩で撮った写真です。
下の柿畑では収穫の真っ最中でした。
カメラ目線の猫。
薬師堂があった。
奉納額。
立派な長屋門の家。
二十三夜講の碑には、文化の年号が刻まれていた。
この辻に二十三夜講の碑があった。
ひっそりと古い井戸がある。
白鷺は小首かしげて。
ここは昔、この地区でいちばん広い池だった。
今は蓮田になっている。
霞ヶ浦に向かう。
今日も筑波山がきれいだった。
揚水場。
あの高圧線はここに来ていたのね。
のどかな景色だねえ。
この石仏には寛政の年号が刻まれておりました。
立派な蔵。
ここに見事な鏝絵を発見。
霞ヶ浦に別れを告げ、家に帰ろう。
2016年11月2日水曜日
鹿島臨海鉄道大洗鹿島線の無人駅
鹿島臨海鉄道大洗鹿島線。
水戸から大洗を経て鹿島神宮駅に至る、第3セクター運営による全長53㎞の鉄道である。
1985年(昭和60年)開通。以来鹿行地区の貴重な交通手段となっている。
先日、東水戸駅から荒野台駅までの無人駅を訪れる機会があった。
詳しくは後日語ることとして、今回は各駅のネームプレートを紹介しよう。
水戸から大洗を経て鹿島神宮駅に至る、第3セクター運営による全長53㎞の鉄道である。
1985年(昭和60年)開通。以来鹿行地区の貴重な交通手段となっている。
先日、東水戸駅から荒野台駅までの無人駅を訪れる機会があった。
詳しくは後日語ることとして、今回は各駅のネームプレートを紹介しよう。
ここだけ看板がやたら大きいのは、駅名が尋常じゃなく長いからか。
開通当時は日本一長い駅名だった。
こちらは別の日に撮った夜の水戸駅ホーム。
ガルパン列車でありました。
登録:
投稿 (Atom)