ページビューの合計

2018年8月10日金曜日

岩手へ ②

義父の故郷は、盛岡の北東約35キロ、今は新幹線の「いわて沼宮内」という駅がある所だ。
朝食を済ませ車に乗り込む。天気は前日と同じ、時折強い雨が降る。
啄木の故郷、渋民を抜けて約1時間のドライブである。
沼宮内の駅まで間もなく、という辺りでコンビニに入る。私はコンビニの駐車場から写真を撮った。



聞くと、この先に道の駅があるという。
沼宮内の街を迂回するバイパスを通り、山道の入り口にある道の駅に入る。
道の駅では花や土産を買った。
車を駅近くの駐車場に止め、義父の実家があった辺りへと向かう。駅からすぐ北上川を渡った所、駅からこんなに近いんだ。
義父は、ここで国鉄職員の子として育った。盛岡の工業高校から東京の大学に進み、東京で職を得、義母と出逢った。
皆で北上川に義父の遺髪と花を流す。昨日からの雨で川の流れは速い。あっという間に花は流れていく。


妻と娘二人、四人の孫が(長女の婿である私も含め)見送る。義父の実家があった前の道を歩いていると、薄日が差した。義父も喜んでくれたのかもしれない。

10時過ぎ、沼宮内を出る。
せっかくだから、お昼は盛岡でわんこそばにしよう。
11時半過ぎ、わんこそばの老舗、東家本店に入る。


15分から20分待ちとのこと。店の周りを見たり、店内を見たりして待つ。なかなかいい雰囲気。

招き猫の奥にあるのは永六輔の色紙。

柳家小三治と入船亭扇橋の仲良しコンビの色紙。
東家のカツ丼を讃える句。

さあ、いよいよ、わんこそばである。お椀を目の前に並べるタイプは、大人一人前3460円(中学生以下は500円引き)。これもせっかくだからと奮発する。
ベテランのおかあさんの給仕で楽しく食べる。



私は90杯で打ち止め。無理すりゃ100杯いけたと思うけど、年も年だし無理はしない。
最高記録は500杯を超えるという。すげえな。
老舗だけど気取った所がない。皆、優しい。いい店だ。今度は評判の特製カツ丼も食べてみたい。
店を出て、大通りを挟んだ向こう側のアーケードで、七夕まつりをやっていた。妻たちはそっちを見るというので、私と長男は辺りをぶらつくことにする。


盛岡の街並みはモダンでいいな。

瀟洒な洋館。



看板建築。現役の仕立て屋さん。
これが消防団の事務所だって。




盛岡信用金庫。

岩手銀行。
午後2時前に出発。高速を休み休み走って、家に着いたのは9時近くだった。
やっぱり1泊は慌ただしかったね。今度はゆっくり花巻や遠野、三陸へも行こう。

2018年8月7日火曜日

岩手へ ①

一昨年亡くなった、義父の故郷、岩手に妻子を連れて行くことにした。妻の実家に声をかけると、義母、義妹と姪と甥も参加するという。結局、総勢8名での大移動となった。

朝5時半に車に乗り込み、全線開通した常磐道をひたすら北上する。
福島県大熊町から浪江町の間の一般道は二輪車通行禁止。つまり身体をむき出しにしては走れない。東日本大震災から7年。いまだに福島第一原子力発電所の事故の影響は大きい。この区間には帰宅困難区域が含まれる。もとは農地であったろう荒地。明らかに住む者がいない家々。そこだけ人間の匂いがしない。2011年3月から時が止まっているようだ。時折、たくさんのひまわりが植えられている所がある。そこだって本来は青々とした稲や野菜が育つ場所であるはずなのだ。
岩手県に入った辺りから雨が降り出す。奥州市付近ではワイパーも利かないほどの豪雨に見舞われる。速度は50キロに規制されていた。

午後1時頃、盛岡に到着。予定では小岩井農場に行くはずだったが、この天気ではと、やむなく断念。市内に入って行く。
とりあえずお昼を食べよう。さんざん迷った挙句、盛岡城跡公園近くの駐車場に車を止め、公園近くの蕎麦屋に入る。
私と義妹は天丼、義母と次男は天ぷらそば、長男、姪、甥がざるそばで、妻は冷やし揚げ茄子そばを食べる。昼のピークを過ぎた時間帯だったせいか、のんびりビールを飲んでいる客が何組かいた。いかにも老舗といった雰囲気。次男は「やっぱり蕎麦は間違いない」と言っていた。


