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2014年2月28日金曜日

浅草演芸ホール 2月下席昼の部

中に入ると、入船亭扇里が『持参金』を演っていた。あんまり、後味のいい噺じゃないけどね。「どこの誰だか分からない子どもより、番頭さんの子ならいいか」ってのが、救いかな。
お次は柳家さん八『替り目』。この人は漫談の印象が強い。落語の方は、柳家らしい、手堅くきっちりした演じ方。決して奇は衒わない。でも、そこはかとなく可笑しいんだよな。
ジャグリング、ストレート松浦。熱演。一生懸命さが伝わってくる高座。
橘家圓太郎は『浮世床』の本の件。年末の末広亭と同じ噺。あの時は、昼飯のビールが効いて気が遠くなってしまったけど、今回は最後まで聴けた。肩の凝らない、まさに寄席の噺。
あした順子はピンの高座。相方のひろしが足を悪くして長期休養中のこと。順子が81歳、ひろしは90歳だっていうからなあ。「男はあなた、ひろし」「女は君さ、順子」と歌いながら踊るのを、前座さん相手にやっていた。その後、ひろしのテープの声に合わせて順子が踊る。順子一人の高座も十分面白かったが、ひろしの復帰を切に願う順子の姿に、思わずうるっときちゃったよ。
柳家はん治『ぼやき酒屋』。お得意の桂文枝ネタ。もうこれは自家薬篭中のものですな。
初音家左橋は、新作の小噺をさらっと演って下りた。
花島世津子のマジック。ほんわかした雰囲気がいい。
待ってました、川柳川柳。おなじみの『ガーコン』だが、サゲの足踏み脱穀機までは演らず、軍歌を歌いまくりジャズを演ってお終い。声量が落ちたね。声は相変わらずいい。セピア色の声ってやつですか。次の台詞がなかなか出てこなくなったけど、川柳師匠、いい齢の取り方してるよねえ。
またまた待ってました、柳家さん喬。ネタは『時そば』。これぞ柳家。いいねえ。この人も寄席の至宝になりつつあるんじゃないかなあ。
仲トリは桂文楽の『看板のピン』。ベテランらしい余裕の高座。
クイツキは柳家禽太夫『もと犬』。この人、よくこの出番で見るんだよね。明るい所がクイツキ向きなのかも。
大空遊平・かほり。おなじみカカア天下の漫才。でも実は仲が良さそうなんだよな。
五明楼玉の輔は新作落語。タイトルは知らないけど、がん告知の噺。前にも聴いたな。この人の洒落た感じはいい。
誰かの代演で林家鉄平登場。『紀州』。相変わらず寄り道が多いけど、地噺だからいいんじゃない。ウケてたし。
膝代わりは、翁家和楽社中の曲芸。
今日の私のお目当ては、トリの柳家喜多八。昭和24年生まれだから、もう65歳になるんだ。虚弱体質を売り物にしているけど、噺には勢いがあるんだよね。風貌は三遊系。写真で見る、四代目三遊亭圓生とか四代目橘家圓喬みたいな感じ。名人っぽい。「落語にちょっと飽きたんだよね」と言って、ネタは浪曲の『清水次郎長伝・石松代参』は三十石船の件を落語に仕立てたもの。あの「江戸っ子だってねえ」「神田の生まれよ」「食いねえ食いねえ、寿司食いねえ」の名場面だ。演芸に対するリスペクトを感じるが、私としちゃ直球勝負の落語が観たかったなあ。ま、こういうちょっとばかり屈折した所がこの人の魅力なんだけどね。寄席の高座は一期一会、その時その時を楽しめればいいか。

2014年2月24日月曜日

浅草散歩③

浅草寺にお参りした後は六区の辺りをぶらつく。
この界隈をぶらぶら歩くのが、私は好き。
浅草芸人の聖地といってもいい店、「捕鯨船」。

俥屋さんもけっこういた。

           
国際通りの「三平ストア」。見事に昭和な店名ですな。

路地にはいっぱい雪が残っていた。

尾張屋で昼飯を食べ、仲見世に戻り、お土産に揚げ饅頭と人形焼を買う。
それから、浅間神社にお参り。
観音様の裏っ手を回り、ひさご通りをちょっとだけ歩く。

シメは浅草演芸ホールの昼の部を観る。
寄席のレポートは後日やります。
久し振りの浅草散歩、楽しかったっす。奥さん、ありがとね。

2014年2月23日日曜日

浅草を歩く②

前回の続き。
言問橋を渡る。
花川戸を歩く。
吾妻橋のたもとに戻る。
松屋デパートに神谷バー。
そして、雷門から仲見世。浅草寺にお参り。
浅草寺の境内は善男善女でいっぱいでした。

