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2024年4月27日土曜日

クルマドの風景、みほ落語会

朝、パン、チキンナゲット、スクランブルエッグ、紅茶・

クルマドの風景を撮りながら美浦へ。





11時半頃、美浦着。今日は「みほ落語会」。準備をして、昼食にヨークベニマルの干瓢巻き。

13時開演。私はトリで『あくび指南』。おなじみのお客様。よく笑ってくださる。16時35分終演。片づけをして17時解散。

帰りもまたクルマドの風景を撮りながら行く。



17時過ぎ帰宅。妻と夕方ビール。

夕食は、チーズダッカルビ、酢豚、冷しゃぶサラダでビール、燗酒。食後に妻とパイナップルワイン。

寝しなにジョニーウォーカー赤ラベル。

一日曇り空。明日は田圃に出るか。

 

2024年4月25日木曜日

落語協会歴代会長について

雑誌『東京人』3月号を読む。今年は落語協会創立100年ということで、その特集号「どっぷり、落語!」。

中に落語協会歴代会長の表があった。三代目柳家小さん、五代目三升家小勝、六代目一龍齋貞山に続いて、八代目桂文楽の名前があって「ん?」となった。

1939年(昭和14年)から会長を務めたのが講談の一龍齋貞山。貞山は、1945年(昭和20年)3月11日の東京大空襲の犠牲となった。戦後、現在の落語協会が結成され、四代目柳家小さんが会長に就いたから、貞山死後につなぎの会長がいたものと思われる。それが、黒門町だったということなんだろう。

ここに私は疑義を呈したいと思う。

当時の落語界を知るための第一級の資料『八代目林家正蔵戦中日記』の記述を見てみよう。以下、関係する部分を引用する。なお正蔵は当時の名前、馬楽で登場する。

三月十四日(水)
放送局へ用達に行って帰宅すると山春さんが来てゐた。偶然貞山先生の死体を見つけたからと報せに来て下すったのだ。文治、文楽の諸先輩と訪れて、みなみな現場へ駈けつけた。隅田川に在ったとかで満足な仏様になってをられた。

三月十五日(木)
警報発令中を貞山先生の死体を引取る工作をなす。貞丈金壱千円を持参して諸払いをする。まづ棺桶が壱百十円。公園課の係りに壱百円献上した。納棺して上野鈴本亭主人が引ぱって来て下すった荷車に安置して、貞丈、上原、馬楽で奉仕し、文楽、文治其他の諸氏ならびに遺族がつき添い、落語協会事務所桐廼家の焼跡へ一時納めてくる。

三月十六日(金)
貞丈、山春さん、馬楽の三人で鈴本の荷車へ貞山先生を乗せて日暮里の火葬場へ運び、特等で焼くべく万事好都合に行く。

貞山会長の死に際し、正蔵がよく働いている。記述からは正蔵の上にいるのが、文楽と文治だということが分かる。ちなみに「上原」というのは、協会の事務員、上原六三郎。元は落語家で二代目柳家小せんを名乗っていた。

当時、正蔵の馬楽は協会の幹部として雑事に奔走していた。正蔵が足しげく通っていたのは、根岸の文治宅だ。「旧落語協会を落語部第一班と正称し、再建の会議を文治師宅に開催す。(中略)円歌会計係、馬楽営業係に選ばる。(4月4日)」、「営業係の打合せに文治師宅に赴く。(4月18日)」、「根岸(文治宅)へも顔出しをして第一班再建の方針を基に働く決心をなす。(5月22日)」などの記述が見える。

そして、その中に正蔵の文治評がある。

七月三十日(土)
文治師匠を訪ひ営業上の話をきく。上原に対する態度などどうもスケールの小さいやうな気がする。この人を首班としての会は無事だが非常時には不適当だ。尤も誰が代ってもさう急速には良くはならないのだが安心が得られる。