腹ごなしに歩いて公園に向かう。
城跡にある桜山神社にお参り。創建は1749年(寛延2年)。南部家開祖光行公、盛岡藩初代藩主信直公、三代藩主利直公、十一代藩主利敬公をお祀りしている。


七夕の御飾り。

本殿の奥には、「烏帽子岩」が鎮座まします。


6メートルを超す、巨岩「烏帽子岩」。

道を挟んだ向こう側に参道が続く。

その後城跡を散策。幸い雨は止んで、傘を使わなくて済んだ。
全国的に35℃を超える猛暑らしいが、この日盛岡は最高気温22℃。

盛岡城、通称「不来方城」。
明治維新で廃城となり、石垣のみが残る。


ホテルへは4時前に入る。部屋で妻や義妹とビールを飲んでいると、またもや激しく雨が降り出した。


6時頃、雨が止んだので、夕食に出かける。検討の結果、ホテルのすぐ近くにある、盛岡冷麺発祥の店に行く。焼肉と冷麺で生ビールを飲む。


暖簾には「平壌冷麺」とある。北の系譜なのね。

食後、長男と街を散歩することにする。姪と甥もついて来るという。「歩くだけだけど、後悔しない?」と念を押して歩き出す。
盛岡駅まで行き、戻る。だいたい50分ぐらい歩いたかな。この頃、長男が散歩のいい相棒になっている。


北上川にかかる開運橋。モダンな造りだ。

前に仕事で盛岡に来た時に入ったラーメン屋を見つけた。

ローソンの前にあった啄木像は、なぜかバイキンマンのお面をかぶっていた。

ローソンで地酒「南部美人特別純米」と焼き鳥の缶詰を買う。レジでくじが引けるというので、姪と甥にやらせたら、甥が当たりを引く。ミンティアをくれたので甥にあげる。
「南部美人特別純米」、寝しなに妻と飲んだが、旨かったね。

2018年8月4日土曜日

戦地からの葉書 その後

この前、母屋の本棚を見ていたら、村の戦没者名簿をみつけた。
めくってみると、伯父さんに便りをくれた人の名前もあった。その後の彼らを辿ってみたい。

まず伯父の青年団の先輩。
この人は葉書では 「南支派遣基第二八〇三部隊野口隊」に所属していた。
昭和16年6月に入隊。昭和20年6月25日、ビルマのパアンで戦死している。享年28歳。衛生伍長だった。
もう一人、「戦地からの葉書②」の冒頭、伯父が甲種合格になる夢を見た人。彼は、うちのすぐ近所の人だった。
葉書では「北支桜井部隊(一字不明)村部隊小池隊」から「中支派遣軍甘粕部隊飯田部隊赤鹿隊」と所属が変わっている。
入隊は昭和15年2月。昭和18年3月17日、ビルマのアラカンで戦死。享年25歳、陸軍伍長だった。ビルマというとインパール作戦がすぐ頭に浮かぶが、調べてみると、その前に第1次アラカン作戦というのがあったらしい。
日本軍が駐留していたインド国境付近のアキャブを奪還すべく、昭和17年12月イギリス軍が攻撃を開始。その援軍に日本軍は第55師団を送った。第55師団はアラカン山脈を踏破してイギリス軍の側面を急襲し勝利を収めた。これが昭和18年3月末。近所のおじさんは、多分この戦闘で亡くなったのだろう。アラカン山脈踏破をイギリス軍は不可能と思っていた。過酷な行軍だったと予想される。あるいは行軍中の死だったのかもしれない。召集から3年、中国戦線を転戦し、最後はビルマに回されての死だった。
三郎伯父は昭和17年10月入隊、昭和20年7月20日、ビルマのトングーで戦死。享年26歳、陸軍伍長だった。三人は巡り巡って同じビルマの地で死んだことになる。小さな農村でつつましく暮らしていた彼らが、なぜこんな遠い異国で死ななければならなかったのだろう。

