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2011年3月31日木曜日

桂文楽 最後の高座2

柳家小満んの『べけんや―わが師、桂文楽』は、著者の師匠に対する深い敬慕の念が感じられる好著だが、それによると、晩年の文楽は肝機能が相当に悪化していたらしい。自宅での稽古でも噺が止まってしまい、弟子に台詞をつけてもらうほどだった。不本意な高座も何度かあり、「三代目になる日」が近づきつつあることを直視せざるを得ない状況だった。そこで、文楽はしくじった時の詫び口上を練習することになる。
このエピソードを、大西信行は『落語無頼語録』の中で悲壮感たっぷりに描いているが、小満んによると、実際はもう少しあっけらかんとしたものだったらしい。文楽は、当時、桂小勇といっていた小満んに向かって、「勉強し直して参ります、ってのはどうだい?」と訊き、「そうかい、ハマるかい?じゃあ、“勉強し直し”でいきやしょう。」と明るく笑ってみせたという。
あの日、文楽の前に高座に上がっていたのが、その、小勇の小満んであった。帰りの車の中で、文楽は、その日小満んが演じた『宮戸川』を「お前の『宮戸川』はよくなるよ。」と言って褒めた。そして、「あたしは、本当は『宮戸川』を演りたかったんだが、『明烏』があったからねえ。あたしは『明烏』のためにいくつ噺を犠牲にしたかしれない…。」としみじみと述懐した。
文楽の後に上がったのは立川談志。談志はこの時のことを全く覚えていないという。『対談落語芸談2』の中で、彼はこう言って首を傾げる。「それが不思議なんだ。あたしはそういうことを覚えているという生き方をしてきたはずなのに。」
文楽の主治医、西野入尚一はこの日客として来ていたが、絶句するやいなや楽屋に飛び込んだ。ただちに診察をしたが、身体的には特に異常を認めない。西野入は、文楽をそのまま帰宅させた。
普段喋る分にはろれつが回らなくなるわけでもなく、その後も至って元気なので、少しの間静養すれば復帰できると西野入は考えていた。ところが、いつまでたっても文楽が高座に上る気配がない。心配した西野入は文楽に会って「師匠、もう大丈夫だから小咄ぐらい演りましょうよ。」と復帰を勧めた。しかし、何回言っても文楽の答えは決まっていた。「お気持ち、ありがとございます。」
精緻に磨き上げた芸の崩壊を見、緊張の糸がぷっつり切れた文楽に、もう一度はなかった。その後、文楽が客の前で落語を演じることは二度となかった。

ただ、文楽が最後に演じた落語は、この時の『大仏餅』ではない。
入院中ベッドの上で、「林家になら合う噺だから」と言って八代目正蔵に譲っていた、正岡容作の『どくろ柳』を、「いいかい、これはあたしの工夫だよ。」と言って弟子たちの前で演じたのが、正確には最後だろう。
芸人としての業が、ここにある。

2011年3月28日月曜日

東北を、思う

20年ほど前、大学時代の友人T君と岩手を旅した。
花巻に一泊した後、釜石から宮古に行った。宮古では市街地にある「栃木」という旅館に泊まった。わかめ風呂というのが名物の宿だった。宮古の海は静かだった。
翌日は松島を見物し、帰りは高速に乗らず、仙台から国道6号線を南下した。福島県浜通の穏やかな風景が心に残る。

昨年の夏、仕事で福島に行った。福島でお世話になった方々は、皆おっとりとして温かかった。関東の荒っぽさとは対極にある人たちだった。
福島の駅前で楽しくお酒を飲んだ。

テレビに映る変わり果てた光景を見ると、心が痛む。
原発に翻弄される福島の方たちを思うと、心が痛む。
復興に至る道のりの遠さを思うと、呆然とする。
軽々しく言葉に出来ないが、でも、いつか何とかなる。
その日が来るのを信じている。