協会の会合が文治宅で行われていること、正蔵が文治を「首班」と呼んでいることを考えると、「つなぎの会長」は八代目桂文治であろう。正式な会長就任なのか、会長代行のようなものだったのかは分からない。

正蔵によると、文治はリーダーとしては狭量だったらしい。それが、戦後新体制となった時、四代目小さんが会長に就いた要因になったのだろう。

戦後の落語協会会長は、小さんの後が文治、そしてその後になってやっと文楽に回ってくるのだから、つなぎとはいえ小さんの前に文楽が会長というのは無理がある。

ここはやはり、貞山死後、八代目桂文治が会長を務めたと言っていいだろうと思うのだが、いかがでしょうか。




2024年4月21日日曜日

ネモフィラを見に行く

朝、御飯、味噌汁、ウィンナーソーセージ、スクランブルエッグ、納豆。

妻と朝イチで国営ひたち海浜公園に行く。昨年の秋、コキアを見に行ったのだが、その頃から妻が「今度はネモフィラが見たい」と言っていたのだ。

天気予報は雨だったが、田圃仕事の都合で来週は無理。ということで、今日行くことになった。ネモフィラが満開になって初の日曜だから混雑が予想される。ここは地の利を活かし、早めに行こうと決める。

8時半到着。いつもは9時半開場らしいが、既に入園OKだ。南駐車場から入る。

天気は悪くない。時折、青空がのぞく。まずはみはらしの丘に向かう。近づくにつれて、どんどん人が増える。


いちめんのネモフィラ。初めて見たが、見事なもんだ。




菜の花もきれい。ネモフィラとのコラボ。



みはらしの丘全景。


続々と観光客がやって来ていた。


チューリップもまた見頃。素晴らしい。



10時半頃までいた。仕上げにソフトクリームを食べて、内原イオンに行く。

昼はフードコートで、マクドナルドのチキンタツタ、テリヤキバーガー。チキンタツタは旨いなあ。

妻の誕生日のお祝いのケーキを買って帰る。

14時過ぎ帰る。『光る君へ』の録画を見る。

妻と夕方ビール。

夕食は焼肉でビール、酒。ケーキを食べる。食後に妻ともうひと飲み。私はジョニーウォーカー赤ラベル。

天気もまずまずだったし、いいお休みだったね。


2024年4月20日土曜日

三島由紀夫を歌うフォークソングから考えた

1970年11月25日、三島由紀夫は陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地に立てこもり、割腹自殺を遂げた。

この事件は社会に大きな衝撃を与えた。

フォークソングにも三島を題材にした作品がある。そのうちの2作について語ってみたい。


まずは、遠藤賢司の「カレーライス」。1971年、遠藤の2枚目のアルバム、『満足できるかな』に収録された。

「ぼく」がテレビを見ていると、「誰かがお腹を切っちゃった」というニュースが流れる。しかし、「ぼく」が大きく心を動かされることはない。「うーん、痛いだろうにね」というささやかな疑問が呈されるだけである。「ぼく」にとっては、大義のために死ぬよりも、「きみ」が作るカレーライスを「猫」と待つことの方が大事なのだ。三島の死は、テレビの向こう側のことにしか過ぎないし、「痛いだろうに、何でお腹なんか切っちゃうんだろう」という程度にしか「ぼく」には響かない。

それを遠藤は呟くように歌う。「ぼく」と「きみ」と「猫」とのささやかな日常が大事、という「小さな物語」は、聴く者の共感を誘い、「カレーライス」は遠藤賢司の代表作となった。


もうひとつは、岡林信康の「まるで男のように」。1973年発表の『金色のライオン』というアルバムに収録されている。タイトル通り、ボブ・ディランの「女の如く」のアンサーソングであろう。

ここで岡林は、自らの女性性を押し隠し、男としての強さを強調する「あなた」の姿を戯画的に描く。それはたぶん、性的マイノリティである三島の心性のメタファーなのだろう。ただし、平野啓一郎の分析では、三島は異性愛を志向しながら同性にしか性的に身体が反応しないということに苦悩していたから、心根としては男性であった。(または、三島が幼少期病弱で祖母に溺愛され、女の子の中で女言葉で育てられたことを踏まえたものかもしれない)

