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2011年12月31日土曜日

大晦日


大晦日。
午前中から2台洗車。風もなく、陽射しもあたたかい。
昼はそば飯。
昼過ぎ、新しいパソコンが届く。無線LANでインターネットができる。
10年前、電話線につないでダイヤル回線接続だったことを思えば、驚異的な進歩だ。
夕食は一家6人で年越し蕎麦を食べる予定。
今年は色々あったなあ。来年はいい年になりますように。

2011年12月29日木曜日

本厚木のシロコロホルモン


本厚木のシロコロホルモン。
私はその存在を知らなかったが、岐阜T君がどうしてもというので。
以前二人で行っていた旅行も、大体T君が調べ、私が乗っかるという図式だった。
何でもB1グランプリで優勝したんだそうな。
白もつを筒切りにし、味噌ダレで漬ける。冷凍モノであってはいけないとのこと。これもT君調べによる情報である。
午後4時、入店。まだ外が明るいうちに飲み始めるってのはいいもんだ。
七輪に炭火。旨いねえ。すんごい柔らかい。ビールによく合う。
シロコロは1グループ1皿限定。冷凍モノではないからね。品数が限られるんだろう。
タン塩、カルビ、白もつ、ハラミとわしわしいく。お値段も手頃でした。満足満足。
その後、駅近くのチェーン居酒屋で2次会。芸術的に薄く切ったしめ鯖で酒を飲む。

2011年12月25日日曜日

メリークリスマス


イブは家族で作ったピザとカスミで買ってきたフライドチキンでロゼワイン。デザートに、やはり家族で作ったケーキ。旨し。
今日は、妻子を連れてイーアスつくばに行き、次男の誕生日プレゼントを買う。
いい天気。筑波山がきれいだ。
夕方、子どもたちが、プレゼントのゲームをやっている間、霞ヶ浦へ写真を撮りに行く。割と有名なポイント。私を入れて3人が写真を撮っていた。
日没後、けっこう暗くなるまで、夕闇に浮かぶ霞ヶ浦越しの筑波山を撮る。もはやシャッターを切らなくてもいいな。暫しその美しさに見とれた。寒かったけどね。
帰って、夕食はすき焼き。肉は豚肉を使う。私の小さい頃は、牛肉を食べる習慣はなかった。だから、私の家ではすき焼きは豚肉なのだ。妻も牛肉より臭味がなくていいと言う。(豚すき焼きは、嫁に来て初めて食べたらしい。)また旨し。
特にイベントらしいものはなかったけど、親子4人仲良く過ごせた、いいクリスマスでした。

2011年12月21日水曜日

写真が好き


実は写真が好きだ。
好きな写真家は、荒木経惟と木村伊兵衛。巨匠なのに軽いとこがいい。
昔、愛読していたマンガがあった。これは売れっ子の小説家でありエッセイストの主人公が、食や車に関する蘊蓄を語り、世相を斬るといった内容だ。
その中に、荒木経惟を戯画化したような写真家を登場させた回があった。その写真家は主人公氏の泊まっていた温泉宿で乱痴気騒ぎをして、主人公氏に一喝されるのだが、その時、彼は写真と絵画とを比較した芸術論をぶつのだね。主人公氏はこんなことを言った。「写真は誰にでも撮れるが、絵はその人だけのものだ。絵の方は芸術だが、写真は芸術とは言えない。」とね。
私はこれを読んで、さすがに底が浅いなと思った。
写真はそりゃ誰にでも撮れる。でもプロの撮った写真は誰にでも撮れるものではない。山岳写真家や動物写真家、戦場カメラマンのような写真を素人が撮れるか。その場に行く、その瞬間を捉えるといったところまでがプロの仕事なのだ。それは文字通り命がけの作業なのだ。そこまで日常と隔絶していなくても、何気ない風景やスナップでも、その切り取り方が違う。荒木や木村の町撮りを見ると、我々が見過ごしてしまう日常を、時に鋭く、時に優しくすくい上げている。彼らの眼は凄いな。モノを観るプロフェッショナルでなければ、写真家になることはできない。
あのマンガの主人公氏、つまり作者は、そこを分かっていない。要は底が浅いのである。写真というジャンルをひとくくりにし、それに全てをかけている人に対するリスペクトがない。そのマンガは、その後、「世相を斬る」というところが暴走し、およそ作品とはいえないものになってしまった。
写真は浅草の観音様の本堂の天井に描かれた仏画。荒木経惟がかつて撮ったものだ。艶っぽいね。荒木が撮ってくれなかったら、きっとその存在に気づかなかったよ。

2011年12月19日月曜日

K君を悼む


大学時代、同じクラスで同じゼミだったK君が亡くなったと、やはり同じクラスで同じゼミだった岐阜のT君が報せてくれた。亡くなったのは今年4月。喪中のための賀状欠礼葉書で知ったという。是非とも彼の家に弔問に伺いたいとのことだった。
色々調整した結果、岐阜のT君、クラスメイトの静岡のT君、私の3人で、神奈川県H市のK君の家を訪問することにした。
K君の家の最寄り駅まで電車で行き、車で来た両T君と合流、K君宅へ。K君の仏前にお線香を上げ、遺影を拝見する。学生時代よりは大分太っていたが、あの頃と同じような穏やかな笑みを浮かべている。
ご両親にお話を伺った。鬱病になって10年、2年間休職し退職したのが8年前。その後統合失調症と診断される。大量の薬を服用し、その副作用で身体に症状が出ると、それを抑えるためにさらに薬が処方されたという。さんざんに薬漬けにされ、臓器不全に陥っての最期だった。
聞いていて堪らなくなったな。
K君は大学では司書の資格を取っていた。本が好きで本に囲まれて生きたかったんだろう。しかし、K君は役所の窓口業務の仕事に就く。いささか浮世離れした大学の文学部という所と違って、実社会はきつい。部下を抱え、様々な人に対応しなければならないような状況が、K君にはしんどかったんだろう。彼はいい加減に手を抜くなんて事はできない人だったからなあ。
あの頃、K君はいつも静かに笑っていた。私たちの馬鹿話から少し離れた所で。でも、その笑顔はとても優しかったんだ。
就職後も、静岡T君はK君をテニスに誘ったりしてお互い行き来していたらしい。文学部仲間のM君はK君の薬の量に驚き、飲んでいいものと飲まなくていいものとに分類してあげていたという。
ご母堂の剥いてくださった柿を食べながら、そんなことを話し合った。
お墓が近いというのでお参りさせて頂く。ご両親と一緒にお墓に行く途中、家並みの隙間から、けっこう大きく富士山が見えた。真新しい墓石に向かって手を合わせる。我々の訪問を、ご両親が喜んでくださったのが、唯一の救いだった。
K君宅を辞し、岐阜T君が宿を取っている本厚木へ向かう。本厚木でシロコロホルモンをつつきながら昔話をし、K君を偲ぼうというのだ。
途中、車から富士を見た。K君の戒名に孤岳院とあったのが、その富士と重なる。これから富士を見たら、K君を思い出すことにするよ。大変だったな。安らかに眠ってくれ。K君のご冥福を祈る。

2011年12月15日木曜日

落研の係


落研では、入部すると係に振り分けられる。渉外、会計、広報、写真、OB図書の5つだ。これは別に希望を取るわけではなく、先輩が個々の適正を見て決めるのである。係は途中で変わることはない。
渉外は、対外交渉一般を担当する。発表会の会場や合宿の場所の選定及び予約、慰問の場所決め、発表会のビラ配りの許可申請など、実際の活動の根幹をなす仕事だ。この係をやった者は幹部になることが多い。実際うちの代では、八海君、悟空君がやって二人とも副代表になった。大福さんもこの係で次の代の代表だったな。
会計は、部の財布を一手に握る。堅実な人がここに当たる。うちの代は酒合丈君。彼は代表を務めた。
広報は所謂「寄席文字書き」だ。めくりやら看板やらをひたすらしこしこと書く。これは私がやった。うちの落研は寄席文字のレベルが高かった。2こ先輩の雀窓さん、1こ上の風神さんなんぞプロ級だったな。1つ下の、のん平君もそれに匹敵するくらい上手かった。その間に挟まれて、まあ私は至って凡庸でした。
写真は、イベントで写真を撮り、部員に販売する。発表会に出演者への写真皿や卒業記念のパネルなんてのも作ってた。これは夕姫さん、弥っ太君のゴールデンコンビ。シャッターを押す時の「はいチーズ」には癒されましたなあ。
OB図書はOB名簿の作成及びOBへの案内通知等OB関係の仕事、それに部室にある本やレコード、発表会を録音したテープの管理といったことを担当する。これは楓さん、世之助君。当時はガリ版でOB名簿を印刷してた。大変だったよねえ。世之助君は今も、いわばOB係だな。
こう考えると、見事に適材適所だった。入部してけっこうすぐに決められたけど、先輩方はよく見ていたんだなあと改めて思います。

写真は私たちの代の「3年の会」のパンフレット。寄席文字は私が書きました。改めて見ると、上手くないね。

2011年12月13日火曜日

鯉は旨し


この前鹿嶋に泊まった時、宴会は神宮の参道にある料理屋でやった。
その際、鯉のうま煮が出たのだが、若い人の中には初めて鯉を食べるという人もいて、ちょっと驚いた。
霞ヶ浦を抱えるこの茨城にあって、鯉はけっこうなご馳走なのだ。鯉ってそれほどポピュラーな食べ物ではなかったのかね。
ともかく、鯉のうま煮が出た。鯉を筒切りにして甘辛く煮たやつだ。旨かったねえ。家庭で作るより洗練されてる。川魚特有の臭みがまるでなかった。真子(卵巣)がまた旨い。これが入ってないと、ちょっと寂しいんだよなあ。
ただ気をつけなきゃいけないのは、この魚、骨が多い。しかも、その骨が鋭く二股になっていて、喉にでも刺さった日にゃ堪ったもんじゃない。まあ、骨のあるところは決まっている。特に背中に小骨が多いので、そこさえ気をつければ大丈夫だ。
落語にもいくつか鯉料理が登場する。
まずは『青菜』の鯉の洗い。植木屋さんがご隠居さんに勧められて、柳影を飲みながら洗いを食べる場面が、この噺のハイライトである。鯉の身を薄く切って、水で締めて氷の上に載せる。これがこりこりと身が引き締まってもう絶品。こいつをうちの方では酢味噌でいただく。生姜醤油でもいいけどね。噺の中で植木屋さんはどっちで食べたんだろう。
それから、八代目桂文楽が『締め込み』や『やかん泥』の枕でやっていた泥棒の小咄。料理屋に強盗が入るやつだ。泥棒先生、仕事を済ませた後で、「腹が減ったから飯を食わせろ」と主に言いつけ、たらふく食うのが、鯉の洗いに鯉こくである。鯉こくというのは鯉を筒切りにして煮込んだ味噌汁。これはあまり食べたことない。昔、米沢で鯉こくの缶詰を買って食べたっきりだ。うちの母親は作ったことがなかったなあ。
『二十四孝』では、八五郎がおっ母さんに鯉を食わせようとする場面がある。おっ母さんは、にべもなく「川魚は泥臭くって嫌いだよ」と言うんだけど、実はうちの母も妻も鯉は苦手。父も二人の息子も私も大好物なのに。我が家では、はっきりと男女で好き嫌いが別れてる。鯉って男の味なのかねえ。

写真は鹿島神宮参道、宴会をやった店の近くにある蕎麦屋さん。こっちもなかなか渋い造りだねえ。

2011年12月10日土曜日

Iさんを囲む会


先日、「Iさんを囲む会」というのに行ってきた。
Iさんは長野県の生まれ。東京の大学で社会教育に関心を持たれ、合併前のうちの村役場に就職。長いこと社会教育主事を務めていた。その後、村の総合文化センターの設立に尽力され、定年までの5年間は文化センターの館長となられた。村史の編纂や村内の野仏に関する本をまとめるなど、多方面に活躍されている。
この度、50年振りに故郷長野県へお戻りになるという。そこで、この会が開かれることとなったわけである。
私は高校の頃、高校生会活動をしており、当時社会教育主事をされていたIさんに大変お世話になった。この会は、同じ高校生会仲間の盟友S君から誘って貰った。
質疑応答を入れて2時間45分。熱心にこの地区のことを語ってくださった。
戦後からの青年団活動等の社会教育活動の流れ。総合文化センター設立の経緯。センターや地区の活動の今後のあり方。役場の職員から紹介されたIさんのエピソード。どれもIさんの誠実な人柄がにじみ出ていた。集まった人たちのIさんに対する敬愛の情も感じられた。いい会だったな。
帰り際、ちょっとIさんと話ができた。Iさんの方から「久し振りだなあ」と声を掛けてくださった。ちゃんと話をするのは、30年振りぐらい。覚えていてくださったんだ。
Iさん長い間ありがとうございました。
S君、誘ってくれてありがとう。いい機会を貰えた。そうだよな、自分が生活している土地、直接関わることのできる人との繋がりを大切にしなきゃな。それを再認識できたよ。

写真はこの間蕎麦打ちをした古民家。これもIさんが関わった仕事の一つだ。

2011年12月6日火曜日

『鼠穴』について語ろう②

高校の時、ラジオで三遊亭圓生の『鼠穴』を聴いた。これはカセットテープに残してある。
50分に及ぶ大作だった。登場人物は田舎者だが、江戸情緒溢れる華麗なものだった。
枕では江戸名物から火事の話題を振る。竜吐水という江戸時代の消防ポンプを紹介、その水が出る様子を描写し、絶妙の間で「えいやあぁぁ、ぴゅっ、ぴゅって…、テヘッ、こんなんで、貴方(ああた)火が消(け)えるわけがない。」と言って爆笑を誘う。
話の途中でも「夢は五臓の疲れ」を仕込むのに自分の見た夢の話を挿入。マリリン・モンローと同衾し、「さあと思って抱きすくめようとするが手が回らない。よく見ると、これが高見山だったという…。」これもやたら可笑しかった。圓生の噺には、こうした茶目っ気が、よく顔を出す。
談志の『鼠穴』はもっと引き締まった構成だ。金を巡る兄弟の葛藤に、より焦点が絞られている。
兄は徹底したリアリストである。最初に三文しか貸さないのも、弟の状況を冷静に判断した末のものだ。夢の中とはいえ、三度目の対面では、「落ち目のお前にとても50両は出せない」と突っぱねる。弟へ金を貸すのも投資なのである。夢とはいえ、実際にそんなことを言い出しかねない雰囲気が、この兄にはある。一方、弟はロマンチストだな。肉親の愛を信じずにいられない。
このリアリストとロマンチストの相克が、あの夢の中の対決だ。この場面の談志の迫力は凄い。聴く者を圧倒する。感情が奔流のようにほとばしる。金を巡って兄弟の業と業がぶつかり合う。
そして、リアリストもロマンチストもどちらも談志なのだと思う。彼の金銭感覚にはそんな両極端な所があるような気がする。そういえば、談志の得意な『芝浜』『黄金餅』『文七元結』なんかは、どれも金が絡む噺だな。
この文を書くのに、プレミアムベストCDを聴いてみた。平成5年10月の「にっかん飛切落語会」での録音である。ふと、後半の田舎言葉の訛りが薄くなっているのに気づく。談志の演出は乱暴に見えて実は緻密だ。文楽を満足させる程の演じ分けかどうかは私には分からない。ただ意識的な演出なのだとは思う。
サゲの後、将棋の感想戦のような案配で観客に話しかけている部分も収録されていた。
あの初めて観た池袋演芸場、談志はサゲの後、高座から客席に下りて暫し客と話し込んだ。そんなことをやる落語家を初めて見た。今なら、談志はそういうことやるんだよな、ということを知っているけど、当時はびっくりした。噺にも感動したけど、この場面にも私は感動した。あの『鼠穴』が私の大学での落語生活を方向付けたのだ。
上手くまとめることはできなかったが、思い出の噺についてあれこれと書いてみたかった。ご容赦願いたい。ちなみに私は『鼠穴』を持ちネタにすることはなかった。

2011年12月3日土曜日

蕎麦打ちをやった


子ども会の行事で蕎麦打ちをやる。
会場は市で保存してある古民家。ここに大人も入れて30人ほどが集まる。
私自身、蕎麦打ちは15年振りぐらいかなあ。職場の旅行で北茨城へ行ったとき、「蕎麦打ち道場」でやったことがある。
今日は地元の蕎麦打ちクラブの方々に指導して頂く。
いやあ子どもが20人も集まると、まとめるのは難しい。あっちこっちで揉め事が起きる。その中をかいくぐっての蕎麦打ちだ。
クラブの方の丁寧なご指導で、どうやら蕎麦が出来上がる。
きしめんのような太い蕎麦もあったが、自分たちで作ったものは、やはり美味しい。
皆、あっという間に完食でした。
子ども会の役員をやっている妻は、あっちこっちを飛び回っておりました。何とか今年最後の行事も終わり、一安心といったところ。妻は疲れたと言って早々と寝てしまった。お疲れ様、よく頑張っていたよ。今夜はゆっくり休んでください。

