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2011年4月30日土曜日

田植えをした


いい天気。今日は田植え。
ここの数年仕事が重なって、久し振りの田圃になってしまった。
70半ばの両親には申し訳ない。
ただ、これをやっていると、おれは農民なのだなあと実感する。心地よい疲れだ。
子どもたちも手伝いに来たが、蛭がいたので、すぐに田圃から出た。
次男はすぐに飽きてしまったけれど、長男は午前中いっぱい何やらと働いていたな。
晩飯は、母屋で寿司。ビール、酒を飲む。旨いねえ。

2011年4月26日火曜日

桂文楽の死

志ん生との会談の2日後、11月2日、文楽は検査のため駿河台の日大付属病院に入院した。少量の吐血を見たのがきっかけだった。その後、病状も落ち着き、12月18日には退院することになっていた。
さらに12月10日、主治医の西野入は文楽から「ドックに入って健康診断を受けたいんですけど、どうでしょ?」と訊かれ、「それは結構なことですよ。」と言って勧めたという。
ところが、その翌々日、12月12日の日曜日の朝、文楽は突然大量の吐血をする。動脈瘤が破裂したのだ。(西野入は、ドックの際、胃カメラなどの検査機器が、食道の動脈瘤を刺激したのではないか、と想像している。)
日曜の朝で、道具が用意できない。健康管理課の女医ではどうにもならず、医局の旅行で熱海に行っていた西野入が急遽呼び出された。しかし、もう手の施しようがなかった。輸血を続けるものの吐血は止まらず、側で見ていた五代目小さんは「血を入れるから吐くんだ。輸血を止めれば、吐き終われば血が止まるのに。」と言った。苦しんで苦しんで文楽は逝った。
その日の昼、遺体は黒門町の自宅に戻った。文楽の死に顔は穏やかだったが、棺に収めるため遺体を動かすと、鼻や口から血があふれ出た。西野入が脱脂綿でそれを拭き取った。葬儀のお別れで棺を祭壇から下ろすと、またもや大量の血があふれ出た。そのために出棺には手間取った。文楽の死は、それ程までに壮絶だった。
志ん生はテレビのニュースで文楽の死を知った。12月9日に妻りんを失い、3日後に盟友の訃報に接した志ん生は蒲団を引っ被り、「あんにゃろ、俺の面倒を見るって言ってたのに、死んじまいやがった。」と言って号泣した。りんの死には呆然とするだけだった志ん生は、この時初めて感情を爆発させたのだ。
告別式は、退院する予定だった12月18日、浅草東本願寺において落語協会葬として執り行われた。葬儀委員長は落語協会会長の三遊亭圓生。圓生は弔辞の中で「戦後、人心の動揺、人情、生活と、以前とは移り変わりゆく世相で、勿論落語界も、世間のあおりを喰い、動揺をした中で、貴方の芸は少しも、くずれなかった。我人共に時流に流されやすい時に、貴方は少しもゆるがなかった。」とした上で、「戦前の通りに少しもくずさず演った、それが立派な芸であれば客は喜んで聴いてくれるのだ、これで行けるのだと、人々に勇気を与えた。今日の落語界に対して貴方は大きな貢献をされたことを私は深く感謝しております。」と述べた。戦後の落語界で、文楽が果たした役割を、これ程的確に言い当てた言葉はあるまい。戦後の混乱期から昭和30年代の落語黄金期にかけて、文楽の背中を必死に追いかけた圓生だからこそ言える言葉であった。
八代目桂文楽。本名並河益義。享年79。死因は肝硬変と発表された。法名は「桂春院文楽益義居士」。墓は世田谷区大蔵5丁目妙法寺にある。墓石には辞世の句「今さらにあばらかべっそんの恥ずかしさ」が刻まれている。

2011年4月24日日曜日

誕生日には花を買って


先日は妻の誕生日だった。
仕事の帰りに、花とケーキを買う。
夕食は家族で焼き肉。長男が張り切って肉を焼く。
いつもはあまり肉を食べない次男もたくさん食べた。
食事の後は長男がピアノを聴かせてくれる。
週末は土浦イオンに行き、妻の誕生日プレゼントを買う。
夕食は、カスミで買ったピザとパン。私たちが「猫ワイン」と呼んでいる、ドイツの白ワイン。
震災以来、ほとんど酒に口をつけなかった妻も飲む。久々にボトルが空いた。