「血の海に横たわりたいんでしょう 血の海じゃないと気がすまないのね/男らしい場所で 男らしい理由で ヨボヨボになってしまわないうちに」

これは、まさに三島の最期の場面だろう。そして岡林はこう続けるのだ。

「あなたもほんとうにたいへんね なんだか莫迦らしい気もするけれど」

岡林は遠藤のように突き放してはいない。むしろ三島に同情的である。確かに三島由紀夫は痛々しい。しかし、同情的ではあるが、岡林は決して三島に同化しようとはしない。注意深く、三島を拒んでいる。


三島は戦後の日本を、個人主義でばらばらになってしまったと、激しく嫌った。そして、ついには、憲法九条を破棄し、絶対者(天皇)のために身命を捧げる覚悟を持て、と主張するに至った。それを、我が身をもって実践したのが、市ヶ谷駐屯地での決起であり自決であった。

もちろん、それは広く支持を受けたわけではない。死の直前の自衛隊員に向けたアジテーションは不発に終わった。二人のフォークシンガーも三島の嫌った戦後日本の個人主義の側に立っている。

おそらく、皆、大日本帝国にはこりごりだったのだ(三島のいう絶対者、天皇は明治憲法下のそれとは別ものだったが、そんな区別は余人にはできないようもない)。戦前回帰など真っ平だったのだ。三島の個人的な信条に巻き込まれるのは大迷惑だったのだ。

思えば、むしろ健全だったのだろう。それほどまでに先の大戦が残した傷が深かったとも言える。

そして、戦後80年近くなり、昨今では戦前回帰と思われる言説をよく目にするようになった。彼らは三島のように戦後的価値観を否定し、日本国憲法第九条を破棄せよ、と言う。しかし、彼らは一旦事が起こったら自らの身命を捧げるとは言わない。「憲法第九条で戦争が防げるのなら、九条信者が最前線で念を送れ」などと言う。笑っちゃうよな。

三島は、ともかく自分の言葉通り自らの命を懸けて見せた。彼らに三島を利用する資格はない。


付記。岡林信康は近作『復活の朝』収録曲の中で、「お坊ちゃま気分は青年将校/ふんどしひとつで寒中水泳/お風邪を召して大騒ぎ」(「お坊ちゃまブルース」)と歌っている。岡林にとって、三島は依然として気になる存在であり、三島的なものは拒まなければならないものなのだろう。私もまた、そんな岡林に共感している。

2024年4月14日日曜日

初夏の陽気

朝、御飯、味噌汁、ウィンナーソーセージ入りスクランブルエッグ、島らっきょう。

地区の会議。

帰って早お昼を食べる。稲荷寿司、鶏の唐揚げ、海老コロッケ、餃子。

土浦イオンに買い物に行く。無印良品でノート2冊、ボールペンの替え芯、本屋で五味文彦『『枕草子』の歴史学』を買う。

15時頃帰る。おやつに紅茶、カールのチーズ味。カールは沖縄で買って来た。もう関東では売っていない。久し振りに食べた。旨かった。

妻と夕方ビール。久し振りにハートランドビールを飲む。旨し。

夕食は石焼ビビンバで酒。食後にカティーサーク。


今日はよく晴れて暑くなった。早くも初夏の陽気。柿の若葉もだいぶ出てきたね。


 