2011年11月29日火曜日

『鼠穴』について語ろう①

昨夜、録画していた立川談志のドキュメンタリー番組を観ていたら、爆笑問題の太田光が自分たちのライブに談志を招き落語を演ってもらった場面が出てきた。太田がリクエストした噺は『鼠穴』。いいよな、談志の『鼠穴』。初めて私が池袋の主任をとった談志を聴いたのが、この『鼠穴』だ。あらすじは次の通り。

父親の遺産を半分に分けた兄弟。兄は江戸へ出て商売で成功する。弟は田舎に残るが、遊びを覚え遺産を食い潰す。どうしようもなくなって江戸へ出て、兄に「店で雇って欲しい」と頼むが、兄からは「元手を貸すから自分で商売を始めろ」と勧められる。金包み開けて中を見ると入っていたのはわずか三文。弟は憤るが一念発起。ここから身を起こし、粉骨砕身働いて、やがて深川蛤町に蔵が三つもある店の主人となる。ある冬の晩、弟はかつて借りた元手を返しに兄の店を訪れる。ここで兄の真意を知り兄弟は和解。酒を酌み交わす。蔵に鼠穴があることから、火事を心配し帰ろうとする弟を、兄は「もし焼けたら俺の身代をやる」とまで言って引き留める。その夜は兄弟仲良く枕を並べて寝た。夜中、果たして深川で火事が起きる。蔵の鼠穴から火が入り、店は丸焼け。弟は零落する。尾羽うち枯らし、弟は兄のもとに行き商売の元手を借りようとするが、思うような金は出せないと突っぱねられる。やむをえず娘を吉原に売って、やっと手に入れた金を帰り道にすられ、絶望して首をくくって死のうとしたところで目が覚めた。火事以降は夢だったのだ。サゲは夢オチの定番「夢は五臓の疲れ」の地口で「夢は土蔵の疲れだ」である。

この噺について八代目桂文楽は、「最初に兄弟が話すところ、弟は田舎から出てきたばかりだから、本当の田舎言葉。兄貴の方は江戸に出てしばらく経っているから、少し薄れた田舎言葉。二度目は弟の方も純粋な田舎言葉ではなくなってきているし、兄貴の方はさらに田舎言葉は薄れているはず。その演じ分けをしなきゃならない。こんな難しい噺はとてもできない。」と言っている。
かつて落語はこのように聴かれたのだろう。職人は職人らしく武士は武士らしく、商人も大店の主人から番頭、棒手振りに至るまで、きれいに演じ分ける。それを見事だと見分けられる観客が存在したのだ。
志賀直哉は太宰治の『斜陽』を読んで、「貴族はこんな言葉遣いはしないよ」と言った。それを伝え聞いた太宰は荒れ狂い『如是我聞』というエッセイを書いて志賀を攻撃した。本物の上流階級である志賀に、地方の新興資産家の家に生まれた太宰が痛いところを突かれたといったところか。
しかし、本物の貴族言葉ではない『斜陽』は、没落する貴族階級の悲哀を余すところなく描き、本物の貴族言葉を知らない戦後の読者に圧倒的な支持を受ける。
談志の『鼠穴』も、文楽に言わせれば、肝心の描き分けはできていないのかも知れない。でも、私は(そしてきっと太田光も)この談志の『鼠穴』にやられたのだ。三遊亭圓生のような華麗な『鼠穴』ではない。これは生の人間の業がぶつかり合う『鼠穴』である。
私にとっては桂文楽の『締め込み』に匹敵する、思い出の演目だ。次回、もう少し詳しく書いてみようと思う。

2011年11月27日日曜日

この週末


この週末。
土曜の朝は水戸で迎えた。金曜の晩、飲み会があってステーションホテルに泊まったのだ。
朝食のオムレツが絶妙。ネットの口コミでも褒めていたが、評判通りの旨さだったね。
夕方から妻子を連れて、つくばに行く。夕食はQ‘tの3階でオムライス。夕食後、イルミネーションを見る。「がんばろう日本」。今年はそうだよな。
日曜は妻子を連れて日立シビックセンター科学館へ。初めて行ったけど、充実してるなあ。
イライラ棒やお絵かきロボット、その他多数のアトラクションが、ほとんど待ち時間なし。子どもたちは、もう大喜びで遊んでた。うちの子は二人とも理系だな。おかしいな、両親共に国文科出身なのに。
帰りは日立の海を見ながら、一般道でのんびりとドライブ。先週は2日とも仕事だったからなあ。今週は子どもたちといっぱい遊べてよかったよ。

2011年11月23日水曜日

立川談志死す


立川談志死す。まさに巨星墜つ、である。
今日は一日休みで、子どもたちとキャッチボールをし、白帆の湯に行ってゆっくり温泉につかり、家に帰ってクリスマスツリーを出し、今日はいい一日だったなあと晩飯前にテレビを見ていたら、このニュースが速報で流れてきた。
ここのところの談志の衰えようを見て、ある程度覚悟はしていた。
ああ、そうか、とうとうこの日が来たんだなあ。
以前このブログで「立川談志考」という文章を書いているので、ここで彼について長々と書くつもりはない。ただ、立川談志という人は、私の青春時代を強烈に彩った落語家であった、かつて落語の演者のはしくれだった私に圧倒的な影響を与えた落語家であった、ということだけは言っておきたい。
たくさんの人が、この稀代の天才の死を悼み彼について語るだろう。
しかし、談志が先代林家三平を、先代金原亭馬生を、古今亭志ん朝を悼んだように、彼を悼んでくれる者は、多分いない。あれもまた名人芸であった。
亡くなったのは21日だったか。志ん朝の死から10年。それからの談志は、何だか色んな事に絶望していったように思える。
走って走って走り抜いた75年の生涯だったのではないか。ご冥福を祈る。立川談志と同時代に生きたことを、私は誇りに思います。

2011年11月21日月曜日

蟹を食う


八海君から送ってもらった蟹を家族でありがたくいただく。
花咲蟹が2杯。北海道では、毛蟹、タラバ、花咲が御三家だが、私は花咲がいちばん好き。
毛蟹の繊細な味はそりゃあいいけど、花咲蟹は肉に甘味があっていい。これぞ根室の味なんだな。
八海君の地元ということもあるが、私は北海道では根室がいちばん好き。
特に、釧路から根室への列車の旅が忘れられない。北海道にはどちらかというと、どこまでも続く広大な大地というイメージがあるが、この路線は釧路湿原があり、厚岸の海があり、日本でいちばん朝日が近い地、根室へと至る、実にバリエーションに富んだ風景が楽しめる。釧路駅で買った、駅弁の蟹飯も旨かった。あまりポピュラーでないせいか、パック旅行にもなっていないので、なかなか気軽に行けないのが残念。でも、いいよお、道東。
蟹はね、もう子どもたちが大喜びで食べた。じいちゃん、ばあちゃんも一緒で楽しかったみたい。あっというまに完食。旨かったねえ。
大人は真壁の地酒を飲む。これも旨かったな。どっしりとした米の味、爽やかな香りが素晴らしい。瓶にラベルが貼っていなかったので、どんな酒か詳しくは知らないけどね。
ここのところ忙しくて帰りも遅く、晩飯も一人の時が多かったけど、皆で食べる楽しさを久々に味わえました。八海君、改めてありがとう。

2011年11月20日日曜日

八海君ありがとう


この土日は両方とも仕事。
今日の朝食は、妻のママ友からいただいた煮卵を、ご飯の上で割り、煮汁をかけて食べる。半熟の具合が絶妙。とろとろで旨い。
仕事から帰ると、北海道の八海君から、蟹、イカ、ホッケ、鮭などの海産物がどさっと届いていた。毎年すまないねえ。
早速、夕食にホッケを焼いて食べる。肉厚で旨い。燗酒によく合うぞ。
八海君にお礼の電話をする。久々に話ができて楽しかった。
子どもたちを寝かしつけてから、ジョニーウォーカー赤ラベルを飲む。これは、昔、酒合丈君と二人で飲み明かした時の酒だ。夏休みにOBの落語会の手伝いをした後、方南町の彼の家のキッチンで飲んだ。口に含むと、あの時聞いた夜明けの鳥のさえずりを思い出す。
写真は、この間OB会で行った時ぶらついた歌舞伎町。この辺りは八海君や酒合丈君など落研の仲間とよく歩いたもんだよ。

2011年11月15日火曜日

土浦「飯田屋」


この間、土浦で仕事があったついでに、モール505の辺りを歩いた。
ここでのお気に入りは「飯田屋」。よく写真に撮ったものだ。
震災の影響が心配だったが、果たして無惨なものだったな。
ガラスは割れてベニヤ板で打ち付けてあり、立ち入り禁止の貼り紙があった。
いずれ取り壊しになるんだろう。寂しいけど、仕方がないか。本当にこの震災は、色んなものを奪っていくなあ。じわじわとそれに気づかされるよ。

2011年11月12日土曜日

その昔「安芸」という居酒屋があった

小田急線、和泉多摩川の近くに「安芸」という居酒屋があった。
桂小文治さんが学生の頃、アパートに遊びに行くと、決まってこの店に連れて行ってくれた。小文治さんが卒業した後も、私たちはここに足繁く通ったものだった。
暖簾をくぐると、手前が居酒屋、奥がスナックという変わった造りだった。手前の居酒屋と、奥のスナックに、それぞれおばちゃんがいて、この二人の仲が頗る悪かった。二人ともいつも酔っぱらっていて、よく喧嘩をしていた。
大して食べ物が旨かったわけでもない。焼き鳥の焼き加減はいつもまちまちだったし、おでんはいつ入れたか分からないぐらい黒っぽい色をしていた。酒は広島の「千福」。お燗を頼むと、いつもやたら熱かったような気がする。
私たちは、いつも座敷に上がって、おでんと焼き鳥をつまみに、やたら熱い燗酒を飲みながら、くだらない話で盛り上がっていた。
客層はほとんどが中高年で、学生は我々ぐらいだった。一度、私たちに説教してきたおじさんを取り巻いて、結局奢ってもらったばかりか、一人1000円ずつ小遣いを貰った。飲みに行って黒字になったのは、後にも先にもこの時だけだった。
そのうち、おばちゃんの酔い方が、尋常ではなくなってきた。小文治さんに連れて行ってもらった頃は、酔ってはいたが、勘定はしっかりしていた。ところが、その後、勘定も滅茶苦茶になっていった。馬鹿に安い時もあれば、ちょっと高い時もある。そんなに馬鹿高いことはなかったが、会計の時はちょっとしたスリルを味わった。安い時は、帰りの夜道ではガッツポーズをし、高い時は「今日は外したな」と反省しながら歩いた。
二人のおばちゃん同士の喧嘩も、常態化してきた。怒号、罵声の飛び交う場所で酒を飲むのは、あまり心地よいものではなかった。
ある時、ひどい喧嘩があって、さすがに私たちもあきれて早々と帰ったことがあった。しばらく足が遠のいていたが、「そろそろ大丈夫だろう。行ってみるか。」という話になった。店に近づくにつれて、何やら人の声が聞こえてくる。店の前に立つと、明らかに中は派手な喧嘩の真っ最中だった。「こりゃ駄目だ。」と私たちは引き返した。
その後、もう一度行ってみると、もう「安芸」という名前の店はなくなっていた。ああいう店だったが、私たちはその時、深い喪失感を味わった。何だかんだ言って、私が初めての馴染みになった飲み屋だ。ここで私は酒の味を覚え、人生の機微をちょっとだけだが、味わうことができたのだった。

2011年11月10日木曜日

夏目漱石『門』

漱石の作品の中で、私がいちばん好きなのが、この『門』だ。高校の時、模試の問題文で出た、「彼は門を通る人ではなかった。また門を通らないですむ人でもなかった。要するに、彼は門の下に立ちすくんで、日の暮れるのを待つべき不幸な人であった。」という文章に強く惹かれた。それから、何度か読んだが、その度に違った感動を与えてくれる。
崖下の家でひっそりと暮らす夫婦の話。
親友の妻を奪う形で結婚した宗助とお米。そのために二人は世間から指弾され、宗助は大学を中退、エリートコースから転落、何とか官吏の職を得、社会の片隅でひそやかに生きることになる。
二人の罪の意識が切ない。特にお米の三度の妊娠が、流産、死産など、ことごとく悲劇的な結末に終わったのを、「人の恨みによる呪いのため、一生子どもはできない」と易者に断じられる場面などはたまらないな。結婚して子どもができた立場で読むと、それがいかに残酷であるかが分かる。
ひょんなことから崖上の家主と交流が生まれ、やがて、家主の弟が、お米の前夫安井と知り合いであることが判明する。いつ何時、安井が宗助夫妻の前に姿を現すか分からない状況に、宗助は動揺する。彼はその苦境から救われようと、参禅による悟りを求めた。
鎌倉の禅寺を紹介され、修行に取り組むが、結局悟りは得られない。信仰は宗助を救ってはくれなかったのだ。
三角関係、伯父に父の遺産を使い込まれるといったエピソードなど、後の『こころ』を思わせる内容である。しかし、『こころ』よりも救いがあるな。
お米さんが可愛らしい。逆境にありながらも二人が深く愛し合い、支え合う姿が健気だ。
どうにか危機は去り、夫婦には、つかの間の平安が訪れる。「ほんとうにありがたいわね。ようやくのこと春になって」と言うお米に、宗助は答える。「うん、しかしまたじき冬が来るよ」
『こころ』を知っている私は思う。宗助、死ぬな、お米さんと二人きりでいい、寄り添って生きてくれ。

2011年11月6日日曜日

鹿嶋に泊まる


仕事で鹿嶋に泊まる。
昨日は、仕事の打ち上げの宴会まで、少し時間が余ったので、鹿島神宮にお参り。
神宮は久し振り。大鳥居がない。震災で倒壊してしまったのだ。
そこそこの人出。そうか、世間は休みだったのだなあ。
拝殿では結婚式をやっていた。いいねえ。
さらに奥の方にぶらぶら歩く。深閑とした森。背筋が伸びる。
奥の院にお参りし、要石を見る。パワースポットらしい厳粛な感じ。
いい空気を肺いっぱいに吸う。
連日の宴会なので、1次会で上がり、予約していたビジネスホテルへ。缶チューハイを半分だけ飲んで、早々と寝る。
年取ったせいか、無理もしなくなったなあ。

2011年11月2日水曜日

幻の噺家 三遊亭圓弥

現在、三遊亭には、いくつかの系統がある。
芸術協会では、圓馬系と圓遊系。落語協会では圓歌系と金馬系。
もちろん、本流は圓生系である。当然、圓楽党がその主流派であるべきはずなのだが、六代目圓生の死後、先代圓楽は「三遊協会」を名乗ることを許されなかった。とすれば、圓楽党を本流とは言い難い。
先代圓楽と袂を分かった圓生の直弟子たちは、落語協会に復帰する。その際、彼らは三遊亭圓弥を中心に三遊亭一門としてまとまってやっていこうと決めた。だが、落語協会は彼らの香板順を下げた上、協会預かりという処置を下す。こうして、三遊亭本流はずたずたに分断された。
私が初めて圓弥を知ったのは、分裂騒動の前、NHKの「お好み演芸会」の大喜利コーナー「はなしか横町」のメンバーとしてだった。キャッチフレーズは「幻の噺家」。容貌も地味だったが、存在も地味だった印象がある。
地味ではあったが、お囃子の名手(『寄席囃子』というCDでは太鼓を担当した。)、踊りの名手(藤間流の名取り。住吉踊りでは座長の志ん朝を支える存在だった。)、芝居通として知られていた。諸事芸事に通じ、かちっとした楷書の芸を聴かせる、本格派の名に恥じない落語家だった。
寄席では『肝つぶし』とか『掛け取り』なんかを聴いたなあ。どっしりとした安定感が漂う高座だった。女は強いという枕で、男は虫を殺すのにためらいがあるが、女は「すぐ殺して」と当たり前のように言う、と言っているのを聞いて、この人は細やかな観察眼を持っているなあと思ったものだ。
入門したのは八代目春風亭柳枝。それだけに、長い間空席になっている柳枝襲名を期待させた。圓弥をおいて他に適任者は見あたらなかった。
しかし、彼は三遊亭圓弥という、さほど大きくもない名前を、生涯名乗り続けた。柳枝の遺族からの過重な条件を飲めなかったという話はある。
だけど、圓弥は、柳枝という柳派の大看板を襲名するより、三遊亭であり続けることを選んだのではないかと私は思う。彼は晩年、出囃子を「正札附」に変えた。言わずと知れた、師圓生の出囃子である。我こそが三遊亭本流であるという自負がにじむ。
余談だが、圓生は落語協会脱退について圓楽と協議したが、弟子たちに対しては秘密裡に話を進めた。志を事前に明かしたのは、圓窓と圓弥のみ。事の是非はともかく、芸至上主義の圓生が弟子の中で認めたのは、この3人であったと言っていい。
2006年4月29日、三遊亭圓弥死す。享年69歳。肝臓癌がこの三遊亭の支柱を奪っていった。