2014年2月21日金曜日

浅草を歩く①

先日、子ども会の行事があって、妻が「東京にでも行って来たら」と言ってくれたので、ありがたくお出掛けすることにする。
前日、東京は記録的大雪に見舞われていた。
浅草演芸ホールの昼席を観る予定を立て、浅草に向かう。

雪の浅草といえば、学生の頃、弥っ太君と散歩したことを思い出す。
あれは、経堂の弥っ太君のアパートに泊まった翌朝だった。雪が積もっていたことに気付いた弥っ太君が、いきなり「浅草に行こう」と言い出した。
私も異存はない。小田急線から地下鉄を乗り継いで浅草に出る。隅田川沿いをあてもなく歩き出した。待乳山聖天にお参りして、桜橋まで歩いて引き返し、花川戸の喫茶店で、ホットミルクを飲んだ。
夕方、経堂へ帰って、「代一元」に飲みに行ったっけ。

そんなことを思い出し、上野から銀座線に乗って浅草へ。地下鉄浅草駅の改札を出ると、昭和の香りがぷんぷんする。

地上に出て、吾妻橋を渡り、隅田川沿いを歩く。
言問橋が見える。
言問橋のたもと、牛嶋神社にお参り。
結婚式をやっていた。前日じゃなくてよかったねえ。

この後、言問橋を渡って、浅草寺へ向かう。ではまた次回。

2014年2月20日木曜日

2003年 「奥多摩貧困行」を旅する⑤

というわけで、「ぎん鈴」に投宿。部屋を見るなり、T君は「伝助君、でかした。」と言った。
素敵な部屋だったわけではない。味わいの深い部屋だったのだ。
私たちは離れに案内されたのだが、それは高級旅館のそれではなかった。古びた木造の部屋。くすんだ壁。網戸はないが、冷房は完備してある。テーブルの上には、アースの蚊取り線香が鎮座ましましていた。

ひとっ風呂浴びる。風呂は24時間入れるが、温泉という訳ではない。(ネットで見たら、鉱泉を使用しているようだ。)浴槽はそれほど大きくなかったが、一日の疲れは十分とれた。
そうだな、妻とではまず泊まれない。こういう味を楽しめるのがT君との旅のよさだ。
夕食は別の部屋でいただく。表に千葉ナンバーのステップワゴンが止まっていたが、私たちの他に客がいる様子はない。メニューは山の幸を中心に充実のラインナップ。薬味だの何だのに茗荷がやたら使ってある。きっとその辺りに自生しているのだろう。茗荷好きには嬉しい。(そういえば、落語に『茗荷宿』というのがあった。)
キンと冷えたビールと冷酒で美味しくいただき、部屋に帰る。部屋で寝ころびながら、つげの本を開き、彼らが御嶽で泊まった宿を調べる。
彼らが泊まったのは「五州園」という宿だった。パンフレットを見ると、このすぐ近くらしい。
つげは「五州園」が割烹旅館を名乗っていたため、食事が別料金ではないかと心配になって、「お金が足りなくなったら、ここで働かなきゃ。」などと言い、息子を不安にさせる。結局、印税が入ってお金に余裕があったので、「大船に乗ったつもりで安心しなよ。」と言ってやる。親の前で一喜一憂する息子の姿がいじらしい。
翌朝は台風の影響で土砂降り。会計を済ませ、奥多摩町に向かうが、どうにもならず撤退。途中、鳩ノ巣渓谷というかわいらしい名前の渓谷があった。
再び「ぎん鈴」の前を通る。その少し先に「五州園」はあった。土砂降りの中、ご主人とおぼしき人が、ずぶ濡れになりながら屋根の修理をしていた。T君は路上に車を止め、「五州園」をカメラに収めた。
青梅についた頃は、もはや暴風雨であった。青梅の街には古い映画の看板が、至る所に飾ってある。しかし、のんびり見ていられる状況ではなかった。我々は早々に奥多摩を後にしたのであった。