戦没者名簿には母方の祖父の名もあった。
祖父は昭和16年、長女(つまり私の母)の4歳の誕生日に召集され、昭和18年2月3日、ニューギニアのワウ付近で戦死した。享年34歳、陸軍軍曹だった。
飛行場のあったワウを攻略しようとサラモアを出発したのが、昭和18年1月16日。兵士に支給された食糧は10日分。ワウに到着したのは11日後の1月27日。この時点で、もはや食糧はほとんどない。守備隊のオーストラリア軍は日本軍の夜襲を受け、いったんは守勢にまわったが、空輸による増援を受けて盛り返す。一方食糧の尽きていた日本軍はじりじりと後退し、ついに2月14日に作戦中止、木の実や野草を食べながら撤退したという。兵士は消耗し、ほとんどが倒れた。祖父が死んだのは2月3日だから、オーストラリア軍との激戦の中、死んだのだろう。
オーストラリア軍が空輸によって兵員、物資を補強したのに対し、日本軍は食糧などワウを奪取して現地調達すればよい、という考えであった。兵士が人間であるという視点が全く欠落している。日本軍は、兵士の命を、召集令状の郵便代、「一銭五厘」程度にしか考えていなかった。
祖父は地元の農業協同組合の設立に力を尽くした。生きていれば、県の農政に大きく貢献しただろうと、後に要職に就いた彼の後輩が言っていたという。

彼らは国を守るために死んだと人は言う。国を守るためと言うのなら、なぜ彼らはあんなに遠くまで行かされて死んだのか。彼らの死を美しい物語にしてはいけない。

真夏の花、さるすべり。
「蝉時雨 昭和も遠くなりにけり」風柳

2018年7月30日月曜日

岐阜県特派員報告「布袋の大仏」

本ブログ、岐阜県特派員のT君からメールが来た。
岐阜はこの夏、連日の猛暑だった。しかもT君は40℃超えのあの市に住んでいるのだ。冷房をこよなく愛する彼にとって、まさに地獄のような日々に違いない。
その状況下での、渾身のレポートである。以下に全文を掲載する。

   *  *  *

殺人的な暑さで、猫も朝からのびていた。


そんな中、愛知県江南市にある「布袋の大仏」を訪ねた。


愛知県は有数の大仏県で、中でも「布袋の大仏」のユニークさは群を抜いており、全国のB級スポット愛好家を引き付けているとか。
夢のお告げを受け、個人が5年がかりで造った大仏様は、奈良の大仏様を2メートル上回る。露天の大仏様なので、周囲からよく見え、スケール感が際立っている。




そしてこの風貌。


まるでそのへんのおっさ…、でーたらぼ…、いや親しみのあるお顔をしていらっしゃる。

大仏様の背後に回ると驚異の世界が待っている。大仏様と建物がつながっているのだ。



この建物は、大仏様を建立した方の自宅兼事業所(接骨院)である。ちなみに接骨院は営業中で、その名も「布袋大仏接骨院」。



大仏様と自宅と事業所の驚異のコラボレーション。
「布袋の大仏」、一見の価値あり。

2018年7月25日水曜日

戦地からの葉書②

前回の続き。

やがて伯父自身の召集も近づいてくる。

「拝啓 其の後は暫く御無沙汰致しました。
貴君には其の後増々御壮健の御事と思います。私も御陰様にて元気で居ります故、他事ながら御安心下さい。貴君も今年適齢の年配に検査の結果は如何で御座居ましたか。小兵、過日貴君が見事甲種合格になりました夢を見ましたよ。早く貴君の懐かしい其の良き御返事を待って居ります。去年の今頃貴君らと肩を並べて青年学校に通学した事が今になって如何にも懐かしく思い出されます。其の内此ちらの様子追って申し上げるつもりです。では時節柄御身に充分御大切に。さようなら。 
中支派遣軍甘粕部隊飯田部隊赤鹿隊 ****   7月15日」

検査は20歳には必ず受けることになっていたというから、伯父が受けたのは昭和15年か。青年学校本科5年は19歳で修了らしいので、「去年の今頃貴君らと肩を並べて青年学校に通学した」ということは平仄に合う。

この後葉書は祖父宛のものになる。

「拝啓朝夕の風はめっきり秋の気配殊に著しく感ぜられてまいりました。其の後は意外なる御無音に打過ぎ申し訳ありません。悪しからず御許し下さい。皆様には御変わり有りませんか御伺い申し上げます。
僕もお蔭様にて元気に軍務に精励して居りますから他事ながら御安心下さい。
三郎君は此の度身苟くも選び征せられて愈々護国の大任を負担する光栄をえ此の奉公の期間を完全に服務せられんことをお祈りいたします。 
朝鮮(二字不明)第四十三部隊平山隊 ****」

三郎というのは伯父の名である。伯父は昭和17年10月に召集され、翌年の1月、ビルマ派遣軍に編入されてビルマに渡った。だから、この葉書は昭和18年の秋に書かれたことになる。

