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2021年7月3日土曜日

雨の土曜日

朝、パン、紅茶、ハムステーキ。

朝イチで床屋。雨が降っていたが、散歩がてら歩いて行く。


9時頃帰る。ビリー・ホリデイのレコードを聴きながら、図書館で借りた『青豆とうふ』を読む。和田誠と安西水丸とのリレーエッセイ。水丸の文章には和田が、和田の文章には水丸がイラストをつける。先々週に借りて、なかなか読む気分になれなかったのだが、すべり込みで読了。水丸は2014年、和田は2019年に亡くなった。イラストレーターでこの二人は私にとって今でも双璧である。 


長男と図書館に本を返しに行く。


昨日、大学時代の友人S君から作品集が届いた。S君とは同じゼミで、彼はゼミ長を務めていた。大学の頃は文学研究会に所属し、近年は北海道北見市で地元の文芸誌に小説を書いていた。添えられた手紙によると、宮仕えを辞めて執筆活動に専念するという。

今回の作品集では、その文芸誌『文芸北見』に掲載されたものがまとめられている。タイトルが『前奏曲(プレリュード)』だから、これから大いに書き続けるつもりなんだろう。読んだことのあるものが多かったが、まとめて読むと、なかなかいいぞ。

彼の小説の特徴は、怪談めいたエピソードが必ずといっていいほど挿入されることだ。それが本編の邪魔をするような時もあるのだが、今回読み直してみてちょっと考えを改めた。彼にとって怪談は、日常の裂け目からこぼれ出る死者との交歓であり、書かれなければならないものなのだ。それは彼の書き手としての業のようなものなのかもしれない。

私も大いに刺激を受けた。酒を酌み交わしながら、昔のように語り合いたくなった。


昼はスパゲティーを茹でて市販のソースを絡めたカルボナーラ。

ニュースで熱海の土石流の映像を見る。1ヶ月の雨量が1日で降るということが毎年のようにあり、毎年のようにどこかで災害が引き起こされる。胸が痛い。

夕食は伯母さんからいただいた鰻で鰻丼。ビール、酒。食後に妻と白ワイン。

寝しなにアイリッシュウィスキー。

2021年6月27日日曜日

雨はそれほど降らなかった

朝、パン、トマト煮、チキンナゲット。

妻とカメラのキタムラ。昔撮った8ミリビデオをDVDに焼いてもらうことにする。

昼はインスタントラーメン、函館塩。チャーシュー、メンマ、水菜入り。妻が作ったのは、普段私や子どもたちが作るのとビジュアルがちがうね。

長男と土浦の古本屋に行く。桂文楽『あばらかべっそん』旺文社文庫版、『昭和二十年東京地図』(文・西村一夫/写真・平島彰彦)ちくま文庫、それから先週保留にしておいた茨城県市町村資料の昭和56年度版を買う。





 昨日の天気予報では一日中雨だったのだが、結局降らなかったな。

妻と夕方、妻の実家からいただいたヱビスビールを飲む。

夕食は麩チャンプルー、ジャーマンポテト、きんぴらごぼうでビール、酒。食後に妻と赤ワイン。


昨日買った『「ことば」に殺される前に』(高橋源一郎・河出新書)を読了。

その中でアメリカの南北戦争において南軍の司令官ロバート・E・リー将軍についてのエドマンド・ウィルソンの考察が紹介されていた。以下に記す。

「誤てる祖国(故郷)は、全的敗北によってしか蘇らない。底の底まで敗れ尽くすまでには、惨苦を舐め、現実に気づくためには徹底的に戦うしかなかった。それができるのは狂信的愛国者で目が眩んだ軍人ではなく、その戦争の無意味さを誰よりの知っている自分だ、とリーは考えたのだ」

我が国も76年前に「全的敗北」を味わったはずだ。しかし今になって帝国の亡霊のようなものが出てきたということは、我が国は「底の底まで敗れ尽くす」ことができなかったのだろう。もちろんそれは戦闘においてではなく戦後処理においてなのだが。

2021年6月26日土曜日

梅雨の晴れ間

朝、さばトースト、コーンスープ。

朝イチで医者に行き血圧の薬を出してもらう。「基礎疾患があるからワクチン申請できますよ」と言われた。

次男と本屋。高橋源一郎の新書を買う。

昼は子どもたちが作ったナポリタン。

梅雨の晴れ間。ここで懸案の網戸の張替をやる。ミー太郎が開けた穴から虫が入るのだ。

『青菜』を稽古してみる。何とかできそう。

夕食はトマト煮、シューマイでビール、酒。

寝しなに焼酎。


桔梗が咲く。



 あじさいの次は桔梗、その次は百合か。


通勤で毎朝海を見る。海はいいなあ。雨もいいが、朝日にきらめく海はたまらない。こういう時は、ランボーの『永遠』という詩を口ずさむ。

「もう一度見つけたぞ 何を? 永遠を それは太陽に溶け合う海だ」

いいよね。

俵万智のこの短歌も好き。

「今日までに私がついた嘘なんてどうでもいいよというような海」


色々あるけど頑張ろう。

2021年6月25日金曜日

桂文楽と四代目小さんの妹

前回した四代目小さんの妹の話、もう少し続けてみる。

『あばらかべっそん』と宇野信夫の「桂文楽と塙保己一」を比較してみよう。

 

