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2014年9月30日火曜日

谷中点景

夏の終わりに東京を歩いた時の写真を幾つか載せてみる。
上の写真は、日暮里駅から谷中に向かう所。前方に小さく質屋「おじさん」の看板が見える。
矢野誠一『志ん生のいる風景』には、「団子坂で車を捨てて、『おじさん』というおかしな名前の質屋を目標に行くのが古今亭志ん生の家を訪ねるときのつねで、いつもこころがはずんだものだが、」という一節がある。

トップの写真の所から、ちょいと脇に入った辺り。絵になる建物が至る所にある。

窓に「貸室」の看板発見。こういう所に隠れ家を借りてみたい。


谷中銀座の酒屋さんの屋根の猫。これ作り物なのよ。よくできてるねえ。


よみせ通りを三崎坂の方に向かう所も、好みの建物が多い。

まだストックがあるので、折を見て載せていこうと思います。

2014年9月25日木曜日

小さい秋見つけた

すっかり秋ですなあ。
この前の休みの時、家の近くで秋の写真を撮りました。
何枚か載せてみます。

畑のコスモス。

曼珠沙華も盛りです。

道端のコスモス。うちの村の花でもありました。

キクでしょうかね。

バラが一輪咲いておりました。

去年グリーンカーテンにしていたゴーヤーが自生しています。

玄関先も秋バージョン。

2014年9月23日火曜日

風柳の根多帳⑨

当時、私は21歳。女房はおろか彼女さえいなかった。
その私が、夫婦の噺である『芝浜』に、どうしてのめり込んだのか。
私が特に力を入れた場面がある。
まず、女房が金を拾ったのが夢だと信じ込ませる場面。ここは志ん朝の演出を採った。
「お前さんは朝起きて湯へ行ったの!帰りに大勢友達を連れて来て、さんざん飲み食いして寝たんじゃないか!いつ芝の浜へ行ったんだい?」
「どうせ夢を見るんだったら、52両稼いだって夢を見とくれよ。あたしが隠したって言うのかい?だったら捜しゃいいんだ。どこだい?押入れかい?天井裏かい?縁の下かい?どこだって捜しゃいいんだ!」
海で拾ったとはいえ、他人の金に手をつけたとあってはただではすまない。ましてや52両の大金だ。夢にしてしまうことで、女房が亭主を必死に守ろうとする。
このような存在を、私は強く求めていたのだろう。(私には彼女はいなかったが、好きな人もいなかったとまでは言わない。しかし、その人とはこういう関係にはなれないな、という予感があった。)
そして、3年目の大晦日。裏長屋でくすぶっていた棒手振りが、若い者の二、三人を使う魚屋の主になって、昔の自分を振り返る場面。
「俺は、昔、酒を旨いと思って飲んでいたんだろうか。考えてみりゃあ、俺は酒に逃げていたのかもしれねえな。今、若え者が愚痴をこぼすとな、俺は言ってやるんだ。まずは、とにかく働いてみろ。一心に働いてみると、そこから何か見えてくるぞ、ってな。」
これは小三治の演出に、自分の言葉を足してみた。(今ならブラック企業の経営者みたいな台詞だけど。)
私は、何度かこのブログでも書いたが、大学時代は無頼派を気取っていた。魚勝の述懐のような価値観を否定する所に、私の存在価値があると思っていた。私は酒に酔うと、こう心の中で呟いたものだ。「生きよ、堕ちよ。ばかやろめ。」
しかし、この頃、私は落語家になることを諦め、大学に入る頃に抱いていた夢を果たすべく歩き出そうとしていた。私は無頼派から脱却しようとしていたのだ。
桂三木助は、かつて「隼の七」と呼ばれた博打うちだった。それが娘のような、齢の離れた自分の踊りの弟子に惚れ、一緒になるために生活を建て直し、芸の道に精進した。その自分の姿を、彼は『芝浜』の魚勝に投影してみせた。
三木助と同じにしては申し訳ないが、私は私なりに拙いながらも、魚勝の再生に自分を重ねようとしていたのかもしれない。大学にも落研にも、『芝浜』を演ることで一区切りつけようとしていた、とも言える。
サゲを言って頭を下げ、追い出しの太鼓を聞きながら、私は演りきった想いでいっぱいだった。
緞帳が下り、呆けたように舞台の袖に戻った私に、太鼓を叩き終えた三笑亭小夢(現桂扇生)さんが言った。「ばかうま。よかったよ。」
この言葉は嬉しかった。今も忘れない。

