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2019年12月14日土曜日

石山女角力繪葉書

物置に行って古いものをあさっていたら、こんなものを見つけた。


「石山女角力繪葉書」とある。
ネットで調べてみると、「興行としての女相撲に関する研究」(『日本体育大学紀要 22巻 2号』より)という論文を見つけた。金田英子氏が平成4年に書いたものである。面白かったので、これを基に記事にしてみる。
女相撲自体は『日本書紀』に見られるが、興行としては江戸時代、文政年間に始まったという。明治以降盛んになり、一時は禁令が出されるほどだった。
「石山女相撲」は大正12年12月1日、京都で、西方17名、東方17名の計34名で興行を打っている。「興行は歯力、腹受けなどの力持、角力甚句、深川などの手踊演芸と角力取組の組合せの形式で、当時としては最も大きな一座であった。」としてある。
大正13年3月には、浅草仲見世裏空き地で興行、観客の男の飛び入りを許したところから興行禁止となった。
昭和5年6月20日、石山浜四郎を団長とする一行が25名の女力士と共に、約半年間にわたるハワイ巡業を開始。その帰朝記念で作られたのがこの絵葉書なのだろう。
では、中身を見てみよう。


「腹の上に土俵十俵を二重に積み其の上に臼を乗せ力士二名いて餅搗きをなす」という力技。

「力士五名を我身に纏い土俵を歩行す」という力技。



絵葉書には取組はない。力技が中心だ。スポーツというものではなく見世物としての側面が強かったのだろう。
昭和16年11月27日から京都府宇治駅吉田屋旅館前空地での興行宣伝文が味わい深い。
「防空演習でも開演いたします。見よ非常時日本人の血を湧かす、来れ大国技角力の火と熱の戦場へ。
 昨年御当地に於て多大の人気を博したる大日本女角力協会遠江灘一行五十余名と当年二十歳三十七貫の新進巨豪も加て開場致します。
 何卒賑賑敷(なにとぞにぎにぎしく)御来場の程を」

年代から見て祖父のものかな。粋なもんだ。
ネットで画像検索したら、同じのがあった。こんな田舎にまで流通したんだから、数はけっこうあるんだろうな。

2019年12月13日金曜日

神崎神社

千葉県香取郡神崎町の神崎神社。奈良時代からの歴史を持つ。


祭神は天鳥船命(あまのとりふねのみこと)、少彦名命(すくなびこなのみこと)、大己貴命(おおなむちのみこと)、面足命(おもだるのみこと)、惶根命(かしこねのみこと)。交通産業の神様として信仰を集めている。神崎町は利根川の水運で栄え、醸造業の盛んな町。その町の守り神と言っていい。





境内には「なんじゃもんじゃの木」がある。



クスの巨木。国指定の天然記念物になっている。延宝2年(1674年)、水戸光圀公が御覧になって、「この木は何というもんじゃろうか」と言ったことに由来する。
親木は明治40年(1907年)火災で焼けたが、そのひこばえが育っている。



利根川近くの瓢箪型の小山の上にある。



静かで神寂びた空間。心が落ち着いたような気がしました。

2019年12月11日水曜日

TBS、大看板の珍芸番組


昭和41年(1966年)927日付、朝日新聞夕刊に「寄席番組で巻き返しへ」という見出しの記事がある。翌月からTBSテレビが新企画を打つというものだ。
少し引用してみる。
TBSテレビは古今亭志ん生、桂文楽、三遊亭円生、柳家小さん、三遊亭円遊、林家正蔵と六人の大看板を専属にかかえ、他局でうらやましがられていたが、かえってこの存在が他局を刺激し、他局にヒット番組を作らせた傾きもあった。NETテレビの『日曜演芸会』、『テレビ寄席』、フジテレビの『お笑いタッグ・マッチ』などがそうで、大看板をもたない局が、若手タレントをフルに使い、寄席に現代的な動きをとり入れたので、TBSのほうが宝の持ちぐされの感もあった。」

