柳家小三治が八代目桂文楽についてこんなことを言っている。
「(小さんに入門して大師匠の文楽の家に挨拶に連れて行かれた時のこと、文楽が)「何でも芸だよ」ってなことを言ったんです。この言葉を今でもずっと覚えていますし、その通りだなと思います。「何でも芸だよ。怖いなったと思ったらそれが芸だ。いいなっと思ったらそれが芸だ」。とにかく何か思ったらそれが芸だってことを二、三度おっしゃいましたよね。教わったのはそれだけですね。ええ。だから、何かを感じたとき、感動したとき、何かに出会ったとき、それが全部芸だ。つまり生きていることすべてがそのまま芸だと言ったんではないかなと、だんだん自分なりに理解を深めていきましたね。」(『小学館CDブック 八代目桂文楽』より)
すごい話だな。文楽もすごいし、小三治もすごい。「生きていることすべてがそのまま芸」。ここには「芸」というものの本質が詰まっていると思う。
生きる中で起きる、心の揺れ、動き、そのひとつひとつを丁寧に拾い、自分の中に大切にしまっておく。そしてそれを表現に結び付ける。いや、むしろ、生きる中で起きる、心の揺れ、動き、そのひとつひとつを丁寧に拾い、自分の中に大切にしまっていこうとする態度そのものが、芸なのではないか。
ここでは、芸は技術ではない。生きる態度なのだ。
文楽は若い頃、四代目古今亭志ん生に自分の女をとられたことがある。志ん生にそのことを打ち明けられたとき、文楽は、激しい嫉妬、屈辱、敗北感に打ちのめされた。一方で、「この気持ちは『刀屋』に使えるぞ」と思ったという。
文楽のしたたかさ、芸に対する貪欲さを示すエピソードだ。だが、それだけではない。文楽は、この体験を『刀屋』という落語に使おうとしたことで、志ん生と女からの裏切りによる負の感情から解放されたのだ。
どんな不運に見舞われても、どんなに負の感情にとらわれても、それを芸にしようとした時点で、その苦しみから距離を置くことができる。そして、それらひとつひとつを丁寧に拾いあげ吟味することで、その苦しみは客観化され相対化されていくだろう。その態度は、結局、自分を守ることにもなる。そう考えることもできる。
文楽が、後に三代目三遊亭圓馬になる立花家左近のもとに稽古に通っていた頃のこと。彼がぼんやり庭の池を眺めていると、左近にいきなり後ろから背中を押された。文楽(当時は小莚)は「あっ」と言って池に転落し濡れネズミ。それを見て、左近はからりと笑って言った。
「小莚、今の『あっ』はいい間だったぞ。忘れるな」
文楽が「何でも芸だ」と思ったのはこの時かもしれない。