 

2014年2月19日水曜日

2003年 「奥多摩貧困行」を旅する④

少し坂を上った所に、廃校になった小学校の分校があった。小さな木造の二階建てで、ベニヤ板に児童が画いたと思われる鳥の絵がいくつもあった。
以前奥飛騨で、やはりT君と廃校になった学校を見た。こちらは炭鉱が閉山になって町が丸ごと廃墟になっている所で、荒れるがままになっていた。
数馬分校はグランドに草が生えているものの、建物はよく保存され、荒涼とした感じはない。集落の人たちの分校に対する思いが偲ばれる風情だった。
T君と何枚か写真を撮った後、奥多摩湖経由で青梅に向かうつもりだったが、土砂崩れのため、やむなく断念。また五日市まで戻って青梅に行く。
青梅からは街道を奥多摩に向かって車を走らせた。
吉川英治文学館というのがあったので寄ってみる。今はやや忘れかけているが、国民作家と言われるほど人気のあった人だ。私も高校時代、『宮本武蔵』を読んだ。
文学館は、戦時中、英治が疎開した折住んだ家の敷地の中にある。中に入ると、まあ普通の文学館。英治の生涯が紹介され、遺品や著作、原稿などが展示されている。大学生とおぼしきカップルが、熱心に見ている。夏休みの課題で文学館巡りでもしているのだろうか。
吉川英治は貧困の中で育ち、激しい労働の中で文学を志した。精進の末、筆一本で身を立て、妻を愛し、子どもを愛し、国民作家として大輪の花を咲かせた。立派な人だ。私は立派でない人の方が好きなので、それほど関心はなかったが、この立派さは見事だ。別に無頼じゃなくても、天才じゃなくてもいい、立派であることも十分に魅力的じゃないか、そう思った。ちなみに、無名時代の通俗小説なんぞもあって、読んでみるとなかなか面白かった。
夕方近くなったので宿を探すことにする。「奥多摩貧困行」で、つげ義春一家が御嶽という所に泊まっていたので、そちらの方に行ってみる。
また、雨が降り出した。観光案内所は開いてそうにない。至る所にカヌー大会の看板が立っている。以前、インターハイをやっている山口で宿探しに苦労したことを思い出し、不安になる。
仕方なく青梅駅に戻り、観光案内所で宿を紹介してもらい、交渉にかかる。駄目もとで御嶽の「ぎん鈴」という宿に電話すると、あっさり「泊まれますよ」という返事。何だか拍子抜けしたが、早速予約を入れ、またもや街道を御嶽に向かうのでありました。

2014年2月18日火曜日

2003年 「奥多摩貧困行」を旅する③


土方の墓所を出ると、もう昼時だった。
旅の昼飯はラーメンと決めている。下手な名物料理だったら、地元の人の日常食の方がよっぽど旨い。
街道沿いの「まるしん」という店に入る。入った途端、激しい雨が降り出した。台風の影響か、テレビの高校野球の試合も中断されていた。
ここでは、ラーメンと半炒飯を食べる。真っ当な醤油ラーメン。おそらく何年も同じ味を続けてきたのだろう。ほどほどに旨い。それがかえって好感を抱かせる。
ラーメン屋を出て、五日市から檜原村へと向かう。断続的に激しい雨に見舞われる。切り立った山と深い渓谷の中を曲がりくねった道が続き、その両側に民家がへばりつくように建っている。まさに秘境の名にふさわしい。
つげ義春は、ゴールデンウイークのある日、妻と長男を連れて奥多摩を旅した。檜原村で一泊、青梅で一泊と、奥多摩に二泊も要した。(彼らは東京の西側、調布に住んでいたのだ。)もっとも車を持たないつげにとっては、まとまった距離の移動もままならず、それも仕方のないことだったのかもしれない。 檜原村の宿は、眺望もきかず、目の前には宿の家族の下着なんかが干してあったりして、生活感丸出しで、何ともわびしい気持ちになったと、つげは「奥多摩貧困行」の中で書いている。
兜造りという独特の建築様式の民家が並ぶ、数馬の集落に入る。つげは秘境数馬も道がよくなって観光客が行きやすくなったためか、俗化してしまったと言っている。
行ってみると、悪天候のせいか、ひっそりとしていてなかなか悪くない。先ほどまでの雨は上がり、路面からは水蒸気が立ち上る。
兜造りは合掌造りの一種で、茅葺の三階建ての随分しっかりした造りの家だ。数馬にはそのような家が十軒近く残っているのだが、そのほとんどが民宿をやっている。つまりは、そのように観光資源として活用しなければ、あれほどの建造物を維持するのは難しいのだろう。俗化といえば俗化だが、それぐらいはしょうがないよな。