TBSと落語家といえば、昭和28年(1953年)にラジオ東京(後のTBS)の名プロデューサー出口一雄が、桂文楽、古今亭志ん生、三遊亭円生、柳家小さん、昔々亭桃太郎の五人と専属契約を結び、業界を震撼させたことが有名である。翌年、志ん生がニッポン放送に引き抜かられるが、出口はすぐさま春風亭柳好、林家正蔵、三遊亭円遊、春風亭小柳枝と契約を結び、さらにその翌年には文楽の弟子、三升家小勝を専属にした。NHKの春風亭柳橋、桂三木助、文化放送の三笑亭可楽、古今亭今輔、ニッポン放送の古今亭志ん生、三遊亭円歌と比しても、質量ともに圧倒している。(後に三遊亭円生がNHKに出演するなど、この専属制も有名無実化していくのだが。)
一方、出口がラジオ東京五人衆と専属契約を結んだ昭和28年、テレビ放送が始まった。ラジオ東京も昭和30年(1955年)、テレビ放送に進出し、ラジオ東京テレビ(KR)を開局。出口も芸能課長に就任した。その頃に出口は「新人落語会」という番組の司会に林家三平を抜擢する。三平はテレビという媒体で瞬く間に売れた。この昭和の爆笑王誕生のきっかけを作ったのは、出口一雄だったと言っていい。
そして、テレビは若手落語家をタレントとして売り出していく。春風亭柳昇、三遊亭小円馬、三笑亭夢楽、桂伸治(十代目桂文治)、金原亭馬の助、柳家小せん、春風亭柳好(四代目)などは、こうして世に出てきた。大看板を抱えていなかった他局が、テレビの特性を生かし、若さを武器に大衆の心をつかんで、大看板中心のTBSの牙城を脅かすという図式は、大正期の東京演芸会社に対する睦会の健闘を見るようで、興味深い。

ここでTBSが巻き返しを図る、というのが、この新聞記事である。
TBSは当時の若者のお笑いのメッカ、東急文化会館に目を付け、ここで「お笑い大合戦」を上演し、それを中継放送しようというのである。その内容を引用しよう。
「その内容は『爆笑寄席』(水)『お笑い昼席』(金)。その中で水曜の『お笑い裁判』は大看板六人に、ゲストのはなし家一人を加える豪華版。ゲストを被告に仕立て、一席落語をさせて有罪(?)の場合は、歌や珍芸を披露させる、この間大看板たちのおしゃべりや珍芸もはいる趣向だ。すでに第一回のゲストには、売れっ子の桂伸治が起用され、TBSテレビはこの新番組に期待をかけているが、大看板たちが若い人にどう受けるか。興味のあるところ。」
記事を読んだだけでも、受けるとは思えない。大看板よりも若いゲストに芸を披露させ、有罪無罪を判定し、有罪だったら罰ゲームをさせる、その〝上から目線〟は若者に受け入れられるだろうか。大看板たちの珍芸に、果たして需要はあったのだろうか。この時、TBSは、いささか迷走していたように見える。
昭和41年当時、出口さんは59歳。60歳定年を企業への努力義務になったのが昭和61年(1986年)だったということを考えると、その頃は55歳定年が一般的だったと思う。とすれば、出口さんは既にTBSを退社し、デグチプロを立ち上げていたか。この辺り、出口の姪、SUZIさんは憶えていらっしゃるだろうか。

SUZIさんの回答は次の通り。
私の記憶する限りでは、伯父は確か芸能部長(次長かなあ?)で引退したんだと思います。
その後重役職だかなんだかの椅子があるのに、人事は嫌い、と言うので辞めて、デグチプロを立ち上げた気がします。
伯父は『俺は人を会社の組織の中で使いこなせることの出来る人間じゃないんだよ』と言っていました。
引退が何年かなんてナーーンニモ私は覚えていません。退職と同時にデグチプロは興したんだと思います。
芸人さんの誰がいつどうだとかこうだとか、契約とか、引抜きとかナーーンニモ知らないし、私には興味もなかったですね。
私は社会人になってからは、日野という東京の郊外暮らし、仕事に夢中だったし、六本木まで行く機会も減り、伯父の世界からは遠のいてしまいましたね。」