2011年10月30日日曜日

土浦の散歩


土浦を歩くのも好きだ。
前にも書いたが、いつも町かど蔵の駐車場に車を止めてほっつき歩く。
やはり中城通りが中心になるな。吾妻庵や矢口酒店など好きな建物が多い。
それから足を伸ばすとなると、いくつかポイントがある。
モール505から駅前の方へ行ってもいいし、桜町界隈を歩くのもいい。亀城公園も近くていいな。
だいたい隙間の時間をねらって歩くので、時間はせいぜい1時間。気分によってコースを選ぶ。
余裕があれば、亀城公園近くの古本屋で本を買って、喫茶店「蔵」でコーヒーを飲んで帰る。
写真は中城通り入り口の「ほたて食堂」。古い天ぷら屋さんだ。気取りのない天丼が旨い。好きな建物で、散歩の時は、必ずと言っていいほどカメラを向けてしまうのだ。

2011年10月28日金曜日

石岡「四季」


カメラをぶら下げて散歩するのが好きだ。
特に古い町並みを見て歩くのがいい。
この辺りなら、石岡とか土浦。東京に出るなら、上野、浅草、谷中といった所がお気に入り。
歩き疲れたら、ふらりと入った本屋で古い小説の文庫本を買い、喫茶店でコーヒーを飲みながら読む。昼時なら、蕎麦屋もいいなあ。
写真は石岡の喫茶店「四季」。しぶい店構えだよね。確か市の文化財に指定されたんじゃないかな。
ここでドライカレー食いながら、おばちゃんと常連さんの会話を聞くともなく聞いていたのだが、「この辺、夜は人通りがなくなっちゃって、怖くて早めに店閉めちゃうのよ。」なんて言ってたなあ。

2011年10月25日火曜日

「楼外楼」のランチ


もう大分前のことになったが、妻を病院に送っていった帰り、つくばの楼外楼で昼飯を食べた。
バイキングランチ。980円だったかなあ。ハーフサイズの一品料理に、チャーハン、唐揚げ、サラダ、春巻き、シューマイ、オードブルなんかが食い放題。お得だよねえ。私はこの時、一品料理は五目焼きそばを選びました。旨かったよ。
ただねえ、一人でバイキングってのも寂しかった。今度は、皆でわいわい言いながら食べましょうや。
ちなみに楼外楼はジャスミンティーがポットで出てくる。これが旨いの。嬉しいサービスですな。

2011年10月23日日曜日

OB会に行ってきた


週末は、落研のOB会があったので、新宿へ行った。
例によって、早めに行き、ぶらぶらする。
新宿は本当に久し振り。なかなか山手線のこっち側には来ないもんなあ。
まずは歌舞伎町。この辺に「庄助」があったなあ、とか、この辺に「五十番」があったなあとか思いながら歩く。もちろん今はない。「庄助」は味噌ダレをつけた焼き鳥が旨かった。「五十番」はキムチが食い放題だった。昔は本当によく行ったのに、あっけなくなくなっちゃうんだなあ。
かつての歌舞伎町の象徴、コマ劇場が取り壊しの真っ最中。噴水もなくなってた。随分時が経ったのね。
しばらくほっつき回って、3丁目方面へ。末廣亭の前まで行く。昼席の主任を観るまでの時間はない。写真を撮るだけにする。寄席見物も、上野が中心になった。せいぜい池袋まで。新宿まで来ると帰りが心配なので、10年以上も末廣亭には入っていない。いつか泊まりで来たいものだ。
御苑の辺りまで行って、また戻る。三越裏のローレルという喫茶店で休憩。コーヒーを飲みながら、漱石の『門』を読む。
三越のジュンク堂で時間を潰して、いよいよOB会へ。
今回は盛況で、参加者が30人ほど。創設者を始め、ほとんどが10歳以上も年上の大先輩方である。ただ同輩の世之助がいるので心強い。2つ上の梅之助さん圓漫さんも来てくださった。
うちの落研出身の落語家、桂小文治師匠、立川談修さんも交えての大宴会。初代風柳さんの名幹事で、楽しい時を過ごせました。いやあ、50なんて洟垂れ小僧です。
でも、先輩方の、「人形町末廣が潰れるというので観に行ったよ。その時は文楽が出てた。主任は圓生で『文七元結』を聴いたよ。」なんて話を伺って、痺れました。
濃密な時間だったなあ。落研やってよかった。初代さん、世之助君、色々お気遣いいただき、ありがとうございました。また参加させていただきます。

2011年10月19日水曜日

前座の噺

うちの落研は、前座・二つ目・真打ちの階級制度が、はっきりと確立されていた。
前座の時は、噺を先輩から口移しで教えてもらう。
落研によっては、最初から録音で好きな噺を覚えていいというところもあったが、うちはその点では極めて保守的であった。
最初は『一分線香即席噺』。
私たちの代は、二代目紫雀さんから教わった。「雷は怖いね。」「なる(鳴る)ほど。」、「隣の空き地に囲いができたってね。」「へー」という一分線香即席噺に花見の小咄をくっつけたやつ。これを稽古して春合宿で発表する。「雷」と「へー」の間に、オリジナルを入れて演る。合宿の時は部屋の先輩が考えてくれる。
こういう場合、大体、シリーズものになるね。公園シリーズで、「井の頭公園でデートしない?」「いーのかしら。」とか、ブルース・リーシリーズで、「ブルース・リーさん包丁取ってください。」「ほちょーっ」とか、薬シリーズで、「薬屋の親父が子どもに小便させているよ。」「はいちおーるしー。」とかあったねえ。私の場合は、当時のアイドルが歌った楽曲シリーズだった。「この五十嵐ゆきのレコードどうする?」「わーる、割る。」(元ネタは『悪』です。)とか、「君、中華街で包茎手術したんだって?」「チャイナタウンで皮剥いて(振り向いて)。」(下ネタかっ)なんてのをやらされた。
この噺で、校内寄席の初高座を踏む。私は初高座で、この噺を演った時、客の反応を気にして三平さんみたいな感じになってしまって、四代目金瓶梅さんから「真面目にやれ。」と叱られた。
2番目は与太郎の小咄と泥棒の小咄をつなげたもの。これも紫雀さんに教わった。
次はいよいよ1本の噺をやる。『寿解無』。これは四代目一生楽さんに教わった。この噺は夏合宿で発表する。
夏合宿で2本目の噺を教わる。ここから2グループに分かれた。うちの代は『道灌』と『手紙無筆』だった。私のグループは、雀窓さんに『道灌』を教わった。私は『道灌』という噺が好きだったので、この噺ができるのが嬉しかった。やっていいよという許可が出てからは、盛んに『道灌』をやって、「道灌小僧」と呼ばれた。八代目桂文楽が前座時代、「道灌小僧」と呼ばれていたということもあり、そう言われるのは、ちょっとばかり誇らしかった。
その後、冬合宿の発表用に、これも2グループに分かれ、『藪医者』と『つる』を教わった。私は『藪医者』の方。七代目風来坊さんが教えてくれた。風来坊さんの権助は、それは素晴らしかった。得意ネタにはならなかったが、考えてみれば、この噺で田舎言葉の稽古ができたのは、私にとって非常にプラスになったと思う。
この、『道灌』、『藪医者』というネタの流れは、幅があっていい。多分偶然だったのであろうけれど、今思うとラッキーだったな。

2011年10月17日月曜日

つまらない大人にはなりたくない


「つまらない大人にはなりたくない」とその昔、佐野元春は歌った。
今、私のやっていることや言っていることを思うと、まさに「つまらない大人」になってしまったなあという感慨を抱く。
でもさ、責任とか守るものとかあるから「つまらない大人」になってしまうんだよ。つまらなくない大人なんて、所詮、子どもなんじゃないか。そんなことを呟いて、自分自身を正当化していた。
ところが、雑誌『SIGHT』の小出裕章(京都大学原子炉実験所助教)の記事を読んで、そういう自分がちっぽけに見えたよ。
一部を引用してみる。
「私にできることなんて、ほんと些細なことしかない。歴史の中で、個人のはたせる役割なんて、どんなことやったって、ちっちゃいもんです。私はずーっと原子力をやめさせたいと思ってきたけれども、もちろん私の力なんか全然役にも立たないまま、原子力はどんどん拡大してきてしまっている。でも私という人間は、1回しか生きられない。人生は戻ることもできないし、飛び越えることもできないし、今この場で私という命というものを、1回1回生きていくしかないわけです。どうせできることが、たかが知れているといったって、この人生しか生きられないんだとしたら、自分のやりたいことをやる、ということしかないわけで。ですから、私の周りは敵だらけでしたけど、別になんの迷いもありません。勝てるとも思わないけれども、やらなければならないことは、私にとってはもう、自明のことなんだから。」
もうひとつ。
「要するに個人の力なんて、たかが知れているわけで、私自身は負けることは別になんでもありません…『なんでもありません』って言ったらおかしいけど。もちろん、負けたいと思って負けているわけではありませんが、私の敵は国家なわけです。国家と、その周りに巨大な力がみんな集まっているわけですから、私が勝てるなんてことはあり得ないわけです。負けるのが当然という戦い方をしてきたわけです。」
肝の据わった言葉だ。きちんと大人だし、しかもかっこいい。
自分が、「つまらない大人」であることに自覚的でありたい。そして、それに甘んじたくないと思う。

写真は、沖縄の少年。去年、出張で行った時に撮った。頭にグラブをひょいと載せている姿が粋だねえ。

2011年10月11日火曜日

夢之酒 秋の巻

ここんとこ仕事が立て込んで、ちょっとばかり忙しい。
こういう時は現実逃避、夢之酒シリーズといこう。

渓流沿いの温泉宿。暮れゆく紅葉を眺めながら風呂に入り、さっぱりしたところで、夕食の膳に向かう。
山女の塩焼き、きのこの天ぷら、新蕎麦、牛肉の陶版焼き等が並ぶ。
まずはきりっと冷えたビール。すぐに燗酒に切り替える。
ふと見ると、松茸の土瓶蒸しがあるではないの。実は私、汁物で酒を飲むのが好きなのだ。
汁を口に含むと馥郁たる香りが鼻腔に立ち上る。いいねえ。
私は飲みに行っても、あまり土瓶蒸しは頼まない。っていうか、土瓶蒸しを出すような店には、まず行かない。やはりあれは「高嶺の花」なんだよなあ。
松茸の土瓶蒸しで思い出すのは、高山の夜だ。
岐阜のT君が結婚した時、式の後、高山の街に出て、大学時代の友人3夫婦で飲んだ。その店で、土瓶蒸しが意外と安かった。「思い切って頼もうぜ」と私が言うと、I君が「いっちゃうか?」と応じた。旨かったと思うのだが、その後けっこうべろべろになってしまい、記憶が定かではない。やはり、ああいうものはしっとりと落ち着いて味わった方がいいんだな。
まあいい。ここは渓流沿いの温泉宿だ。じっくり楽しもう。
せせらぎの音が耳に届く。浴衣の妻(にしておいた方が間違いはあるまい)が、熱燗徳利の首つまんで、もう一杯いかがなんて、妙に色っぽかったりするんだよねえ。

2011年10月7日金曜日

休みの日


この間、平日の休みがあった。
妻とデートの予定だったが、次男の風邪が長引いて学校を休んだので、残念ながら中止、家にいることにした。
昼は唐揚げ丼を作る。鶏の唐揚げを玉葱と煮て卵でとじる。カツ丼の唐揚げ版ですな。けっこう旨いよ。
物置から持ってきた、村上春樹の昔の短編集『パン屋再襲撃』を読む。読了。次男ともたっぷり遊ぶ。
夜、先輩から近所の中華料理屋に呼び出され、飲む。ここは刺身が旨い、ちょっと変わった中華料理屋なのだ。鰹の刺身、肉野菜炒めで、ビール、酒。旨し。
その後、地元のスナックに河岸を変え、ビールを飲みながらカラオケ。ほんと田舎のオヤジの飲み会でした。

写真は土浦のスナックの看板。原画は、つげ義春、か?

2011年10月2日日曜日

寒い日だった


一日中曇り。肌寒い。
次男が熱っぽいので、医者に連れて行く。風邪の引き始めとのこと。
お出掛けのつもりだったが、中止。家でおとなしくしていることにする。
昼は味噌ラーメンを作る。市販の生麺タイプの味噌ラーメンに、もやしと挽肉を炒めて載せただけ。にんにくを隠し味に入れるといい。私は七味をふりかける。これがけっこう旨いのだ。子どもたちもいっぱい食べてくれた。嬉しいなあ。残ったスープに飯を入れて食べる。これもまた旨し。
子どもたちとWiiのスーパーマリオをちょっとだけ。途中私だけ抜け出して土浦へ行く。
毎年、落研の先輩鳥取のTさんから二十世紀梨を頂く。茨城は豊水を中心とした赤梨が一般的なので、青梨である二十世紀の爽やかな酸味は新鮮に感じる。今年もまた美味しく頂いた。
お返しは、いつも小松屋の佃煮にしている。土浦の駅前通に店を構える老舗。味に品がある。詰め合わせを鳥取へ送り、ついでに自宅用にゴロの佃煮を買う。これがまたご飯によく合うの。
帰りに、いつも気になっていた看板を写真に撮る。こういうのは家族連れで撮るもんじゃないからね。
凄いでしょ、「スナック、ブス」。

2011年10月1日土曜日

麻雀の日々

落研の部室でうだうだしていた連中が、どこか行くかという話になると、寄席か飲みか麻雀かだった。
というわけで、今回は麻雀の話。
落研では雀荘といえば「みどり」と決まっていた。(1年生は先輩の煙草に火を点けるためにマッチを常備しているのだが、皆この「みどり」のマッチを持っていた。「みどり」のマッチは擦るところに煉瓦のような模様がついていて、その分火が点きにくいのが難点だったがね。)
料金は1時間100円。カルーセル麻紀にちょっと似た、美人のおばちゃんがやっていた。とても気さくな人で、落研の部員を可愛がってくれた。私は、二抜けで暇なときは、よく椅子に座って居眠りをしていたのだが、おばちゃんに「ここは宿屋じゃないよっ。」と小言を言われたものだ。
落研のルールは、クイタンもアトヅケもありの、所謂アリアリというやつ。すぐ上がるので、テンポが速い。
同期では八海が強かったな。私は彼に「九連宝塔」という役萬を2回も振り込んだ。役萬を上がると、店からコーラかファンタが出る。そして、名前が張り出されるという名誉が与えられるのだ。私は1年の麻雀を打ち始めの頃に、「中のみ」をつもったつもりが「四暗刻」をつもっちゃった。後ろで見ていてくれていた海太郎さんが、やたら盛り上がっていたなあ。
腹が減ると、カップ麺を頼んで食べた。お気に入りは、とんこつ味の「うまかめん」だった。懐が暖かいときは、出前をとった。ここの出入りの中華料理屋の卵チャーハンは旨かった。
「みどり」で食べないときは、帰りに向丘遊園駅北口の目の前にある小さな店で晩飯を食べた。ここはカウンターだけでおじさん一人でやっていた。メニューは牛丼とかき揚げ丼、カレーもあったかな。私はだいたいここでは牛丼を食べていた。たいして旨くはなかったけど、侘びしくて悪くない雰囲気だった。卒業後しばらくして行ったら不動産屋になっていた。何だか寂しかったよ。
それにしても、ほんとによく打ってたな。休日の昼前に集まって10時間ぐらい打ったこともあった。何てもったいない時間の使い方をしていたんだろう。馬鹿だとは思うが、後悔はしていない。そんなことができたのも、あの頃だからだったんだ。
「みどり」のおばちゃん、今も元気かなあ。

2011年9月25日日曜日

柳家さん助死去

柳家さん助死去。享年85歳。
人間国宝、五代目柳家小さんの二番弟子。
もう随分寄席では見ていない。2006年から落語協会の相談役に就任していたらしい。
私が大学の頃は、寄席に行けば必ずといっていいほど出ていた。
「盛大なる拍手をばさばさばさっと頂戴しまして…」というのがマクラの決まり文句だった。
よく聴いたのは『無精床』『長短』といった小さん譲りのネタだったが、あの頃からオールドタイマーのような雰囲気があった。
さん助といえば丁髷。それもお相撲さんのような丁髷ではない。きちんと月代を剃った本格的なものだった。だが、私が寄席に通い出してすぐの頃にはやめていたな。手入れがものすごく大変だとのことだった。そりゃあそうだ。月代を毎日剃る手間もそうだし、刷毛先を油で固めるのも面倒そうだ。
丁髷をやめたさん助は、出の時の客のどよめきもなくなり、まあ普通の噺家になった。噺も特に面白かったわけではない。私自身、丁髷をしていてもやめたからといっても、別に好きな噺家ではなかった。
でも、変に懐かしい。何だかあの頃の寄席というと、さん助とか馬楽とかを思い出す。あの頃好きじゃなかった落語家を、今聴いてみると悪くなかったと思い直すことが、けっこうある。さん助の場合、そう思える前に寄席に出なくなってしまったのが残念だ。
柳家さん助師匠の冥福を祈る。彼も、私の青春時代を体現する落語家の一人であったことに間違いはないのである。

