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2017年4月10日月曜日

緑屋食堂 肉野菜炒め定食


鉾田市借宿にある緑屋食堂、肉野菜炒め定食、750円。
もうね、間違いないでしょ。小鉢の納豆なんか憎いねえ。

ではアップで。


野菜はしゃきしゃき。ほのかに香る胡麻油の風味がたまんない。
御飯何杯でもいけますな。旨し。

レジ横には、ただいまブレイク中、鉾田市出身の漫才師、カミナリのサイン色紙が飾ってありました。

2017年4月7日金曜日

沖縄の晩飯

沖縄の晩飯は2日ともホテルの外で食べた。
1日目は居酒屋、2日目は焼肉屋。
どちらも沖縄料理が充実して旨かったな。

まずは那覇の晩飯。

何はなくともオリオンビール。

赤マチの刺身。

ジマーミドーフ。
落花生のお豆腐。ねっとり旨し。

ラフテー。感動的に旨し。
ここのは味噌味。

ウミブドウ。

ソーミンチャンプルー。

ここで泡盛。

豚の塩漬け。しょっぱい。

麩チャンプルー。
麩に味が染みて旨いのさ。

沖縄風焼きそば。
沖縄そばをおたふくソースみたいな甘いソースで炒めている。

国際通りからちょっと入ったとこにある。
居心地のいい店でした。

2日目は恩納村。モントレー沖縄のすぐ近く。

やはり何はなくともオリオンビール。

子どもたち大好き、ウミブドウ。

アグー豚三種。

柔らかくて旨し。

ここのラフテーは醤油味。

やんばる鶏三種。

肉厚、旨し。

ゴーヤチャンプルー。

なかなか洒落た店構えでした。


2017年4月5日水曜日

天宝 スタミナラーメン


鉾田の街中にある中華屋「天宝」のスタミナラーメン、750円。
茨城のご当地バージョン、かぼちゃとレバーの餡かけタイプも、「和風スタミナラーメン」という名前で、きちんとメニューの中に入っている。
こちらのスタミナは、たっぷりの白モツとたっぷりの野菜を炒め、生卵を落としたもの。がつんと辛いスープが食欲をそそる。

ではアップね。


白モツの量がハンパない。いかにも精が付きそう。旨し、であります。


リーズナブルなランチもある。メニューも豊富。お昼何にしようかなと迷っている時には、この店を選ぶことが多いな。

2017年4月3日月曜日

ご先祖様 もうちょっと詳しく

昔の戸籍謄本がいくつか出てきた。それで、うちの初代のおばあさんについて、詳しいことが分かってきたので、書いておく。

初代のおばあさんは、名前をそて(ソデ)といい、天保9年(1838年)に生まれた。三遊亭圓朝の一つ上。初代柳亭燕枝、四代目桂文楽(俗にいう「でこでこの文楽」)、政治家では大隈重信、山形有朋、役者では九代目市川團十郎が同い年である。当時の水戸藩主は徳川斉昭。翌年には蛮社の獄があった。明治維新が30歳の時か。前半生は、まさに幕末の激動の時代だったのだ。
明治15年(1882年)、夫丑之介と別れ、今の土地に移り住む。裁縫所を開き、近隣の子女の教育に貢献した。裁縫所の教え子が出資し、うちの墓を建立してくれたのが明治34年(1901年)であった。
明治41年(1908年)、隣町から養子をもらい一時隠居するも、間もなく養子が出奔、翌年戸主に戻った。
明治42年(1909年)、二人目の養子をもらう。この人が私の祖父である。祖父は明治44年(1911年)、初代のおばあさんの生家から嫁をもらう。
初代のおばあさん、そてが隠居したのは大正10年(1921年)。ということは、少なくとも83歳までは存命だったということだ。
戸籍謄本には、そてさんの没年は書いていない。