そういえば、DVD『落語研究会 八代目桂文楽全集』に、文楽の歌と踊りが入っていたことを思い出し、取り出してみた。解説では「落語裁判」について、川戸貞吉が書いていた。
川戸がTBSに入社した頃は、珍芸ブームの真っ最中、演芸と言えば「大喜利」といった状況だった。そこで新聞記事にもあったように、TBSも「専属の落語家を起用した大喜利番組をやる」ということになった。担当になった川戸は、専属の大看板たちに大喜利をやらせることに困り果て、出口一雄に相談する。そのくだりを以下に引用してみよう。
「頭を抱えながら大プロデューサーの出口一雄さんに相談に行った。そこで出てきたのが〝落語裁判〟だった。昔から寄席で演じられてきた〝落語相撲〟を裁判に置き換えたお遊びなのである。噺かが演じた噺の穴・矛盾点を観察側が突き、それを弁護側が弁解、最後に裁判長が判決を下し、負けた方が懲罰を受けるという大喜利だ。裁判員風の衣装を身に着けた大看板達が、マジメな顔して出演してくれたことは、いま考えても不思議でならない。」
このDVDには、文楽の歌う「有明」と踊り「深川」が収められている。「深川」について川戸はこのように書いている。
「さて、〝落語裁判〟もいよいよ最終回を迎えることになった。是非とも文樂師匠の踊りが見たかった。毎度のことながら出口さんに相談をすると、『お前が直接頼みにいってこい』という。恐る恐る黒門町のお宅にうかがったところ、「君ィ、シャレですよ、シャレ」と承知してくれた。これが何十年ぶりに踊った、ご愛嬌の『深川』である。」

「大プロデューサーの出口一雄さん」ということは、当時出口さんは現役だったのだろうか。いや、出口さんは川戸氏にとって、いつまで経っても「大プロデューサーの出口一雄さん」だったのかもしれない。(私は出口さんが現役だったら、こんな企画は考えなかったと思う。)いずれにしても「大看板達を使った大喜利番組」などという破天荒な企画は、出口一雄の存在なしには実現できなかったのだろう。
〝落語相撲〟は、文楽の著書『あばらかべっそん』にも出てくる。これを下敷きにするなんざ、いかにも出口さん、明治生まれらしいな、と思う。
しかし、〝落語裁判〟最終回の「深川」が、1966年(昭和41年)収録ということは、この番組、半年ももたなかったということになる。
やっぱり当たらなかったんだねえ。

ちなみに、六代目三遊亭圓生『寄席楽屋帳』(青蛙房)によると、昭和43年(1968年)6月に専属制は解消されたということである。

2019年12月9日月曜日

ちょっと昔の写真

昔の写真を見ていたら面白かったので、少し載せてみます。

まずは土浦。

佃煮屋の老舗だった建物。震災で被害を受け、取り壊しになった。
安西水丸が、城下町のエッセイでイラストに描いたこともある。

駅近くのパン屋さん。この建物も今はない。
お次は、東京根岸界隈。


「女のよろこび・・・妻のしあわせ」・・・すごい看板だ。


こういう時期でした。
石岡もいきましょう。

朝日屋。昔ながらの醤油ラーメンが旨かった。
ファンも多かったが、これも震災の被害で閉店、取り壊しとなった。

モリコービル。今は屋上の屋根が撤去されている。
一番上に望遠鏡らしきものが見える。この頃はデパートだった頃の面影を残していた。

石岡駅。今は橋上駅となった。
とりあえず、今日はここまで。

2019年12月8日日曜日

冷たい雨の土曜日、小春日和の日曜日

金曜日は職場の忘年会。水戸からの帰り、石岡のバードランドで飲んで帰る。
駅からタクシーに乗るのに1時間くらい待った。そもそも走っている台数がそんなに多くないらしい。不便な時代になったなあ。