大福さん、お疲れ様です。無理をせずにというのも無理な話かもしれませんが、くれぐれも体に気をつけてください。応援しています。

2011年3月26日土曜日

桂文楽 最後の高座

昭和43年3月14日、第五次落語研究会が発足。文楽は、彼の代名詞とも言える『明烏』で出演した。時に文楽75歳。(ちなみに、ライバル志ん生はこの年を最後に高座から遠ざかる。)
この落語研究会での高座は、現在DVDで観ることが出来るのだが、年代が下るにつれて衰えが目立つようになる。特に最晩年となる46年は顕著だ。さすがに味わいはあるものの、悲しいほどとちりが多く、間が延び迫力が薄れている。若い落語ファンにこれを文楽だと思われるのは、正直寂しい。
特に7月23日に演じた『鰻の幇間』は痛々しかった。噺の途中、ほんの少しだが、明らかに絶句している。後半の店の下女に小言をいう場面では、しどろもどろになって掛け軸のくだりを飛ばしてしまっている。
そして、運命の日、昭和46年8月31日を迎えるのだ。
この時のことは、『対談落語芸談2』(川戸貞吉編)に詳しい。川戸は学生時代から文楽に可愛がられていたが、文楽が専属となっていたTBSに入社し、落語番組の制作に深く関わるようになっていた。この日も中継のため会場の国立小劇場に来ていた。楽屋に挨拶に行くと、いつもは明るく会話に興じている文楽が、この日は無言で鏡を見つめている。ただならぬ気配に、川戸は声を掛けることもできず、そのまま中継車に戻り、「黒門町、今日は様子がおかしいぞ。念のためマイクのレベルを上げておいてくれ。」と指示を出した。
文楽の出番は2番目。演目は『大仏餅』。『大仏餅』というのは、文楽にとって、体調の悪い時や客が合わない時に演じる、いわば安全パイのネタだった。しかも前日の東横落語会にもかけている。その『大仏餅』の主人公、神谷幸右衛門の名前が出てこない。文楽は突如しばらくの間沈黙し、静かにこう言った。「申し訳ございません。台詞を忘れてしまいました。」そして、声を張って「もう一度勉強し直して参ります。」と言って高座を下りていった。
高座のそでで出迎えるマネージャーの出口一雄に、文楽は「三代目ンなっちゃった。」と呟いた。三代目というのは、三代目柳家小さん。夏目漱石が激賞したこの名人も晩年は呆けてしまい、噺が堂々巡りをして途中で幕を下ろされるといった悲惨なエピソードを残している。文楽はこの三代目の晩年を知っており、常々「三代目にはなりたくない。」と言っていた。そう言ってはいたが、いずれ自分も三代目のようになるのではないか、という不安を文楽は抱いていた。不器用な文楽は、やがて来るであろうその日に備え、客に詫びる口上を練習してさえいたのだ。(しかし、この日の朝は、その稽古をしていなかった。前日つつがなく演じた『大仏餅』を、まさかしくじるとは思っていなかったのであろう。)
文楽の言葉に出口は男泣きに泣いた。これが、名人文楽の最後の高座となった。