「拝啓 昭南に転勤になって早や半月です。田舎から都会へ勝手が判らず困りました。三郎君の宛名が判りましたら御知らせ下さい。今僕の住居はケンヒルストリートと云う処で小丘の多い気分の良い処です。 早や一年です。もう一頑張りです。南方建設に御奉公です。甚だ非力ですが。皆様御元気で。 草々
昭南市デ・スーザーストリート日本発送署南方局 ****」

この葉書は、川崎の伯父のものだ。彼の所に三郎さんの姉が嫁いでいる。伯父は東電の技師をしていた。そうか、川崎の伯父さんはシンガポールにいたんだ。
次の葉書は川崎の伯父の弟から来たものらしい。

「拝啓 御無沙汰致しまして申し訳もありません。(以下数文字不明)さぞかし御多忙の御事と拝察致します。
(数文字不明)内地からのお便りにて、今般、三郎さんも名誉の召集とのこと、(以下数文字不明)さぞかしと存じます。御苦労様です。私の部隊へでも来てくだされば何かと御話相手になれますものをと存じますが、もう現在の如く(四字不明)の統制の整備致しました今日では決して御心配の様なこともありますまいと存じます故、御気になさらず、前線の兵士の何よりの楽しみな、内地からの手紙ですから、精々御手紙にて御励まし下さいませ。
私の出征に思いもかけず父の不幸もあり、近く征途につく**もきっと随分淋しかろうと存じますが、何分よろしく願います。父の生前の遺言として**は大切な**家の跡取りであります故、せめて出征までには兄か私が帰還すればよいのですが、命令に動く我らはなかなかに自由には参れません故、後事は何分よろしくお頼み致します。 先ずは平素の御無沙汰御詫び方々御見舞いまで。
ジャワ派遣治第一〇三三一部隊本部 ****  3月16日」

「もう現在の如く(四字不明)の統制の整備致しました今日では決して御心配の様なこともありますまいと存じます」とあるからには、祖父は何か三郎さんの軍隊生活に心配なことがあって相談したにちがいない。
後半には跡取り問題の切実な思いが綴られている。
戦争というものは国民に本当に迷惑をかけるものなのだ。当時の軍部にそのような意識があったとは到底思えない。

「東部三十七連隊美留町隊 **三郎君(本人不在のため実家に廻送) 
拝啓 其后三郎君、君は元気かね。
俺も相変わらず元気旺盛だ。貴君の父から便りがあって隊名が知ったのだ。大分骨が折れるだろう。昨年の今頃が想像されるネ。共に元気で働こう。当地はとうに雪が降り○○の連山が目前に聳えて居る。本当に緊張して居るよ。想像出来るだろう。貴君たちの渡満も楽しみだ。では呉れ呉れも御身大切に。先ずは御一報。(二字不明)は后便にて。 
満州国東安省半截河舘野隊子次隊 ****」

これは伯父宛なのが実家に転送されてきたもの。「本人不在のため」とはどういうことか。伯父はこの時点ですでに本隊から離れていたということか。
差出人はお向かいのおじさん。彼は生還して、90歳ぐらいまで生きた。私が小さい頃、兵隊に行った時の傷だ、と言って、足の傷跡を見せてくれたことがある。酒に酔うと、軍隊仕込みなのだろうか、春歌を歌って私たちを笑わせた。
「昨年の今頃が想像されるネ」というところを見ると、召集されて1年か。「とうに雪が降り」ということは冬なのだろうな。伯父は昭和17年10月に召集されたから、このおじさんも同じ頃に入隊したのかもしれない。「○○の連山」は原文通り。作戦上具体名は書けなかったものらしい。

次の葉書は終戦後のもの、祖父宛である。

「謹啓 時下秋冷の候と相成りました。
御尊家御一同様御健勝のことと存じ申し上げます。
扨て此度三郎様御戦死との由承り、驚き入り御両親様の御心境如何ばかりの事と御察し申し上げます。実は早速参上御悔み申し上げたく存じ居りますが、目下表記療養中にて失礼至極に存じますが、取敢えず書面を以て謹みて御悔み申し上げます。 御一同様呉れ呉れも宜敷く御(二字不明)下されたく御願い申し上げます。 敬白  
土浦市国立霞ケ浦病院六ノ一 ****  昭和22年10月16日」

