ページビューの合計

2011年2月25日金曜日

六代目蝶花楼馬楽

懐かしい落語家のことを少し書いてみたい。
六代目蝶花楼馬楽。
学生の頃寄席に行くと、必ずと言っていいほど聴いたものだ。
四代目柳家小さん門下。五代目小さんの兄弟子に当たる。
小さんがさっぱりとして男性的であったのに対し、馬楽はなよっとして女性的だった。声を作って人物を演じ分けるところがあり、正直言ってクサかった。『芋俵』の後半の演出などはくどかった。とりわけサゲの「いやあ器用なお芋だ。」という台詞廻しは、当時は嫌で嫌でたまらなかった。
だけど、今になって思えば、明治の匂いを伝える、貴重な落語家だったなあ。
CD―ROMの『古今東西落語家紳士録』に収録されている『応挙の幽霊』を聴いたが、結構なものだった。目立たないが、確かな腕を持っていた。
そういや、昔、東宝名人会で主任をとっていた馬楽を観た。
あれは正月じゃなかったかな。それでも客の入りは薄かった。その少ない客を前に、馬楽はこう言った。
「今日はお土産に珍しい噺をいたしましょう。」
そうして、バレ噺を始めたのだ。これがよかった。馬楽の女性的な感じ、それと老人の枯れた雰囲気が生々しさを消してくれ、からっと笑えるものとなった。
もちろん、内容はきわどい。小咄をいくつか並べたのだが、最後に持ってきたのは特に印象に残った。『落語辞典』で調べたら、『大根船』というタイトルが付いていた。こんな噺だ。

ある男が舟で川を下る大根売りを呼び止めた。「お前の大根は俺のモノより太いか?」大根売りは「当たり前だ。」と答える。「では比べっこをして負けたら全部買ってやる。勝ったらただでもらう。」という賭をすると、果たして、男のモノの方が太かった。大根売りは泣く泣く売り物を取られる。男は意気揚々と家に帰った。事情を聞いた女房が大根売りに同情して金を払おうと思い、川に向かって声を掛けると、大根売りが言った。「いけねえ、今度は舟を取られる。」

うん、いい思い出だ。あの馬楽を聴いておいてよかった。
金原亭馬生の死後、落語協会の副会長となった。いい晩年だったと思う。
川戸貞吉の『五代目柳家小さん芸談』という本に、小さんと川戸による、馬楽についての対談が載っている。これがすこぶる楽しい。お勧めです。

2011年2月22日火曜日

立川談志よ、古今亭志ん生を継げ(by八海)

うちの落研は年に2回大きな発表会があって、その際に「かぜ」と「与太郎」という機関誌を出していた。そのうちの「かぜ」の方は印刷屋で刷った本格的なものであった。
それは4年の時だった。同輩の八海君が私に言った。
「『かぜ』の原稿で収まりがつかなくなっちゃったんだ。伝助、この後を書いてくれよ。」
原稿を見ると、冒頭からこんなことが書いてあった。
「立川談志よ、古今亭志ん生を継げ。」
いやあ、インパクトがあったなあ。六代目志ん生を継ぐのは息子の志ん朝だと、誰もが信じて疑わない状況で、暴論とも取れる内容だった。しかし、読み進めていくにつれて、私には、それが、あながちただの暴論とは思えなくなった。それどころか、八海にやられたなあという思いが強くなった。
私はその後を受けて、こんな風にまとめた。
「志ん朝は文楽を継げばいい。そうして我々は新しい文楽・志ん生の鍔迫り合いを見るのだ。」
あれから30年近い時が経った。その後の二人の辿った道を思うと、感慨深い。
端正で艶やかで明るい大輪の華を咲かせた志ん朝は、今や多くの人が文楽の系譜と認めているし、人間の業を余すところなく描き、既成の枠に収まらない名人となった談志は志ん生の系譜にあたるだろう。(もっとも、志ん朝は文楽よりも伸びやかで、談志は志ん生よりもロジカルだ。もちろん、それは彼らが生きた時代性による。)
また、志ん朝が周囲に気を配り心地よくさせながら統率力を発揮したことは、そのまま文楽の生き方に重なるし、談志のあくまで自分のやりたいようにやるという生き方は、志ん生そのものに映る。
志ん朝が志ん生のDNAを受け継いだ息子で、談志の方は五代目小さんを通して文楽の孫弟子であることを考えれば、芸というものの妙を、今更ながらに感じずにはいられない。
彼らは志ん朝・談志のままだったが、結局、私たちは新しい文楽・志ん生の鍔迫り合いを見ることができたのではないか、とさえ私には思えるのだ。
八海君の慧眼に、改めて感じ入る。
大福さんの文章を読みながらあの頃を思い出し、ふとそんなことを考えた。