2011年3月24日木曜日

七代目橘家圓蔵 その2

七代目橘家圓蔵師匠の個人的な思い出を書いてみたい。
初めて噺を聴いたのは、中学生の頃だった。NHKの「お好み演芸会」で『三方一両損』を観たのが最初だった。
その前に、古今亭志ん朝の『三方一両損』を聴いていて、すごく楽しかったこともあり、加えて、「橘家圓蔵」という名前が大看板であったことから、どんな芸を見せてくれるんだろうと期待をして出番を待っていた。
中学生の耳には分からなかったなあ。志ん朝の華麗な啖呵と比べると、迫力は全然なかった。小さなおじいさんが、小さな声で淡々と演じていたという印象しかない。
やがて、私は大学で落語研究会に入る。圓蔵師匠はそこの技術顧問をされていた。部室の正面には圓蔵師匠の写真が飾ってあった。
杉並の方南町にある圓蔵師匠のお宅に伺ったことがある。確か同輩の酒合丈君と一緒だった。師匠の部屋の鴨居には八代目桂文楽の写真が飾ってあった。熱烈な文楽ファンの私は、「そうか、文楽はおれの大師匠なのだ」と、改めて感動にうちふるえた。
夏と冬の合宿では、圓蔵師匠がいらっしゃる。そこで師匠から1本の噺を教えていただき、代表者2名が師匠に噺を見ていただくのが常だった。
私が1年の夏は、三遊亭圓生の葬儀と重なり、師匠は来なかった。1年の冬が、私にとって圓蔵師匠がみえた最初で最後の合宿だった。
この時、私は『道灌』を見ていただいた。一緒に噺を見せたのが、2年先輩の朝太郎といっていた、後の夢三亭圓漫さん。彼は『権兵衛狸』を演じた。師匠は私たちの出身地を訊いた。そして、八つぁんとご隠居の噺をした私が茨城の、田舎者の噺をした朝太郎さんが東京の出身と聞いて、「あべこべだねえ」と面白がって見せた。(この後、八海君の出身地を訊いて、師匠は「あそこ行くと皆疲れちゃうんだ、もうネムロってな」というセコ洒落をとばしたのだ。)
この時、師匠が教えてくれたのが『袈裟御前』という噺。正直、どんな筋かよく分からなかった。ただ、この時、枕で振った、当時若い者の間で流行っていた、セーターを羽織って両方の袖を縛る格好を皮肉ったのが、何とも言えず可笑しかった。師匠の、こういう一筋縄ではいかない面白さが、私は好きだった。
『談志絶倒昭和落語家伝』などの師匠の若い頃の写真を見ると、剽軽で愛嬌のある、とてもいい表情をしている。月の家圓鏡時代の師匠が爆笑派だったことがよく分かる。
京須偕充の『落語で江戸のうらおもて』という本に、柳家小三治と圓蔵師匠のエピソードが載っている。『大工調べ』を演って高座を下りた小三治に師匠がこう言ったそうだ。「お前の今の演り方では、お前が怒って怒鳴っているようだ。お前がいくら威勢よく感情を込めて演ったって、お客はお前の怒りを聴きに来たんじゃない。政五郎は若いとはいえ棟梁だ。お屋敷仕事を任されるだけの貫禄がある。子分の大工が怒ってるんじゃない、棟梁の政五郎が怒っているんだ。あたしは『大工調べ』は演らないし出来ないけど、お前の師匠(五代目小さん)のをよく聴いてごらん。」これを読んで感動したね。師匠にはプロとしての確かな目と、分を知る謙虚さがあったのだなあ。
あの冬合宿の年の5月、圓蔵師匠は突然亡くなった。私たちは落研の法被を着て、お通夜とお葬式の手伝いに行った。葬儀委員長の林家三平の衰弱ぶりが痛々しかったのと、川柳川柳が酔っ払って顰蹙を買っていたのが印象に残っている。(三平は間もなく師匠の後を追うようにこの世を去った。)そう言えば、お通夜に小三治が来ていた。私は後輩を制して彼の草履を揃えた。小三治は怒ったような顔をして立ち去った。彼は前述した『大工調べ』の忠告を忘れられないと言っていたという。今にして思えば、あの怒ったような顔は、小三治の圓蔵師匠の死を悼む気持ちの表れだったのかもしれない。