2024年4月13日土曜日

桜三昧

朝、御飯、味噌汁、チキンナゲット、納豆。

午前中、仕事に行く。通勤途中、枝垂桜がきれいな所があり、車を止めて写真を撮る。




職場の桜は大分散ってきた。


お昼は洋食亭ときわにしようと思ったが、満席で入店が40分かかるというので、頼みの綱の香林へ。

香林のチャーハン、700円。しっとり系かな。旨し。


てっぺんに海老が載る。豪華だね。

14時30分頃帰る。ボイラーの灯油が残り少ないので買いに行く。

おやつに紅茶とカステラ。

発泡酒1本持って、下の畑の桜を見に行く。


改めて妻と夕方ビール。キリンの新製品、「晴れ風」。麦芽100%、やわらかいお味。旨し。

夕食は豚しゃぶで燗酒。食後に赤ワイン。寝しなにカティーサーク。

平野啓一郎『三島由紀夫論』をずーっと読んでいる。やっと半分ぐらいまできた。面白い。三島の思想に共感はできないが、彼を痛々しいなとは思う。 

2024年4月10日水曜日

市丸の昼飯

最近、鉾田の市丸で、たまたま続けて昼飯を食べた。

まずは、天丼。1000円。何と言っても「天ぷらの市丸」だもんね。

蓋が閉まらない。

迫力あるねえ。

天ぷらは、海老が2本、魚(鯵とか鰯とか青魚だったな)、野菜はサツマイモ、ピーマン、茄子、大葉など。小鉢も充実。汁はシジミのおすましだった。旨し。昼に天丼を食うと、贅沢な気分になる。


お次はアジフライライス。900円。



ふっくら、さくさく、旨し。ただ、できれば辛子を添えて欲しかった。昼のアジフライはしみじみ旨いなー。


店構えもなかなかいいのよ。


ついでに少しだけ鉾田の街を歩いてみた。





桜も咲いておりました。


 

2024年4月7日日曜日

桜咲く

昨日の日記。

朝、サバ・オニオン・トースト、紅茶。

雨、寒い。妻は仕事に行く。

長男と図書館に行く。平野啓一郎『三島由紀夫論』があったので、借りて来る。小さな図書館だが、こういう本を置いているのがえらい。

昼はうどんどん兵衛。

ずっと『三島由紀夫論』を読む。三島は『仮面の告白』も『金閣寺』も読んだが、正直言って苦手だった。むしろ彼の書く通俗小説の方が面白かった。自分には、あの装飾的な文体がダメだったんだろうな。評論で、その文体を剥ぎ取って構造を示してくれると、内容がすんなり入ってくる。

妻と夕方ビール。妻が当てた、プレミアムモルツ・ジャパニーズエール。旨し。

夕食は、長男の大学院の入学祝で、手巻き寿司にする。燗酒。これも旨し。

食後に赤ワイン。寝しなにカティーサーク。


今日の日記。

朝、御飯、味噌汁、目玉焼き、ウィンナーソーセージ、納豆。

千葉県の神崎町の楽々亭。車を走らせて30分ぐらいで、タイヤの警告灯が点く。途中、ガソリンスタンドに寄って空気圧を測るが、特に変化はない。ひやひやしながら神崎町へ。

神崎ふれあいセンターの桜は満開。

昼食は、道の駅こうざきで買ったおにぎり。

13時30分開演、15時30分終演。私はトリで『小言念仏』。

この席では「みほ落語会」でかけた噺をかけることが多いが、やはりウケどころが違う。噺は生きているんだな。勉強になる。毎日、寄席に出るというのはどういうものなんだろう。やってみたいなあ。

帰りにタイヤ屋に寄ったら、異状なし、とのこと。よかった。

17時過ぎ帰宅。妻と夕方ビール。

夕食は父が買って来た、とんかつ、エビチリでビール、燗酒。食後にカティーサーク。

暖かい一日。一気に桜が開いた。

2024年4月3日水曜日

山口瞳『家族(ファミリー)』

田中小実昌のエッセイに、この本のことが書いてあった。

山口瞳は昭和5年から昭和10年まで川崎に住んでいた。その頃、山口の母は幼い彼を抱いて南武線の土提に上がり、電車に飛び込んで死のうとしたことがあったという。「南武線」「土堤」というワードに私は反応した。もしかしたら、それは尻手駅の近くではあるまいか。