2011年2月21日月曜日

文楽と圓生

昭和40年、文楽は落語協会会長の座を三遊亭圓生に譲り、自らは最高顧問に就任する。
文楽が会長を務めたのは2度。昭和30年から32年、38年から40年の通算4年間だった。これは意外と短い。同時代の春風亭柳橋、後の柳家小さん、三遊亭圓歌の長期政権とは好対照である。
1回目は古今亭志ん生に譲り、志ん生が病に倒れると再び会長に復帰、圓生に繋いだ。落語の黄金期と言われた昭和30年代から40年代にかけて、昭和の3名人が途切れることなく会長職を務めたことになる。
圓生は戦後満州から帰国後、飛躍的な伸びを見せた。それまでは「皮ばかりで骨(肉だったっけ?)のない芸」とか「気障なばかりで下手」といった評価をされていたが、50代にしてそれまでの精進が花開く。
圓生の噺はある程度の持ち時間がなければ輝きを見せない。寄席の20分の高座では、なかなか真価を発揮できなかったが、昭和30年代のホール落語誕生で思う存分実力を披露する場を与えられた。また、一方で圓朝作の人情噺を発掘してレコード化し、ファンの喝采を浴びた。
同じ楷書の芸。後から急速に追い上げる圓生に対し、しかし、文楽は歯牙にもかけなかった。
8歳年下の圓生を文楽はライバルと認めていなかった。「私の噺は全て十八番。圓生は無駄ばかり」という言葉はそれを代表している。実際、弟子たちの証言によると圓生を子ども扱いしていたらしい。圓生が伸びてきた時は「圓生がよくなったよ。良いときは褒めてやんなきゃね。」などと言っていたという。(もっとも、春風亭小朝は、このような文楽の態度について、かえって圓生を強く意識していたことを物語っているのではないかと見ている。)
圓生もまた文楽に対しては批判的な言葉が多かった。(ただし、文楽存命中は畏怖の念の方が強かった。立川談志は、協会の会議で文楽へのちょっとした異議を唱えるのに、緊張にうちふるえる圓生の姿を見ている。)文楽の死後、高座で一瞬台詞を忘れ言い淀んだ圓生は「あたくしもおいおい桂文楽になる」と言って、満座の客を凍り付かせた。
だが、京須偕充によると圓生の自宅のレコードキャビネットには、レコードの文楽全集が大切に保管されていたという。正直なところでは、文楽に対する敬慕の念を持っていたのだろう。ただ、文楽に認められていなかったという屈折が、圓生にはあった。
志ん生が高座から遠ざかり、文楽が世を去って、圓生は押しも押されもせぬ第一人者となる。昭和48年3月(志ん生の死の半年前である)、圓生は、天皇皇后両陛下を前に落語家初の御前口演をするという栄誉に浴する。八代目林家正蔵は、それから後、圓生は変わった、寛容さがなくなった、と書いている。