ブログも通常業務に入ります。
大福さんお疲れ様。大福さんの文章読んで、力をもらいました。ありがとう。
お互い頑張りましょうね。

2011年3月18日金曜日

今日で1週間


職場の水が復旧した。どうやら通常の仕事が出来る環境になった。
家でテレビを見ていると、どんどん気持ちが暗くなる。職場で体を動かしていた方が気が紛れる。
相変わらず、余震は多い。原発ではぎりぎりの戦いが続いている。ガソリン、灯油の不安は重くのしかかる。これからどうなるんだろうと思えば、途方に暮れてしまう。
でも、私は私に出来ることを誠実にやっていくしかない。パニックを起こさず、自分の仕事をしっかりやっていく。そして、最前線で命がけで戦っている方たち、避難所で懸命に頑張っている方たちを常に思い続ける。
とにかく、今はこの状態が私たちの日常なのだ。この日常と、何とかうまく付き合っていくしかないな。
写真は鉾田市内の地震で損壊した家屋。

2011年3月14日月曜日

震災から3日


震災から3日経った。
電気が復旧し、改めてテレビを見ると、岩手・宮城・福島の被害の凄まじさに息を飲む。
加えて、原発の事故の恐ろしさ、不気味さに戦慄する。
私自身も震度6強の揺れを体感し、余震に怯え、3日間、停電・断水の生活をしたが、家族そろって怪我もなく生きている。そのことにまず感謝したい。
そして、不眠不休でライフラインの復旧に当たってくださっている方々に深く感謝したい。(知り合いに市役所の職員の方が何人かいるが、彼らはまさに不眠不休で仕事をしている。)
当たり前の日常が、これほどまでに尊いものだと、今更ながらに思う。その当たり前の日常を、突然、無慈悲に、それこそ根こそぎ奪われてしまった方々を思うと、本当に胸が痛い。
日常はこれからも続く。ちょっとしんどいことになるだろうが、何とかやっていくしかないよね。

2011年3月10日木曜日

筑波山「ガマからくり迷路」


しばらく写真がなかったので、ひとつ。
筑波山、つつじヶ丘にある迷路の看板。
凄い絵だなあ。
中は見なかった。見ると、どう納得するのだろう。ちょっと興味がある。

2011年3月9日水曜日

夢之酒 春の巻

今日はちょっと疲れた。
こんな時は潔く現実逃避、「夢之酒」第2弾、春の巻といこう。
関東のとある街。大きな川が流れていて、その堤防に桜並木が植わっている。桜の時期は、屋台が出たりして、結構な賑わいだ。
桜は五分咲きといった頃の休日。土手に座って花を見上げる。屋台で買った焼き鳥片手に缶ビール。これが旨いのよ。
さて、夕刻、馴染みの小料理屋に入る。こざっぱりとした白木のカウンターに座る。夫婦でやっているこぢんまりした店。適当にほっといてくれるので、居心地が良い。
突き出しはふきのとう味噌。ビールは飲んだから酒にする。「神亀純米発泡にごり」。この酒はいきなり開けちゃあいけない。ちょっとずつ蓋を開けて空気を逃がしてやらないと、泡があふれ出して大変なことになるのだ。プシュッと空気が抜けると、コポコポと泡が立って底に溜まった白い澱が沸き上がる。やがて、酒全体が白く染まる。これがたまらない。
色と泡を楽しむためにグラスに注ぎたい。まるで白いシャンパンだね。味は濃厚、上品な甘味が口中に広がる。ふきのとう味噌の苦みが、これまたよく合う。
黒板に書かれたおすすめの中から、金目鯛の刺身、山うどの天ぷら、ののひろのぬたなんてのを注文する。
私は刺身と言えば鰹を深く愛しているが、春先は金目鯛が好き。あのピンク色が春らしくていいではありませんか。
山うどの天ぷら、ののひろのぬたは、実は私の母親がよく作る。これを食べると春が来たという実感がわく。
とろとろ飲みながら、テレビのプロ野球中継でも見よう。楽天のゲームか、東野が投げている時の巨人戦、今年からは横浜もいいな。
四合瓶全部飲んじゃうと大変なことになるから、飲み残しはお持ち帰りにして、夜桜見ながら家路に就くことにしますかね。