2014年2月16日日曜日

2003年 「奥多摩貧困行」を旅する②

東京を抜けるのに2時間かかった。
8月第2週の行楽シーズン、しかも金曜日ということもあって、首都高速は、三郷から新宿まで、ずっと渋滞していた。その上、家を出るときは晴れていたものの、台風10号が不気味に北上を続けていた。
中央高速を国立府中インターチェンジで下り、日野市の高幡不動尊に向かう。
日野は、新撰組副長、土方歳三生誕の地である。高幡不動尊の境内には土方の銅像が立ち、道の向かいの和菓子屋では「歳三まんじゅう」を売っている。
ざっとお参りを済ませ、近くの寺に歳三の墓所があるというので、そちらの方にも行ってみる。 都立日野高校(忌野清志郎の母校である)の近くだというが、案内板がなかなか見つからず苦労する。翌年の大河ドラマが「新撰組」に」決まり、高幡不動尊近くには、そういった幟がたくさん立っていたのだが、この辺りは実にそっけない。
やっとのことで寺を見つけ、墓所を見つける。ピカピカの墓石。平成になって建立されたものらしい。それにしても近所は見事に土方という家ばかり。中には庭に鶏を放し飼いにした農家然とした家もあった。多分、住宅地として開ける前は、土方一族が住む集落だったのだろう。
土方歳三は農家の生まれだが、天然理心流を学び、剣の達人となった。同郷の近藤勇、沖田総司らとともに京都に上り、幕府を助け京都の治安を守るべく新撰組を結成する。幾度かの内部抗争を経、局長近藤、副長土方を中心とした鉄の結束を誇る新撰組が出来上がる。その存在は京都の討幕勢力にとって大いなる脅威となった。
やがて、幕府と討幕軍(官軍)との戦争になるが、土方は最後の最後まで官軍と戦い、ついに北海道函館の地で壮烈な戦死を遂げる。
旗本八万騎といわれた徳川の直参が多く惰弱に流れたのに対し、武蔵野の農民の方が幕府のために一生を捧げたとは皮肉なものである。
日野でバラガキと言われた時分から、土方は組織の統率に特異な才能を発揮していた。新撰組においても、局長は近藤だったが、実質のリーダーシップは土方が執っていた。日本的な権力の二重構造は、ここでも見られたのであった。
ついでだが、土方歳三、かなりなイケメンである。

2014年2月15日土曜日

2003年 「奥多摩貧困行」を旅する①

独身時代、夏休みには決まってT君と旅行をしていた。
私たちは同じ大学で国文学を学んだ。文学部出身の人に見られるように、まあまあどこか屈折している。そのせいか、適度に文学の香りがする所、あんまり人が行きそうにない所に好んで行った。
お互い結婚して家庭を持つとそうおちおち自分だけで旅行に出かけられようもなく、しばらく中断していたのだが、2003年の夏休み、T君の方から「あの旅をやらないか」とメールが来た。
その年、T君には、春に長男が誕生したばかりである。育児にもいちばん手のかかる時だ。奥さんは承知か、大丈夫かT。と、何度か念を押したが、大丈夫だと言う。
私としても幼い長男をかかえた妻を置いて何日も家を空けるのは、正直怖い。
では、T君に茨城に来てもらい、翌日から1泊で近場に出かけるのはどうか、と打診してみた所、岐阜県一の茨城通を自認している彼は、むろんそれに異存はない、場所の選定はそちらに任す、と言って来た。とりあえず希望を訊くと、新撰組ゆかりの地が見たいとのこと。そこで、東京は日野辺りを皮切りに奥多摩へ向かうプランを立てる。
奥多摩は、つげ義春のエッセイで読んで気になっていたのだが、行ったことはなかった。 つげ義春という人、人間のいじましさ、弱さを描かせたら右に出る人はいない。奥多摩については『貧困旅行記』というエッセイ集に収録された「奥多摩貧困行」に詳しい。これもみじめったらしく、いじましいつげワールド満載の作品なのだが、これがまたしみじみといいのだ。
T君にも快諾を得、今回の旅は「『奥多摩貧困行』を旅する」というのに決めた。もとより、あまり景気のいいテーマではない。