2011年2月20日日曜日

何もない週末


次男がインフルエンザになったので、この週末はずっと家にいる。
予防接種が効いていたのか、熱が出たのは初日だけで、後は元気。
昨日はイーグルス、今日はニール・ヤングを聴きながら、本棚の奥から見つけた、村上春樹の『神の子どもたちはみな踊る』を読む。読了。
夕方、買い物がてら石岡に行く。
今は雛祭りの真最中。時間も遅く、天気も悪かったせいか、ひっそりとしている。
30分程、カメラを提げてぶらぶら歩く。
喫茶店四季の斜向かいの駄菓子屋が火事で全焼していた。隣の肉屋も半焼。焼けたばかりなのか、まだ片付けられていなかった。
帰りにカスミでワインと厚切りベーコンのおつまみを買う。
夕食は、カルボナーラ、たらこスパゲティー、ポテトサラダ、厚切りベーコンで赤ワイン。
子どもを寝かしつけて、アイリッシュウイスキーを飲む。

2011年2月17日木曜日

こんなことやってる場合じゃないのだが


ここんとこ忙しくって、まとまった文章は書けないが、ストレス解消にちょっとだけ。
妻が早々と寝てしまったので、久々に文楽のDVDを観る。
「馬のす」と「大仏餅」の2席をいっぺんに演ったもの。昭和45年の映像(彼の死の1年前だ)。
この2席はセットでよく演じられた。どちらも短い噺なので、30分もかからない。
それにしても「馬のす」は枝豆が出てくるくらいだから夏の噺だし、「大仏餅」は雪の夜の噺で季節は真逆だ。多分、時間の関係だけでこの二つをセットにしたのだろう。こうしてみると、文楽も案外ずぼらなところがあったのかもしれない。
「大仏餅」は文楽としては珍しい、くすぐりの全くない噺(あの「心眼」にだって、「仲見世だあ」の場面では笑いがくる)。談志などは酷評しているし、私も正直つまらないと思っていた。
ところが、これがなかなかいいのだ。わずか15分の噺だが、静かな情愛が心にしみる。この噺が、この1年後、文楽を引退に追い込むことになるなど、とても思えない出来だった。
思わずいい気持ちになったので、書き留めておくことにしました。今日はこれまで。

ついでに画像をひとつ。たきの井食堂、外観。ちょっと前の写真。

2011年2月15日火曜日

肉煮込み定食


今日の昼食は、鉾田市、たきの井食堂。
肉煮込み定食。豚肉と玉葱、蒟蒻を甘めに煮ている。生卵が付いて750円。
七味焼き定食のがつんとくるのに対し、こちらはあくまでやさしい味なんだなあ。
一番人気は七味焼きだが、こちらも捨てがたい。
旨かったっす。

2011年2月13日日曜日

デジカメが壊れた


私が持っている唯一のデジカメが壊れた。
この間横浜に行った時、使おうとしたのだが、液晶が点かない。電源を切ってもレンズが引っ込まないのだ。
手に入れて1年と2ヶ月。惜しいことに保証期間はもう過ぎている。
今日、キタムラに行って見てもらったのだが、修理すると1万以上かかるという。
新しいのを買った方が安いとのこと、その際は1000円で下取りしてくれるとのことであった。
店員さんは親切に相談に乗ってくれたが、ちょっとがっかりしたなあ。
しょうがないか、もともと一昨年の忘年会のビンゴで当たったものだったし。
新しいのを買うかどうかは思案中。どうしようかなあ、好みとしては、フィルムの方なんだが、ブログには便利なんだよなあ。
写真は壊れたデジカメ。買い物の途中、ケータイで撮りました。

ブログの更新がしばらくなかったので心配してたけど、大福さん、ぎっくり腰だったんだ。そりゃ大変だった。
私も実は14年前、ひどいのをやりました。やったその日はトイレにも立てない。
尿瓶を買って来てもらって用を足しました。新婚早々、妻には下の世話をさせてしまった。申し訳ない。
大福さん、痛みが引いたら、腹筋背筋とストレッチはやっといた方がいいよ。