2011年3月7日月曜日

おれも「笑点」が好きだった

長男が「笑点」のファンらしい。血は争えないものだ。
私が人前で初めて古典落語を喋ったのは中学卒業の時の謝恩会の席だったが、それは「笑点」の演芸から録音した三遊亭圓窓で覚えた『寿限無』だった。(先日、中学校の同窓会があったが、その時も、あれは印象に残っているよ、と言われた。)
小学校から中学にかけて、寄席番組をよく観ていた。また番組の数も多かった。「末広演芸会」、「やじうま寄席」、「大正テレビ寄席」等々、中でもやはり「笑点」は面白かったな。
私が熱心に観ていたのは、三波伸介が司会をしていた頃だ。三遊亭圓楽、三遊亭圓窓、桂歌丸、三遊亭小圓遊、林家木久蔵、林家こん平といったラインナップだったかな。特に歌丸・小圓遊の抗争が凄かった。子ども心に、この二人は本当に仲が悪いんだと信じていた。
正月には師弟大喜利なんてのもやっていて、三遊亭圓生と林家正蔵が同じ高座に座り、のんびりと謎かけなんかをやっていたという、後の分裂騒動を考えると信じられない、幸せな状況があったりしたのだ。
年末のチャリティーカレンダーはよかったなあ。橘右近が書いた美しい寄席文字が素晴らしかった。特に第1弾の最後を飾る、「文楽・志ん生二人会」のビラはしびれた。(しかも、会場が人形町末広なのだ。)川崎のアパートにもずっとかけておいて、時折うっとりと眺めておりました。
加えて、我々が幸福だったのは、「笑点」で落語に興味を持った後、それをさらに深みに引きずり込む番組が存在していたということだ。TBSの「落語特選会」は、夕方にやっていたことがあって、私はこれで圓生の『包丁』や文楽の『富久』を観た覚えがある。当時、文楽はそれほど印象に残らなかったが、圓生はすげえなと思いました。
NHKは季節ごとに落語名作選みたいな番組をやっていて、圓生、正蔵、小さん、柳橋等が出演していた。そうそう「ビッグショー」という番組があった。これは一人のスターにスポットを当てるものだが、落語家の回もあったのだ。圓生の『掛け取り万歳』、馬生の『百年目』を、それこそテレビにかじりついて観たものだ。
この間、長男と観た「笑点」は面白かった。あれだけが落語じゃないとは思うが、あれだけでも充分面白い。メンバーからも落語への愛を感じる。それでも、30分のテレビ番組である以上、やはり限定的なものにならざるを得ないのはしょうがないことだと思う。
もし、長男が望むなら、寄席に連れて行ってあげよう。もうちょっと広く深く豊かな世界があるんだけど、よかったら体験してみないか。それはお父さんが惚れた世界でもあるんだよ。