2011年9月24日土曜日

とちぎわんぱく公園で遊ぶ


今日は墓参りをしてから、栃木県壬生町にある「とちぎわんぱく公園」に行く。
妻が退院してから、初の遠出だ。
次男が幼稚園の時の遠足で行った所。「僕が案内するんだ」と、昨日から張り切っていた。
駐車場はいっぱいだったが、敷地が広いせいか混雑している感じではない。
入場無料。その中に有料施設や体験施設が点在している。
まずは有料施設、ふしぎの船に入る。入場料を取るといっても、大人200円、こども100円だ。船形の建物の中に、ちょっとしたアトラクションやらトリックアートやらがある。前回もここで遊んだ次男が、得意気に案内してくれる。
その後、外の遊具で遊ばせながら、みどりの丘に移動。芝生で弁当を食べる。
すっきりとした秋晴れ。日差しは強いが、空気は爽やか。気持ちいい。
アスレチックで遊び、シメはこどもの城。いっぱい遊んだなあ。今度はボールとか持って行ってキャッチボールなんかしてもいい。
家から2時間足らずで行ける。お金もそんなに使わなくて済むし、けっこう使えるな。また行きましょう。

2011年9月21日水曜日

台風15号直撃


台風15号が接近する中、外回りの仕事。
外回りったって、札束をふんだんに鞄に詰めて、きれいどころを2、3人も連れて、世界各国の温泉を回ってラジウムを発見するというのでもなければ、普請場行って木っ屑を貰ってくるわけでもない。
時折、激しい雨が降る。風も強くなってきた。北浦大橋を渡ったが、湖面は荒波が立っている。
昔、台風の暴風雨の中、車で波崎の町を走ったことを思い出す。あの時聴いたビリー・ホリデイはよかった。
潮来で仕事を済ませて帰る。日の出地区を通る。震災で液状化の被害がひどかった所だ。現在も、道はでこぼこ、電柱は傾いていたままだ。低い所では水が溜まっている。浸水などの被害が出なければいいのだが。
夜には一段と雨風が強くなった。二階にいると、強風で家が揺れているのが分かる。地震で家が弱っているのではないかと不安になる。
妻は台風が近づいて気圧が低くなると喘息の発作が起きる。昨日から苦しくなってきたという。今夜は薬を飲んで早めに床に就いた。
今はどうやら峠は越えた。台風は東北地方の太平洋岸を北上している模様。震災の被災地でも被害が出ているらしい。心が痛む。
写真は台風の潮来市。ちょっと凄まじい光景だ。

2011年9月18日日曜日

石岡のおまつり2011


石岡のおまつりに行ってきた。
明日の天気が悪いみたいなので、ちょっと無理な日程だったが、妻子を連れて見物してきた。
同じように考えた人が多いせいか、凄い人出だった。
車で行ったのだが、市営駐車場に停めるのに、40分ぐらいかかったかなあ。
八間道路を歩いていたら、地元の人によく出くわした。皆、バスとか電車を利用しているみたい。そっちの方が賢明かも。
子どもたちは相変わらず屋台の方に夢中。長男は、やたらとくじ引きをやりたがる。博打が好きなのか。困ったなあ。
帰りに裏通りを歩いていたら、長男が「お父さん、こんな所写真撮りたいでしょ。」と、古い店舗を指さして言った。「よく分かるな。」と言うと、「古いお店とか、木造建築、好きだもんね。」と答えた。子どもは怖いな、よく見てるよ。
帰ってから、屋台で買ってきた、たこ焼き、焼きそば、揚げ餅で、まずはビール。暑かったから、これが旨いこと旨いこと。
写真は、土橋町の獅子。石岡の獅子の中では最高峰だ。写真の方はその格調の高さを、十分に伝えられていないのが残念だが…。

2011年9月17日土曜日

運動会


今日は息子二人の小学校の運動会。
妻が本調子でないので、親子競技はフル出場だった。
厳しい残暑の中、3種目出た。
特に午後の連チャンはつらかったなあ。
子どもたちはよく頑張っていた。私も楽しいっちゃあ楽しかったです。
何とか一大イベントが終わったよ。
家に帰ってきて飲んだ、きんきんに冷えたコーラが旨かったなあ。
シャワーを浴びた後のビールも旨かったけど…。

2011年9月15日木曜日

最近の日常


妻の退院その後。
手術で味覚神経をいじられて、味覚障害が起きている。舌の右半分の感覚がまるでないという。味覚は完全に失われたわけではないが、何を食べても本来の味がしないらしい。
聴力は以前よりも後退しているとのこと。加えて、耳の不快感が残っている。
そりゃあ、あれだけ脳に近いところをほじくったのだから、すっきり快復というわけにはいかないのは分かる。でも、本人としては、あれだけきつい思いをして、以前より確実によくない状態になっているのだから、釈然としないよなあ。
端で見ててもつらそうで気の毒だ。まあ決定的に悪くなるのを防ぐ手術だったのだ。その意味では仕方のないことなんだよな。
でも、本人はつらいよね。私はそのつらさに寄り添うことしかできない。それがもどかしい。
色々なことが思い通りにはならない、ま、それが人生だ。粘り強く、ちょっとずつ、状況をこっち側に持ってくるよ。
写真は、石岡のすがや化粧品店。石岡には昭和初期の看板建築がけっこう残っている。その中でも、代表的なものの一つ。美しい。

2011年9月13日火曜日

東京庵


石岡市、東京庵。老舗の蕎麦屋だ。昭和初期の建築。渋いよねえ。
祖母が川並病院によく入院した。見舞いの帰りに、ここで天ぷら蕎麦を食べた。
旨かったなあ。
昔は市販の「そばつゆ」なんかなくて、家で蕎麦を食べるとなると、雑煮のつゆとか吸い物みたいなつゆで食べたものだ。それに比べて、蕎麦屋の本職が作るつゆは、衝撃的に旨かった。
前にも書いたが、石岡散歩では、東京庵の盛り蕎麦と朝日屋のラーメンを、はしごして食べるのが楽しみだった。そして、その後は丁字屋でコーヒーを飲むというのが、黄金パターンだった。
東京庵の盛り蕎麦は、せいろで出てこない。丼に似た特製の瀬戸物の器に入ってくる。中にはドーナツ型の、やはり瀬戸物の水切りがあって、その上に蕎麦が載っているのである。一見の価値はあると思う。
丼ものは、天丼、親子丼、玉子丼。カツ丼はない。つまり、全て蕎麦種で出来るものなのだ。見事なラインナップと言っていい。
食は総合芸術。店の佇まい、店内の雰囲気、黒光りした柱の一本一本を鑑賞しつつ、昔ながらの蕎麦を味わって頂きたい。いいよお。

大福さん、妻も何とか頑張っています。彼女さんのご快癒をお祈り申し上げます。

2011年9月10日土曜日

校外の活動

前に校内寄席のことを書いたが、今度は校外での活動について話そうと思う。
大福さんも書いていたが、うちの落研では定期的に新宿で寄席をやっていた。(それより前は高田の馬場のビッグボックスでやっていた。)
これは初代の風柳さんが持ってきた仕事だった。最初はサブナードで単独で、その後、西口センタービルのNCホールで何校か合同でやった。うちの他に、東海とか國學院とか日大とか国士舘、青学、東洋といったラインナップだった。
この高座は好きだった。私はどちらかというと部員の前よりも、一般客の前で演じる方が好きだったし、他の学校の人たちとの共演というのもいい刺激になった。
頭下位亭切奴時代の春風亭昇太さんの『昭和任侠伝』を聴いて、ひっくり返って笑った。芸術協会の中堅真打、三遊亭遊吉さんが國學院の落研時代、『禁酒番屋』を演ったのを聴いて「うめえなあ」と思った。国士舘の部員と仲良くなって、通学途中、南武線の電車の中で、「僕も『豆屋』の稽古を始めました。」なんて声を掛けられたこともある。
NCホールの時は司会がついた。大福さんが書いていたとおり、ペコちゃんのオオタスセリさんだった。(その頃はペコちゃんでもない「太田寸世里」だった。)これも初代風柳さんの紹介だったと思う。着物で、本当に背が高かった。私が『猫の災難』を演じて、真っ赤な顔をして高座を下りてきた時、「ほんとに飲んでるの?」と言われたのを覚えている。(確かに二日酔いの気味だった。)そうか、大福さん、彼女におでん奢ってもらったのか、下戸なのにずるいぞ。
変わったところでは、お座敷がかかったことがある。これは川崎の議員さんが、支持者を集めた宴会で落語を演ってくれと言ってきた。当時私は4年で、この会のトリをとった。何しろ宴会の席だ。古今亭志ん生でさえ、巨人軍の優勝祝賀会のパーティーの余興に呼ばれ、聴いてもらえなくて頭に血が上り、脳卒中で倒れたのだ。予想通り、飲み食いが始まると、見事に誰も聴いてくれない。五里ん君の『日和違い』、風公君の得意ネタ『蜘蛛駕籠』も通じなかった。
私は覚えたばかりの『鰻の幇間』をやるつもりだったが、やめた。『豆屋』をがんがん演って下りちゃおう、と決めた。ところが、私が上がる前、司会の人が「学生さんが一生懸命やってくれているのだから」と言って、席を静めてくれた。これがラッキーだったね。つかみの一言がちょっと受けて、関心がこっちへ向いてくれた。丁寧に売り声の枕を振っていくと、手応えがある。視界の端に、酌に回ろうとする人を隣の人が制しているのが見えた。しめた、最後まで行ける。後は一気にサゲまでもっていけた。
噺の後は、宴会に混じってご馳走になった。余った料理も折に詰めて持たせてくれた。
川崎のアパートに後輩を連れて行って、飲み直したが、この時は気持ちよかったなあ。文楽は噺の出来がよかった時は「終わり初物ですよ」と言って機嫌良く飲んだというが、(文楽師匠と一緒にするのはもったいないことだが)この時はそんな気分をちょっとだけ味わわせてもらいました。大切な思い出です。

2011年9月7日水曜日

朝日屋


朝日屋。石岡を代表するラーメンの名店だったが、6月いっぱいで閉店となった。震災の影響が大きかったという。
石岡散歩の昼食は、東京庵のもりそばと朝日屋のラーメンをはしご、というのが楽しみだった。
まず、店構えがいいでしょ。まさに昭和レトロ。絵になるよねえ。
暖簾をくぐるとカウンターとテーブル席があって、15人も入ればいっぱいになってしまう。休日には、店の外で順番を待つ客がいたものだ。
メニューは基本的にラーメンとタンメンの2種類。それぞれの豪華版がチャーシュー麺と特製タンメンといった具合だ。この他に餃子とチャーハンがお品書きにあったが、夜限定だったのだろうか、食べている客を見たことがない。
ラーメンは、ナルト、チャーシュー、シナチク、ホウレン草などが載る、昔ながらの醤油味。タンメンは塩味のスープ、豚の細切れと野菜をたっぷり炒めて載せてある。ラー油をちょっと入れながら食うと旨いのよ。
醤油ラーメンもタンメンも、土浦イオンのフードコートの幸楽苑で、そこそこのが食えますよ。でもねえ、朝日屋のラーメンやタンメンは特別なのだ。
食というのは総合芸術である、と私は常々主張している。そう、あの朝日屋の空間で食べるからこそ、あのラーメンは、タンメンは、感動を与えてくれるのだ。
これぞラーメン丼ともいうべき器、油のしみのついたお品書き、調度、店内の佇まい、目の前で静かに繰り返される親父さんの所作、湯気を立てて供される昔ながらのラーメン、何一つ鑑賞に値しないものはない。しかも、どれも一朝一夕に出来上がったものではない。この雰囲気を生み出すためには、何十年という年月の積み重ねが必要だったのだ。本当にかけがえのない店だったな。
いつかはこういう日が来るとは思っていたが、それがこんなに急に来るとは思っていなかった。たきの井食堂といい、震災は、こんなささやかな楽しみまで奪って行ったんだなあ。
親父さん、長い間、旨いラーメンをありがとう。お疲れ様でした。残念です。

2011年9月4日日曜日

今度は、石岡を、ちょっとだけ歩く


朝のうちに、昨日雨で中断した稲刈りを手伝う。割と早く終わった。
妻子を連れ、土浦イオンへ買い物に行く。
昼食はリンガーハットの皿うどん。次男の靴を買う。
家へ帰り、親子4人でゲームを1回だけ。
その後、ちょっと私だけ抜け出し、石岡を散歩。
やはり、震災の傷跡が随所に見られる。
「憧れの鰻屋」という記事の中で紹介した「弁天屋」がなくなっていた。店先にあった鰻を掴んでいる狸の置物だけが、空き地にぽつんとあった。寂しいなあ。
ラーメンの名店、朝日屋も閉店していたし(朝日屋については、後日書きます)、楽しかった町歩きが、震災からこっち、つらくなってきたよ。

写真は弁天屋の鰻狸。きちんとサンダル履いていたのね。

2011年8月31日水曜日

初代林家三平

初代林家三平。言わずと知れた昭和の爆笑王である。
しかし、子どもの頃、この人の落語でひっくり返って笑った覚えがない。
私は田舎者なので、落語を聴くのはテレビかラジオでしかなかった。もちろん、三平は大スターだったから、聴く機会は多かった。ただ、内容がなあ。正月番組で演った小咄が、「坊さんが二人通るよ、和尚がツー」とか「車が衝突したよ、ガンターン」だもんなあ。子ども心にくだらねえなあと思ったよ。客席のおばちゃんのげらげら笑いに、そんなに面白いか?と心の中で突っ込んでいた。(ごめんね、嫌なガキだったんだ。)
その三平が脳溢血で倒れ、過酷なリハビリの末、寄席に復帰したのが、私が大学に入った年の秋だった。新宿末廣亭でトリを務めた高座を、落研の仲間で観に行った。私はそれほど乗り気ではなかった。(何しろ嫌なガキだったからね。)それでも、4年生の二代目紫雀さんが「絶対観ておいた方が良い」というようなことを言ってくれた。金原亭馬生の熱烈なファンで、古今亭志ん朝ばりの鮮やかな口調を聴かせてくれる紫雀さんがこう言うのだ。行ってみようという気になった。
この時、三平は『源氏物語』を落語化し、新境地を開く、と公言していた。もちろん、誰も本気にしていない。事実、「いづれの御時にか」を繰り返すばかりで、内容はいつもの三平だった。
でもねえ、これが面白かったのよ。入ってきた客に「そろそろお見えになるんじゃないかと思っていたところなんすよ」なんていう客いじりで、私はひっくり返って笑った。生の三平は、放送の三平とは違った。三平の必死のサービスが直接伝わってくる。三平の、人柄の良さが、誠実さがストレートに人の心を揺さぶるのだ。
あの、安藤鶴夫も「三平は生で聴くべきだ」というようなことを書いているが、まさにその通り。三平の生の高座を観て、私も、そうだ、感動したのだ。
病後のことだ。迫力は全盛期に及ばない。三平の目はとろんとして、生き生きしたところがなかった。復帰興行ということで、好意的な笑いもあったろう。でも、それでも、この日の三平は、掛け値なしに面白かった。全盛期なら果たしてどれほどだったか。三平恐るべし、である。
しかし、その後は精彩を欠いた。本来の迫力、テンポを失った三平から、爆笑は遠のいていった。そんな折、弟弟子の月の家圓鏡(現橘家圓蔵)がめきめきと評価を上げていく。三平の高座が、結局のところ小咄の羅列であるのに対し、圓鏡は破天荒ながらストーリーのある落語を語ることができるという強みがあった。圓鏡は、四天王として、古今亭志ん朝・立川談志・三遊亭圓楽と肩を並べるまでになった。
復帰の翌年、三平の師匠、七代目橘家圓蔵が死んだ。葬儀委員長は惣領弟子の三平が務めた。圓蔵師匠は、私の所属していた落研の技術顧問をされていたので、私たちも葬儀の手伝いに行った。葬儀の終わりに挨拶に立った三平の、目が死んでいた。そのことだけ、私は強烈に覚えている。
その年の秋、林家三平死す。癌だった。
三平のことについて、書かれたものでは色川武大の『林家三平の苦渋』(『寄席放浪記』に収録)、録音では立川談志の『三平さんの思いで』(『席亭立川談志のゆめの寄席』に収録)が双璧。是非、読んで聴いて欲しい。

2011年8月27日土曜日

妻の退院


妻が退院した。
午前中、子どもたちを連れて迎えに行く。
長男は、妻の入院中、こっそり泣いていたという。それを聞いた次男は、「僕は1回も泣かなかった」と言ったが、昨日は「明日が超楽しみだよ」と盛んに言っていた。
土曜日ということで、事務手続きは一切なし。ナースセンターに声を掛けて、そのまま帰る。
昼食は牛久の千成亭。ここは、味噌ラーメン(店のメニューではサッポロラーメンという)が、絶品。具はもやしと挽肉。にんにくと七味のパンチが効いたスープが旨い。子どもたちは醤油ラーメンを完食。写真を撮ればよかったのだが、気づいたときにはもう食べ終えていたよ。
とりあえず、妻は実家で1泊。妻の実家で夕食を食べ、次男を置いて、長男と家に帰る。(明日、私と長男は小学校の奉仕作業に出なければならないのだ。)
色々あったが、何とか一区切りついた。まだまだ快復するまで時間はかかるだろうが、協力してやっていこうよね。