2014年2月11日火曜日

大雪の日②

結局、日曜日の未明まで雪は降り続き、25㎝を越える積雪となった。
その日は、1日中雪かき。
月曜日は、いつもは車で30分の道を2時間かけて仕事に行った。
今日はイーアスつくばに買い物に行く。半分近くの店が改装中。
昼はカスミの入り口のパン屋のイートインで食べる。
小沢昭一の写真の本と宮本輝の『蛍川・泥の河』を買う。
一日中寒く、午後からは雪がちらつく。庭の雪もほとんど溶けなかった。
福永武彦読了。随分昔に買った本なので、ほとんど初読の印象。静かで哀しい物語。
雪でアンテナが不具合を来し、テレビが映らない。ビートルズの『ラバー・ソウル」と『ア・ハード・デイズ・ナイト』を聴く。『ラバー・ソウル』はポールの才能が開花したアルバム、『ア・ハード・デイズ・ナイト』はジョン全盛期のアルバムだな。やっぱジョンの声はいいねえ。
夕方ビール。夕食は白菜と豚ばら肉の鍋で酒。

2014年2月8日土曜日

大雪の日

朝、起きた時から辺りは真っ白。1日中雪。
福永武彦の短編集『廃市・飛ぶ男』を読む。
子どもたちは庭で雪だるまを作って遊ぶ。140㎝級の大作ができる。
昼はインスタントの味噌ラーメン。
夕食は揚げ物でビール、酒。
寝酒にボウモア。
ずーっと家にいる。

で、「クールな暇つぶし」。つげ義春の名フレーズを思い出すまま。(あえて調べないので、間違ってたらごめんなさい。)

「ポキン金太郎」「ポキン金太郎」(『ねじ式』)
「それでは、まるで、幽霊ではありませんか」(『ゲンセンカン主人』)
「今のマンガはタチが悪いや」(『ほんやら洞のべんさん』)
「きぐしねいです」(『もっきり屋の少女』)
「のう、キクチサヨコ、眠れや」(『紅い花』)
「みかん山だあ」「うれしいわあ」(『義男の青春』)
「夢もチボーもないです」(『別離』)
「ここが急所」(『懐かしい人』)
「私脱いじゃった」(『退屈な部屋』)
「見たんですね」「見たんです(わりと毛深い)」(『夏の思い出』)

後半、ちょっと色っぽくなっちゃいました。すみません。でも、つげの場合、こういうフレーズに味があったりするんだよねえ。

2014年2月6日木曜日

風柳の根多帳②

久し振りの持ちネタシリーズ。
3年の冬合宿では『花見の仇討』を持って行った。
高校の時、古今亭志ん朝のを聴いて、いつか演りたいと思っていたのだ。
江戸時代のドッキリの噺。
桜が満開の飛鳥山、仲良し4人組が仇討で花見客を驚かしてやろうという趣向。浪人に巡礼兄弟が煙草の火を借りに行く。すると、この浪人が巡礼兄弟の親の仇であることが判明。仇討騒ぎになる。花見客が集まった所で六十六部が登場。仲裁に入り、4人で酒盛りになる。そこで花見客にも、これが花見の趣向であることが知れ、わっとウケる、という段取りなのだが、ドッキリは思惑通りにはいかないという法則通り、トラブル続きでぐだぐだになっていく噺だ。
志ん朝のは50分に及ぶ大作だった。
すげえ面白くて、自分でも演りたくなったんだな。でも、志ん朝のようには、それはできないわなあ。
覚えて演っただけ。合宿の高座にかけたきり、人前で演じることはなかった。
『花見の仇討』が私の持ちネタだったなんて、多分、落研仲間も覚えていないでしょう。
でも、よくできた噺だよ。花見時期といえば『長屋の花見』だが、この噺なんか、寄席でもっとかかっていい噺だと思うんだけどねえ。