昨日は朝から冷たい雨。


妻は仕事、長男は模試。次男と留守番。
お昼ぐらい外へ出ようと、丸亀製麺に行く。
かけうどん、かしわ天、稲荷寿司。しみじみ旨いなー。



本屋に寄って帰る。
ミー太郎もずーっと家にいる。ここんとこ、外へ行っちゃあケガをして帰って来る。この日も三本足で歩いていた。


夕食は、妹の所からお歳暮で届いた肉でしゃぶしゃぶにする。旨し。お腹いっぱい食べる。燗酒もまた旨し。
妻とワインを飲む。

今日の日記。
昨日とは打って変わっていい天気。


朝、御飯、味噌汁、スクランブルエッグ、ウィンナーソーセージ、納豆。
今日は義父の命日。皆でお墓参りに行く。


風もなく日向は暖かい。
その後、妻子は義母の喜寿のお祝いのお食事会に行く。私は梅八さんの寄席に出る予定があったので、残念ながら欠席。千葉県の神崎町へ向かう。
お昼に弁当が出る。神崎町の梅八さんの実家の元店舗を改造した寄席、江戸や亭。私のネタは『芝浜』。トリは梅八さんの娘でプロの浪曲師、国本はる乃さんの『忠臣蔵・安兵衛の婿入り』。やっぱりプロはすごいなあ。
神崎町は水運で栄えた町。江戸や亭のすぐそばの土手を上れば、利根川の悠然とした流れが見える。



帰って夕方ビール。
夕食はピザ、ポテトフライ、ペンネ、焼肉で白ワイン。
食後にボウモアを飲む。

「将棋の殿様」の件。
案の定、「いつまでやっているんだ」とか「野党はそればっかり」という声が聞こえてきた。殿様と飯を食ったからか、「与党逃げ切り」「野党手詰まり」といった報道をするメディアもいる。
いいんだよ、ちゃんと答えるまで、証拠を示すまで、ずーっとやってりゃいいんだ。その間、殿様やそのお仲間は、みっともない姿を晒し続けることになる。もはや言ってることもやってることも滅茶苦茶、私たちの目の前で近代的民主主義国家が音を立てて壊れていく。しかも、壮大さなど欠片もなく、ひたすらセコくみみっちい形で。そんな歴史的瞬間に立ち会えた身の不運を嘆きながら、せいぜい目撃していくことにしますよ。

2019年12月1日日曜日

今日から師走

昨日の日記。
寒い。霜で真っ白。
朝、御飯、味噌汁、目玉焼き、ウィンナーソーセージ、納豆。
父と、母のリハビリのための紹介状を書いてもらいに病院へ行く。午前中いっぱいかかる。
昼は、マルちゃん正麺の味噌味を作って食べる。
長男のピアノの送迎。夕方、床屋に行く。
夕食はおでんで燗酒。
今日の「アド街ック天国」は方南町特集。



落研の同期、酒合丈くんの地元である。学生時代はよく泊めてもらった。新宿から丸ノ内線に乗って中野坂上で乗り換える。方南町行は二両編成だった。今は直通で行けるんだ。
酒合丈くんの家のキッチンでジョニーウォーカーの赤を飲みながら、夜明けを迎えたことを、つい昨日のように思い出す。
寝しなにアイリッシュウィスキーを飲む。

今日から師走。
朝はホットサンド、スープ。
妻と次男とでイーアスつくばに行く。妻とお互いのクリスマスプレゼントを買う。私はボウモアとグラスを買ってもらう。
その後、私はミニの定期点検、妻と次男は帰る。
代車に乗って再びイーアスつくば。点検が終わるまで4、5時間かかるというので、映画でも観ようかと思い立つ。12時25分の上映開始に合わせ、フードコートですき家の牛あいがけカレーをかっ込む。今日は「映画の日」とかでチケット代は、通常は1800円のところ1000円で済んだ。
観たのは『HUMAN LOST 人間失格』。小栗旬が太宰治を演じた映画があったことを思い出し、そのつもりで入ったら、これがSFもののアニメだった。びっくりしたけど、面白かったよ。今のアニメはすごいなあ。ずいぶんどろどろしていたけど。
本屋で『昭和の落語 名人列伝』、『文學界』を買って帰る。
夕食は刺身、おでんで酒。食後にアイリッシュウィスキーを飲む。