2011年2月7日月曜日

横浜へ行った


この前の土曜日、ふと思い立って妻子を連れて横浜に行った。
ナビちゃんの言うがまま、横羽線を通って行く。
羽田から多摩川を渡り、川崎から鶴見へ。左手は鉄錆色の工場地帯。右手には川崎の町並み。
宇崎竜童が歌う「住めば都」「鶴見ハートエイクエブリナイト」がぐるぐると頭の中を駆け巡る。何か心の奥が揺さぶられる風景だ。
ベイブリッジを渡って山下公園駐車場に入る。家から2時間ちょっとのドライブ。駐車場は空いていた。1時間500円で、30分ごとに250円ずつ上がる。高いかなと思ったが、歩いてみるとこれがけっこう良心的な値段だった。
すぐに中華街に向かう。ずいぶんな人出。中華街にはいるとすぐ、天津甘栗の売り子が次々と声を掛けてくる。試食した子どもたちが、どうしても欲しいと言うので、仕方なくいちばん小さいのを買う。1000円。決して安くない。ふと立て看板を見たら、「栗の押し売りにご注意下さい」と書いてあったぞ。
蒸かしたての肉まんを食べる。旨い。
食べ放題の店の客引きがしつこかったが、それを振り切って、保昌という店で昼食。チャーシュー麺、ねぎそば、五目焼きそば、五目チャーハン、それと海老ニラ焼き餃子を頼み、皆で分けて食べる。旨いなあ。中華街の店で外れたことがない。これだけ数があって潰れないで残っているのだから、古そうな店はどこも旨いんだろうな。
長男がどうしても見たいと駄々をこねて、やむなく「よしもと水族館」を見物。色々趣向を凝らしてあり、それなりに楽しめるだろうが、なぜここに水族館という釈然としない気持ちが残る。
お土産に肉まんと月餅を買い、山下公園へぶらぶら歩く。氷川丸を見学。子どもたちはスタンプラリーで大喜びだった。特別船室はさすがによかった。この時代の造りは品があるなあ。こういう部屋で船旅というのもいいよねえ。
そこから車で赤レンガ倉庫に移動。1時間ほどお店を見て回り、アイスを食べて帰る。
少々子どもたちに振り回された感があったが、楽しかったよ。横浜も案外思い立って行けるもんだ。また中華が食べたくなったら出掛けてみようね。

写真は保昌の五目焼きそば。ちょこっと見えるのが、子どもたちが食べているチャーシュー麺

2011年2月6日日曜日

夢之酒 冬の巻


私が愛読している『酒のほそ道』には、「夢之酒」という巻頭カラーのシリーズがある。そこでは四季折々の旨い酒のシチュエーションが妄想されるのだが、今回はそれを真似てみたい。
小唄の『初雪に』の文句が好き。「初雪に ふりこめられて向島 二人が中に置き炬燵 酒のきげんの爪弾きは 好いた同志の差し向かい 嘘が浮世か浮世が実か 誠くらべのむねと胸」というのだが、いいよねえ。
というわけで、季節は冬だ。
隅田川近くの二階の角部屋。ちょいと寝坊をした朝。やけに表は静か。窓を開けてみると、しんしんと降り積もる雪。
これじゃあ遠出はできないなあ。しょうがない、雪見酒といこう。
湯豆腐に燗酒。湯豆腐はごてごて具を入れちゃ駄目だぜ。鍋の底に昆布を一枚敷いて、その上に豆腐を賽の目に切って入れてくんな。たれはぽん酢じゃなくて、鰹節に生醤油。葱を刻んで入れてくれるとありがたい。
顔を洗って置き炬燵に座ると、酒肴が揃う。
すらりと背の高い白磁のお銚子と猪口。土鍋の中では湯豆腐がいい具合に温まっている。小鉢には鮪のぶつの醤油漬け。
燗は少し熱め。はふはふと豆腐を頬張る。鰹節醤油を、昆布のだしが出た湯豆腐のお湯でうすめる。温めると豆腐の味が濃い。口に含んだ純米酒の香りが、鼻腔の奥に立ち上る。鮪は赤身。醤油につけてあるので臭みはない。山葵をのせてぺろっといく。ねっとりとして旨い。
窓の外には東京の下町の雪景色。いつもは煤けたような街が、お化粧をしたように見える。
小一時間ほど飲み食いして、ごろりと横になる。
もうちょっとしたら、言問橋の辺りまで散歩してみようかねえ。