私は大学時代、川崎でアパート暮らしをしており、尻手はその最寄り駅だった。俄然、この小説が読みたくなった。

ところが、図書館に行っても、山口瞳の本がない。土浦のれんが堂書店に行っても見つからない。そこで、困った時のアマゾン様である。検索してみると古本が出ている。81円の本を230円の送料を使って取り寄せた。

山口は府中競馬場で川崎時代の同級生、石渡と偶然再会する。それが川崎での幼時体験の記憶を辿るきっかけとなる。1年間の父の不在。母親は自分を抱いて無理心中を図ったようだ。石渡と4月の6日間、川崎競馬の全レースの馬券を買いながら、山口は、父を、母を、自分の家族を、自分の半生を、咀嚼し反芻するように振り返る。

妻子ある男と駆け落ちした、女郎屋育ちの母。詐欺まがいの危ない橋を渡りながら、ぼろ儲けと倒産を繰り返した父。父と前妻との間に生まれた兄。金の亡者のような弟。酒と博打に取りつかれるように生きてきた山口。その山口に重くのしかかる、「父は前科者なのではないか」という疑念。

さまざまに張り巡らされた伏線が、読み進めていくにつれて引き絞られていく。先へ先へと読まずにいられない。しかも舞台は昭和57年の川崎だ。私は、まさにその時、その街で暮らしていたのだ。

山口瞳が、自分がかつて住んでいた家の辺りを見つけに行く場面がある。市役所で教えてもらった地番を求めて、川崎駅西口から尻手駅に向かって、県道鶴見溝口線を彼は歩く。その道は片側2車線の広い通りだ。北側が幸区南幸町。南側が幸区柳町。私のアパートは南幸町にあり、山口の家は柳町にあった。私は専らアパートのある、通りの北側を歩いていたが、山口瞳はその向こう側を歩いていたんだなあ。

山口瞳曰く、川崎とは、「東京で事業に失敗した人や事情があって会社を退職した人が、一時的に身を潜める町。失意の人に住む町」。もちろん、これは彼の実感である。山口家が川崎に住んだのも、こういった事情による。

いずれ、この本をネタにして川崎散歩をしてみたい。

この前作『血族』も読まねばなるまいなあ。


2024年4月1日月曜日

沖縄に行った④ ~市場からの水族館~

いよいよ最終日。朝食はバイキング。海が見える外の席で食べる。

ラフテーカレー、牛皿温玉、煮込みハンバーグ、唐揚げ、タコス風卵焼き。

8時、チェックアウト。長男を送って那覇に向かう。早めに出たのだが、途中、渋滞にはまり、ちょうどいい時間ぐらいになった。

その後は次男のリクエストで第一牧志公設市場へ。


やっぱり市場は楽しいなあ。ラフテー、島らっきょうを買う。

市場付近の雰囲気もいいんだよなあ。





そろそろレンタカーの営業所の方に向かおうか。那覇市を過ぎて豊見城市に入った辺りで雨が降り始めた。

営業所の前を通る。ほぼ1時間ぐらいの時間がある。もう1つどこかへ寄ろうと、すぐ近くのかりゆし水族館に入る。これがなかなかよかった。



ナマケモノもいた。はげしく動いておったよ。

12時30分、レンタカーを返却。13時過ぎ空港へ。フードコートで昼飯を食べる。ブリト―。タコライスをトルティーヤで巻いた感じ。これはこれで旨い。



帰りの飛行機はポケモンジェットだった。


けっこう揺れた。着陸時は分厚い雲の中を下りて行く。気圧の差がひどいせいか、耳が痛い。下は何も見えない。それでも着陸できるんだなあ。

茨城は土砂降り。風も強い。靴に雨がしみた。

猫を受け取って、夕食を買って帰る。

アジフライ、サラダ、そら豆の天ぷらでビール、酒。旅のシメの一杯は旨い。