そてさんの連れ合いが、天狗党だったと聞いている。
しかし、その人が誰なのかがはっきり分からない。
そてさんは夫と別れた後、分家の形を取って旧姓に戻すことなく、終生夫の姓を名乗っていた。墓には、そてさんの戒名と並んで、男の戒名が彫ってあり、過去帳には当家初代「清庵」と残っている。しかし、過去帳にも墓にも丑之介という名前は残っていない。
では、そてさんはここに移り住んでから新しい夫を迎えたのだろうか。そして、それが清庵さんなのだろうか。しかし、祖父の戸籍には、養母はそての記載があるが、養父は空欄である。

うちに残る掛け軸には、そてさんと総髪の初老の男が並んで描かれている。この総髪の人が天狗党だったということだ。
それがこれである。




絵が描かれたのが明治24年。そてさん分家が明治15年ということは、この場に丑之介さんはいなかったはずである。
ここからは推察である。明治15年以降に、そてさんは新しい夫を迎えた。この明治24年に描かれたのがその人だ。そして、その人は墓ができた明治34年まではこの家にいた。墓には彼の戒名も彫られた。この人が清庵さんなのではないか。しかし、祖父が養子に来る明治42年の頃には、家を出てしまっていた。(もし亡くなっていたら、祖父の戸籍の養父の欄には、亡**という記載があったはずである。)
その間、戸主は2番目の夫に移ることはなく、ずっとそてさんが務めていた。何といってもこの家は、そてさんが経営する裁縫所によって生計を立てていたのだから。
さて、この推測が当たっているかどうかは分からない。もはや当時を知る人も生きてはいまい。真相が明らかになることは、もうないだろう。
でも、こうやって遠い昔に思いをはせ、我が家のルーツを想像してみることは楽しい。また何か面白いものがみつかるといいなあ。

2017年3月31日金曜日

パリアッチみき 鉄板スパゲティー



パリアッチみき。鉾田市串挽にあるログハウス風のお洒落なお店。鉾田では昭和の御世からの人気店である。洋食だけではなく、釜飯が自慢で和食も充実している。

鉄板スパゲティーセット。スープとサラダが付いて、税込1004円。
ナポリタン風の味が付いたパスタにミートソースがかかっている。どこか「もんく」のナポリミートを連想させる一品だ。パスタの下にはキャベツが敷いてあって、これがメニューにあるように、焼きそばみたいな感じにさせている。
鉄板のおかげで、ずっと熱々。せっかちの私は口の中を火傷しそうになるが、それがまたいいのだ。

では、アップでどうぞ。



タバスコかけて、粉チーズかけて、もりもり食うのがよろしい。
旨し、です。

2017年3月30日木曜日

沖縄へ行っちゃった

妻子を連れ、沖縄に行く。
長男の受験で、ずーっとどこにも行けなかったので、「受験が終わったら旅行に行こう」と決めていたのだ。
予約を随分前に済ませていたので、入試の結果によっては、と心配していたのだが、めでたく長男が志望校に合格。心置きなく楽しむことができた。

出発は茨城空港から。
駐車場は無料だし家からも近い。いやあ楽だわ。
3時間のフライトで那覇に到着。レンタカーを借り、首里城を見て、1泊目、ナハナホテルに投宿。
国際通りからちょっと入った所にある居酒屋で、沖縄料理を楽しむ。

守礼の門。
長男は「2000円札の門」と言っておりました。

首里城。

夜の国際通り。

土産物屋の店頭に、燃え尽きたジョーがいる。

2日目は、まず高速道路をひたすら走り、美ら海水族館に直行。ジンベエザメやマンタの雄姿を拝む。
昼食は街道沿いの沖縄そば屋で、沖縄そばとタコライス。お腹いっぱい食べる。
次男がグラスボートに乗りたいと言うので、部瀬名ビーチに行ってみる。天気はいいのだが、風が強く、波が高い。遠目で見るグラスボートは、まるで北の漁場へ向かう漁船のようだった。というわけで、この日は断念。鮮やかなコバルトブルーの海を眺めるだけにする。
その後、絶景ポイント万座毛、テーマパーク琉球村に寄りながら恩納村に。2泊目の宿、ホテルモントレ―沖縄に入る。





