長岡には二人の偉人がいる。河合継之助と山本五十六。
まずは山本五十六記念館に行く。
五十六の書簡や遺品を見ながら、彼の生涯をたどる。
圧巻は五十六が戦死した時に搭乗していた、海軍一式陸上攻撃機の左翼の実物展示だ。彼が座っていた座席も展示してある。昭和59年(1984年)山本五十六生誕百年を記念してブーゲンビル島のジャングルの中にある搭乗機の残骸前で慰霊祭が行われ、平成元年(1989年)より左翼一部がパプアニューギニア政府から貸与されている。
山本五十六は日米開戦には徹底的に反対の立場をとっていたが、開戦やむなしとなるや、真珠湾攻撃を企画立案、指揮を執って大戦果を挙げた。マレー沖海戦にも勝利をおさめ、日本軍の快進撃とともに、名将山本の名声はいやがうえにも盛り上がった。
しかし、開戦の半年後、ミッドウェー海戦で大敗を喫する。ガダルカナルでも苦戦を強いられ、形勢はみるみる傾いていく。
昭和18年(1943年)4月18日、五十六はブーゲンビル島、シュートランド島の前線基地の将兵をねぎらうため、ラバウルを飛び立つ。暗号電文を解読していた米軍はブーゲンビル島上空にP38、16機で待ち構え、山本機を撃墜。山本五十六暗殺に成功した。
最高司令長官が自ら前線に慰問に行くなど異例のことで、「山本は死に場所を探していたのではないか」との見方もある。
山本五十六戦死は国民に衝撃を与え、皇族・華族以外で初の国葬が営まれた。それはまるで五十六を楠木正成のような「軍神」に祭り上げたように見えた。
記念館を出て、近くの山本記念公園に行った。五十六の胸像が、静かにたたずんでいた。
昼食をはさんで、河合継之助記念館に行く。
しかし、長岡藩も時代のうねりに飲み込まれる。戊辰戦争が勃発。新政府軍は長岡藩に恭順を迫る。継之助は藩内の恭順論を抑え、あくまで不戦、自主独立を主張する。新政府軍との談判は決裂し、戦端は開かれた。当初、近代兵器と継之助の巧みな用兵とで長岡藩は健闘、互角の戦いとなった。その後、絶対的な兵力に勝る新政府軍が巻き返し、長岡城を占拠するに至る。継之助は敵の意表を突いて八丁沖という沼地を渡る作戦を敢行、長岡城を奪還する。だが、反撃もここまで。長岡城は落城、継之助は戦闘で重傷を負い、会津只見の地まで落ち延びて死んだ。
死後、長岡の地では河合継之助の評価は二分された。その人間性が賞賛される一方で、戦争責任者として糾弾する声もあり、継之助の墓は何度も倒されたという。
あくまで不戦を主張しながら、やむを得ず戦争となるや大いに暴れてみせた。しかし、その戦いの結果、藩が、国が亡びることとなった。そういう意味で、河合継之助と山本五十六は軌道を一にしたと言っていい。
五十六が生まれたのが、戊辰戦争の17年後。しかも彼が家督を継いだ山本家は、当主、帯刀が北越戊辰戦争で戦死し廃絶となった家である。彼が、自らを長岡藩士として、河合継之助の遺志を継ぐ者として意識しただろうということは、容易に想像できる。しかも、五十六が妻に迎えたのが会津藩士の娘だ。戊辰戦争で敗れた元奥羽越列藩同盟の藩士たちを新政府は冷遇した。薩長閥が支配する軍の中で、彼らは不屈の闘志を持ってのし上がろうとした。もちろん、山本五十六もその一人である。
昭和の戦争を主導した者には、東北地方にゆかりのある者が多い。東条英機、石原莞爾、板垣征四郎、米内光政等々。薩長が作り上げた大日本帝国を、奥羽越列藩同盟の子孫が滅ぼした、というのはいささか皮肉な見方だろうか。
山本五十六の死後、戦況の悪化とともに海軍は体当たり特攻へと傾斜してゆく。ブーゲンビル島上空で山本機とともに撃墜され生き残った五十六の側近宇垣纒は、菊水作戦最高指揮官として特攻命令を連発する。そして、昭和20年8月15日の玉音放送の後、宇垣は彗星11機を引き連れ特攻に出て沖縄県伊平屋島で死んだ。その時宇垣は、五十六の形見の短刀を持参していたという。
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