2011年8月22日月曜日

上野「蓬莱閣」のCランチ


先月の末、上野へ行った時の昼食。
北京料理、蓬莱閣のCランチ。
とりそば、蟹春巻、杏仁豆腐。
とりそばは塩味のスープ、野菜はセロリが中心。
私はセロリが苦手なので、失敗したかなあと思ったのだが、これがなかなか爽やかなお味。
1260円と値段もお手頃。メニューも豊富で、客もよく入っていた。
今度妻子を連れて来てもいいなあ。


2011年8月21日日曜日

吾妻庵総本店


中城通りにある吾妻庵総本店。
いい風情でしょ。
何でか知らんが、『世界でいちばん○○なタテモノ』という本のP45「町屋(江戸時代)」のイラストで登場している。
10年ほど前、火事で半焼し、元通りの形で再建した。
老舗の蕎麦屋。木田余とつくばに支店がある。
私たちは、家から近い方の木田余店に行くことが多い。
妻は、夏は冷やしたぬきそば、冬はあんかけそばがお気に入り。私の方は、鴨汁つけそば、天盛り。おろしそばも旨い。ここの海老天は、以前、コロモに小海老をまぜて揚げていた。いい工夫だと思っていたのだが、ちょっと前に行ったら、やってなかった。この頃は行ってないから、どうなっているかなあ。復活しているといいけど。
小さい子どもがいると、どうしてもこういう店は足が遠のく。残念だ。
いつか、夕方ふらりと入って、酒でも飲みながら、といきたいもんです。

2011年8月20日土曜日

土浦を、ちょっとだけ歩いた


ちょいと前のことだが、ミニを車検に出した帰り、土浦に寄った。
震災からこっち、土浦の街を歩いたことがなかったのだ。
いつもの「まちかど蔵」の駐車場に、代車のボルボ(ヴォルヴォと表記した方がいいのかな)を止め、中城通りをちょっとだけ、歩いてみた。
お気に入りの喫茶店「蔵」は営業していない。向かいの矢口酒店は瓦が落ち、壁には亀裂が走っていた。
やはり、震災以降の街歩きは心が痛む。私の好きな古い建物が、けっこう被害を受けているのだ。
小一時間歩いて、矢口酒店の自販機で、缶コーヒーを買って帰る。
写真は、私の大好きな矢口酒店。勝手な願いかもしれないが、何とか修復して欲しいなあ。

2011年8月18日木曜日

森まゆみ『断髪のモダンガール』

「新生」の明治と「破滅と再生」の昭和とに挟まれた大正という時代は、いささか影が薄く感じられる。実際、明治の45年、昭和の64年に対し、大正は15年と短いしね。
でも、この本を読むと、その大正という時代が鮮やかな光芒を放つ。
大正を彩った女性たちの列伝だ。それは、望月百合子を始めとして、与謝野晶子、平塚らいてう、宇野千代など42人に及ぶ。
大正デモクラシー、自由と平等、女性解放。旧態然とした社会の中で、彼女たちは闘った。闘うために、女の命と言われた髪を切った。
ある者は文学に芸術に、ある者は社会運動に革命に、そして恋愛に、命をかけ生きた。
それを、筆者は彼女たちに寄り添い、丹念に紹介する。その自由さ、奔放さ、真摯さに、読む者は圧倒される。
この本を読んでいて、私はあることに気がついた。彼女たちは、私の祖母と同世代の人たちだったのである。
私の祖母は明治30年に生まれ、大正12年頃、最初の結婚をして浅草に住んだ。関東大震災を経験し、その後離婚して田舎に帰って、昭和10年代に、私の祖父と再婚した。祖母は私を溺愛し、私も祖母が大好きだったが、血のつながりはない。
「断髪のモダンガール」たちが、自由のために闘い、恋に生きていたその同じ空間に、祖母もいたのだ。東京の片隅で、何を生業としていたかは知らないが、決して裕福な暮らしをしていたわけではあるまい。数年で結婚生活が破綻したところをみると、平穏で幸福な毎日とは言えなかったと思う。実直で働き者の祖母は、きっと自由も解放も知らず、懸命に働いていたのだろう。
そして、その祖母が住んでいた目と鼻の先にある吉原遊郭では、『吉原花魁日記』の森光子に象徴される、貧窮故に身を売った女性たちがこの世の地獄を味わっていたのだ。
大正というのは過剰な時代だったのだと、つくづく思う。
この本には、取り上げられた全ての女性たちの写真が掲載されている。美しい人は美しく、それなりな人はそれなりに写っているが、美醜なんて関係ないな。皆、激しく生きたことが形に表れている。
ついでに言えば、この42人は何らかの形でお互いが関わり合っている。まあそれだけ狭い世界だったということかもしれない。巻末の相関図が楽しい。

大福さん、コメントありがとうございました。妻の方は術後の経過も順調です。うまくいけば、来週末には退院できそうです。そちらの方こそ、お大事にしてください。

2011年8月17日水曜日

妻の入院、そして手術


妻が入院した。耳の奥に真珠腫というのができたので、それを切除するために手術をすることになったのだ。全身麻酔で2時間かかるという。
妻を病院へ送る。入院手続きと診察などで午前中いっぱいかかった。
手術は明日だ。妻も不安でいっぱいだという。
幸い、医師や看護師の皆さんは、どなたも親切だ。ここは皆さんにお任せするしかない。
留守は守る。

と、ここまで、昨日書いた。

で、今日はいよいよ手術の日だった。
手術室に入ってから、出てくるまで、3時間半かかったな。
術後の、酸素マスクやら点滴やら、色んな管をつけられた妻が可哀想で見ていられなかった。
それほど重篤でもない病気の、それほど困難でもない手術だったが、妻にとっても、家族にとっても、これはこれでヘビーな出来事だったよ。
子どもたちも何とか頑張っている。私もしっかりやらないとなあ。

2011年8月13日土曜日

『桂小文治落語集 第3集』

小文治さんからDVDを頂いた。
今回の演目は『片棒』『虱茶屋』『文七元結』の3本である。
『片棒』は、吝嗇な旦那が息子たちに「自分が死んだらどのような葬式を出してくれるのか」と聞く噺。長男は大勢の人を呼び豪勢な料理を出す贅を尽くした葬式、次男はお祭り騒ぎで送り出そうという趣向、当然旦那は立腹するが、三男の提案を聞いて…といった内容だ。
聞かせ所は、次男の祭囃子の描写だろう。小文治さんは音感がいい。祭り囃子のリズム、メロディーが心地よい。それから、何と言っても、山車の上の旦那の人形が動く場面での仕草。見事な人形振りだ。素晴らしい。長年修業した踊りが、ここでも売り物になっている。
『虱茶屋』は、私としては、小文治さんの持ちネタの中でも一押しの噺である。悪戯好きな旦那が、お座敷で芸者や幇間の襟首からこっそり虱を入れる。痒みにもだえる彼らの様子が見せ場だ。特に幇間が踊る場面は最高に面白い。踊りで鍛えられた所作が美しい。
トリを飾るのは『文七元結』。このDVDの目玉だな。大分前、小文治さんが水戸の県民文化センターでこの噺をかけた。あいにくその時は行けなかったのだが、このDVDで観ることができた。
前作の『芝浜』でも感じたことだが、小文治さんの程の良さがいい。きちんと笑いを取りながら丁寧に演じていく。大仰な感動巨編ではなく、あくまで落語として聴かせてくれるのだ。娘お久を長兵衛の連れ子で、おかみさんの実の子ではないという設定。そうだな、この方が、お久の健気さが際立つ。文七に金をやる場面の所作が、またいい。どこか古今亭志ん朝を彷彿とさせる。噺の出所は三遊亭遊三とのこと。ただ、住吉踊りで長年の間志ん朝の一座に参加していた小文治さんだ。志ん朝から受けた影響も決して小さくはないと思う。
こうして、先輩の活躍に触れることができるのは嬉しいことだ。芸術協会内でも小文治さんは、持ち前のリーダーシップを発揮しつつあるようである。健康に留意され、ますますご活躍されることを祈りたい。

2011年8月11日木曜日

大喜利の話

今日は小文治さんのDVDの感想をアップしようと思っていたが、大福さんのブログを読んで、大喜利の話にすることにした。
うちの落研では、夏休み前の校内寄席は「ファミリー寄席」と称して大喜利をやった。
私も2年の時大喜利メンバーに選ばれて出演したのだが、この時は皆不調でなかなか答えがでない。同輩の弥っ太君など、指名されても「今考え中です」なんという、まるで小学校の学級会みたいな返答をしていた。
奮闘していたのは、茨城の星、我らが先輩歌ん朝さんだった。月の家圓鏡(現八代目橘家圓蔵)のごとくスピード感あふれるアドリブを連発し、何とか客席は盛り上がりを見せた。
最後のお題は「あの人にこの歌を」。歌ん朝さんは下ネタで繋いでくれる。この流れなら行けるかなと思い、今まで控えていたネタで勝負することにした。
「一つの卵に向かって懸命に泳ぐ、無数のおたまじゃくしに捧げます。」
こう言うと、司会の風来坊さんが、「お前、大丈夫か?」といった顔で「その歌は?」
「ゼリーがライバル。」(元ネタは石野真子の「ジュリーがライバル」である。)
これがウケたのだ。今書いてみると、どこが面白いんだという話だが(元ネタ自体、知っている人は少ないだろう)、この時はウケたのだ。思いっ切り、張り扇で後頭部をやられたけど、気持ちよかったなあ。
翌日、体育の授業に出たら、見に来てくれたのか、国文学科の知り合いが、「伝助、昨日面白かったぞ。」と言ってくれた。その日のソフトボールの時間中は、密かに「ゼリーがライバル」が流行語になったのだった。

大福さん、本当に人生は思い通りにならないなあ。軽々しく言えないけど、大福さんと彼女さんの幸福を祈っている男が、そこから30㎞付近にいるということだけ、知っていて欲しいな。

2011年8月8日月曜日

浅草へも行って来た


前回の続き。
東京タワーを出たのは、2時過ぎだった。首都高を箱崎方面に進んでいたが、このまま帰るのはちと惜しい。
そこで浅草に行くことにする。浅草も子どもたちは初めてだ。
首都高を駒形で下りる。駒形橋を渡り、馬道から観音様の裏っ手をぐるっと回って、花屋敷通り近くの駐車場に入れる。
花屋敷通りから観音様へ。花屋敷通り、きれいになったなあ。
観音様をお参り。休みとあって人が多い。子どもたちはおみくじを引く。長男が凶を引いた。私も昔引いたことがあるぞ。
次男は歩き疲れたというので、妻と藤棚の下で休憩。長男と私は仲見世をぶらぶら雷門まで歩く。色々な店があって面白かったようだ。浴衣を着たカップルがけっこういたなあ。
妻の好物、揚げ饅頭を買う。こしあん、クリーム、いも、もんじゃを1個ずつ。
藤棚の所に戻ったら、次男が大喜びで鳩を追いかけていた。ジュースを飲んで帰ることにする。
花屋敷通りを戻る。途中、パントマイム師が全身真っ白にして「人間彫刻」のパフォーマンスをしていた。微動だにしない。足下に100円入れてくださいといった体で箱が置いてある。こういうのの大好きな長男は素通りできない。親が止めるのも聞かず、100円玉を入れると、「人間彫刻」がやおらガッツポーズをし、Vサインをしてみせた。兄弟2人で一緒に写真を撮ってやる。側にいた観客バカウケ。立て続けにもう200円入った。うちの長男、こういう空気を作るのが得意だなあ。いったい誰に似たんだ。(俺じゃないぞ。)
それから、車に乗り込み、鷲神社の脇を通って白髭橋に回り、堤通から首都高に乗った。
守谷のサービスエリアで揚げ饅頭を食べる。旨かった。もんじゃもなかなかいける。
楽しい休日でした。

2011年8月7日日曜日

東京タワーに上る


震災からこっち、家族で遠出をする機会がなかった。
ふと思い立って、東京タワーに行く。妻と独身時代デートで行って以来だから、17、8年振りぐらいになる。
子どもたちは、もちろん初めてだ。
8時に車で家を出て、ナビちゃんの言うがまま、10時半過ぎに到着。
ポケモンのイベントをやっていて、子どもたちは大喜び。長男は早速ポケモンカードを買い、次男は3DSに夢中。
展望台に上る前に昼食をとる。蕎麦を食べたが、次はフードコートのマックにしようという感じ。
東京の街を眼下に望む、展望台からの眺めは素晴らしい。私は高所恐怖症だが、足下がしっかりしていていれば大丈夫なのだ。売店でスノードームを土産に買う。
展望台とアミューズメントのセット券を買ったので、せっかくだからと鏡の迷路と蝋人形館に入る。
蝋人形館は妖しかったな。マリリン・モンローから毛利衛さんまで、古今東西老若男女の著名人が並ぶ。確かにリアルだが、瓜二つかと言えば微妙なのだ。ジョン・レノンなどは如何なものか。小窓を覗くと、西洋の拷問の様子が展示されていたりして、およそ子ども向けとは言い難い。リッチー・ブラックモアやらフランク・ザッパやらが展示されているロックスターの間もマニアックだ。ガラスケースには趣味で集めました的なグッズが統一感もなく、ぎっしりと並んでいる。ビキニ姿の榊原郁恵やジーパンを脱いでいる宮崎美子のフィギアなんかもあるぞ。すげえなあ。
2度目のポケモンコーナーに行ってから、マザー牧場のソフトクリームを食べる。こちらは大変美味しゅうございました。
車で行くのは不安だったが、行ってみれば行けるもんだ。ナビちゃん頼りに、また色んな所に行ってみよう。

2011年8月5日金曜日

森光子『春駒日記―吉原花魁の日々』

自由廃業した元吉原の花魁、森光子の著作。『吉原花魁日記―光明に芽ぐむ日』に続く第2弾がこれだ。
これも文庫化されたということは、前作の反響がなかなかのものだったということなのだろう。当時としてもそうだったらしい。『光明に芽ぐむ日』の刊行が1926年12月。そして、この『春駒日記』が翌1927年10月に出た。その『春駒日記』に、『光明に芽ぐむ日』に先立って、1926年7月に婦人雑誌に掲載された手記、「廓を脱出して白蓮夫人に救わるるまで」を収録したのが、本書である。
『光明に芽ぐむ日』が、リアルタイムで書かれた日記であるのに対し、本書は吉原逃亡後自由な身になってからの回想。前作がぎらぎらとした憎しみに満ちているのに比べ、少し距離感がある。回想録、随想といった趣だ。(さすがに「廓を脱出して…」の方は逃亡直後のものだけに、憎悪剥き出しで迫力満点だなあ。)
中心として描かれるのは、花魁の日常、客との交流。大正末期の吉原を、そこで働く女性の立場から見た、第一級の資料だろう。文楽や志ん生が親しんだ吉原はこういう所だったのだな。しかし、ただ単に資料と見るには、あまりに内容が悲惨だ。いかにあの里の情緒を男が懐かしんだとしても、勤めの身にとって男は、女の肉を貪り食う獣でしかない。(そう考えると、『三枚起請』の喜瀬川の「朝寝がしたいんだよ」という台詞は哀れだ。)
著者、森光子はもともと文学少女だった。文章にもそういう匂いが濃い。そんな彼女が、毎日毎日体を売って暮らすのだ。そりゃあ、地獄のような日々だったろう。
この本では、当時の新聞記事も収められている。見出しを見るだけで、人々に衝撃をもって迎えられた事件だったことが分かる。
解説では、光子のその後について、少しだが明らかにされている。結婚の相手は、外務省の官吏、西村哲太郎。彼女の客だったらしい。西村は光子逃亡に手を貸したために外務省をクビになった。その後、西村は社会運動のつもりで自由廃業の手引きをして、吉原の暴力団に追いかけられていたという。戦後は茨城2区から衆議院議員に立候補して落選した。茨城に縁のある人だったんだな。光子自身の生涯については、詳しくは分かっていないが、このような男の妻として生きたわけだ。弱き者、虐げられた者に対して、彼女もまた無関心ではいられなかったのだと思う。