第18回S大寄席の番組です。

「かぜ 17号」から。










2014年9月17日水曜日

風柳の根多帳⑧

『芝浜』の話の続き。
本番は、今はなき新宿山野ホール。山野愛子美容室が経営するホールで、小田急線の線路沿いにあった。
補導出演は浮世亭写楽(現九代目三笑亭可楽)師匠。(三笑亭夢楽師匠は所用で出演いただけなかった。)
落語だけ9席続く番組だ。学生の落語をそれだけ聴かされるのだから、お客も相当覚悟がいる。だからこそ演者一人一人も、精一杯噺を仕上げてくるのだ。
写楽師匠の『町内の若い衆』の後、いよいよトリの私の出番だ。
桂文楽に倣って、人を扇子で掌に三回書いて飲み込む。出囃子は「中の舞」。歩き出すのが、ちょっと早かったが、三味線の浜田よし子さんが上手く合わせてくれた。
「いよいよ私で最後です。ここまで残ってくださったのは、よっぽど落語が好きな人か、私の身内か、どちらかだと思いますが。」と喋り出すと、ふっと空気が和んだような気がした。いいお客だ、私はそう思った。

さて、『芝浜』のマクラだが。
三木助は「曙や白魚のしろきこと一寸」という芭蕉の句(三木助は「翁の句」と呼んだ)を引いて、隅田川で白魚が採れたという情景を描き、粋と気障のぎりぎりの線を突く。談志は、『芝浜』の女房が、果たしていい女房なのか、疑問を呈しながら噺に入る。志ん朝は三道楽の話題から、魚屋が仕事を休むまでの過程を丁寧に語り込む。小三治は、唐突に「ちょいとお前さん、起きとくれよ」と本題に入ってゆく。四人ともそれぞれに個性が出ていて面白い。
私も自分なりのマクラを作ってみた。概略はこんな感じ。
「卒業が迫り、仕事の目星もついて、これで人生が決まったようで、何となく暗くなる。後の楽しみはどんな人と結婚するかだな。早く結婚して子どもが欲しい。男の子が生まれたら、落語家にしようかな。「落語養成ギブス」かなんかつけて。毎朝、正座1時間ぐらいさせて。「間が悪い」とか言って引っ叩いたりして。そんな、明るい家庭を、築いていきたいと思っておりますが…。」
昭和の50年代ぐらいから、プロの落語家でも、お決まりのマクラではなく、自分の了見を自分の言葉で喋る人が出てきた。(もちろん立川談志が、その最先端を行っていた。)私もそんな時代の空気に感化されていたのである。

そこから間を取って、「ちょいと、お前さん起きとくれよ」と噺に入る。
この辺りは、小三治の演出を意識したな。あんな風に、すっと噺に入ってみたかったのだ。

今回はここまで。この話は、あと1回ぐらい続きます。




2014年9月15日月曜日

霞ヶ浦を見に行く

朝、パン、牛乳、ハムエッグ。
午前中は、子どもたちと庭で遊ぶ。
昼は、ざるそば、おにぎり。
午後、次男の友だちが遊びに来る。
妻と交代でちょっとばかり外出。
妻は買い物。
私は特別あてもなく出かける。時間もあまりないし、久し振りに霞ヶ浦を見に行く。
車で堤防沿いを走る。
棒杭に鳥が止まっていたので、車を止め、水際に下り、暫しぼんやり眺める。
霞ヶ浦を見たいと思う時は、少しばかり心が弱っている時だ。
曇り空で、湖面も鉛色。しきりに魚が跳ねる。
一羽のアオサギが、ずっと棒杭に止まっている。
霞ヶ浦を見る度、私はいつも人の世の小ささを思う。
狭い空間内でのヒエラルキー。強要される自己犠牲。異物の排除。真意の探り合い。「人間なんてみんな馬鹿さ」と佐野元春は歌う。ほんとその通りだ。
アオサギは泰然として動かない。
えらいねえ。見習いたいもんだ。
夕食は焼き肉でビール、酒。連休も終わり。