『あばらかべっそん』

〇1回目(戦前)

・場所:新宿の花園神社のすぐわき。

・きっかけ:四代目小さんに勧められて。

・お告げ:「あなたは病気だというが悪い所はひとつもない。これから多くの人を指導する立場になるだろう」「戦争はこれからひどくなるからこれこれこういうふうにしておけ」

最後に「両国橋の盲人が・・・」と繰り返すが、詳しいことは不明。

 

実は小さんは妹から「今年は落語界にとって大切な人が大変なことになる」と言われていたたので、当時、神経衰弱で苦しんでいた文楽のことだと思い、心配になって見てもらおうとした。

しかし、五代目圓生がその直後に死んで、小さんは「ああこれだったのか」と思う。

 

〇2回目(戦後)

・場所:高畑不動尊近く。

・きっかけ:四代目の未亡人がひょっこり文楽宅に訪ねて来たので、戦争で行方不明になった息子のことを見てもらいたいと申し出た。

・お告げ:「息子は金魚になっている」 

その後「両国橋の盲人が・・・」と言い出す。「これは塙保己一先生の霊である」

 

新宿末広亭の高座を務め神田立花へ車で向かおうとすると、同乗していた金原亭馬の助(当時はむかし家今松)が「その墓なら、生家の近くなので知っている」というので、後日、五代目小さん、馬の助などを連れて墓参りに行く。住職が系図を見せてくれたが、今の当主は小さんが軍隊にいた時の上官だった。

 

宇野信夫の「桂文楽と塙保己一」

〇1回目(戦前)

・場所:雑司ヶ谷

・きっかけ:戦地に赴いた息子のことを見てもらおうとして。

・お告げ:「もくずとでました」

 

お告げの半年後、息子が乗った船が撃沈され、全員が戦死を遂げたという知らせが届く。

 

〇2回目(戦後)

・場所:雑司ヶ谷

・きっかけ:文楽が胸を患い心細くなったから。

・お告げ:「塙保己一が出てきて桂文楽は大丈夫だと言っている」

 

新宿末広亭から上野に向かう車に同乗した金原亭馬の助が、子どもの頃、保己一の墓のそばにいて場所を知っているという。そこで上野の高座を務めた後、五代目小さんと馬の助を連れて墓参りをする。住職から過去帳を見せてもらうと、子孫は小さんが軍隊にいた頃の上官だったことが判明する。

 

『あばらかべっそん』は正岡容による聞き書き。1957年(昭和32年)の刊行。当時文楽は62歳だった。

「桂文楽と塙保己一」は『今はむかしの噺家のはなし』に収められている。1986年(昭和61年)刊だから文楽の死から約15年後である。この話は文楽が亡くなる10年ほど前に「ぜひ聞いてもらいたい話がある」と言って、宇野の家まで出向いてしたものだという。宇野もまた文楽から直に聞いたのだろう。それがどうしてこうも違うのか。

人の記憶は面白い。

2021年6月22日火曜日

桂文楽の息子

1969年(昭和44年)終戦記念日の朝日新聞に、戦時未帰還者の記事が載っている。この時点で、消息不明の未帰還者が2万2千人おり、そのうちの2千人の家族が「戦時死亡宣告」を拒んでいるという。

その中に、八代目桂文楽がいた。 記事の一部を引用する。


 あと継ぎの期待をかけた長男並河敏男さんが敗戦直前、大陸に渡ったまま、まだ帰らない。「ウチの坊主といっしょに遊んだお隣の坊ちゃんが立派な店主になられて、みかけるたびに思いますよ。あれも無事でいれば三十九歳。明るい子でした。踊りも三味線もスジがよくって、ひとかどの芸人にゃなれましたよ」と文楽師匠(七六)は東京・上野の自宅で、アルバムを手に語る。


文楽は長年連れ添った寿江夫人との間に子を生すことができなかった。親戚から養子をもらい後継ぎとしたのが、この敏男である。


 敏男さんは二十年七月初め、内地を離れた。十五歳だった。電波探知機関係の軍属を志願、採用されたのだ。門司港から船出する前、敏男さんから便りが届いた。なにがしかのお金が添えてあった。「うれしいのなんのって、初めて息子が送ってきた“おあし”でしょ。家中大騒ぎで、神だなにあげて・・・」。