夕食はホテルを出て外へ。ホテルの近くにあった焼肉屋に入る。
肉はなかなかのお値段だったので、ここでも沖縄料理を中心に攻める。
次男の食欲が止まらない。

鶏と豚は、リーズナブルでした。

翌朝、ホテルのアクティビティーにグラスボートがあるというので、朝一番のに乗ることにする。
まあまあの揺れ。それでも念願のグラスボートに、次男は食い入るように海中に見入っていた。
10時過ぎにチェックアウトして、ゆっくりと国道58号線を那覇へと向かう。国道の左手はずーっと米軍基地。「基地はいらない」と言う沖縄県民に対し、国は県知事個人への損害賠償請求をちらつかせ、あくまで辺野古新基地建設を推し進めようとする。長男が買った沖縄タイムスのコラムには「新基地建設阻止という一丁目一番地の知事公約を、国が『破れ』とは何事か。民主主義の危機が表出しているのに、本土はいつまで人ごとか。」とあった。
左側には米軍基地があるため、店があるのは道路の右側。渋滞で時間が読めないこともあって、妻念願のブルーシールに寄ることはできなかった。



昼食は空港のフードコートで沖縄ランチ。とんかつと鶏の唐揚げ、白身魚のフライにゴーヤチャンプルーが載せられている。ここでもお腹いっぱい。


食後に売店で買った、カップのブルーシールアイスを食べる。
帰りの飛行機からは、美しいサンゴ礁の島々が見えた。


2時間のフライトで茨城に帰る。
これが羽田だったら帰るまでがまたひと苦労だ。茨空があってよかったなあ。

楽しい家族旅行でした。しばらくは倹約しないとねえ。

2017年3月23日木曜日

堅倉を歩く

ちょっと前、石岡を歩いた後、小美玉市堅倉へ行ってみた。
旧美野里町役場、小美玉市役所がある辺りである。

まずは国道6号線を渡り、貴布禰神社にお参り。



京都の貴船神社が本社だが、なかなかに立派な佇まい。
息子の合格を祈る。(この時期は色んな神様にお祈りしたのよ)

歩道橋からの眺め。

お参りを済ませ、もう一度国道を渡り、旧道を歩く。
旧美野里町は、竹原村と堅倉村が合併してできた町。どちらも旧水戸街道の宿場があった。

元は宿屋とおぼしき建物。

ここと同じ屋号のビジネスホテルが国道の向かい奥にある。

この建物も、漆喰の看板を見ると宿屋っぽいなあ。



この門の前に小さな石碑があった。それによると、この家の主人は水戸郷士で名主を務めていたが、元治元年(1864年)、天狗党の焼打ちに遭って焼失、門の前柱2本だけが焼け残り、この門を再建する際、その2本の柱を使用したという。
吉村昭の『天狗争乱』の中には、田中愿蔵(たなか・げんぞう)隊が土浦真鍋宿を焼打ちした後、森沖新田や中貫の村を焼きながら北上、府中に宿陣した翌日、竹原宿の伊勢屋に投宿したという記述がある。
隊長の田中は当時21歳。隊員には、同じ思想の下では平等であると言って、身分の象徴である髷を切らせた。隊には血気盛んな若者が多く、軍用金の徴収も強引で、「ザンギリ組」と呼ばれて恐れられた。真鍋宿焼打ちに先立ち、栃木町では町民を殺害した上、400戸を焼き尽くした。(消火にあたった者も容赦なく斬り捨てたという。)
やがて田中隊は本隊から除名され、那珂湊の戦いの後、独自の道を行くことになった。助川陣屋で追討軍に敗れ、八溝山中に逃れるも進退窮まって解散。田中は、とある山小屋に潜んでいたのを通報され、捕えられて処刑された。彼の首は水戸に送られ晒された。
天狗党は、後に武田耕雲斎を総大将にして京都へ向かい行軍している時には厳しい軍律で知られ敬意も払われていたが、挙兵当時は田中隊のような振る舞いをする者が少なからずいた。偽天狗党も跋扈し金品略奪があちこちで行われ、民衆の天狗党に対する恐怖と怨嗟が広がっていったという。
この堅倉宿でも、そんな歴史の一コマがあったのだなあ。碑文を読みながら、しばし感慨にふける。
いつもは車で通り過ぎるだけの所だが、歩いてみると色々面白い。