ちょっと前に撮ったススキ。
岡林信康の『26ばんめの秋』を思い出す。

どうしても、我が国の「将棋の殿様」の話になってしまう。
公金での支持者おもてなし(反社会的勢力付き)。
自ら身の潔白を証明するはずの証拠をことごとく破棄(探す気もなし)。
虚偽を含む滅茶苦茶な言い訳(聞かれたことに何も答えない対応付き)。
どう見ても詰んでいるのに、投了しない。追及する方を攻撃する輩がわらわらと湧いて出る。この国のリーダーが出鱈目なことをしているのに、「それのどこが悪い」と言い張る人たちを前にすると、果てしなく脱力してしまう。
よく見ておくことにするよ。そして、言いたいことは、(小っちゃな声だけど)言わせてもらうよ。

2019年11月29日金曜日

桂文楽、芸術祭賞受賞(昭和29年)

八代目桂文楽が初の芸術祭賞をもらった時のインタビュー記事を見つけた。
記録の意味も込めて、記事にしておく。
昭和29年(1954年)12月13日付の朝日新聞である。

「文楽の話術のおかげで、世の〝知識人〟といわれる連中が落語を鑑賞し、認識するようになった」という書き出し。当時、吉田茂、歌人の吉井勇、早大教授の暉峻康隆などという面々がこぞって文楽を讃え、それが文楽のブランドイメージを高めた。また、記事からも、余計なクスグリやギャグを入れず、いちいち説明しなくても噺の中に時代や情景がきちんと描写される「本当の落語」、「落語話術の最高」という評価が既に定着していたことが見て取れる。

戦時中の言論統制の時代が終わり、思う存分自分の芸ができるようになった。名人と言われた、五代目三遊亭圓生、四代目柳家小さんはもう亡く、八代目桂文治に往年の輝きはない。斯界きっての大物、五代目柳亭左楽も、この年、鬼籍に入った。加えて文楽は当時63歳、落語家として脂の乗り切った時期で、その迫力は他の追随を許さなかった。事実、八代目橘家圓蔵は「その時(昭和29年当時)の黒門町の芸はすごかったなんてもんじゃない」と言っている。彼が落語界のトップに君臨したのは当然だったと言っていい。

興味深いのは経歴。記事では「下谷根岸の花柳界の真ん中で生まれた江戸ッ子」とある。実際には父の任地、青森県五所川原で生まれている。母は江戸詰めの常陸国宍戸藩士の娘、婿養子に入った父は一橋家御典医の家の生まれ、両親ともに東京者で、文楽自身も3歳の時に東京に戻っているが、正確に言えば「青森県出身」である。後に自叙伝『あばらかべっそん』に書かれていることだが、この時点ではそういうことになっていたんだな。

「三木助、小さんなどと門外不出の研究会を作って〝死ぬまで修業〟を実践している」との記述もある。小さんは四代目の死後、預かり弟子として一門に入っている。三木助は春風亭柳橋門下だったが、文楽に憧れ、晩年、文楽門下に入った。他のメンバーは不明だが、いずれにしても弟子筋との勉強会をしていたのか。そういえば、文楽は新しい噺を高座にかける前は、弟子を集めて演じて見せたという。

一方で「余計なものをはぶきすぎて〝純文学のような落語〟という声もあり、それが欠点だとみるむきもある。」という指摘があり、文楽自身、「私の芸は今まで一つところばかりみがいてきたようなもの。これを機会に幅をひろげる勉強をしたい」と言っている。
その後、文楽はモデルチェンジすることもなく、確立されたスタイルにやがて体力がついて行かなくなり、絶句という「名人芸の崩壊」を迎えることになる。
八代目桂文楽の訃報が載るのは、17年後。この記事と同じ12月13日付であったことを思うと、感慨深いものがある。