2014年9月14日日曜日

石岡のおまつりに行く

昨日、妻子を連れて、石岡のおまつりに行く。
駅前から八間道路、中町通りをぶらぶら歩く。
中町通りは結構な人で賑わっていた。いつもの石岡じゃない。この3日間は、まさに特別な3日間なのだ。
長男は「妖怪ウォッチ」のくじ、次男はエアガンのくじがお気に入り。どこかの祭りに連れて行くたびにやっている。
屋台で焼きそばとたこ焼き、大判焼きを買う。
1時間半ほど歩き、雲行きが怪しくなってきたので、早めに帰る。
コンビニでそれぞれ好きなものを買い足し、夕食のおかずにする。私はサバの水煮の缶詰と焼き鳥を買った。
家で、それらをつまみにビール、酒。
少しだけど、今年もまたお祭りの気分を味わえました。

以下は、お祭りの写真。
山車の競演。



巨大なおかめが舞う。


石岡特有の幌獅子が練り歩く。


こちらは会所にご挨拶。

中町通りは結構な賑わいでした。



今年はあまり写真が撮れなかったなあ。

2014年9月12日金曜日

風柳の根多帳⑦

前回の続き。
本番までにはもう一回、客前で演る機会があった。老人ホームの慰問だ。
慰問とはいっても、目的は発表会の練習。部員ではない、一般の人の前で演ってみることに価値がある。
うちの落研では、成城学園前、駒場東大前、下高井戸の3か所に、それぞれなじみの老人ホームがあった。(「白寿荘」という名前には記憶があるな。多分、これは成城学園前から行った所だと思う。大福さん、メモとってない?)
この時は、仲トリの八海君は就職活動で欠席。4年の真打では、私だけの参加となった。
当然、私は最後に高座に上がったが、この場で『芝浜』という人情がかった大ネタを演るのに気が引けたんだね。『牛ほめ』とか『豆屋』だったら、お年寄りも喜んでくれるだろうに、練習に付き合わされるのは申し訳ないという気が先に立ったような気がする。
「学生の身で、このような噺を演るのは、申し訳ないのですが」というマクラをふって、噺を始めた。やはり出来はよくなかった。
終演後、楽屋で反省会をするのだが、慰問の時は、真打でも参加した全ての者に批評してもらう。
1年後輩のトップ真打、夢三亭小たつ君が、「伝助さんらしくなかったです。」と言ってくれた。「伝助さんは、『おれの噺を聴け』って感じで演んなきゃ駄目です。」
この言葉はありがたかったな。あれで腹がくくれた。自分が演りたい噺を、思い切って演るべきだ。変な遠慮をして、出来の悪い噺を聴かされる方が、よっぽど迷惑なんだよな。
小たつ君はもう一つ指摘してくれた。「伝助さんには、話している途中で舌を鳴らす癖があります。気を付けた方がいいと思います。」
これに関しては、あまりピンとこなかったが、ちゃんと意識しておけばよかった。後で本番の録音を聴くと、確かに、ぴたんぴたんと舌を鳴らす音が聞こえる。演っている時は違和感はなかったが、録音になると、やはり耳障りだった。
人の言うことは、きちんと聞いた方がいい。

2014年9月10日水曜日

風柳の根多帳⑥

夏合宿から帰ると、いよいよ最後のS大寄席に向けて、『芝浜』に取り組むことにした。
S大寄席は、当時、うちの落研では最も重きを置いた対外発表会であり、ここで、私はトリをとることが決まっていた。ネタも早くから『芝浜』を考えていた。
かつてS大寄席では、二代目松竹亭金瓶梅さんが『芝浜』でトリをとっている。
あの名人金瓶梅さんと同じネタを演るのは大それたことだという気持ちもあったが、それでも、どうしても『芝浜』を演りたいという思いは強かった。ここで演っておかなければ後悔する、そう思った。
用意したテープは、三代目桂三木助、古今亭志ん朝、立川談志、柳家小三治の4本。
それぞれの演出を聴くうちに、どれか1本に絞るより、自分なりに構成してみたいと思うようになった。
全体の構成は三木助。登場人物の気分としては小三治。志ん朝のは、おかみさんが勝五郎に財布を拾ったのが夢だと思い込ませる場面を取り入れた。談志については、どうせ口調は談志になってしまうだろうし、気が入ったら3年目の大晦日の場面が特にそうなるだろうな、と思っていた。
結局、4人のいいとこ取りみたいな演出になったが、自分なりに噺を作ろうという意思が出てきたのは確かだった。
稽古を始めてみると、この噺、意外と演りやすい。何といっても、登場人物は夫婦二人だけだ。人物描写に悩むことはほとんどなかった。ストーリーもよくできているし、感情移入もしやすい。夫婦の愛という普遍的なテーマだから、それぞれの思い入れで、独自性も出せる。
みんなが演りたがるのが分かるような気がした。
サゲまで35分ぐらいで仕上がる。聞き手を最後まで引っ張るには、時間的にはこのぐらいまでだろう。
ネタ下ろしは、落研部内の発表会。
マクラでは、早く結婚して子どもが欲しいなあ、なんてことを軽く喋って、すぐに本題に入った。
噺の中に入り込みながらも、部員の反応を見る。こちらの気が入るにつれて、聞き手も乗り出してくるのが分かった。手応えはある。どうにか何とかなりそうだ。