2011年8月2日火曜日

鈴本演芸場 7月余一会 昼の部


入った時は、前座の途中だった。場内はほぼ満席。この日は余一会で、昼の部は「納涼鈴本特選落語会」という特別番組。顔ぶれも悪くないもんなあ。
春風亭朝呂久、一朝の弟子。ネタは『金明竹』。前座さんらしくない。達者だねえ。
二つ目は三遊亭天どん。枕で芸名に対する嘆きを一くさり。(そういえば落研には牛丼がいたなあ。)『垂乳根』を演るが、そこは圓丈門下、一筋縄ではいかない。言葉が馬鹿丁寧なお嫁さんが、ハーフという設定。例の言い立てに英語が混じる。余計訳分かんない。大ウケ。
和楽社中の大神楽。この日は女の子が一人入る構成。
隅田川馬石の『狸札』が続く。
お次は、三遊亭白鳥が『スーパー寿限無』を披露する。師圓丈の『新寿限無』は元素などの名前を入れたものだが、この『スーパー寿限無』は、ひたすら駄洒落。「ジュテーム、ジュテーム」から「圓朝師匠超すげえ」まで、ひたすら馬鹿馬鹿しくっていい。改めて思ったのだが、白鳥は話芸も達者なのな。だから、面白いんだ。
柳家小菊の粋曲。学生の時は退屈な時間だったが、年を取ってみるといいもんだ。暫し江戸情緒に浸る。
仲トリは柳家権太楼。十八番の『代書屋』で満場の爆笑を誘う。桂枝雀のDNAを感じるが、もはやあれは権太楼ワールドだよなあ。
クイツキは、昭和のいる・こいる。この日はよく歌った。偉そうに見えないが、まさに東京漫才の雄だ。
ここで古今亭菊之丞が登場。未来の名人候補だな。この人と柳家三三、桃月庵白酒を加えた三人が、若手真打ちの三羽烏なのではないか。本格派の三三、才気の白酒に対し、菊之丞は妖しい色気かな。ネタは『紙入れ』。この人ぴったりの噺だ。喝采を浴びて高座を下りる菊之丞の腰に煙草入れが揺れているのを見た。古風だなあ。八代目文楽や三代目三木助みたいだ。菊之丞の、明治生まれの名人たちへの素直なオマージュを感じる。
膝代わりは林家正楽の紙切り。注文がすごい。あっという間に4つ。それでもう持ち時間はいっぱい。大須演芸場の大東両なんか、自分から客に聞いてたぞ。(私はイチローを切ってもらった。これがまた、けっこう時間がかかったのよ。)意外に「招き猫」が難物だったようだ。私も注文したかったが、舌がつって声をかけられなかったよ。(って『火焔太鼓』の甚兵衛さんか。)
トリは三遊亭金馬。膝が痛いのか、釈台を前に置いての高座だ。今年82歳だそうだが、元気だなあ。圓歌とか金馬なんていったところが元気だということに幸福を感じるな。
学生の頃は、この人の軽演劇的な感じやホームドラマのような感じが、生温くって苦手だったが、間違っていた。今の落語界に欠くことの出来ない存在だな。金馬の『七草』を聴くと、本当に正月が来たという気になる。口調や勢いに頼らない芸は、なかなか衰えないものなんだなあ。
ネタは『唐茄子屋政談』。何となくこの噺が聴きたかったので、嬉しかった。本所の叔父さんがいいねえ。吉原田圃での売り声の稽古の場面はカット。この辺の判断は見事だ。あの場面は金馬の芸風には合わないと思うし、カットしたことで噺も引き締まった。
たっぷりと落語を楽しめた。満足、満足である。

2011年8月1日月曜日

上野に行く


久し振りに東京へ行く。
上野駅公園口から上野のお山を歩く。
けっこうな人出。皆、芸術が好きなんだな。
国立科学博物館は子ども連れで行列が出来ている。
天気が悪いので町歩きはやめ、国立博物館に入る。
寄席にも行きたいので、12時過ぎには出る予定。見たいものだけに時間をかける作戦を立てる。
「日本美術の流れ」の展示を見る。これがまた、盛りだくさん。さすが我が国最高峰の博物館だ。
絵、茶器、仏像は面白いなあ。絵では広重・英泉の「木曾街道」の浮世絵、仏像は鎌倉時代のがよかった。妖怪特集コーナーなんかもあって楽しかった。1時間半じゃ足りないな。今度はもう少し時間を取ろう。
12時半に出て、京成上野駅の辺りから山を下りる。
昼食は、ふらりと入った蓬莱閣という中華料理屋。Cランチを頼む。(本当はビールといきたいが、翌日が健康診断なので自重する。)とりそばと蟹春巻、杏仁豆腐のセットで1260円(だったと思う)。とりそばはあっさりとした塩味。野菜はセロリが中心。私はセロリは苦手だが、爽やかな感じで美味しくいただけた。満足。
1時過ぎに鈴本演芸場に入る。まだ前座さんが上がっているところなのに、客席はほぼ満席。すごいねえ。
4時過ぎに終演。上野駅構内でロールケーキをお土産に買い、帰路につく。1日、存分に遊ばせてもらった。
寄席の詳しい内容は次回書きます。

2011年7月31日日曜日

冷やしおろしたぬきそば+T君の投稿


この間の昼食は、「おにざわ」。鉾田の名店。昼時はいつも満席だ。
冷やしおろしたぬきそばを食べる。蕎麦は太めでしっかりとしたコシがある。
旨し。

岐阜のT君からメールが来た。「ブログに載せてくれたまへ」とあったので、転載します。埼玉県行田市、忍城訪問のレポートです。

先日、珍しくフリーの日ができ、武州忍城まで遠征した。
「のぼうの城」で大にぎわいと思ったら閑散に近い。歴女もおらず年寄りばかり。
おもてなし隊も1人で、この暑いのに面頬までしている。この人も年配で、それを隠すため?しかも装束は六文銭の赤具足で真田幸村?なぜ?
何だかなあと思っていたら幸村氏がその格好のままで、コンビニから弁当を買ってきた。
ゼリーフライをほおばりつつ、諸行無常を感じるのであった。

T君とはけっこうシブい所を選んで、色んな土地をほっつき歩いた。また、変な所を一緒に旅したい。
T君、面白い所があったら、またレポートしてください。

2011年7月27日水曜日

四代目春風亭柳好

どこで出しているんだろう、落語名人選とかいうシリーズがあって、よくホームセンターなどのワゴンセールでバラ売りをしているのを見かける。このラインナップがなかなか個性的なのだ。四代目三遊亭圓馬、二代目桂小南、四代目春風亭柳好、四代目三遊亭右女助ってところなんざ、なかなかにシブい。二代目桂枝太郎なんか堂々と「桂梅太郎」と間違った名前のまま、随分長い間売っている。(どこからもクレームが来ないんだろうか。)
私も以前これにハマって、近くのカインズホームへ行くたびに、せっせとカセットテープを買ったものだ。
この中の、四代目春風亭柳好の演目は『牛ほめ』と『道具屋』の2本であった。収録されたのが両方与太郎ものというのも普通ではない。それほど、この人の与太郎はニンに合っていた。
柳好というと、三代目の、「野ざらしの柳好」が有名だ。若いうちから「睦会の四天王」として売れに売れ、華やかな謡い調子の高座は、多くの人を魅了した。
その次の柳好がこの人である。師匠でもある三代目が、全編粋で固めたような芸であったのに対し、幾分地味で、幾分野暮ったかった。だからといって、売れていなかったわけではない。「お笑いタッグマッチ」というテレビ番組で売り出し、芸術協会の寄席には欠かせない存在だった。
私は、高校入学前の春休み、初めて寄席に連れて行ってもらったが、その時、この柳好が出演していた。演じたのは『道具屋』。私は文字通りひっくり返って笑った。子ども心に私は、柳好を「与太郎が面白い人」として、しっかりと記憶した。(同様に、八代目雷門助六は「踊りの上手い人」、六代目春風亭柳橋は「えらい人」であった。)
特に熱心なファンであったわけではない。でも、何となく好きな落語家だった。最初の出会いがよかったこともあったし、そのほんわかした飄々とした佇まいに惹かれたのだ。(私は華麗な楷書の芸が好きだが、この「飄々」にも弱いのだ。)もちろん、ワゴンセールでこのカセットを見つけたときは、ためらわず購入した。
川崎区渡田に住んでいたので、楽屋では「川崎の師匠」とか「渡田の師匠」と呼ばれていた。京浜工業地帯に住む落語家の師匠というのもユニークだ。(三代目が、向島という粋そのものの場所に住んでいたのとは、これも対照的ですな。)大学時代、私は川崎駅を挟んで反対側の幸区に住んでいた。私が、ちょっと長い散歩をすれば行けるような所に、柳好はいたのだ。
晩年は協会のゴタゴタに嫌気がさし、体を壊したこともあって、芸術協会を脱退した。酒乱であったとも聞く。ただのほんわかした人じゃなかったんだな。何かしらの屈折が柳好にはあったのだ。
もうちょっと聴いておけばよかったな、と今さらながらに思う。

2011年7月25日月曜日

おきにいりのおきもの


猫が好きなのだが、息子がアレルギー性鼻炎なので、飼うのを我慢している。
その代わりといっては何だが、かわいい猫の置物があると、つい買ってしまう。
釣り猫と魚を持っている猫は、笠間の「かつら陶芸」の敷地内にある雑貨屋で買った。釣り竿は、息子が折ってしまったのを、ボンドと紙で修繕した。小さくて見えないかもしれないが、その手前にある、肘枕で寝ている黒い猫は、この間、妻と出かけたとき、笠間稲荷近くの雑貨屋で買った。
この他に、落下傘猫や野球猫もいる。
素焼きの家と馬に乗った男はペルー製。25年ぐらい前、日光からの帰り、杉並木にある雑貨屋で買った。今、ペルー製の置物はけっこう見るけど、当時はあまり出回っていなかったと思う。大きさ、形、共にいい。あの震災でも運良く壊れなかった。

2011年7月20日水曜日

寄席の日

落研では、週に1度、昼休みに校内寄席を開いていた。
教室を借りて、そこに高座を作る。当然準備のために時間がいる。そこで、その日は11時半の集合になる。
高座を作るためにはいくつか用意するものがある。金屏風が2枚。大太鼓。〆太鼓。座布団。毛氈。ガムテープ。めくり台とめくり。ネタ帳、墨汁、筆。出囃子のテープとラジカセ。これを1年生が手分けして運ぶ。しかも、全力疾走だ。金屏風は男が担ぐ。これが重い。手が足りないときは、大太鼓を肩に担ぎ、〆太鼓を手にぶら下げて走る。毎週水曜日は、このように学内を落研の法被姿で走る1年生の姿を必ず見ることが出来た。
大急ぎで高座と客席を作ると、呼び込みへ走る。「落語いかがですか」と客を呼ぶ。
太鼓を覚えると、呼び込みをやらずに済んだ。まず一番太鼓を入れる。ドンドンドントコイと打つ、プロの寄席で開場を知らせる太鼓だ。そして、お客が入ると、2人組で二番太鼓を打つ。これもプロの寄席で入れる開演を知らせる太鼓である。一番も二番も、プロのものよりは少し叩きやすいようにアレンジしてあった。二番が終わると、シャギリの太鼓を入れて、前座の上がりを流す。
出演者は前座、二つ目、真打ちの3人。持ち時間は1人10分~20分といったところだ。お客はいつも10人ほどは入ったと思う。真打ちの時は、呼び込みも入って噺を聴く。私が1年の時の4年生では、金瓶梅さんの『だくだく』『勘定板』、紫雀さんの『無精床』『蜘蛛駕籠』、艶雀さんの『もぐら泥』、一生楽さんの『寄合酒』、小柳さんの『権助魚』などが心に残る。
真打ちの噺が終わると、追い出しを打つ。デテケデテケと叩く。部員は「ありがとうございましたー」と声を張った。
そこから大急ぎで後片づけ。準備の時と同じように、1年生はもろもろのものを担いで部室へと走るのだった。(もちろん出演した前座も着物姿で走るのだが、雪駄は走りづらかったなあ。)

2011年7月17日日曜日

模倣と創造

RCサクセションが、仲井戸麗市を迎え、スーパーバンドに変身した時、モデルとなったのはローリングストーンズだった。忌野清志郎はどう見てもミック・ジャガーの真似だったし、仲井戸麗市のポジションはどう見てもキース・リチャーズだった。でも、彼らの楽曲は紛れもなく彼らのオリジナルだったし、彼らの世界は紛れもなくRCサクセションだけのものだった。だからこそ、我々は彼らを強烈に支持したのだ。
模倣と創造は永遠のテーマだが、純粋なオリジナルなど果たして存在するのだろうか。
古今亭志ん生が噺をしていると、楽屋では「圓右の真似じゃねえか」とか「三語楼の真似じゃねえか」とか言う年寄りがいたらしい。初代三遊亭圓右の速記を読むと、確かに志ん生の口調に似ているし、初代柳家三語楼が死んだ時、向かいに住んでいた志ん生が三語楼のノートを持ち出して行ったというエピソードも有名だ。多分、志ん生は圓右の口調に三語楼のギャグを乗せて売り出したのかもしれない。でも、我々にとっては、あれはまさに志ん生の世界以外何ものでもない。
三代目三遊亭圓馬写しの落語家として、八代目桂文楽と三代目三遊亭金馬の二人が挙げられるが、この二人が似ているかと言えば、そんなことはないだろう。
春風亭小朝が売り出した頃、私たちは「志ん朝の物真似だ」と言っていたが、今ではもうそんなことを言う人もいない。
三代目柳家権太楼の落語には、桂枝雀、立川談志の影響を色濃く感じるが、もはやあれも権太楼ワールドとしか言えないものになっていよう。
立川志の輔も談春も志らくも、師匠談志の口調そのものだが、誰も彼らを談志の物真似とは思わないだろう。
こうしてみると、優れた表現者は、模倣から出発しても、結局はオリジナルな個性を確立させるものなのだ。陳腐な結論かもしれないが、事実は往々にしてありふれたものなのかもしれない。
一方で、オリジナルな個性を確立できなかった悲劇を、私たちは春風亭一柳に見ることができる。彼は師匠六代目三遊亭圓生の影法師と呼ばれ、生涯その呪縛から解放されることなく、自ら命を絶った。
芸というものは、非情で残酷なものだな、とつくづく思う。

2011年7月16日土曜日

こどもや


茨城町小鶴の「こどもや」。
私が大好きな建物。
看板の絵なんかキッチュでいいでしょ。
震災でどうなったか心配だった。
少しは影響があったみたいだけど、元気に営業中。
よかった。

2011年7月13日水曜日

落研部員の一日

落研の活動は、月曜から金曜までは昼休みに行っていた。
私の場合、1限目の授業に出た後、学食で朝飯を食い、2限目の授業に出るか、そのまま部室へ行った。
部室は坂道を上ってきて最初の建物、通称「螺旋階段」と呼ばれる棟の中にあった。向かい合わせで二部屋を落研が所有し、一つを通常の部室、もう一つを和室として使っていた。
和室は落語の稽古をつけてもらったり、寄席の時に着替えをしたり、上級生から説教されたりする神聖な場所で、普段は飲食禁止だった。(学祭のコンパの時だけは開放され、大手を振ってそこで酒が飲めた。)
1年のうちは、先輩を待たせるのは御法度なので、皆息を切らせて部室に飛び込んでくる。(私はそれが嫌で2限目の授業に出なくなっていった。)
そこで、約1時間活動をする。細々したことは大福さんの方が詳しいだろう。(何せ彼は代表をやっていたからね。)確か、月曜は近くの緑地公園へ行って発声練習(もちろん、1年は全力疾走で移動、…って野球部か)、水曜は教室を借りて校内寄席(もちろん、1年は全力疾走で移動、…って野球部か)、他は「落語鑑賞会」とか「大喜利」とかやっていたなあ。
活動が終わると、昼食になる。1年はまず先輩に「今日はどこですか?」と訊く。「上」と言われたら、さらに少し坂を上った所にある食堂館、「下」と言われたら、すぐ向かいにある森永食堂という意味だ。そこからまた1年は全力疾走。座席を確保し、水を用意する。そして、先輩が入ってくると、「何にしますか?」と訊いて、食券を購入する。基本的に昼飯は先輩が奢ってくれるが、先輩より高いものを食べるのは許されない。だから、森永だったら、150円のランチか130円のカレーをよく食べた。
食後の一服をする先輩には、もちろん火をつけて差し上げる。ライターを使っていいのは2年から。1年はマッチしか使ってはいけない。すぐに火をつけられるように、2本は箱から出して蓋と箱の間に挟んでおく。
食事が終わると部室に戻り、暫し雑談。そのうち麻雀に行こうという話がまとまれば、馴染みの雀荘「みどり」へお供する。寄席と言われれば、新宿末廣亭か池袋演芸場へ。飲みと言われれば、これまたほいほいとついて行った。
それじゃあ、午後の授業はどうしたんだ、という声もあるかもしれない。申し訳ない。ほとんど出なかった。だけど、それが当時の落研部員の(とりわけ男子部員の)ごく普通の姿だったのだ。
(もっとも、私の後輩からは授業によく出る人たちが増えた。彼らの言い分は「だって授業料がもったいないでしょう。」というものだった。もっともだとは思ったが、一方で私たちは「この頃の1年は授業に出やがる。」なんてことを言っていた。今思うと、とんでもないこと言っておりましたなあ。)