2011年3月3日木曜日

桂文楽「長生きするのも芸のうち」

文楽が金科玉条の如く大切にした「長生きするのも芸のうち」という言葉は、歌人、吉井勇から贈られたものである。
吉井勇、明治19年生まれ(文楽の6歳年長)。大正デカダンを代表する歌人だ。「かにかくに祇園は恋し寝るときも枕の下を水のながるる」で知られるような、女の白粉と酒の匂いでむせかえるような歌を詠んだ。落語にも造詣が深く、三代目蝶花楼馬楽と初代柳家小せんをモデルにした『句楽と小しん』という戯曲を書いている。(「かかる日のいづれ来らむ身なるべし馬楽狂はば狂ふまにまに」、「盲目の小せんが発句を案じ入る置炬燵よりかなしきはなし」などはこの二人を詠んだ歌である。)晩年は文楽の大正の薫り高き芸を愛した。
文楽はもともと小心で臆病なタイプだったが、この言葉を贈られた後、より細心に健康に留意するようになった。長生きすることによって、文楽は昭和の名人の名を不動のものにする。五代目圓生、四代目小さんは早く死に、同世代のライバル三代目金馬も昭和40年代を見ることもなく死んだ。スター春風亭柳橋は名人路線からは失速する。
一方で、自分の健康を最優先にする姿勢は、文楽の芸を小さくした。名人の称号を得ると共に持ちネタを限定したのと重なる。新境地への挑戦など、もちろんあるはずもない。
しかも、文楽は不器用な落語家だった。若いうちに完成させた熱演型の演出を、年齢に合わせてモデルチェンジすることはできなかった。速球派でならした豪腕投手が、コントロール重視の変化球投手に変身するのが困難なようにだ。
昭和41年、文楽は『富久』で2度目の芸術祭を受賞、瑞宝章も受章する。多分、これが文楽の絶頂だった。
やがて、年齢と共に衰える体力と芸とのギャップが大きくなってくる。それを物語る代表的なエピソードがある。十八番、『愛宕山』は仕草が多く体力を使う噺で、文楽はこの噺を演った後は、息も絶え絶えで長いこと楽屋で横にならずにはいられなかった。主治医は、『愛宕山』を封印するか、もっと楽な演出をするか、どちらかにするべきだと勧めたが、文楽は「『愛宕山』を演らない文楽は文楽ではないし、この演り方ではない『愛宕山』は『愛宕山』ではない。」と言って聞かなかった。この時、文楽の芸の破綻は、間近に迫っていたといっていい。
吉井勇は晩年、「文楽に『長生きするのも芸のうち』という言葉を贈ったのは間違いだった。」と言ったという。勇が死んだのは昭和35年。文楽の全盛期に、彼はその後の文楽の悲劇を予言していたように思えてならない。

2011年3月1日火曜日

潮来の宴


今年も昔の同僚と1泊の宴会をやった。
今年は潮来。阿や免(あやめ)旅館に投宿。実は他の旅館を予約していたのだが、急遽変更になった。
例によって早めに行き、辺りを散歩。シーズンオフでひっそりとしている。娘船頭のおばちゃんが盛んに客引きをしていた。
あやめ園から駅前に出て、長勝寺まで歩く。さすが文人墨客が多く訪れた観光地だ。一茶の句碑とか遊女の墓などが往時を偲ばせる。
宿に戻る。館内はギャラリーになっていて、骨董品や古い映画のポスターなんかが展示してある。特に潮来を舞台にした映画が多い。そうか、ここは本当にメジャーな観光地だったんだな。
Oさん到着。風呂に入り、ビールを飲む。風呂は5階。眼下に常陸利根川を望む。湯は天然温泉。いいねえ。
今年も参加は4人。もう一人のOさん、Iさんは遅れてやって来た。
刺身、手の平サイズの蟹の唐揚げ、白魚の卵とじなどでビール、酒。どれも旨い。蟹、白魚が秀逸。
こうやって話していると、瞬時に25年前に戻る。
翌朝、朝飯を食べて、チェックアウト。朝飯では、湯豆腐、鯉の醤油漬けが旨かった。1泊2食8400円、酒代を加えて1人1万円余。安い。
Oさん、Iさんと3人で12橋巡りの観光船に乗る。1艘でいちばん安いコースで4700円。これを3人で割る。
常陸利根川を横切り、千葉県側の12橋を巡る。娘船頭さんのおばさんの話では、舟は船頭個人の持ち物で、大体が12橋のある集落の人たちがやっているという。若い人はもう舟にはあまり乗らず、船頭のやり手がいないらしい。しかも、会社と契約しているとはいえ、舟の維持費は船頭さんの負担だという。保障もないとのこと。船頭さんの歌う、「潮来花嫁さん」、「潮来の伊太郎」を聞きながら、しみじみしてしまったな。
舟から上がって、来年の再会を約し解散。
途中、牛堀の街を散策して帰る。よーし、来年もシブい所を探すぞお。