伯父が戦死したのは昭和20年7月20日。それが分かったのは2年も経ってから、ということになろうか。差出人も療養中。皆大変だったのだ。

これらは、資料としては大した価値はないかもしれないが、我が家にとっては大切なものだ。だからこそ、祖父も父も残しておいたのだろう。
これを読むまで墓石や位牌でしか知らなかった伯父の、人間としての側面に触れることができたのは有難い。

絵葉書は中国からのもの。



シンガポールの消印。

検閲印である。

私は戦争を知らない。でも、その時何があったのか、人はどう生きたのかを、私は知りたいと思う。

2018年7月22日日曜日

戦地からの葉書①

物置から戦時中の葉書が出てきた。祖父と、戦死した伯父宛のものだ。
伯父が戦地から送ったものはなかった。残念ながら伯父の肉声を感じることはできなかったが、友人や親戚が書いた文章から、多少なりとも伯父の人間性が立ち上ってくる。
ワープロに起こしてみたので、紹介してみたい。
なお、旧字は常用漢字に、歴史的仮名遣いは現代仮名遣いに改めた。手書きであるため、判読できない文字も幾つかあったので、それは「不明」としておいた。

では、まず伯父の出征前。戦地に赴いた友人からのものである。 

「拝啓 先日は御手紙有難う。早速御返事をと思い居りましたが、元来の筆不性故遅れました。御許し下さい。月日の立つのは早いもので、去年貴君等と同窓会の云々にて**先生等と学校の火鉢を囲んだが、又今年も囲む候となりましたね。君の言われた様に今月の三十日に休暇許されましたよ。其の節は何分宜敷く願います。貴君の家等ではもう野良の仕事も片付いたでしょう。我々は年の暮で新年を迎える準備です。今日は旗日にて半(一字不明)外出、下宿でのんびりして居ります。**君にも御無沙汰して居りますから君より宜しく。先ずは右御返事迄。草々 
谷田部航空隊二十分隊電気部 ****  昭和14年12月25日」

日付がはっきりしているものでは、これがいちばん古い。
伯父は大正9年の生まれだから、この当時19歳だったはずだ。
これ以降と思われるものは、全て外地からの便りとなる。

「其后御無沙汰ばかりで誠に失礼。
其后相変わらず元気だろうね。俺も相変わらず元気百倍。
内地も随分寒くなったでしょうね。 北満虎頭も零下二十度位で大したこともない。若い僕等だもの、平気。
君も御自愛の程。又いずれ。
 東安省虎頭木村部隊福富隊 ****」

「三月三十一日附き端書有難く拝見致しました。お便りに依れば貴君には至極壮健にて農業生産拡充に非常の努力を画し居たる由、誠に御苦労様です。御陰様で頑強にて勤務致し居ります故、他事乍ら御安心の程。此方等は真夏にて百二十度位して居ります。小麦や麦の収穫等は一ヶ月も前に終わり田植えも修了した様です。胡瓜や茄等出来盛りです。青年会の方は本年は何か計画が出来ましたか。しっかり頼みます。それから支部の皆様にも宜敷くお伝えください。呉々も身体を大切に御奮斗を祈る。南国の端にて北斗星を望めば雲覆わる。
 南支派遣基第二八〇三部隊野口隊 ****  昭和17年4月24日」

伯父も青年団で活動していたんだなあ。この人は青年団活動に熱心だったようで、この葉書に先立って、団員一同宛にこんなことを書いている。

「拝啓 暫く青年会の皆様には御無音致して終いました。悪しからず。又此の度は御丁寧にも御繁忙中もいとえなく私留守の為勤労奉仕をなし下されたる由を**君のお便りにより判明致し、誠に御苦労様でした。内地の青少年団殊に青年団の責務、日英米開戦に依り一段と強化されたる事は及申さる事と思います。支部としても**君、北支(二字不明)員行き、**君、**君の入営と相続いて職業戦線に或いは戦地と青年団より送り出す誠に喜ばしい現象であると共に、又一方に於いて**君(注:職業戦線に赴いた人)の様な事は此の際考えるべきものが多々有ると思われます。農村に生まれたる以上は此れ天業と思い、次男三男も村に残り農業生産の原動力となりて此の大東亜戦争遂行に邁進すべきが真の青年道ではなかろうかと思われます。つまらぬ事を書き立てましたが、農村青年は農村と言う物を真に理解しなければなるまいと思います。今後も銃後運動に御協力の程願い上げます。先ずは御礼事と一寸思いついたる一事を。 
南支派遣基第二八〇三部隊野口隊 ****  1月14日」