2014年2月4日火曜日

愛用の品々

私の愛用の品々です。
ポール・スミスの時計と手帳。パーカーの万年筆。
時計は結婚10周年の記念に買ったもの。妻も違うデザインのポール・スミスを持っている。
ブランドでは、値段が手ごろだし洒落ていて、ポール・スミスがいちばん好き。
笠間焼の湯呑と急須。やはり焼き物は笠間焼がいちばん多い。笠間焼の自由な感じが好き。

お次はカメラ。
ミノルタα707iとフォクトレンダー・ベッサL。現役で頑張ってます。
こちらは今は使っていない。ミノルタのAPSカメラとライカC2。
APSはもうフィルムがない。新婚旅行の時、オーストラリアに持って行って、現地の人に「すげえな、それ」みたいなことを言われた。
ライカはスイッチが壊れた。たまーに復活するので、フィルムは入れたままだ。
ミノルタが2台あるけど、今やソニーだもんなあ。隔世の感がありますなあ。
で、今いちばん使っているのが、このリコーのデジカメ。やっぱそうなっちゃいますかねえ。

2014年2月1日土曜日

つげ義春『貧困旅行記』


芸術新潮を読んでから、ここの所、つげ義春づいている。
『貧困旅行記』をぽつぽつ拾い読みしているのだが、これがいい。
中でも「蒸発旅日記」が出色だな。何年か前に映画化された。映画は観ていないけど、映画化したいほど魅力があったということだ。
一面識もないファンの女性と結婚しようとして、九州は小倉に行ってしまう「私」。彼女に会うことはできたのだが、詳しい話は次の休みまで待ってほしいということで、一週間暇ができた。
そこで「私」は、湯平、湯布院、杖立と温泉を巡る小旅行に出かける。この小旅行が、またすごい。
湯平で行ったストリップ。客はひとり。舞台に小銭を置いて、踊り子に手招きして股を開くように促すが、無視される。そのうち部屋に蛾が入ってくる。「私」が、その蛾を側にあった灰皿に閉じ込めてやると、踊り子が目の前で股を開いてくれる。ステージが終わり、マネージャーと踊り子と3人でバナナを食べ世間話をしながら、「私」は、「ストリップにくっついてそのまま旅をするのもいいなあ」なんて思ったりする。
杖立でもストリップに行く。ここの踊り子にステージから扇情的な目で見つめられ、次のステージは5人分の料金を払い貸切にする。踊り子を目の前に座らせ、太腿に顔をうずめて「こうしているだけでいいんだ。こうしているだけで何となく安心できるんだ」などと甘いことを言う。その晩はこの踊り子と寝ることになるのだが、意外にも純情な娘で愛おしくなったりする。
後ろ髪を引かれるように小倉に戻り、ファンの彼女とも寝るのだが、彼女からはひとまず東京に帰ってゆっくり考えてから出直すように言われる。東京に帰ってみると、もうそんな気も失せてしまい、そのままにしてしまったという話。
いちいちいじましく、身も蓋もない。けど、どこか突き抜けている。もはやエッセイというより私小説ですな。極北の感すらある。
それに、この人の場合、巧まざるユーモアがあるんだよな。結婚しようとするファンの彼女を想像する場面で、「ひどいブスだったら困るけど、少しくらいなら我慢しよう」とか「離婚した女なら気も楽だ」とか、身も蓋もなさ過ぎてかえって笑ってしまう。つげの世界は暗くて悲惨で苦悩に満ちているような印象があるが、ベースにあるのは実は笑いなのではないか。(もちろんそれはからっとしたものではないが)
そんな視点で見てみると『ねじ式』とか『ゲンセンカン主人』なんていうのは不条理マンガというより、つげ義春なりのギャグマンガなのではないかと思ったりしてしまうのだ。