2011年4月9日土曜日

文楽、志ん生、最後の会談

昭和46年10月31日、日曜日。文楽は日暮里の志ん生宅を訪れる。これが、文楽、志ん生、最後の会談となった。
これは出口一雄が「黒門町が元気がないんだ。半身不随でも元気な古今亭と会わせたら、気も晴れるんじゃないか。」と提案して実現したものだ。あの落語研究会の『大仏餅』以後の文楽を、心配してのものだった。その模様は東京新聞の記事となった。
その日、文楽は自宅を出る時、サントリーオールドのボトルと日本酒を1本弟子に持たせ、「これを孝ちゃんに食べさせよう。」と言って、お膳の上にあった食べかけの栗煎餅の箱を背広のポケットに入れた。
この日のことは、矢野誠一『志ん生のいる風景』に詳しい。
洋服姿の文楽は、志ん生のいる茶の間に入り、「久方ぶりに孝ちゃんの顔を見ると思うと、昨夜は嬉しくて眠れませんでした。」と言った。志ん生は「やあ。」と笑顔で迎えたが、傍らにいた娘の美津子が「おやじさんも朝から、何時に来るんだってうるさいくらい。」と口を挟んだ。
文楽はウイスキーのお茶割りを飲み、志ん生は日本酒の水割りを作らせたが、一口も飲まなかった。かつての酒豪、志ん生も、その頃は酒を飲むと決まって胃の具合が悪くなるのだった。
帰り際、二人は固い握手を交わした。文楽が「また来ます。このウイーの瓶はここに預けておこう。」と言うと、志ん生は「ああ待ってるよ。今度は二人会の相談でもしようよ。」と言った。
志ん生の最後の高座は昭和43年10月9日の「精選落語会」。『二階ぞめき』のはずが途中から『王子の狐』になってしまった。考えてみれば、昭和落語の最高峰、文楽、志ん生の最後の高座は、共に失敗作に終わったのである。しかも、二人ともその時、満78歳。ただ、志ん生の場合、文楽のような悲劇性を感じない。志ん生は曲がりなりにも、『王子の狐』を最後まで演じてみせたのだし、その程度の“事故”は志ん生のイメージをいささかも損なうものではなかった。(それが、家族がもう高座に上げるのは忍びないと思うような出来であったとしてもだ。)
高座をしくじり、引退状態にあるという同じような状況にいながら、復帰の勧めを頑なに断る文楽に対し、二人会の開催を願う志ん生。性格、芸風同様、あくまで対照的な二人であった。
この日、文楽が残したサントリーオールドのラベルには、スナックのボトルキープよろしくマジックで丸に文の字が書いてあった。しかし、この後、文楽と志ん生が酒を酌み交わす日が訪れることはなかった。

2011年4月8日金曜日

サクラ、サク


職場で配られた「災害の後の心理的反応」という内容のプリントを読んだら、前回書いたのとまるっきり同じだった。
ああいう心理状態は、ごくごく自然な反応だったんだなあ。ちょっと救われた。
虚無的になっちゃいけないとか言って、自分の心を封じ込めちゃ駄目なんだ。今の自分の正直な気持ちを受け入れよう。
全てを焼き尽くされた焦土でも、いつか雑草の芽が吹き出すさ。その日を気長に待つことにするよ。

ここんとこの暖かさで、遅れていた桜が咲き始めた。写真は、職場にある老木の桜。一昨年、枯死が危ぶまれたが、見事に息を吹き返した。うん、きれいだ。

2011年4月4日月曜日

五里ん君、電話ありがとう

昨日、落研の後輩、五里ん君から電話が来た。「無事ですか?」とのこと。茨城や福島のOBの安否を気遣って方々電話をかけているらしい。やさしいなあ。私が芸名を付けた乱頭君は、福島の三春に住んでいるらしい。きっと原発問題は私の方より切実だよな。
生活は平常に戻りつつある。だけど、もう私たちは3月11日以前には戻れない。あれから私は、大地を、海を、安全を、科学技術を信じられなくなってしまったし、これから先、何年何十年も、私たちは放射能のリスクを抱えて生きていかざるを得ないだろう。
しょうがないとは思うが、やみくもに原発を推進してきた人たちには、とんでもないことをしてくれたものだと、恨み言の一つも言いたい。このような事態を起こすような社会を作ってしまったことを、社会人の一人として、子どもたちに対して申し訳ないと思う。でも、私に何が出来たんだろう。
何だか、心の真ん中に「虚無」の風が吹いているな。妻もふさぎ込みがちだし、心から楽しめることがない。自分自身はひどい被害を受けたわけでもないのに、そんなふうに思うこと自体、罪悪感めいたものを感じる。何だかなあ。
それでも日々の営みは続く。何度も書いているけど、色んなものを引き受けながら、何とか折り合いを付けて、生きていくしかないんだな。
今回の震災で、私たちは多くのものを失ったけど、一方で、人の心の温かさや健気さを知ることができたのも確かだ。それを支えにやってくよ、ちょっとずつだけど。