2011年7月7日木曜日

森鴎外『渋江抽斎』

高尚だが退屈だと評判の鴎外の史伝である。
それが面白い、と言えば、スノッブに思われるだろうか。いや、それでも十分面白かった。
解説にも書いてあったように、これを小説のように読んじゃ駄目だな。いやね、ひょんなことで知ったんだけど、幕末の漢方医で渋江抽斎という人がいてね、この人が本業は医者なんだが、儒学をよくする文芸の徒でもあり、演劇の通でもあるという、私の先達みたいな人なのよ、というような鴎外さんの随談を聞くような心持ちで読んだ方がいい。
それがさあ、友達にも面白い人がいて役者の真似事をして主家をクビになった人がいたり、息子も放蕩者で苦労したり、そうそう最後の妻が女傑でねえ、なんていう風に話が広がっていくのも面白い。
幕末の漢方医群像といった趣もある。とすれば、手塚治虫の『陽だまりの樹』とは合わせ鏡のような感じもする。(手塚の方は幕末の蘭法医が中心の話だ。)併せて読むと、また面白いと思う。
この話は文庫で342ページあるのだが、何と161ページで、渋江抽斎は、コレラのために、明治を待たずに死んでしまう。それも凄い。主人公が話の半分もいかないうちに死んでしまうのだ。そんな小説なんかないよなあ。
その後は、抽斎亡き後の渋江家が丹念に描かれる。
私が好きなのは、抽斎最後の妻、女傑五百だ。抽斎の晩年、渋江家に暴漢が押し入った。五百は入浴中だったが、腰巻き一枚の姿で匕首を武器に暴漢を追い払ったというエピソードがある。坂本龍馬の妻お龍を思わせるが、あっちは刺客の到来を報せただけ。五百の方が数倍勇ましい。
それから、抽斎の娘陸。この人は明治になって砂糖店を経営した後、長唄の師匠となった。砂糖店をやっていた頃は、士族の商法の成功例として、あの三遊亭圓朝が噺の枕で振ったほどだった。長唄の師匠としても杵屋勝三郎門下の重鎮として活躍した。鴎外という人は、こういう一本筋の通った女の人が好きなんだな。
敷居は高かったが、決して乙にすましたものではない。かえって飄々としていい話だったよ。

2011年7月6日水曜日

阿見を歩いた


先日、仕事で阿見へ行った。
合間に散歩したが、広いねえ、阿見は。
私の好みは古い町並みを見て歩くことだが、そういう区域がどこにあるのか、見当つかない。
古いものでは海軍殉職者の慰霊碑が、幼稚園の隣にあった。もとは神社だったのだが、戦後撤去されたのだという。阿見は予科練の町である。そういえば資料館があったのを思い出したが、歩いて行くには遠すぎる。
ビッグボーイで昼食をとりながら、雑誌『SIGHT』を読む。特集は「自民・東電・メディアが作った原発ニッポン」。
それにしても、この国は戦時中とちっとも変わらないのな。原発も戦線も、いつの間にか取り返しのつかないほど拡大してしまったし、大本営発表の「転進」と、ついこの間までよく聞いた「ただちに健康には影響しない値です」という台詞も同じようなものだし、言論統制も行われていたわけだし、全く何やってたんだか。今さらながらに腹立たしい。
食後のコーヒーを飲んで、仕事に戻る。いやあ暑かった。
写真は散歩中見つけたお菓子屋。「ニコまん」って何だろう。ちょっとそそられるな。

2011年7月5日火曜日

筑波昭『津山三十人殺し』

読んでいて暗澹とした気分になる。でも、先を読まずにいられない。
昭和13年、日中戦争勃発の年、岡山県の山村で起きた大量殺人事件の記録である。
前半は事件の資料が淡々と綴られ、後半は犯人の生涯を丹念に辿っていく。
犯人都井睦雄は、両親を肺病でなくし、祖母に溺愛され、学校一の秀才として育った。しかし、中学進学を断念、その後肋膜を病んだことを理由に仕事もせず引き籠もる。
やがて都井は悪友から女の味を教えられ、漁色に耽るようになった。彼の暮らす山村には夜這いの風習があり、人妻でも簡単に体を開いた。都井はある時は強引に、ある時は不倫の証拠を突きつけて脅し、ある時は金を餌に、複数の女との関係を重ねた。
そんな折、都井は徴兵検査で肺病と診断され、衝撃を受ける。死病を患ったと思い込んだ彼の夜這いは、無節操で無軌道で、かつ執拗なものとなった。その結果、女たちは都井と距離を置くようになるが、彼は女たちが離れていったのを肺病ゆえの差別ととった。
都井は恨みを募らせ、女からの罵詈雑言を浴びるに及んで、殺意を膨らませた。そして、自家の田畑山林を抵当に入れて手にした大金で、武器を買い集め凶行の準備を始める。一度は警察に通報され取り調べを受けたが、涙ながらに更生を誓い、その場をやりすごした。この時、集めた武器を取り上げられたのが、かえって都井に凶行を決意させた。
再び武器を調達した彼は、電線を切断して集落を停電させ、5月21日午前1時、自分を溺愛した就寝中の祖母の首を、斧で一刀のもとに刎ねたのを皮切りに、集落の人々30人余を次々と殺戮した。極めて冷静に、極めて無慈悲に、である。標的は関係した女が中心であったが、結果的には年寄りから幼児に至るまで老若男女誰彼かまわずといった状態であった。最後は逃げ込んだ山の頂で凶器の猟銃を以て自殺を遂げる。都井の死亡推定時刻は午前3時、まさにこの凶行は「丑の刻」に行われたのだった。
それにしても凄まじい客観描写だ。筆者は一切の感想も心理描写も差し挟まない。圧倒的な事実のみを積み上げる。それが人間の暗部をありありと描き出す。外界と隔絶した山村で繰り広げられる性の饗宴、そのために引き起こされる惨劇。憎悪を膨らませ悪鬼へと変貌していくかつての秀才とくれば、どこか『山月記』の李徴を連想させるが、李徴の虎など足下にも及ばないほど恐ろしい。これが事実であることに戦慄する。しかも、この凶行の引き金となったのは、とどのつまりは色と欲だ。本当に人間は恐ろしい。
筆者は元新聞記者。あとがきを読んで驚いた。彼がこの事件に関心を知るきっかけとなったのが、昭和29年に茨城県鹿島郡徳宿村(現鉾田市)で起きた、一家9人毒殺放火事件に対する取材であったという。そうか、わりと近くでそんなことがあったのか、ちっとも知らなかった。思わず鳥肌が立った。

2011年6月28日火曜日

川崎に住んでいた


大学時代、私は川崎のアパートに住んでいた。
川崎駅西口からは20分程、南武線尻手駅からは10分程歩いた所。通りから路地に入った木造2階建てで名前は「幸和荘」といった。四畳半一間で家賃8千円。当時でも破格の安さであった。
地元の国立大を落ちて、一人暮らしをすることが決まった。川崎の親戚が自宅の敷地内でアパートを経営しており、そこなら何かと安心だろうと家族も私も思っていたのだが、その時、生憎空き部屋がなかった。そこで、そこから歩いて20分程の所にある、従姉の洋裁の先生の経営するアパートを借りることにしたのだった。
実は川崎以外にもアパートの候補はあった。同じ大学に通っていた従兄が卒業するので、彼のアパートをそのまま借りないかという話があったのだ。場所は下北沢。もし、そこを借りていれば、私の青春は違ったものになっていただろう。だが、初めての都会暮らしの不安から、なじみのある川崎、近くに親戚がいるという安心の方を、私は取ったのである。
大学で友達になった人たちは、皆小田急線沿いに住んでいた。落研の同輩も、そっちへ引っ越すように勧めた。実際、通学には小田急線の方が便利だった。当時、中原中也にかぶれていた私は、友達のアパートを泊まり歩いていて、自分のアパートにはあまり帰らなかった。同輩が引っ越しを勧めたのも、私の襲撃に耐えかねたということもあっただろう。
2年になる時、私は同輩に宣言した。「俺、引っ越すぞ。」
「どこだ?狛江か?経堂か?」と同輩が喜ぶ。
「2階だ。」
「え?」
「2階の部屋が空いたんで引っ越すことにした。1階は全然日が差さないんだ。」
何だそりゃ、と随分突っ込まれた。
それでも、引っ越しには悟空、八海、弥っ太の3人が手伝いに来てくれた。昼飯は近くの中華料理屋「ちづる」で肉野菜炒め定食をご馳走させてもらった。
2階は明るく気持ちよかった。その分家賃も上がり1万円となった。
結局、私は4年間、そのアパートにいた。何だかんだ言って、私はあのアパートが、あの界隈が大好きだったのだ。向かいの作業場から聞こえるグラインダーの音、路地で遊ぶ子どもの声、日曜の朝には大家さんの娘が琴を弾いた。しんと静まる冬の夜は「火の用心」の拍子木が聞こえた。私自身は、ゴミ溜めのような部屋で、夜毎サントリーレッドに酔い、無頼派を気取ってはいたが、あのアパートの周りは優しい音で充ち満ちていた。
あの部屋は今も心の中にある。もうちょっと大切にしてやればよかったなあ。

写真は、友川かずきの名曲『歩道橋』の舞台だと私が勝手に決めている、尻手駅近くの歩道橋から見える一角。ここは見事に昔のままだ。

2011年6月23日木曜日

『子別れ』から思いを巡らす

大福さんの『子別れ』の文章を読んで、色々考えた。
柳家小三治の『子別れ』通しのCDは、私も持っている。1983年9月の録音か。私が大学を卒業した社会人1年目の年だ。そうか、大福さん、この高座を観ていたか。いいなあ。いい出来だ。私はこの中では、地味だけど「中」が好き。ここがあるから「下」が生きる。この「中」が小三治の凄さを感じさせる所だ。
実の親子という点では、本当にうろ覚えだけで、はなはだ心許ないが、あえて調べずに書くけど、『文七元結』に、長兵衛の娘は彼の連れ子で、おかみさんの実の娘ではないという演出があったような気がする。間違ってたらごめんなさい。でも、それはありだと思う。娘は実の父親の情けなさと継母への申し訳なさから、自分の身を売ろうとしたのかもしれない。
それにしても、落語に共通するのは、駄目な男とそれを受け入れる女、立ち直らせる女、許す女、という組み合わせだ。
色川武大は『名人文楽』という文章で「文楽の落語は男の呟きだ。」というようなことを書いていたが、こう考えると、やはり落語というのは「男の呟き」に他ならないな。男は、駄目な自分を、女に受け入れてもらい、立ち直らせてもらい、許して欲しいものなんだ。
確かに大福さんが言うような設定の落語も聴いてみたい。そのためには多分、女性落語家の視点が必要になるかもしれないな。
大福さんの文意からは大分それた。申し訳ない。あの文章から大福さんの今が、少し分かったような気がした。
軽々しくは言えないが、きっと大丈夫、きちんと誠実に向き合っていけば何とかなるもんだ。幸せの形は人の数だけあるさ。
大福さんの幸せを祈る。

2011年6月21日火曜日

上田毅八郎『上田毅八郎の箱絵アート集』


「箱絵」というのは、プラモデルの箱のことである。あの、プラモデルの箱に描いてある細密画の画集なのだ。
私たちがガキの時、プラモデルの花形といえば、旧日本軍の戦艦や戦闘機であった。
私の母の実家が霞ヶ浦のすぐ側で、泊まりに行った時、どういうわけか従兄に戦艦大和のプラモデルを作ってもらった。それを霞ヶ浦に浮かべて遊んでいるうちに、いつの間にか沈んでなくしてしまったことがある。あの箱の颯爽と白波を切って走る戦艦大和の絵は、今も心に焼き付いている。
作者は旧日本海軍の兵士。乗り込んだ船が6回も撃沈されたにもかかわらず、その度ごとに奇跡の生還を果たす。戦争で利き手の右手の自由を失うが、戦後左手で絵を描き始めた。あの精密な絵は、実は利き手で描いたものではないのだ。そのことに、まず驚愕する。
大和、武蔵、榛名、陸奥、長門などの戦艦、妙高、筑摩などの巡洋艦、赤城、加賀などの航空母艦はもちろん駆逐艦、潜水艦から輸送船、病院船に至るまでの艦船の数々、ゼロ戦、紫電、隼などの戦闘機が、ページを捲るたびに目に飛び込んでくる。まさに圧巻だ。しかも、錆や塗装の剥がれなど細部も忠実に描写されているは、海域によっての海の色や天候による波の切れ方、煙のたなびき方なんかも描き分けられているは、もうとんでもない描写力なのだ。
途中に挿入されるコラムがまたいい。作者の職人気質を遺憾なく伝えてくれる。きっぱりとした骨太な言葉が心に迫る。
先日、新聞の記事で、ある戦争体験者が「日本はあの戦争で300万人が死に、全国が焦土と化した。我々はあそこから復興を果たした。今度だって出来ないことはない。」というようなことを言っていたのを読んだが、その通りかもしれない。この世代の凄みを感じるなあ。
利き腕の自由を失い、塗装業の傍ら、戦友の鎮魂のために描いた6000点の中から厳選された傑作選。決して兵器マニアでもない、あの戦争を賛美するものでもない私が圧倒された。大事な本が、またひとつ増えました。

2011年6月20日月曜日

笠間に行く


平日の休み。妻と笠間へ行く。
まずはお稲荷さんにお参り。雑貨屋で小さい猫の置物を買う。
共販センターに寄ってみると、震災で割れたお気に入りの皿と同じものがあった。早速購入。もう一枚、気に入ったのが見つかり、それも買う。
昼食は、芸術の森近くのカフェでランチ。妻はチキンの香草焼き、私はジャーマンポークのセット。けっこう奥様たちで賑わっていた。旨し。
月曜日で美術館が休みだったので、水戸の方に向かう。久々に内原イオンに入る。
本屋で上田毅八郎『箱絵アート集』とCD屋で泉谷しげるのベスト盤を買う。ちょいと値が張ったが『褐色のセールスマン』が入っていたからなあ。
サーティーワンでアイスを食べて帰る。
ここんとこ忙しくて少々疲れ気味だったが、ようやくのんびりできた。いい休みだったな。

写真は4月の初めに撮った、笠間稲荷側の路地の奥にある「昭和館」。好きな建物だったんだけど、震災で屋根が落ちてしまったようだ。私の好きな建物のほとんどが震災の被害を受けている。趣味の散歩も楽しくなくなっちゃったなあ。

2011年6月17日金曜日

長生きしてえな、と清志郎は歌った

このところRCサクセションの『カバーズ』を聴いている。
ここで歌われる、『ラブ・ミー・テンダー』や『サマータイム・ブルース』で危惧されたことが、現実のものとなってしまったのだなあ。
このアルバムは、原発批判の曲を収録していたために、彼らが所属していた東芝EMIから発売することが出来なかった。こんな形で表現の自由は潰されようとしたのだが、このような事態になっても、シンガーソングライターが原発の安全神話を「みんな嘘だったんだぜ」と歌った動画が削除されたり、芸能人が反原発の意見を書き込んだブログが閉鎖されたりといったことが起こっているらしい。
まさに「何やってんだ、じょうだんじゃねえ」だ。
『カバーズ』は、清志郎の絶唱『イマジン』で終わる。絶望的な状況を鋭く攻撃しながら、清志郎は最後に希望を歌うのだ。清志郎、やっぱりあんたはかっこいいぜ。
残念ながら、今この地平に清志郎はいない。だけど、きっと彼はどこかで私たちを見ている。清志郎に恥ずかしくないように、私たちも頑張んなきゃな。

2011年6月16日木曜日

バルザック『谷間の百合』

古くさい小説が読みたくなって読んでみた。
有り体に言えば、若者が人妻に恋をして自分の恋心を縷々と述べる、貞淑な人妻は若者に好意をほのめかしながらも決して恋情に身を任せることはしない、若者苦悩する、といった話だ。
ナポレオン失脚後の王政復古時代、フランスの貴族社会が舞台。大時代的な台詞廻しが多く、最初は読みづらかった。
若者、フェリックスは、人妻モロソフ伯爵夫人に魅了され、彼女の住むアンドルの谷間に足繁く訪れる。夫モロソフ伯爵は人格破綻者、加えて病弱な二人の子どもを抱える夫人は、気高く清楚な、谷間に咲く百合そのものであった。
この夫人にフェリックスが言い寄る、言い寄る。やはり押してみるもんだなあ、夫人もまんざらではない雰囲気になってくる。ところが、貞淑な妻、母親でありたい夫人は、させそでさせない。
伯爵はとんでもない悪役として描かれているが、考えてみりゃ可哀想だよな。絶世の美女を妻にしながら、子どもを二人作った後は体を許してもらえないのだ。人格的に問題があったにしろ、そんな環境が彼の破綻を加速させたのは言うまでもない。
まあ夫人としても、美しい若者に、させそでさせない関係はそれなりに快いものだったのだろう。しかし、フェリックスが栄達を果たし、ダドレー夫人の強引な誘いに惑わされ恋仲になると、そうはいかなくなってくる。
このダドレー夫人の登場から、俄然面白くなってくるぞ。ダドレー夫人は、あらゆる意味でモロソフ夫人とは対照的な存在だ。自分の欲望に正直、夫や子どもなどほったらかしにしてフェリックスとの恋に生きる。高慢で淫乱、モロソフ伯爵夫人が純白の百合なら、ダドレー夫人は深紅の薔薇だ。そりゃあ男はやらしてくれる女の方に行くわなあ。フェリックスはダドレー夫人を悪く言っているけど、その道を選んだのは自分だもんな。ぐじぐじと言い訳をしているに過ぎないよ。多分フェリックス自身、それに気づいているに違いないけどね。
モロソフ夫人は貞淑であろうという精神とフェリックスと結ばれたい肉体との矛盾に引き裂かれ、やがて死の病に取り憑かれる。モロソフ夫人死の直前の肉の叫びから、目をそらそうとするフェリックスを、私は卑劣だと思う。結局、彼はモロソフ夫人を清純な檻の中に入れておきたかったのだ。男は情けないな。モロソフ夫人の娘マドレーヌから投げつけられる、「またご自分のこと、いつでもご自分のことばかり」という言葉が痛い。そうなんだ、男はいつでも自分のことばっかりなのかもしれない。苦労人バルザックらしく苦い味わいを残してくれる。これは絶対純愛小説ではないと思う。
しかも、この話をただの悲恋に終わらせない皮肉な結末をバルザックは用意するのだ。この親父、本当に一筋縄ではいかない男だなあ。