2014年9月8日月曜日

お月見

今日は中秋の名月。とはいっても、曇り空。雲の上に行けば、煌々と光る満月が拝めるだろう。
ま、「花は盛りに、月はくまなきをのみ見るものかは」と、兼好法師も言っているし、雲の向こうのお月様を、心で感じることにいたしましょう。
というわけで、晩御飯は、お月見メニュー。
妻が作った、栗おこわ、けんちん汁。父が買って来た焼き鳥。それに加えて、頂き物の、さんまとまぐろの刺身ときちゃあ、一杯飲まずにはいられませんなあ。
涼しいので、ビールはなし。菊正宗を常温の冷やで飲む。脂ののった肉厚のさんまと、まぐろの中トロ。たまんないねえ。栗おこわ、けんちん汁も、酒のつまみにいいのよ、これが。
満足満足の晩餐でありました。

2014年9月5日金曜日

塩原、夏の早朝

夏休みに行った、塩原の早朝散歩の写真。
山間の朝早くっていうのは、気持ちのいいもんですなあ。

箒川の河原から。

老舗、清琴楼別館。

つげ義春が描きそうな建物でしょ。

道端にあった庚申塚。

つげ風の建物がある小道。


2014年9月1日月曜日

神田明神

東京へ行った晩は、神田明神の近くに宿を取った。
神田明神には平将門の霊が祀られている。
『平家物語』で逆賊の代表の一人として、「承平の将門」と名前を挙げられている。ではあるが、郷土茨城では何となく英雄視されている。私が高校生の頃やっていた「大河ドラマ」、『風と雲と虹と』で、将門は心温かい人物に描かれていた。そのような人柄が、土地の記憶として受け継がれてきたのかもしれない。(地元には、「将門煎餅」とか「将門蕎麦」なんてのもありますよ。)
将門は、身内の争いから伯父の国香を討ち、あれよあれよという間に関東一円に勢力を広げた。果ては「新皇」と称し、中央政府と敵対するに至る。しかし、追討軍に敗れ、将門も討死。首は都に晒された。晒された首は、3日後、故郷を求めて空を飛ぶ。中央政府の威信にかけ、その首は矢で射落とされた。その首が落ちた所、現在の東京大手町に首塚が残る。そして、その祟りを鎮めるために、将門は神田明神に祀られたという。(ちなみに首が落ちた場所は諸説あり、そのひとつ、岐阜の大垣市には御首神社がある。)

夕暮れの神田明神にお参り。ホテルで一息ついて、晩飯を食べに出かける。
明神の坂を下り、鰻の名店「神田川」の向かいにある、もつ焼き屋に入る。いつものように、カシラ、シロ、ネギ間で生ビール。そして鶏ハラミ。ここで一ノ蔵。2本目は菊正宗。谷中生姜をつまみに飲んだ。なかなか落ち着ける店だったよ。隣の店にはメイドさんが立っていたけど。(秋葉原にも近いのだ。)
コンビニに寄って、カップラーメンと缶水割り、翌朝の朝食を買ってホテルに帰る。歩いたせいか、ぐっすり眠れました。

ホテルの前の坂道。

鰻の名店「神田川」。桂文楽が贔屓の店でした。

秋葉原付近。

朝の神田明神。