 それきり消息は途絶えた。二十一年帰還した同僚の話では、敏男さんは、栄養失調のため、奉天駅から列車からおり、近くの病院に収容されたという。厚生省の調査では、この病院の退院者名簿に敏男さんの名がない。調査資料の最後のページに「死亡確実」の朱印がある。

 が、文楽さんは「最期をみとった人でも現れない限り」と、戦時死亡宣告の手続きを拒む。「坊主を親が殺せますか」。生きていると信じることが親の生きがいなのだという。


戦後24年経ったこの日も、文楽は敏男が技術者だったことで現地に残され「かみさんももらって、子どもでもつくって、親のあたしに顔向けができないってんで、手紙もよこさない」と半ば自分に強いるように信じていた。いや信じようとしていた。


文楽は戦後になって行者をしている四代目小さんの妹に見てもらった。すると彼女は神がかりになってこう言ったという。『あばらかべっそん』からその場面を引用する。


「息子さんのことは申し上げたくない。泡沫(うたかた)のようなもので、まだはっきりとはしないが—」

といっているうち、今度は倅の霊が来まして、

「いま私は金魚になっています。しかし幸せでいるから心配しないでください」

と奇妙なことを申しました。


宇野信夫は「塙保己一と桂文楽」という文章の中で、同じ場面を戦争中のこととしてこんな風に書いている。

 

 四代目小さんの妹が雑司ヶ谷で、戦前から拝み屋をして相当にさかっている。

 戦争中、文楽は見てもらったことがある。というのは、文楽の養子が、志願して出征した。安否を気づかっていると、誰かが、四代目小さんの妹の話をしてくれたので、雑司ヶ谷へ行ってみた。小さんの妹は、ややしばらく拝んだあと、

「もくず(※傍点あり)と出ました」という。

 もくず—もくずというのは、なんのことだろうと思っていると、やがて養子の船が沈没して戦死したという知らせがきた。成程、海の藻屑となり果てたのである。


『あばらかべっそん』の文楽の話とは、かなりの相違がある。時期も違うし、場所も違う(『あばらかべっそん』では戦前は新宿、戦後は高幡不動尊そばとしてある)。また、この話だと敏男の戦死公報が届いたことになって、先の新聞記事とは事実の根底が違っている。船が沈んだことも『あばらかべっそん』の中で「私の船は機雷にかかって沈みましたが、幸いにして私は助かりました」という手紙が来たと書いている。同じネタでこれほど違うのはなぜなんだろう。


文楽は最晩年になって敏男の名を自分の家の墓石に刻み供養をした。自らの死を覚悟してのものだったと思う。

あの新聞記事から2年後のことであった。

2021年6月19日土曜日

雨の土浦散歩

朝、御飯、味噌汁、ウィンナーソーセージ、スクランブルエッグ、納豆。

妻は仕事、次男は土曜授業。

長男と図書館に行き、そのまま土浦へ行く。

久し振りに古本屋に行く。まさに宝の山。大西信行『芸人もしくはエンターテイナー語録』『ガロ 荒木経惟特集号・1994年7月号』を買う。

雨の中、しばし土浦散歩。



昼は中城通り、吾妻庵総本店。もりそばの大盛を食べる。

長男はざるそば。


おっ、格子を新しくしましたな。

腹ごなしに駐車場までぶらぶら歩く。






モール505もちょっとだけ。



「半分、青い」って土浦でロケやっていたんだ。

妻と夕方ビール。

夕食はピザ、新じゃがの蒸かしたので白ワイン。食後は妻と赤ワイン。

寝しなに焼酎。

2021年6月15日火曜日

2010年7月の日暮里散歩

しばらく東京散歩もしていないなあ。

昔の写真を引っ張り出して懐かしむことにしよう。

2010年7月、日暮里駅で降りた。東口から歩き出す。

太田道灌公がお出迎え。
しいたけがあおり食らったような帽子を被っております。

 
駅前にあったイカすお店。

日暮里から根岸へ向かう。

日暮里エリアには韓国料理屋が多かった。


石野真子だよね。かわいい。
と思ったら、浅田美代子でした。

「東京ねじ会館」ですよ。

喫茶店のようです。

根岸柳通り交差点にある肉屋さん。

根岸の蕎麦屋さん。正蔵・三平兄弟の扇子。

竜泉にある朝日弁財天。

弁天様のお社は撮っていないけど、この建物には写欲がそそられたんだな。

これもその付近。このフォントに惚れた。

竜泉まで歩き、そろそろ上野に向かう。

入谷の辺り。
多分、この辺でカツカレー食ってビール飲んだんだ。

上野に出て、鈴本演芸場の昼席を見た。


これから東京もオリンピックや何やらで騒がしくなりそうだ。いつになったら落ち着いて街歩きが楽しめるのだろう。

 ※ ちなみにこの時のブログ記事はこちら。「日暮里を歩く」