2011年6月12日日曜日

入部の日

私は大学の時、落研にいた。今から30年以上も前の話だ。
随分昔のことだが、私にとっては濃密な日々だった。その頃の話を新シリーズで始めようと思う。(もちろん大福さんのブログの影響は大である。)
あの頃は私も未熟だったし、とても人様に言えないようなことをした覚えもある。あまり関係する人に迷惑のかからない範囲で、時系列にもこだわらず、気楽にぽつりぽつりと書いていくつもりだ。
まずは入部の日から。
同輩は通算で13人いたが、その中で私は入部順では8番目だった。新入生勧誘期間も過ぎた4月も半ば、直接部室に行って入部を願い出たのだった。
中学の時に落語を知り、ずっと好きだった。中学卒業の時の謝恩会では『寿限無』を演って喝采を博した。
もちろん大学では落研に入りたい気持ちもあったが、勧誘期間では声も掛けてもらえなかった。一度、サイクリングの愛好会に誘われて入ったものの、自転車を買わなければならないと言われてすぐ辞めた。ここで落研に入らなければ、一生後悔することになる、と悲壮な決意を持って部室のドアを叩いたのだった。
部室には何人かの先輩がいて、親切に説明してくれた。部員名簿に名前を書くと、先輩は優しく言った。「髪はスポーツ刈りにしてもらうよ。」
そう、当時、男子新入部員は短髪にするという決まりがあったのだ。ちょっと抵抗はあったが、中学の時は丸刈りだったのだ。それに特別な感じがしていいじゃないか。などと思っているところへ、短髪にした1年の男子部員が5人(このうち2人はすぐ辞めた)、女子部員が2人、暗い顔をして部室に入ってきた。後で聞いた話では、向かいにある和室で諸注意(いわゆる説教)を受けていたということだった。
帰りは、代表の雀窓さんの下宿に飲みに連れて行ってもらうことになった。同輩の男3人も一緒だった。
雀窓さんの下宿は狛江にあった。途中、鯖の缶詰や魚肉ソーセージなんかを買い込む。雀窓さんは普通の家の一間を借りていた。まずはビールで乾杯。日本酒にも手を出し始める。私を含め新入生4人、酒を飲むのは初めてに近い。すぐに愉快になった。雀窓さんが「この家にはもう一人下宿人がいて、こいつがなかなか気難しいんだ。少し静かにしろよ。」言うと、我々は「大丈夫ですよ。矢でも鉄砲でも持ってこいってんだ。」と気炎を上げた。
大分夜も更けて、私は同輩の1人とトイレに行った。私が用を足していると、ドアの向こうでぼそぼそと声が聞こえた。「…何時だと思っているんだ。いい加減にしろ。」
同輩の怯えた声で「はい」という返事がかすかに聞こえる。二人の会話が終わるのを待って、私はトイレを出た。
「お前、何で早く出てこないんだよ。」同輩が言った。「あいつ、日本刀持ってたんだぞ。」
矢だの鉄砲だのとは誰かが言ったが、日本刀は言っていない。雀窓さんの話では、その人は他の大学で事務の仕事をしており、日本刀の収集が趣味だという。
落研入部1日目、波乱の幕開けであった。

2011年6月8日水曜日

古今亭志ん朝と蕎麦

今はもう出ていないが、かつて月刊『太陽』という雑誌があった。1998年12月号、特集は「そばを極める」だったが、ここにあった古今亭志ん朝の談話がいい。本にもなっていないし、もったいないので、ここで一部を紹介することにする。タイトルは『ささやかな道楽』である。
「あたしは、こういうそばじゃなきゃ駄目ってのはないんです。丼ものを置いてある店なんて何がうまいもんかとおっしゃる方もいますけどね。万人に好かれるように味付けをしてきちっとやってたら、まずかろうはずがないんですよ。
時と場合によっては、腰の強いしっかりしたそばは食べたくない…なんてこともある。風邪ぎみなのを酒の勢いで治そうてんで、前の晩にわっと飲んで二日酔いで目を覚ます。なにか胃にやさしいものをなんて思いながら、バス停の前にあるようなごく普通のそば屋に入って、卵とじとか、餡かけなんかを頼む。するとね、つなぎの多い腰の強くないそばなんですが、胃にやさしくて、とてつもなくうまいと思うんです。」
ね、いいでしょう。志ん朝の声が聞こえるようだ。ここで、志ん朝は自らの志向するものについても語っている。「ごく普通のそば屋」で、「万人に好かれるように味付けをきちっとしてやる」のが好き。志ん朝の世間での評価はまぎれもなく名人であったが、自身はあくまで「普通の芸人」であろうとした。名人と奉られるよりも、芸人仲間との気楽な交友を彼は好んだという。
話題はそばが好きになったきっかけを経て、そばの旨いシチュエーションに及んでいく。
「今日一日仕事がないてえと、朝は納豆と魚の開きなんかでもってすまして、カメラをぶらさげて出かける。ずいぶん歩くんです。途中そば屋に寄ってね、映画の一本も観て、いっぱい飲んで帰って来るってのが楽しみなんですよ。なにが一番いいかっていうと、朝のうちに今日はどんなそばを、どこそこのそば屋で食べようって考えるのが楽しい。ささやかな道楽なんですよ。
暖簾をくぐりますとね、やっぱり最初はビール。それから酒にするか、あれば焼酎をもらう。肴は店によって違いますが、室町砂場だったら玉子焼きに酢の物、連雀町の藪なら合鴨とねぎの合焼き。それにぬき。浅草なら並木藪蕎麦のそば味噌がいい。そば味噌だけで十分ですよ。それと尾張屋で玉子豆腐と、あればそら豆、ここのは、ゆで加減が性に合っているんでしょうか、うまいと思いますね。」
うーん、今すぐそば屋に行きたくなるな。
この後、自分でそば屋のネタを使って創作するという話になる。これがまた旨そうなんだ。決して贅を尽くしているわけではないが、そそられる。まさに「ささやかな道楽」だ。
そして、こう締める。
「妙なこだわりがなくて、きちっとそばや丼ものを食べさしてくれる。そんな店がやっぱりいいんです。」
志ん朝もそういう芸人であろうとしたのだろう。これはもう芸談と言ってもいいんじゃないかなと思う。
もし志ん朝の談話集なんて本が出たら、是非とも載せて欲しい文章です。誰かそういう本、作ってくれないかなあ。

2011年6月6日月曜日

神栖に泊まる


週末は仕事だった。
午前中に1つ仕事を済ませ、別の仕事で神栖に向かう。
途中、鹿嶋の華禄というラーメン屋で昼食。とんこつラーメンとミニ豚丼。旨し。
夜は打ち上げ。宴会後、流れでがんこや。みぞれラーメン、生ビール。
1日にラーメン2食は20代の時にやったことがあるが、さすがに今はきつい。
ただ、みぞれラーメンは見た目よりあっさりで旨かった。
神栖セントラルホテルに投宿。温泉パックで朝食付き7000円。
翌朝はバイキング。ホテルの朝食は久し振り。私はこういう時、基本的に洋食を選ぶ。パン、コーンフレーク、ポタージュスープ、スクランブルエッグ、ベーコン、サラダにグレープフルーツジュース。食後はコーヒーを飲みながら新聞を読む。いいねえ。
帰りは、大福さんのあやめ祭りのブログを思い出し、潮来市街を通る。
やはり液状化がひどかったんだろうなあ。電柱が傾いている。
街はあやめ祭りの真っ最中。時間が早いので、まだ人は少ないが、何となく華やいだ雰囲気。娘船頭さんの呼び込みが至るところにいる。
2月の末、宴会をやったあやめ旅館はどうやら無事なようだ。中にはけっこうなダメージを受けていた建物もあったな。
潮来から牛堀へ。北斎の富岳百景に描かれた所だ。土浦から潮来までの定期船が通っていた頃は栄えていたらしいが、今は普通の集落といった感じ。
10時少し前、家に着く。一晩家を空けた埋め合わせといっては何だが、妻子を連れてつくばへ遊びに行く。

2011年6月3日金曜日

京須偕充『こんな噺家はもう出ませんな』

名人論である。
優れた落語家は数多いたが、名人と呼ばれた人は限定される。
最高峰、三遊亭圓朝。話術では師圓朝を凌ぐと言われた四代目橘家圓喬。
大正期の初代三遊亭圓右、三代目柳家小さん。
この四人がその昔、名人と呼ばれた人たちだった。
そして、昭和30年代以降、八代目桂文楽を筆頭に、五代目古今亭志ん生、六代目三遊亭圓生の三人が昭和の名人としての地位を得ていく。
その名人誕生の過程の分析がすこぶる面白い。特に「昭和の名人」については、著者が時代の体験者であるだけに説得力がある。ああそうだったのか、とぐいぐい読ませるな。特に桂文楽が、昭和の「俺たちの名人」だったというのは興味深い。
私たちにとっての「俺たちの名人」、古今亭志ん朝も登場する。しかし、彼はもはや「名人はもう出ない」という価値観に生きる人であった。三遊亭圓生のように、名人を目指し、ぎらぎらした野心を剥き出しにすることはない。志ん朝のそういう名人観もやはり彼らしい。
タイトルの『こんな噺家はもう出ませんな』というのは、四代目圓喬の噺を聴いた客が、思わずもらした言葉である。八代目文楽が若い頃それを聞いて、圓喬の名人芸を語る時には必ずその言葉を引用したという。もはや名人は出ないという志ん朝の考えに通じるし、さらに言えば、著者もそう思っているのだろう。
名人へのオマージュを語る美しい本だと思う。
ただ、この本に私が思う「平成の名人」、古今志ん朝、柳家小三治は登場するが、立川談志は一切出てこない。筆者の好みではないのだろうな。でも、小林信彦にも言えることだが、談志を無視するのは、フェアじゃないと私は思う。好むと好まざるとに関わらず、文楽・志ん生後、並び称される存在といえば、志ん朝・談志であることは誰もが認めるところだろう。談志をきちんと論じないことは、著しく客観性を欠いているのではないかと思う。吉川潮の評論が、(反対の立場から)客観性を欠いているのと同じようにである。談志を認めないのであれば、取り上げてきっちりと批判すべきだ。無視はいけない。
まあ、きっと東京人の著者にとって、そういうのは野暮なことだったんだろうな。でも、それでいいんだろうか。

2011年5月29日日曜日

雨の一日


台風2号の影響で1日中雨。
ぼんやりと本を読んだり、テレビを見て過ごす。
本は、嵐山光三郎『悪党芭蕉』。
テレビは『鶴瓶の家族に乾杯』。被災地、石巻への再訪編だ。見ながら、ぽろぽろ泣けてくる。笑福亭鶴瓶の飾らない人柄、地元の方々の健気な姿が胸に迫る。
昨年の夏、私は仕事で福島へ行った。その時は郡山と福島で仕事をした。この福島を代表する2市では、現在1時間あたりの放射線量が、私の住む地域とは一桁違うのだ。一緒に仕事をした方たちを思う。皆、朴訥とした優しい人たちだった。
私の愛読している、TVブロスという雑誌があって、その最新号に福島訪問記が載っている。(この雑誌は、原発事故直後にいち早くメルトダウンを指摘していた。)そこでは、目に見えぬ放射能の不安を抱えながら、日常を生きる人々の姿が綴られている。「現場から距離が遠い人ほど放射能を不安に感じる」という言葉が重い。
写真は、昔、福島で買った会津焼のお地蔵様。原発事故の一日も早い収束を祈る。

2011年5月26日木曜日

六代目三遊亭圓生

昭和の名人といえば、文楽・志ん生・圓生である。
そして、この中で私が間に合っているのは、圓生だけなのである。
もしかしたら、私が噺を聴いている中で最も上手いのが、この圓生ではあるまいか。
小学生の高学年の頃だったか、テレビで『包丁』を観た。
『包丁』という噺は、女房と別れようとした男が、友達に女房に言い寄らせる噺だ。およそ小学生が聴くような噺じゃない。でも、これがよかった。子ども心に上手いなあと思わせるものだった。特に酒を飲みがら図々しく勝手につまみを出し、さらには女房に手を出そうとする場面の上手さといったらなかった。
「あたしが出しましょ」という間の良さ。佃煮を、糠味噌を食べる仕草。その後で言う、「バカウマ」の台詞の面白さ。(当時、圓生は「ハウス本とうふ」という手作り豆腐の材料のCMをやっていて、「バカウマ」というのは、その決め台詞だったのだ。)
その後テレビで観た『掛け取り万歳』での芸域の広さ、ラジオで聴いた『鼠穴』の劇的な展開などにも魅了された。
確かに上手い。技術は最高だろう。
だが、それは認めながらも、やがて私は少し圓生から距離を置くようになる。
私は圓生の落語に、どこか「生な感じ」を感じるようになった。感覚的なものでしかないかもしれないが、剥き出しの欲のようなものを感じるのだ。
圓生という人には、飽くなき向上心があった。言い方を換えれば、それは名誉欲とか権力欲といったものだろう。圓生が芸術院の会員になりたがっていたとか、圓朝を襲名したがっていたとかいうエピソードはそれを裏付けるものだったかもしれないし、春風亭一柳の『噺の咄の話のはなし』に出てくる圓生も、そんなことを想像させるに足る人物だった。
人によっては、私の感じた「生な感じ」は、「いかにも自分は上手いだろうという感じ」に映っただろう。
つまり、「芸は人なり」というが、その部分に私は感応したのだ。
もちろん、私は圓生と直接触れ合ったことはない。落語を通した感じと本などで知った印象だけのことだ。いわゆる先入観でしかない。およそ論理的な判断ではないことは自覚している。ただ、圓生の芸が、私にとってそう思わせるものだったのは確かなのだ。(それもあくまで主観だが。)
だけど、それだけに嫌な奴が出てくる噺は絶品だった。『包丁』、いいよお。『鰍沢』壮絶だよな。『鼠穴』の兄貴の嫌な奴ったらない。『なめる』、いやらしいよなあ。『真景累ヶ淵―お園殺し』の口説きもねちねちといやらしい。好みじゃないが、凄いと素直に思う。文句はない。
昔、私のいた落研では、圓生ファンは1年先輩の美恋さんくらいで、人気はあまりなかった。クラブの活動の中で、落語鑑賞会という落語のテープを聴いて感想を述べ合うってのがあったんだけど、圓生の回の時は「臭くて嫌だ」という意見が連発した。そん時はちょっとむかっときたなあ。「何言ってんだ、圓生だぞ」と、「文句あるか」と。自分だって好みじゃないのに。
私にとっては、そういう複雑な思いを抱かせる名人でしたな。

2011年5月24日火曜日

映画ドラえもんを観る


この前の日曜日、妻子と土浦イオンに行った。
一通り遊び、昼食を食べ、午後は長男が楽しみにしていたドラえもんの映画を観る。
気まぐれな次男は、「僕は観ない」と言って、妻と帰った。
久し振りの映画。前回も子どもとのドラえもんだったな。
けっこう面白かったよ。ドラえもんが何世代にも渡って、子どもたちの心を掴んできたのが分かるような気がした。今回のはロボットの描写が宮崎駿っぽかった。きっとスタッフに「ナウシカ」や「ラピュタ」に影響された人がいたんだろう。そう考えると、老舗にも随分新しい血が流れているんだなあ。
映画館の料金表を見たら、どちらかが50歳以上の二人連れは2000円で入れるという。いつの間にか有資格者だ。今度は妻と観に来よう。もちろんドラえもんではないよ。
夕食は、次男の好きなサイコロステーキを焼いて赤ワインを飲む。一晩中雨。梅雨も近い。

2011年5月20日金曜日

妻とデート


平日の休み。妻とデート。つくばへ行く。
西武とQ’tを行ったり来たり。子ども連れではないので、雑貨なんかをゆっくりと見る。
昼食は、西武の6階のエルベ。ドイツ料理のレストラン。土浦の亀城公園近くに本店があって、昔よく宴会をやった。アイスバインという豚の塩茹でが絶品だった。
本日のランチ。妻は豚のスパイス焼き。私はハンバーグ。旨し。
本屋で新書を2冊買う。
Q’tのフードコートで妻はココアフロート、私はクリームソーダを食べて帰る。
夕食は冷やし中華とそら豆。おふくろが揚げた天ぷら。初夏の味でビールを飲む。
久々の、のんびりした休日でした。