写真は次男の出産で妻が実家に帰っていた時にやった湯豆腐。こちらはけっこう侘びしいものでした。

2011年2月1日火曜日

芸名考 落研編その2

うちの落研では、初めての芸名を「茶話会」という新入生歓迎会でもらう。そこで芸名入りの会員証をもらって、自分の芸名を発表するのである。
芸名は一門の真打ちがつける。よくあるのは、セットでつけられる名前だ。
私の代の松竹亭一門は、悟空、八海、酒合丈(さごじょう)の西遊記トリオ。
私は楽家伝助という名前をもらったが、同じ松風亭一門は、他に赤兵衛、世之助。3つともビッグコミック系の漫画のキャラクターの名前だ。
我々の名前をつけてくれた3コ上の先輩(桂小文治さんの代です)が1年生の時の名前では、麻雀シリーズがあった。三色、ドラ八、ざんQ。時の真打ち(三代目金瓶梅さんの代だ)が、麻雀に興じながら考えたらしい。
私は4年の時、一門の新入生に、ちゃんちきちん、すけてんてん、てんどこどん、という名前をつけようとしたが、同輩の反対に遭い、やむなく、乱頭(らんとう)、牛車(うっしゃー)とつけた。プロレス漫画『1,2の三四郎』の三四郎の雄叫び「ウッシャー」と場外乱闘からとったのだ。
(ちなみにプロでもこの手のやつはあって、三遊亭歌之介の3人の弟子の名前は、ありがとう、ございます、しあわせ、という。)
判じ物みたいなのもあった。1コ下の松時(ショータイム)、小柳さんの前座名、亜留番(アバンチュール)。同輩で春”短(バルタン)というのもいた。でも、これが主流というわけではなかったよ。(現在の落研はこっちがほとんどみたい。)
印象的だったのは、当時のうちの落研は、入部時に短髪にしなきゃいけなかったのだが、後輩に見事に丸刈りにした奴がいて、これは、五里ん(ごりん)とつけられた。
夢三亭は下ネタが多い。2コ上の海太郎(かいたろう)さん、同輩の弥っ太(やった)、後輩では一発なんてのがいたなあ。(それぞれ「ゆめみてかいたろう」、「ゆめみてやった」「ゆめみていっぱつ」です。)
部員同士、芸名で呼ばれる人もいれば、本名で呼ばれる人もいる。先輩では、佐助さん、海太郎さんは芸名で呼ばれていた。(海太郎さんはそのままの名前で真打ちになった。)うちの代は、弥っ太、世之助。私も伝助と呼ばれていた。西遊記トリオは風貌的にはぴったりだったが、案外本名で呼ばれてたなあ。いや、八海だけは芸名で呼ばれてたか。
二つ目になると改名することができる。麻雀シリーズの代の先輩方は、ドラ八→梅吉、ざんQ→梅楽、亜留番→雀志となられた。1コ下の牛丼君は蘭丸に変えたっけ。
読みを変える人もいる。1コ上の先輩、風神さんは「ふうしん」から「ふうじん」に、私がつけた乱頭君は「らんず」にした。
私たちの代は、悟空、八海、酒合丈も世之助、弥っ太、伝助も、女子部員の夕姫、楓も、二つ目での改名はしなかった。(結局、残ったのは、この8人でした。)ということは、皆、自分の名前にそれぞれ愛着があったということだ。いい名前を頂いたんだな、と思います。ありがとうございました。