「一白無事御書面拝見いたしました。久しく小兵御無沙汰致しまして誠に申し訳有りません。悪しからずお許し下さい。お便りにて貴君方も皆元気にお働きの事何よりと思います。小兵も御陰様にて幸い元気に変わった北支の一角に(二字不明)致しております故、何卒御安心下さい。細かい事種々お知らせしたいのですが、今の所書く訳にも行かず、追って申し上げるつもりです。農事も日に増々御多忙の事でしょう。支那には桜もなく花見も出来ません。支那名物の柳や名も知れぬ立木が有るだけです。では暮々もお体に御注意し銃後の一員としてお働き下さい。先ずは乱文乱筆にて一寸御返事まで。さようなら。 
北支桜井部隊(一字不明)村部隊小池隊 **** 5月3日」

当然、葉書は検閲済みである。葉書の表には検閲印が押してある。「細かい事種々お知らせしたいのですが、今の所書く訳にも行かず、」とはその辺りの事を憚ってのことだろう。
葉書は全て返信。伯父が律儀に戦地の先輩や友人に便りを書いていることが分かる。青年団の先輩からも「しっかり頼みます」と言われるような実直な人柄だったのだと思う。

中国北部から絵葉書である。
    

2018年7月19日木曜日

昭和46年の前座

ものはついで。昭和46年当時の前座一覧。やはり通し番号を付けてみた。
まずは芸術協会。

1 春風亭はち好(五代目春風亭柳條 フリーとなってはち好と改名。)
2 桂京丸(昭和58年真打昇進後廃業)
3 三笑亭夢九(三笑亭夢之助)
4 三遊亭右詩夫(古今亭寿輔)
5 三遊亭好遊(廃業か?)
6 柳亭痴太郎(五代目柳亭痴楽・故人)
7 三遊亭富太馬(四代目三遊亭圓左・故人)
8 三遊亭喜久馬(三遊亭左圓馬)
9 三遊亭右らん(三代目三遊亭小圓右)
10 三遊亭女遊(廃業か?)
11 三遊亭遊吉(三遊亭小遊三)
12 三遊亭遊ぼう(三遊亭左遊)
13 雷門助三(四代目春雨や雷蔵)
14 桂南次(桂南治)
15 三遊亭楽遊(三遊亭金遊)

では落語協会。

1 三遊亭歌一(三遊亭歌坊→小歌)
2 林家ばん平(廃業)
3 三遊亭楽松(三遊亭鳳楽)
4 三遊亭歌二(三遊亭歌司)
5 三遊亭町奴(廃業?)
6 金原亭小馬吉(二代目金原亭馬の助)
7 橘家竹蔵(竹蔵のまま真打)
8 林家九蔵(三遊亭好楽)
9 三遊亭朝治(六代目三遊亭圓橘)
10 古今亭高助(古今亭志ん五・故人)
11 柳家そう助(柳家さん八)
12 林家辰平(林家ぎん平)
13 三遊亭生坊(七代目三遊亭圓好・故人)
14 柳家マコト(柳家小袁治)
15 月の家杵助(六代目月の家圓鏡)
16 柳家小稲(柳家さん喬)
17 金原亭駒八(四代目吉原朝馬)
18 金原亭駒七(五街道雲助)
19 桂文吉(柳家さん枝)
20 金原亭駒三(駒三のまま真打)
21 立川談十(十代目土橋亭里う馬)
22 春風亭朝太郎(春風亭一朝)
23 三遊亭勝馬(三遊亭小金馬)

「芸能人重宝帳」には住所も載っている。師匠宅に内弟子で入っているのは、芸術協会では京丸(米丸宅)、遊吉、遊ぼう(遊三宅)、楽遊(圓遊宅)の4人。落語協会で町奴(圓歌宅)、竹蔵(圓蔵宅)、高助(志ん生宅)、生坊(圓生宅)、杵助(圓鏡宅)、文吉(文楽宅)、朝太郎(柳朝宅)、勝馬(金馬宅)の9人だった。
現在もベテランとして活躍している人が多いな。
というか、私の学生時代、若手だった人たちだ。華柳の梅枝時代、左圓馬の桂馬時代の手拭いは今も持っている。(前座時代の小文治さんからいただいたものだ。)
廃業したばん平は、タレントとしてもちょっと売れていた。私は池袋演芸場の高座から、「お兄さん、落語なんか面白けりゃいいんだよね」と話しかけられたことがある。何だったんだろ。
ベテラン陣の修業時代、青春時代がここにある。故人になっている人もいる。そう思うと感慨深い。