ページビューの合計

2022年8月6日土曜日

勘十郎堀跡を巡る

私の通勤路の一部が、江戸時代作られた勘十郎堀に沿ったルートであることに、最近気づいた。

これを機に、勘十郎堀について少し調べてみる。

江戸時代、東北から来る物資は海路で太平洋側東沿岸を南下して来た。茨城県沖からは、那珂湊から涸沼川を経て涸沼に至り、現茨城町海老沢で荷揚げされ一旦陸路を使う。小美玉市下吉影の巴川で再び船に載せ、北浦から利根川、江戸川を通り江戸へ向かった(小美玉市小川の園部川から霞ケ浦へというルートもあった)。

一部陸路を通るということで、日数や労力がかかることから、涸沼湖畔の海老沢から巴川までの運河を作ることが切望された。水戸藩二代藩主光圀の頃、既に運河掘削の試みがあったという。

光圀は名君の誉れ高いが、一方で彼が情熱を傾けた「大日本史」編纂が水戸藩の財政を圧迫した。三代藩主綱條は通行税収を見込んで、涸沼湖畔海老沢から、現鉾田市紅葉の巴川に至る、約10㎞の運河掘削を許可する。工事責任者は美濃国出身の松波勘十郎を指名した。勘十郎は諸藩の財政立て直しに実績のある、今でいえば経営コンサルタントのようなことをやっていた。この運河掘削も勘十郎の進言によった。

当時は既に造船技術の発達から、銚子から利根川を通って江戸へ向かう、全て水路によるルートが確立され、それが主流になりつつあった。ただ銚子沖は難所でもあり、この運河ができれば安全な近道ができる。通行税による増収も充分見込まれた。

こうして宝永4年(1707年)5月に立ち木伐採、7月12日に、海老沢・紅葉間(紅葉運河)の掘削工事が始まった。並行して現大洗町大貫の涸沼川から海までショートカットする大貫運河の掘削も行われた。同年11月には工事の完成を感謝して、鹿島・香取の両神宮に銀5枚、大洗磯前神社、静神社、吉田神社に銀3枚が奉納された。12月には交通料金が決まり、工事責任者の松波勘十郎、腹心の清水仁衛門に対し表彰、昇進が行われた。

しかし、追々この一大事業が失敗だったことが明らかになってくる。

大貫運河は海口の砂が打ち込んで埋まり歩いて渡れてしまう有様。紅葉運河は冬場は凍って舟運には適さず、関東ローム層でもろい地質からのり面が崩れてしまうという欠陥があらわになった。

宝永5年(1708年)に復旧工事が始まるが、これも思うようにはいかない。前年から延べ130万人を動員し、しかも勘十郎はそれに対する賃金もろくに払わなかった。死傷者も続出。とうとう同年11月には松波への罷免要求が出る。翌月には領民代表が江戸へ押しかける騒ぎとなり、松波・清水は水戸を追放になる。宝永6年(1709年)、松波勘十郎は息子二人と江戸で捕縛され、水戸へ送られて赤沼の獄につながれた。翌年、二人の息子が相次いで獄死した後、11月19日、勘十郎は死んだ。

その後、宝暦5年(1755年)、水戸藩では富田村(行方市麻生)の勧農役、羽生惣右衛門に命じて工事を再開させるが、巴川との水位の差が大きく、ついに断念した。水戸藩悲願の運河掘削は、こうして実現することはなかったのである。


現在、残る運河跡を巡ってみた。

まずは涸沼湖畔、海老沢の集落。古い家並が味わい深い。



海老沢の南側は台地が続く。遠くに見えるのが涸沼。
こんなに高低差がある所で運河を掘り進めようとしたんだねえ。

茨城町城之内に残る勘十郎堀跡。





近くには工事による犠牲者を悼む供養塔がある。


田圃の向こうにも切り開いた跡がある。

さらに行くと、県道を挟んで堀の跡が残っている。




こちらは巴川との合流地点付近の鉾田市紅葉に残る勘十郎堀跡。



このため池から先は勘十郎堀の名残であろうか、用水路が巴川に続いている。



合流地点近くの巴川。北浦へと流れていく。

上流側。水源は笠間市(旧岩間町)の愛宕山。

下流側。やがて北浦へと注ぎ込む。

最後に大貫運河跡。

前方が涸沼川。


涸沼川との合流付近。

大貫運河は、現在ほとんどが埋め立てられ、宅地や道路になっている。船溜まりになっている所がその名残だ。


江戸時代とはいえ、ほぼ人力でこれほどの大工事が行われたことに驚く。しかも動員された延べ130万人の領民には、賃金すら支払われなかった。犠牲者も多かった。権力者にとっては領民の命など羽毛のように軽いものだったのだろう。

ひっそりと佇む供養塔には、「宝永六年」や「水戸領内城之内村」の字が見て取れる。



4 件のコメント:

quinquin さんのコメント...

松波勘十郎という人物は茨城の皆さんには馴染があるのでしょうか。私は千葉県人ですが全く知らず、網野善彦先生が、法政大総長だった田中優子先生との対談で語っているので知ったのですが。

「最後は水戸領の百姓の糾弾にあって殺されてしまうのですが、諸藩の財政改革のコンサルタントなんですよ。元禄から宝永の時期に、大和郡山藩の藩政改革を請け負ったかと思ったら、水戸藩の藩政改革を請け負っている。」と発言されています。林基さんの「松波勘十郎捜索」という書籍も紹介されていました。一体どんな人だったのでしょう。落語の話とは全然違いますが。

densuke さんのコメント...

松波勘十郎という人は、茨城県ではまあ評判は悪いでしょうね。特に勘十郎堀に動員された、現大洗町とか現茨城町の農民には恨みの対象でしかなかったと思いますよ。
諸藩ではそれなりに功績もあったようですが、水戸藩では千波湖の干拓を進言して藩の重臣から猛反対されました。勘十郎堀に関しては記事に示した通りです。
「松波勘十郎捜索」という本は、調べているとよく出てきます。機会があったら、読んでみたいですね。

moonpapa さんのコメント...

東京でも皇居(旧江戸城)から東の江戸川あたりまでは掘割等の水路が発達しましたね。今でも運河や暗渠等で名残を留めていますが、勘十郎堀はスケールが大きいですね。地質等で上手くいかなかったようですが、その教訓が史跡となって残されているのは大事だと思います。「もしも」があればですが、東京から利根川を越えて霞ヶ浦・涸沼そして水戸の方まで内陸に水路が出来ていたら、なかなか面白い地域が出来上がっていたのかもしれませんね。

densuke さんのコメント...

備前堀は千波湖から流れる桜川と涸沼川をつないでいますので、勘十郎堀ができれば、水戸から全て水路を使って江戸へ行けましたね。まあ備前堀は治水目的なので運河として使うつもりがあったかは、よく分かりませんが。
勘十郎堀については、地形を見るとけっこう厳しいと思いますよ。涸沼と巴川の間には台地が続くので、運河を掘るのは至難のわざでしょうね。松波勘十郎は自信満々で掘り始めたと思いますが、次第に「思っていたのと違う」となっていったのではないでしょうか。
勘十郎堀跡巡りという楽しみも増えましたね。是非、またこちらにお出で下さい。